3.八重垣くんの家庭の事情
未婚の母であり、本人曰く、学校もまともに出ていないとの事で、主に簡単な販売員や飲食店店員の仕事をこなしつつ、遠縁だという
自分が考えるよりも遥かに辛い思いをしてきただろうに、全くそんなそぶりを見せない母親を、大和は尊敬していたが――。
「これはない。いや、本当にこれはない」
八重垣母子が住まいとしている鳳家の離れ、その居間に大和達の姿はあった。
あの後、怒り収まらぬ大和は夏彦達を先に帰らせた上で、母・薫子を自宅へと「連行」、そして今に至っていた。
当の薫子は畳の上に正座させられ、なんとも納得のいかなさそうな不機嫌な表情を見せている。
「だってぇ、可愛いからやまとに見せてあげようと思ったんだもん」
「『だもん』じゃない! 歳考えろ!」
――とは言ったものの、大和自身もよく分かっている事だが、実際薫子はまだ「若い」。同級生の親達よりも軽く十歳は若い上に、見た目がこれである。
今まで二人で出歩いていて、姉弟に見られたことはあるが、親子だと思われた事は殆どない。フリフリの可愛らしい洋服を着ていたところで、違和感は全く無い。息子である大和の目から見ても似合ってはいる。
しかし、だからと言って職場から着替えもせずに、この格好のまま帰ってくるのは――薫子が近所の有名人であるのを鑑みれば――大和的には「ありえない」事だった。
母親が、少女趣味全開の格好を喜々としてしているという恥ずかしさが七割。残り三割は、薫子狙いの近所の中年達を喜ばせたくないという想いがあるのだが、本人には後者の理由は秘密である。
「ぶー! やまと、百合ちゃんに会えないからって、ママに八つ当たりするのはよくないと思いますー」
「なっ!?」
もちろん、大和に八つ当たりの意図など無い。無いのだが、恋愛の悩みを母親にあっさり看破されるという状況はただひたすら気恥ずかしく、ただそれだけの事で、なんだかこれ以上何か言える雰囲気ではなくなってしまった。
たった一言で息子を黙らせてしまう――この辺りは、「流石は母親」といった所だろうか。
「……とにかく、色々恥ずかしいから。明日からはちゃんと着替えてから帰って来いよ」
「はーい――あ、どっちにしろ今の売り場は明日までだからぁ、じっくり見るなら今のうち、よ?」
「いいから早く着替えろ!」
大和の一喝に「きゃー」等と言いながら、薫子は居間から逃げ出し、母屋へ通じる廊下の向こうへと姿を消した。きっと風呂にでも入るのだろう。
薫子の姿を見送りつつ、「やれやれ」と大和がため息を吐いたその時、薫子とは入れ違いに、家主である
「相変わらず元気が良いね、薫子ちゃんは」
「……お見苦しいものをお見せしました、師匠」
「ははは、いやいや。息子を前に言う事でもないのだろうけど、中々に
さらりとセクハラ発言をしているが、大和は全く嫌味に感じなかった。
――鳳功一郎。鳳家当主、百合子の父親、八重垣親子の家主、そして大和にとっては剣術の師匠でもあった。大和が彼を「師匠」と呼ぶのはその為だ。
年齢は五十代前半のはずだが、まだ四十代程度にしか見えず、薫子程ではないとはいえ十分に若作りである。比較的整った顔立ちに柔和な表情、髪は長く伸ばし後ろで一本に束ね、丸眼鏡を愛用、服装は常に和装。剣術家と言うよりは、昔の商家の若旦那やら文筆家やらにも見えるが、これが国内でも有数の剣客だというのだから、人は見た目で判断できない。
なお、百合子とは全く似ていないし、きっちりかっちりとした百合子と違い、大和の認識ではどちらかというとズボラな大人である。
「我が家も、また一人減ってしまったからね……薫子ちゃんも、私に気を遣ってくれているのだと思うよ。だからまあ、多少はしゃぎ過ぎているのは大目に見てやってくれたまえ」
「……師匠」
功一郎は、六年程前に妻に先立たれている。それ以来、前にも増して一人娘である百合子を大層可愛がっていたが、その娘も成人を待たずして家を出て行ってしまった。一時期は、お手伝いのばあや(十年ほど前に亡くなっている)も含めて六人暮らしだった鳳家も、今は功一郎と大和達母子の三人だけ。寂しい限りなのだろう。だが――。
「でも、ウチのアレを甘やかすのは程々にして下さいね」
「むっ……」
薫子の人徳なのだろうが、周囲の人間はとにかく彼女の事を甘やかす。功一郎もその例に漏れず、昔から妹か娘のように可愛がっていた。
鳳家からの金銭的な援助を薫子が固辞していた事もあってか、何かにつけて薫子に服やら何やらをプレゼントしたり、ちやほやしたり。鳳夫人も、夫が若い娘に入れ込むのに嫉妬するでもなく、むしろ競い合うように薫子を甘やかす始末であった。
薫子の性格がいつまでも娘っぽい原因の一つは、間違いなくこれであろうと大和は確信している。以前からその始末なのだから、ここに愛娘に巣立たれ、行き場を無くした功一郎の保護欲が加われば……言わずもがなの結果であろう。
「……どうも、百合子が家を出てからの君の言葉には棘があるな、大和」
「放っておいてください!」
言うまでもないが、薫子だけでなく功一郎にも大和の百合子への恋慕は筒抜けであり、折に付けこうやって大和の事をいじるのであった。しかしそれでいて、当の百合子には全く気付かれていないというのだから、何とも気の毒な話である。
「まあまあ、そうカリカリするな。……大和、君はまだ若い。自分では気付いていないかもしれないが、実に様々な事についての素質も持っている。道は何も一つではない。焦る必要はないんだよ?」
打って変わって「師」の顔になった功一郎の言葉に、大和は
確かに、自分は焦っている。今まで勝手に決めていたゴール地点が急に遠のき、やがては消えてしまった中で、新しい目標を決められずにいるのだ。
今までは、百合子の隣に並び立つ事だけを考えていた。たとえ歩幅が違っても、同じ道を歩いて行ければ、と。しかし、それは一種の甘えだったのかもしれない。学校の成績や剣の腕で彼女に勝つ事が、イコール彼女に異性として認めてもらえる事だと、思い込もうとしていたのではないか? と。
例えば亜季は、学校の成績は冴えないし剣術に至っては何も知らない普通の女の子だ。しかしそれでも、百合子にとって彼女がかけがえのない親友である事を、大和は知っている。
同じ場所に立つという事は、同じ分野で同じレベルに達するという事とイコールではない。相手の気持ちに寄り添う事のはずだった。
結局自分は、百合子に素直な気持ちを伝えるのが怖くて、「剣で勝ったら」という勝手な目標に逃げていただけじゃなかったのかと、大和は今更ながらに思い知った。そして今も逃げている。
「サムライ」という、彼女が足を踏み入れた世界について何も知らないから――彼女が遠い存在になってしまったから――二の足を踏んでいるのだ。
「あの子が進もうとしている道は……とても厳しい道だ。だからもちろん、同じ道を歩んでくれる人が傍にいれば心強いのは確かだと思う。でもね、『傍で支える』というのは、何も同じ戦場に立って戦うという事だけではないんだよ。色んな形があるんだ」
「……」
自分の心中を見透かしたかのような師の言葉を、大和はひたすらにかみ締めていた。
――その夜、功一郎が一人書斎にこもっているとドアが三回、控えめにノックされた。
「どうぞ」
功一郎の返事に従ってドアが開く。そこにいたのは薫子だった。当然の事ながら昼間のエプロンドレスは着ておらず、今は普段着にしている薄緑色の二部式の着物姿だ。
「……今日はありがとうございました」
「何の事かな?」
「大和の事です。あの子は全く気付いていなかったと思いますが、それとなく気をそらして下さったのでしょう?」
薫子の様子は、昼間の彼女と同一人物とは思えぬ、落ち着き払ったものだった。果たしてそれは、母として息子の身を案じる故なのか、話す相手が兄のように慕う功一郎だからなのか、それとも……。
「……私はね、薫子ちゃん。彼には沢山の道を見付けてほしいだけなんですよ。だから、何も遠ざけた訳じゃない。むしろ、大和の才能が惜しいとさえ思っている。でも……そうだね、やはり百合子の事もあったから、どこか遠ざけるような言い回しにはなってしまった、かな」
功一郎の口調は、つとめて軽かった。しかしその表情に何とも言い難い、苦笑いのような、後悔のような、憂いのような、一言では言い表せない感情が表れているのを、薫子は見逃さなかった。
「百合子ちゃんの事、後悔していらっしゃるの?」
「あの子が望んだ道の為に、出来る限りの事はしてあげたつもりですが……他の道を照らしてあげる事も出来たのではないかと思う時もあります。でも、後悔はしていませんよ。それは、自分で道を選んだあの子に失礼ですから」
ふと、功一郎が窓の外を見上げた。窓の外には、美しくもどこか物悲しい満月が輝いていた。
「それに、私があの子の為に出来る事は、まだ残っていますからね」
そう言って、薫子に顔を向けた功一郎の表情には、もう憂いは無かった。
「『父親』、ですのね」
「薫子ちゃんも立派な母親ですよ」
「……私は駄目です。ずっと、逃げてきました……今でも、あの子に本当の事を伝える勇気がありません」
「……真実を伝えるのが常に良い事だとは限りませんよ。それに、大和が剣術を習いたいと言った時も、君は背中を押してあげたじゃありませんか。もし『その時』が来てしまっても、彼が自分の意志で道を選べるように、と。
まあもっとも、どうやら事前の適正審査で落ちてしまったようですから、そんな時はやって来なそうですがね」
「ははは」と苦笑する功一郎だったが、対照的に薫子の表情は硬いままだった。
「――あの子は特別です。きっと、このまま普通に暮らしていれば、あちらの道に進む事はないでしょう。でも、最近強く感じるんです。運命が、あの子に追いつこうとしている、そんな気配を」
「考えすぎだ」とは言えなかった。薫子と大和、二人が抱える「ある秘密」を知る功一郎にとって、それは笑い飛ばせる言葉ではなかった。未来に対する漠然とした不安や予感は、誰だって当たり前に抱くものだが……薫子が今感じているのは、そういったものとは全く異質のそれだった。
だが――。
「それでもね、それでもきっと、彼なら『運命』から逃げ切る事も立ち向かう事も出来ると思うよ、私は。彼は、大和は君によって強く正しく育てられた、逞しい少年だよ。私にとっても自慢の弟子だ」
「……はい。私にとっても、自慢の息子です」
「まあ、ちょっと彼は恋愛方面についてのメンタルが弱すぎるきらいはあるけれども……そこはご愛嬌だね」
再び「ははは」と苦笑する功一郎に釣られて、こわばっていた薫子の表情もいつの間にか緩んでいた。
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