File-3 帰還の日

 予定の三日が過ぎても、ジュリアンは戻ってこなかった。その代わりにランティスとエセルとモニカが夕食時に手土産を持って訪ねてきて、問題が起こっているわけではないことをそれとなく仄めかしてくれたし、ティナも毎晩寝る前にフィラの様子を見に来ていたので、ジュリアンが無事でいるだろうことは一応予測できた。

 そして四日目の夜、一人で夕食を取っているときに、いつもは眠りに就く頃にしか現れないティナが忽然と食卓の上に出現した。

「あいつ、今日帰ってくるよ。日付はちょっとまたぐかもしれないから、先に寝ておけって」

 ティナは簡潔にそれだけ言うと、まだ用事が残っているからとすぐに姿を消してしまう。何か答える前に取り残されてしまったフィラは、ティナが現れたときに動きを止めたままだったスプーンを下ろして、行き場のない気持ちをため息に変えた。

 四日間、現実感なんてずっとなかった。ただずっと不安だった。だって聖騎士団が任務に出るということがどういうことなのか、もうわかってしまっていたから。

 無事に帰ってくるのか。帰ってくると約束してくれたけれど、その約束自体が夢だったんじゃないのか。いろいろとやることがある昼間の内は良いけれど、夜一人きりでベッドに横になっていると余計なことばかり考えてしまう。

 だから今日も、先に寝るなんて無理だ。一秒でも早く会いたい。あのことが夢だったとしても、少なくともその無事だけは確かめられる。それを確かめるまでは、眠るなんて出来るはずがない。

 落ち着かない気持ちで食器を片付け、明日の朝の分のパンを準備し、家庭教師のリーゼルから出された宿題を終わらせ、日課になっていた魔力の制御訓練を一通りこなしてしまうと、何もやることがなくなってしまった。絶対に集中できないとわかっていながらピアノを開き、練習中だったラヴェルをさらいはじめる。普段は引っかからないような箇所で躓くたびに雑念を振り払い、集中しなおして無心にただ楽譜と音だけをなぞる。そうやって頭を空っぽにしてピアノを弾いているうちに、日付が変わる頃になっていた。そのことに気付いてしまったらもう集中し直すことなど出来ない。ピアノの前に座ったまま、フィラは目を閉じて耳を澄ました。そうして誰かの――ジュリアンの気配が近付いてくるのをただひたすらに待つ。

 どれくらいそうやってじっとしていただろう。やがて微かな物音が、廊下の方から聞こえてきた。目を開けて、外へ続く扉を見つめる。耳を澄ましていてもほとんど聞き取れないほど静かな足音が近付いてくる。リビングに明かりがついていることには気付いているはずなのに、足音を忍ばせているみたいだ。その微かな気配が扉の前にやって来る。フィラはほとんど呼吸を止めて、ドアが開くのを待った。

「……起きてたのか」

 扉を開けたジュリアンは、予想出来ていたはずなのに微かに目を見開いて呟く。

「あ、ええと、眠れなくて……」

 慌てて立ち上がりながら、フィラは頭の中が真っ白になっているのを自覚した。ずっとこの瞬間を待っていたのに、いざとなると何も言葉を用意していなかったことに気付いてしまう。

「あの、お帰りなさい」

 結局出てきたのは、そんな平凡な一言だった。

「……ああ」

 こちらへ歩み寄りながら、ふっとジュリアンの表情が緩む。どこか柔らかな空気を纏ってフィラの目の前に立ったジュリアンは、目が合うと今度ははっきりと笑みを浮かべた。

「ただいま」

 穏やかな声と微笑に鼓動が一気に加速する。ぎゅっと両手を握りしめたまま金縛りに遭ったように動けないフィラに、ジュリアンがそっと手を伸ばす。頬に触れる感触に導かれるように呆然と見上げた青い瞳の奥に、ふと熱が灯ったような気がして、あれは夢じゃなかったんだと、なぜかそう思った。ゆっくりと距離が近付く。こんなに穏やかな空気が流れているのに、その向こうにあの夜と同じ、狂おしいほどの衝動が隠れているのがわかる。体温すら感じられそうな距離でジュリアンが顔を傾けて、それを合図にしたようにフィラは瞳を閉じた。

 触れ合った瞬間に、苦しいくらい強く背中を抱き寄せられる。深い口づけにどうしたら良いかわからなくて、縋るように団服の袖を握りしめた。深く長いキスは、まるで何かを確かめているようだ。

 ――ジュリアンも、確かめたかったのだろうか。任務に出る前のことが、現実だったのだと。

 唇が離れて間近で見つめ合いながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。少しだけ戸惑ったような沈黙の後で、ジュリアンがゆっくりとフィラの肩に顔を埋める。躊躇いがちに背中に腕を回すと、耳元でほっと息をつく気配がした。今まで何度か同じようなことをしてきたけれど、そのたびに感じていた危うさや焦燥が今はない。ジュリアンの体温を――存在を全身で感じることで、ようやく不安が解けていく。

 ――このひとと一緒なら、きっとどこにだって行ける。

 ふいにそんな実感が、胸の奥から湧き上がってきた。

 ――だってもう、こんなに遠くまで来てしまったのだから。


 フィラの朝は早い。目覚ましがなくても夜明け頃に目覚めることができるフィラは、異変があったら一瞬で目覚めるくせにフィラがもぞもぞと腕の中から抜け出してもなぜか目を覚まさない夫(と表現するのは未だに慣れないのだが)を置いて部屋を出る。顔を洗って自室で着替え、朝食の準備をしていると、まだ半分寝ているような様子のジュリアンが寝室から出てきてシャワールームに消える。そのタイミングでパンを焼き始め、焼き上がりに合わせてコーヒーを入れると、ちょうど全部食卓に並べ終えた所で完璧に身支度を調えたジュリアンが現れる。

 毎回食べ始める前に律儀に礼を言われることに最初は戸惑っていたけれど、それにも段々慣れてきてはいた。しかし。

(お、落ち着かない……)

 なぜか見られている。いや、二人きりで向かい合って食事しているのだから他に見るべき場所もないのだが、それにしてもじっと見過ぎだと思う。

「あ、あの、何か……?」

「……いや。疲れてないか?」

 一瞬考え込んだ後でその意味を理解して、フィラは盛大に赤面した。

「だ、だだだ大丈夫です!」

「そうか。なら……良いんだが」

 ジュリアンはいつも通りの無表情なのだが、気まずい、割に空気が甘い。とてつもなく甘い。ような気がする。

 思わず心の中で「助けて」と誰にともなく救いを求めたところで、ふっと食卓の上に白猫の姿が現れた。普段は神様だということを忘れがちなティナの姿が、まさしく救いの神に見える。

「……あのさあ」

 ジュリアンの正面へ歩いて行ったティナは、不満そうな口調とは裏腹に行儀良く両前足を揃えて座った。見つめ合う一人と一匹の間に謎の緊張感が走る。

「フィラの魔力、もう安定してるよね。そろそろ僕、こっちの護衛に入ろうと思うんだけど」

「ああ、そうしてもらえると助かる」

 答えながらごく自然な仕草で頭を撫でようとするジュリアンの手を、ティナは猫パンチで振り払った。

「訓練の時間には付き合ってもらうことになるが」

 振り払われた方は全く気にする様子もなく言葉を続けている。対するティナにもそれにつっこむ様子がないから、もしかしたらいつものことなのかもしれない。

「それは……まあ、良いけどさ」

 フィラの方からはティナの背中しか見えないけれど、声の調子でうさんくさそうな表情をしているのだろうと容易に想像出来た。

「本気で竜化症を食い止めようとしてるのって、この状況と関係あるの?」

「この状況?」

 訝しげに眉根を寄せるジュリアンに、ティナは苛立たしそうにしっぽを動かした。

「つまり――」

 突然言葉が途切れて、直後にジュリアンが何故か気まずそうにティナから視線を逸らす。

「……まあ、良いけどさ」

 先ほどと同じ台詞を繰り返して、ティナは大げさにため息をついた。

「フィラが良いならね」

 ティナは捨て台詞のようにそう言うと、くるりと振り返ってフィラの元へ歩いてくる。何となくジュリアンとティナが何の話をしていたのか察してしまったフィラは、いたたまれない気分で朝食を食べ続ける。

「フィラ」

「は、はい?」

 視線を落としていたフィラは、ふいにジュリアンに呼びかけられて慌てて顔を上げた。

「この後少し時間を取れるか」

「あ、はい、大丈夫です」

 答えながら、ジュリアンはこの後仕事じゃないのだろうかと内心首を傾げる。そっと様子を伺うと、朝食を終えてコーヒーを飲んでいる姿には余裕があるみたいだった。リラックス、しているように見える。仕事に支障がなさそうなのは良いけれど、いつもの朝、彼はこんなふうだっただろうか。急に変わってしまった関係に感覚がついていかない。

 いつも通りに黙々と朝食をとっていてもどこか落ち着かない気分だったけれど、嫌な感じではなかった。ただ妙にくすぐったくて、どきどきするだけで。


 朝食を食べ終えて食器を片付けると、ジュリアンは「ついて来てくれ」と言って歩き出した。

「魔力が落ち着いてきたから、行動範囲を広げてもらうことになった」

 聖騎士団本部へ続く廊下を歩きながら、ジュリアンは淡々と説明を始める。

「とは言っても、光の巫女の身の安全は確保する必要がある。そのため、行動範囲は聖騎士と一部の機密情報へのアクセスを許可された者のみが出入り出来る区画に限られることになる。不自由を強いることになって申し訳ないとは思うが」

「い、いえ、とんでもないです。自分がそういう立場だっていうのはわかりますし……」

 どうしてもリラの力を自分の一部として感じることはできないけれど、預かっている者としての責任があることはわかる。それに相応しい行動がどういうものかわからないから、結局ジュリアンに判断を任せることしか出来ないのだということも。

 少しだけ情けない気分になっているうちに、廊下を抜けて聖騎士団本部へ入っていた。前回通り抜けたときは暗く人気のない寒々とした雰囲気だったけれど、今日は天井の明かりが真っ白な廊下を隅々まで照らし出しているし、どこからかコーヒーの匂いも漂ってくる。清潔なオフィスフロアのそこかしこから、人の営みの気配がする。

 団長執務室とコーヒーの香りの出所らしい事務室の前を通り過ぎたところで、ジュリアンは廊下を右に折れた。この間出かけたときは曲がらずに真っ直ぐ進んで、水密扉みたいな頑丈なドアを数回通り抜けてリフト乗り場に着いたんだったな、とフィラは頭の中でおおざっぱな地図を描く。右に折れた廊下はしばらく先で行き止まりになっていて、そこにもお馴染みの頑丈で真っ白な扉が鎮座していた。ジュリアンがその前に立つと扉は自動的に開いて、その奥に広大な空間が広がっているのが見える。

「この訓練施設は聖騎士専用のものなんだが、今日からはお前にも解放する許可を得た」

 言われて扉の上のプレートを見ると、確かに「トレーニングルーム」と書いてあった。なぜそこに案内されたのか理解しかねて、フィラは瞬きしながら続きの説明を待つ。

「部屋にこもりきりなのも良くないだろう。ティナと一緒ならここまでは自由に出入りして良いから、自由に使ってくれ。ここの設備も……使い方がわからなければ出て左の事務室にいるインストラクターに聞いてくれ」

 説明を聞いているうちに、ジュリアンが全然体を動かせていない自分を心配してくれていることに気付いた。

「あ、ありがとうございます」

「この部屋の奥は魔術の訓練施設だ。聖騎士で使いたい者がいるときはそちらが優先になるが、空いている時間にはお前も使って良い」

「はい、わかりました」

 何だか嬉しくなって微笑みながら頷くと、ジュリアンもつられたように微かに表情を緩めて、しかしすぐに何かを思い出したように眉根を寄せた。

「そろそろ時間だな。俺はもう行くが、後は自由にしていてくれ。それと、今日はたぶん、帰りは遅くなる」

「えっと、夕食は……?」

 ジュリアンは微かに苦笑して前髪を掻き上げる。

「外で食べる……その時間があると良いんだけどな」

 どことなくぎこちない気がするのは、こういう個人的な希望を口にするのに慣れていないせいだろうか。ものすごく些細なことなのに。

「夜食、作っておきましょうか?」

 ――それでも良い。もっと聞きたい。きっと今までたくさん取りこぼしてきてしまっただろう、彼のささやかな願いを。

 そんな思いを込めて尋ねるのは、少しだけ緊張した。

「……頼んで良いか」

 わずかな逡巡と葛藤の末に頷いたジュリアンに、フィラはほっと肩の力を抜いて微笑む。

「もちろんです」

 ジュリアンの願いや抱えているものを知ったとしても、今のフィラに出来ることはほんの少ししかない。だからこそ、小さな願いを伝えてもらえて、それを叶えられることが嬉しかった。きっと浮かれていられる状況ではないのだと、頭のどこかでわかっていても。

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