File-2 Danny Boy

 コンサートの前日の夕方、ランティスは部屋に来てリビングの大画面にコンサートの様子が映るようにセッティングして行った。居合わせたジュリアンはやたら楽しそうなランティスに呆れた視線を向けつつ、それでも彼が楽しげに語るオーディオ機器に関する蘊蓄話にきちんと耳を傾けていた。

 設定を終え、明日フィラがするべき操作を教え終わると、ランティスはあっさりと立ち上がった。

「じゃあ、またな」

「ああ、また」

「今度はお食事、食べていってくださいね」

 聖騎士団本部へ続く扉で交わされる軽い挨拶が、それぞれにとって大切な意味を持つ言葉だと、三人ともわかっていた。誰の耳を気にする必要がない場所でも、それ以上の言葉はいらなかっただろう。


 翌日は、穏やかな朝だった。いつも通りにジュリアンの腕の中で目を覚まして、朝食を用意して、いつも通りに談笑しながら食事をして、そして笑顔で送り出した。

 今日は皆忙しいから、ということで家庭教師の授業も拳銃の訓練も全部休みだ。ぽっかりと空いた時間を潰すように、フィラは部屋を隅から隅まで掃除した。それだけで午前中が終わったので、一人で昼食を取ってその片付けも終えてから、セレスティーヌが用意してくれた服に着替える。

 慰問コンサートは午後二時頃から始まる予定だった。まだ少し時間があるから、と、ピアノの前に座る。気分転換にもう既に暗譜してある曲を何曲か通して弾いた。ドビュッシーのアラベスク、ラヴェルのクープランの墓。エステルと暮らしていた頃、トレーラーハウスの狭い空間で練習していた曲たち。音を辿る内に気分も落ち着いて楽しくなってきて、気付いたらコンサートが始まる時間になっていた。

 フィラは昨夜ランティスに教わったとおり、リビングのモニターとスピーカーを通してコンサートの様子がわかるように電源を入れて設定する。

 大画面に映し出されたのは、フィラも昔新年のミサのときにエステルに連れられて入った記憶のある、フォルシウス大聖堂の内部だった。薄く靄がかかったような広大な聖堂に、採光用の窓から差し込む光が幾本もの光芒を落としている。薄闇の底でさざめく人々は、皆リラに仕える僧兵たちなのだろう。

 祭壇の前に設えられたステージには、高い位置にあるステンドグラスから差し込んだ光が降り注ぎ、その場所だけが光の中に浮かび上がっているようだった。ステージの前では小編成のオーケストラがひそやかに音合わせを始めている。微かにざわつく信者席の僧兵たちには、抑えきれない期待と興奮が行き渡っているようだった。

 オーケストラの音合わせが終わると同時に、客席のざわめきも潮が引くように消えていく。呼吸をするのもはばかられるような沈黙の中、ステージの光の中へセレスティーヌが優雅に姿を現した。純白の衣装に身を包んだセレスティーヌは、光王の隣に臨席しているアースリーゼにも負けないほど美しい。舞台を見上げる僧兵たちの目にはきっと光の化身のように見えていることだろう。オーケストラは静かに前奏を始めていた。定位置についたセレスティーヌを、引いていたカメラが大きく映し出す。

 セレスティーヌは見る者すべてに慈愛を感じさせるような微笑みを浮かべて、ふわりと力の抜けた声で歌い始めた。フィラの知らない言語だが、響きからするとグロス・ディア語だろうか。壮麗な響きのメロディと大聖堂の音響効果が相俟って、まるで歌声が天上から降りそそいでくるようだ。リビングのソファにいることも忘れて、フィラは歌うセレスティーヌに見とれた。

 一曲目が終わると、セレスティーヌはオーケストラのメンバーと、曲が終わってから登場してきたアイリッシュハープの奏者を紹介する。待ち構えている瞬間が迫ってきていることが嫌でも意識されて、フィラはぎゅっと両手を握りしめる。

 一曲目は僧兵たちには馴染みのあるリラ教会の聖歌。二曲目はアイルランドの子守唄だと紹介して、セレスティーヌは再び舞台の中央に戻った。一呼吸置いて、ハープが静かに前奏を弾き始める。深い海の底を思わせるハープの音色に乗せて、セレスティーヌはゆったりと透き通った声を響かせた。ゲール語だという歌詞はフィラには言葉の意味がわからないけれど、セレスティーヌの歌い方はまるで「落ち着きなさい、大丈夫」と語りかけてくれているようだ。

 たっぷりと余韻を残して歌い終えた後、袖から太鼓を持った壮年の男と、五人のコーラス隊が舞台に現れた。アイルランドの伝統楽器バウロンだと登場した太鼓を紹介したセレスティーヌは、どうやら海藻を意味するらしい三曲目のタイトルと、少しナンセンスな歌詞も紹介して歌い出す。そこまでの落ち着いた雰囲気とは打って変わって、バウロンを打ち鳴らす軽快な音楽だった。セレスティーヌはコーラスのメンバーや太鼓との掛け合いを楽しむように舞台を動き回りながら歌い、客席も乗せられて手拍子を始める。

 ――あと二曲。

 踊り出したくなるような曲調なのを良いことに、フィラは立ち上がってリビングを歩き回った。落ち着かない。ジュリアンはどうしているだろう。不安なのはセレスティーヌも同じはずなのに、モニター越しに見る彼女は心から音楽を楽しんでいるようだった。

 四曲目に入る前に、僧兵たちを激励する短いトークが入る。柔らかな声で客席とのやりとりすら楽しんでいるようなセレスティーヌの姿は、とても人前で歌うのが久しぶりとは思えないくらい場慣れしている。軽妙なトークの後で、また曲紹介が入った。

 続けて歌われる四曲目と五曲目。最初は「さくらんぼの実る頃」。フランスの古い歌だ。失恋を歌った歌詞と人間同士がぶつかり合った悲劇が重ね合わされて、今では平和を祈る歌として知られている。その次は「ダニーボーイ」。セレスティーヌが得意としているらしい、アイルランドの民謡。どちらもメッセージ性の高い歌で、だからこそこういう場面で歌われる機会が多い曲だ。

 今までとは違った少し艶のある歌い方で四曲目を歌い終えたセレスティーヌが、舞台の中央で祈るように目を閉じる。時間だ。フィラは立ち上がって、後ろ髪を引かれる思いでリビングを出た。


  O Danny boy, the pipes, the pipes are calling

    ああダニーボーイ、パイプの音が呼んでいるわ

  From glen to glen and down the mountainside

    谷から谷を渡り、山の斜面を駆け下りる


 背後でセレスティーヌの透明な声が歌い始める。早足で部屋を出たところで、フィラははっと立ち止まった。部屋の前に、光王親衛隊の制服を着た男たちが三人。嫌な予感に胸が押し潰されそうになる。

「どちらへ行かれるのですかな?」

 その中で一番立場が高そうな男が、警戒するように腰の剣に手をやりながら尋ねた。


  The summer's gone and all the roses falling

    夏は過ぎ、薔薇の花はみな枯れ落ちてしまった


 どこかのスピーカーから、セレスティーヌの声が聞こえてくる。それに勇気づけられるように、フィラは顔を上げた。

「あなた方こそ、私に何かご用ですか?」

 精一杯の虚勢を張る。けれど、声と身体の震えは誤魔化せなかった。

「おわかりのはずでは?」

 何かを示唆するような言葉に膝から崩れ落ちそうになるのを何とか堪える。まだ決まったわけではないし、何よりも信じられるのはジュリアンの言葉だ。フィラさえ脱出に成功すれば、後はどうにかなる、と。

「我々の周辺では現在魔術を封じる結界を張ってございます。ご理解の上、ご同行ください」

 親衛隊の一人が物腰だけは柔らかな調子で言う。


  'Tis you, 'tis you must go and I must bide.

    あなたはもう行かなくては そして私はそれを見送らなければならない


 廊下に響くセレスティーヌの微かな声。

 ――大丈夫。ちゃんと行きます。

 心の中でその歌声に答えて、フィラは静かに頷いた。二人が両脇について、粛々と歩き出す。聖騎士団本部の執務室や事務室の扉は全て閉め切られていて、中の人々も息を殺しているような緊張感が漂っていた。オーケストラとコーラスが奏でる優しい間奏だけが、微かに響いている。

 隙を見つけて、指定された地点へ行かなければならない。トレーニングルームへの通路と交差する場所に差し掛かった一瞬がチャンスだ。緊張のあまり耳の奥でどくどくと鼓動が鳴っている。両脇を固める親衛隊士は魔術さえ封じておけばフィラには逃げる手段がないと思っているのか、あまり警戒はしていない様子だ。封印の結界も周囲への影響を考慮してか広く展開されてはいない。どうにか隙を突いて距離を取ることさえ出来れば、転移して逃げ出せる。発動するかは賭けだけれど、やってみるしかない。

 あと数メートル、あと数歩。

 近づくほどに手足が冷たくなっていく。間奏をハミングで歌うコーラスに、セレスティーヌの声が唱和する。


  But come ye back when summer's in the meadow

    野原に夏が来る頃、ここへ帰ってきて


 歌い出しに反応するように、右側の親衛隊士が顔を上げた。今しかない。フィラはさっと姿勢を低くして走り出す。

「ま、待てっ!」

 慌てた声と共に腕を掴まれた。必死で振りほどこうと暴れた瞬間、唐突な悲鳴と共に手が放される。勢い余って廊下に倒れたフィラは、したたかに肘を打った。けれど痛みに構っている余裕も何が起こったのか把握する余裕もない。両手で床を掻くように立ち上がって、そのまま前へ走り出す。

「なっ何だ!? 猫!?」

「走れ!」

 親衛隊士の叫び声と、聞き慣れた少年の声。ティナだ。

「クソッ、何なんだ!?」

「聖騎士の守護神だ! 魔術を使え!」

 フィラさえ逃げ延びられれば、ティナはすぐに姿を消せるはずだ。不安を呼び起こす背後の怒号をそう思うことで振り切って、フィラはほとんど転がるようにして逃げる。


  Or when the valley's hushed and white with snow

    谷間が静まりかえり、白い雪に覆われる頃でもいいわ


 セレスティーヌの静かな歌声が、トレーニングルームの方から誘うように響いてくる。


  'Tis I'll be here in sunshine or in shadow

    陽の光が差すときも曇りのときも、私はここで待っている


 トレーニングルームに辿り着く前に、背後で激しく水が流れる音がした。親衛隊士たちの怒号が響き、それを威圧するように若い女の声が聞こえる。

「小賢しい人間どもが。我を謀れると思うたか。サーズウィアを呼ぶという約定、違えさせはせぬ」

 どこか嬉々とした調子で紡がれる妙に時代がかった台詞は、たぶんフィーネのものだ。


  O Danny boy, O Danny boy, I love you so.

    ああダニーボーイ、ダニーボーイ、あなたを愛しているのよ


 トレーニングルームに駆け込んだ瞬間に全身を包み込んだ歌声と相俟って、泣き出したいほどの緊張感が少しだけ薄れる。たくさんのひとに守られて、背中を押してもらっている。転移魔術は発動しなかったけれど、ちゃんと逃げられた。大丈夫。このまま旅立てる。

 振り向くこともなく奥の魔術訓練室へ駆け込み、第六層へ続く階段を駆け下りた。セレスティーヌの歌声が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。

 息を切らしながら辿り着いたのは魔術訓練用のプールだ。なみなみと水を湛えたプールは、全体が青く発光していた。

 ――もしも合流出来なかったときは、第六層のプールに飛び込め。

 ジュリアンが囁いた言葉は、部屋の前で待ち構えていた光王親衛隊の姿を見たときからずっと頭の中を回り続けている。だから、フィラは躊躇わなかった。

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