√(るうと)

瀬海(せうみ)

1 Left


 あたしが住んでいるアパートの部屋は、いわゆる事故物件です。


 どうやら前の住人が風呂場で手首を切って自殺したそうで、洗面所に掲げられた鏡の中にいつも。真夜中、鏡の前に立つとそこに映るのはあたしの姿ではなく、体を暗い血液で染めた、奈落の底のように眼窩の落ち窪んだ、哀しげな表情の「あたし」なのです。


 お風呂上がりの深夜一時、鏡の前で右手を挙げてみます。


 鏡の中の「あたし」が右手を挙げます。


 フェイントを入れ、もう一度右手を挙げてみます。


 少しまごつきますが、騙されずについてきます。


 無表情のまま口角だけを上げ、また右手を挙げると思わせておいてノーモーションで左手を振りかぶり、そのまま左手を下げるように見せかけつつフェイントを入れてあらかじめ脱衣所に用意してあった「Left」というフリップを右手で掲げてみます。


 彼女は肩で息をしながら「Time」を掲げました。


「…………」


 ちょっと待って欲しいそうです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る