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 フィアに案内されて、聖騎士団宿舎に初めて足を踏み入れる。

「フランシス様、夕食は?」

 先を歩きながら、フィアが肩越しに問いかけてきた。二人きりだからか、いつもより少しだけフランクな話し方、のような気がする。希望的観測に縋るのは趣味ではなかったはずなのに、そうだったら良いのになんて思っている時点でいろいろともう駄目だ。

「ん〜、面倒、かな」

 食べに出るのも買いに行くのも面倒だし、自分で作るなど論外だ。そもそも料理など一度もしたことがない。なんとなくフィアの方から責めるような空気が漂ってきた気がして、フランシスは肩をすくめた。

「君が一緒に食べてくれるなら食べても良いですよ」

 聖騎士団団長の健康管理はお目付役であるフィアにとっては義務のようなものだが、それだけじゃなかったら良いのに、とやっぱりお花畑の広がる脳がろくでもない希望的観測を吐き出す。

「わかりました」

「え……本気で?」

 いつものように軽くかわされるとばかり思っていたので、フランシスは思わず足を止めて目を瞬かせた。

「見張っていないと本当に食べずに寝そうですから」

 振り向いたフィアの視線は、思ったよりも真摯だった。図星だったが、今そんな表情で側にいられたら押し倒してしまうかもしれない。さっきより明らかにレベルアップしている役立たずな頭でそんなことを考える。フィアはフランシスの反応を待つこともなく、また淡々と歩き出した。

「こちらです」

 何か言い返さないと駄目だよなあ、と思っていたのに、気の利いた(別に利いてなくても良いのだが)台詞を考えているうちに目的地に到着してしまった。完全に冗談にするタイミングを失っている。結局、人恋しさに負けてしまったわけだ。相手がフィアでなければまた話は違っていたのだろうが。

「調理場がないので買ってくるか食べに行くかどちらかになりますが」

「あまり出かけたくはないですね」

 初デートを提案するにはあまりに疲れていたので、そう正直に申告すると、フィアは眉根を寄せて考え込む。

「じゃあ……鍋にでもしましょうか?」

「鍋……?」

 鍋って調理器具だよな、と頭の中の辞書をひっくり返してみる。

「日本の料理です。調理したものをお皿に移さず、鍋のまま食卓に供するのが主な特徴ですね」

「鍋を……食卓に……?」

 フランシスの中で日本食のイメージといえば、フィアが作ってくれたやたら繊細な色と味の砂糖菓子くらいだったから、そんな豪快な料理もあるのかと興味を引かれる。

「へえ、面白そうだね」

「面白いかどうかはわかりませんが、基本的に複数人で食べるための料理ですし、時間もかからないので……良いかと思って」

「一つの鍋から取って食べるってことですか?」

 何だか自信のなさそうな調子だったフィアは、ますます不安そうに視線を落とした。

「ええ……そうですが」

「良いねそれ! ぜひやりましょう!」

 満面の笑みで言い放ったフランシスに、フィアは微かに目を見開く。

「……わかりました」

 無表情で視線を逸らしたフィアは、静かに頷いた。

「買い出しと準備は私がしますので、フランシス様は休んでいてください」

「ありがとう」

 鍵を手渡して去って行くフィアをぼんやり見送って、それから部屋の中へ入る。

 部屋の中はずいぶんと殺風景だった。何もかもが白いところは光王庁の他の部屋と変わらないが、置かれている家具が素っ気ない。簡易寝台と簡易キッチン、いかにも量産型といったデザインのクローゼットとテーブルと椅子が二つ、シャワールームへ続く扉が一つ。宿舎の全部屋に共通して置かれているのだろうそれらのものが、恐らくは初期配置の通りに置かれているだけだ。質実剛健な聖騎士団らしいといえばそうだが、それにしたって余りにも物が少ない。

 レイヴン・クロウという聖騎士とはあまり顔を合わせたことがないし、残された個人情報もまあ嘘なんだろうなと思いながら読み流す程度のものだった。いなくなった経緯からしていろいろと疑わしいところのある人物だ。この部屋も、恐らく彼が行方をくらましてから壁の裏まで徹底的に捜査されたのだろう。ほとんど新築の匂いがする。

 一人暮らしをするにしても狭苦しいし、決して居心地の良い部屋ではないが、今の実家よりはマシだと思った。少なくとも一人にはなれる。

 どうせ聖騎士団宿舎に入れるのは聖騎士だけだからと、部屋の鍵は開けっ放しのままシャワーを浴びる。さっさと済まして髪も乾かさずに(ドライヤーがなかったからだが)一日着ていた団服にまた袖を通した。せっかく光王庁にいるのに遠征中のようなことをするのはあまり良い気分ではないが、着替えを用意してこなかったので仕方がない。二週間前に支給された聖騎士団の団服は光王親衛隊の制服よりも実用性に重きを置いていてとても着心地が良いし、ある程度の汚れは自己修復機能で落としてくれるので、それもまあ気分の問題だ。

 どこかでドライヤーを調達するべきか、髪が傷むのを覚悟の上で水破壊の魔術を使うか、ぼんやりと悩んでいたらドアの前に人の気配が近付いてきた。何やら手こずっているようなので、立ち上がって扉を開けてやる。陶器製らしい鍋と食材と大きな紙袋を持って、片手を空けようと悪戦苦闘していたフィアが「ありがとうございます」と頭を下げた。

「いや……そんな大荷物なら言ってくれれば良かったのに」

 困惑しながら鍋と食材を取り上げて簡易キッチンまで運ぶ。元々食卓に出すことを意識して作られたものなのか、鍋はちゃんと釉薬をかけて花の模様があしらわれた見栄えの良いものだった。

「すみません。途中でいろいろと必要なものが足りないことを思い出してしまいまして」

 心なしか声に覇気がない。振り向くと、フィアは身の置き所がない様子で足下に視線を落としていた。

「いろいろ?」

「はい。とりあえず、着替えと洗面用具です」

 差し出された紙袋には、確かに真新しい団服と光王庁内の売店で買ってきたらしい洗面用具とドライヤーが入っていた。

「……いやあ、良く出来た部下を持って幸せですね」

 受け取るとき触れそうになった手を避けるようにフィアは身を引いて、最初からそうするつもりだったように簡易キッチンへ向かう。

「作っておきますから、フランシス様は髪を乾かしておいてください。本格的に風邪を引かれると困ります」

 淡々とそう告げる背中を、フランシスはじっと見つめた。

 やっぱり以前よりよそよそしい、というより確実に意識されている。

 正直に言ってしまえば、女性からそういう感情を向けられることは珍しくないし、気付かないほど鈍くもなかった。気付いてどうするかと言えば、もちろん相手にもよるけれど、醜聞を避けなければならない立場上だいたいさりげなく突き放す。相手もこちらも本気にならないと互いに割り切った付き合いが出来ると確信が持てる場合は、もちろんそういう関係になることもある。

 けれどこの場合は。

(どうしたものかな……)

 こういうことを真面目に考えるには、今日は疲れすぎていた。微熱の方はストレスが溜まると出てくることが多いのでいつものことではあるのだが、問題は熱が出るほどストレスが溜まっていることだ。たぶん、自覚は薄いがこういう不慣れなことに対して冷静な判断が出来る精神状態ではない。

 それを差し引いて考えても、割り切れないということだけははっきりしていた。フィアはどうか知らないが、出来れば割り切って欲しくないと思うくらいにはフランシスの方は割り切れていない。

 ほとんど逃げ出すようにシャワールームに入ってドライヤーで髪を乾かしながら、どうしたものかと考え込んだ。以前ならともかく、今のフィアは表の世界に出るわけにはいかない立場だ。それなのにフランシスとそういう関係になってしまえば、否が応でも好奇の視線に晒されることになる。それがわかっているから彼女の方から近付いてくることはあり得ない。その点は安心出来る。

(問題は俺だな……)

 鏡の中の自分の姿を睨み付ける。自覚がある辺り自分でも最低だと思うが、どちらかというと中性的で整った容姿は非常に女性受けが良い。これに匹敵する容貌の持ち主は、美人の代名詞として長らく名を馳せているセレスティーヌ・レイとその息子くらいだ。加えて興味のない人間に対しても無駄に愛想を振りまくので、部下に恋愛対象にされたことなどいくらでもある。フィアの態度が多少わかりやすかったとしても、そんなのはよくある話だから大した問題ではない。

 通常であればふざけた態度で口説くのをやめて、少々他人行儀な態度を取って適切な距離を取ってしまえばそれで済む。そこで次の行動を間違えるような人間なら部下として置いておく価値もない。次に待っているのは情け容赦ない異動命令だ。

 しかし、フィアは絶対に間違えない。むしろ今日のフランシスの態度によっては二度と近付いてこない可能性もあり得る。彼女の気持ちに気付いてしまったことに気付かれたら、あるいはフィアが割り切れていないフランシスに気付いてしまったら。

(いや、どう考えても詰みだろう、これは)

 フランシスがどんな態度を取ったとしても、フィアは自分自身の態度から気付かれていると結論づけるはずだ。そうなってしまえばもう二度と、彼女は手の届くところには来てくれない。

 どこで判断を間違えたかといえばたぶん最初からだ。部屋に呼ぶべきではなかったし、食事に誘うべきでもなかったし、秘書にするべきでもなかったし、聖騎士団に送り込むべきでもなかったし、フランシスの事情に巻き込むべきでもなかった。見事なまでに間違えなかった箇所が一つもない。

 それでも彼女は必要だった。必要な手駒、だったのだ。

 だいたいなんでこんなタイミングで、二週間で――いや、父親を陥れようとしていたときを含めれば、さらに言うと聖騎士団の仕事を引き継がなければならなかったときから数えれば、一年近くかけて精神力を使い切ったこのときに、こんなことで悩まなければならないんだ。

 理不尽だとわかっていながらだんだん腹が立ってきた。無性に腹が立ってきた。今なら悪魔にだって魂を売れるかもしれない。

 ヤバイな、と思った。髪はとっくに乾いているし、そろそろフィアに怪しまれるくらいシャワールームにこもっているところもよろしくない。

 一つため息をついて団服を新しいものに替え、さっと髪を整えて部屋へ戻る。

「もうすぐ出来ますよ」

 出てきた気配に気付いたフィアが、背中を向けたままそう告げる。

「良い匂いですね」

 狭苦しい部屋には、コンソメスープの食欲をそそる匂いが充満していた。ぐつぐつと材料が煮込まれていく音を聞きながら、手際よく料理を作っていくフィアの後ろ姿を見ていると、やけに幸せそうだったジュリアンの部屋で見た風景を思い出す。このまま何も変わらずに、明日も明後日も同じように過ごせれば良いのにと、さっきの結論から逃避するように願いたくなる。

 時よ止まれ、お前は美しい、とでも言えば良いのだろうか。

 そうしたら悪魔が魂を奪いに来て、この一瞬を永遠に出来るのかもしれない。花畑思考は謎の苛立ちに歪められて悪魔崇拝の危険領域に片足を突っ込んだ。本当に今日はまともに思考できていない。役立たずと言われるわけだ。

 フィアが電磁調理器の電源を切ったのを見て、フランシスは浮かべていた自嘲の笑みを引っ込めた。フィアは無言のまま、鍋を既に食器が並んでいる食卓の真ん中に置いた。もともとこの部屋に置いてあったらしい食器は、妙に軽くて丈夫な質感からどうやらアルミ製らしいことがわかる。

「聖騎士って光王庁の中でもこういう食器使ってるんですか?」

 意外に思って首を傾げると、フィアは無表情のまま首を横に振った。

「クロウさんが遠征用の備品を流用して使っていたものです。私の部屋から持ってこようかと思ったのですが、荷物が多かったので。それに」

 フィアは視線を上げると、ふいに挑みかかるような笑みを浮かべる。

「お好きですよね、こういうの」

「……よくわかってるなあ……」

 呆然と呟いたフランシスに、フィアはやっと、綻ぶようにやわらかく笑った。


 フランシスの頭が役立たずだったせいで会話はちっとも弾まなかったが、初めて口にした『鍋』はとても美味だった。料理自体のおいしさもあるけれど、一番の調味料は同じ鍋に手が届く範囲で一緒に食べてくれる人がいたことだろう。聖騎士団の業務を引き継いで天魔の討伐に出ていた時でさえ、誰かとこんな風に食事を共にしたことはなかった。

「こういうのも良いですね」

 食事を終えた後、もちろん一緒に食べる相手次第なのだろうとわかっていながら、フランシスはそう言って食器を洗うフィアの背中に笑いかけた。片付けくらい手伝おうと思ったのだが、鍋に手を出そうとしたら触るなと言わんばかりの視線で睨まれてしまったので、大人しく座ってフィアを待っているところだ。

 フィアはやはり手際よく食器を全て洗ってしまうと、振り向いてフランシスを見た。

 何も言わずに見つめ返すフランシスを、フィアもじっと見つめる。その瞳の中に揺れるもの、真っ直ぐ向けられる心地良い感情も、それを押し殺して立ち尽くす少女も、これを見納めにしなくてはならない。

「では、私はそろそろ……」

 フィアが暇を告げる。おやすみ、と一言答えて、それで終わりだ。二度とこの距離を縮めようとは、二人とも思わないだろう。必要なのは手駒としてのフィア・ルカ。そして必要でなくなった後、彼女に手に入れて欲しい幸せは、フランシスの元にはない。だから。

 ――おやすみ。

 そう告げるつもりだった。そのはずなのに――

「もうちょっと付き合って欲しいんだけどな」

 役立たずの頭が人生最大のエラーを吐き出す。この期に及んでなお、小さく目を見開いたフィアが年相応に見えて可愛いなんて考えている自分がおかしくて、フランシスはくっと喉を鳴らして笑った。

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