第五話 愛するもの、お前の名は

File-1 空が落ちてくる

 午前三時。全ての業務を完了し、訓練施設のシャワールームで汗を流してからやっと部屋へ戻る。自室へ続く長い廊下はほの青い常夜灯の明かりで淡く照らされていた。

 聖騎士団本部から自室へ向かう廊下は、ジュリアン以外の人間が通ることはほとんどない。掃除用の自動操縦ロボットが入ることはあるが、それも人が行き来しない時間に限られているので、ほとんど出会うことはなかった。

 世界から切り離されたようなこの場所は、実際自分を隔離するための施設だった。ジュリアンを――いつ暴走するとも知れない化け物を隔離するための。感情抑制装置を外された直後は、自分でも自分がいつ暴走するかわからなくて、夜眠るのが怖かった記憶がある。周囲にとっての恐怖はそれ以上だっただろう。

 そんな恐ろしい怪物を閉じ込めるための牢獄で、今はフィラが眠っている。ただそれだけのことで、あの牢獄が安らげる居場所に変わっていることに、まだ戸惑いがあった。早くその側へ戻りたいという気持ちと、それを恐れる気持ちがせめぎ合っている。安らぎを受け入れてしまえば、今よりさらに離れがたくなってしまうだろう。彼女の側にいられるのもあと僅かだ。とうに覚悟は出来ているはずなのに、フィラのことを思うときだけ心が揺れる。ずっと一つの目的のためにだけ生き延びてきた。叶えるべき未来は決まっている。ずっとここにとどまり続けられないことはいやというほどわかっているのに、それでも迷う心が疎ましい。

 ぼんやりと考えているうちに廊下の突き当たりまで辿り着いていた。気配を殺して静かに扉を開く。一歩足を踏み入れた瞬間に全身を包む空気に、ほっと肩の力が抜けた。そこに存在することを許されているような気分になれるのは、フィラの存在がもたらすどこか甘さを含んだ匂いのためだろう。

 ――甘えてはいけない。

 自分を戒める言葉も、疲れ切った今の状態ではあまり効果が望めそうになかった。立ち止まって、まだ自制できるか確かめる。

 彼女に不幸をもたらすことはできない。ちゃんと望めるはずだ。フィラの、幸福な、未来を。

 一つため息をついてから、気を落ち着けるようにわざとゆっくりと歩いて寝室へ向かう。リビングの常夜灯の明かりだけでも、配置を覚えている自室での行動に支障はない。気配を殺したまま寝室へ入り、空気さえ揺らさないように気をつけながらベッドに歩み寄って腰掛けた。振り向いて、いつもより端に近い位置で身体を丸めているフィラを見下ろす。少しだけ苦しそうな表情に思わず魔力を探るが、特に乱れている様子はなかった。微かに眉根を寄せる。よく見ると、ここへ来た頃よりはいくらか丸みを取り戻した頬に微かに涙のあとが見えた。

「……泣いているのか」

 思わず漏れた呟きに反応するように、フィラが瞳を開く。濡れた瞳がゆっくりと焦点を結んで、真っ直ぐジュリアンを見た。薄闇の中でも驚くほど美しいその輝きに、視線が外せなくなる。上半身を起こしたフィラが、ぎゅっとジュリアンの右袖を掴んだ。ただそれだけの仕草に激しく動揺する。決して表に出してはいけない衝動が、胸の奥から這い出そうとしてくるのを感じて、思わず息を詰めた。少しでも身動ぎしたら全てを滅茶苦茶にしてしまいそうで、そんな自分を怖いと思う。

「……つれてって」

 寝起きの声が、吐息混じりにそう告げた。

「何……を……」

 問い返そうとした声が擦れる。じっとこちらを見上げながら、フィラはゆっくりと身を乗り出した。その瞳の奥の覚悟に気圧されるように、思わず身を引く。それを引き留めるように、袖を握るフィラの手に力が入った。

「サーズウィアを呼びに行くなら、私も連れて行って欲しいんです」

 瓦解しそうな理性をかき集めて、自由な左手でフィラの肩を押し戻す。

「出来るわけがないだろう。そこまでお前を巻き込むつもりはない」

 何故それを知っているのか、とは、問うまでもない。たぶん、フィラは全てを思い出したのだ。リタが伝えた、全てのことを。

「でも、サーズウィアを呼ぶためには光の神器が必要なんですよね」

 硬く強張った声は出会った頃を思い出させる。震えながら虚勢を張っていた、初めて出会ったときのことを。

「……力だけ渡してもらえればそれで良い。お前がついて来る必要はない」

 あの時と同じだ。上手く嘘がつけない。嘘をついて、なだめすかして、言うことを聞かせてしまえば良いのに。どんな嘘も見透かされてしまいそうで、それでも真実を口にすることはできなくて。

 フィラはぎゅっと眉根を寄せて、苛立たしそうに口を開いた。

「嫌です」

 いつもより僅かに低い声には、紛れもない怒気が込められている。本気で怒っているフィラを見るのは久しぶりだった。この少女はこんなに美しかっただろうか。場もわきまえずに見惚れそうになっている自分に気付いて、視線を外す。

「無理矢理引き剥がすような真似をさせないでくれないか」

「嫌です!」

 こっちを見ろ、とでも言いたげに、強く袖を引かれた。反射的に目を合わせてしまって、即座に後悔する。

「何故、そんなことを」

 怒りに輝く瞳の奥にひそむのは紛れもない悲しみで、彼女にそんな表情をさせているのはどう考えても自分自身だ。そのことが疎ましくてやるせなくて、でもどうしたらいいのかわからない。

「だって……一人で行ったらあなたは、帰って来ないじゃないですか……!」

 もう後戻り出来ないのだと思い知らされる。どう転んでも自分は、フィラを傷つけることしか出来ない。傷つけても苦しめても、生きていて欲しいと願うなら。出来ることは一つだけのはずだ。

「だったら何だ。とうに覚悟は出来ている。お前は気にせず、ユリンに戻れば良い」

 突き放さなければ。そうしなければ、手を伸ばしてしまう。その全てを、奪うために。

「嫌です。だって、死んでほしくない」

 ジュリアンの葛藤などお構いなしに、フィラは真っ直ぐ言葉を投げつけてくる。

「だからといってお前まで命を危険にさらす必要はない。そこまでしてもらうほどの価値は、俺にはない」

「そんなことない!」

 堪えきれないように激情をぶつけてから、フィラは俯いた。

「そんなこと……ありません」

 泣かせてしまったとわかっていても、譲れない、と、そう思う。きっと願えるはずだ。フィラが生きていてくれさえすれば。その幸せな未来を。そのために青空を取り戻すことを。今までよりも、ずっと強く。

「わかっているのか? 命を賭けることになるんだぞ」

 少しだけ落ち着きを取り戻した声でたしなめる。

「わかってます」

 俯いたまま、低くフィラは答えた。

「俺のために命を賭けると?」

「そうです」

 梃子でも動かないと言いたげな様子に、眉根を寄せる。

「そこまでする理由がない」

「あります。わからないんですか?」

 顔を上げたフィラは、またジュリアンの瞳を覗き込みながら、無理矢理引きつった笑みを浮かべた。

「私、あなたのこと、好きなんですよ」

 甘さの欠片もない、喧嘩を売るような言葉の調子を、本気ではないからだと思いたかった。フィラが本気で向き合っていることも、その気持ちも――とっくにわかっていたはずなのに、まだ信じたくないと心のどこかが抵抗している。信じてしまえば引き返せなくなる。ただでさえ、自分はこんなに――

「お前が、俺を? 同情の間違いじゃないのか?」

 拳を握りしめ、冷淡な声で告げたその瞬間、さっとフィラの表情が怒りに染まる。

 一瞬、殴りかかってきたのかと思った。ほとんど体当たりみたいな勢いで、フィラはジュリアンをベッドに押し倒す。

「本当に同情だと思ってるんですか?」

 抵抗できなかったのは、見惚れてしまっていたからだ。恐ろしいほど真剣な瞳がまっすぐに睨み付けてくる。肩をベッドに押しつける重さは、簡単に払い除けられそうなほど軽いのに、魅入られたように動けない。

「馬鹿だってわかってても止められない……止められるはずないのに」

 追い詰められた獣のように、切羽詰まった瞳がジュリアンを見つめる。

「私はあなたを失いたくない。同情なんかじゃない。失うくらいなら、死んだ方が良い」

 泣いているはずなのに、その視線の強さは揺らがない。さっき目を奪われそうになったときよりもさらに鮮やかな美しさが、ジュリアンの視線を縛り付ける。純朴で穏やかな少女のどこにこんな苛烈な美しさが潜んでいたのだろう。呆然とその瞳を見上げながら、紡がれる言葉が胸の内に刻み込まれていくのを感じる。

「だけど、私、死にたくなんてないんです。だから一緒に行って、一緒に帰りたい。お願いです……ジュリアン。連れて行ってください。私、失いたくないんです。あなたを」

 ――失いたくない。

 フィラの思いが胸に流れ込む。失いたくないのはジュリアンも一緒だ。だから手を放そうとした。でも、本当は。同じ思いを抱えているなら――

「私はあなたの、未来が欲しい」

 フィラの瞳が、潤んで揺れる。

 未来。

 ――そうだ。

 未来が欲しくないなんて嘘だった。今がずっと続いて欲しいなんて、それこそ未来を願うことだったのに――

「好き……」

 涙と共にこぼれ落ちた言葉が、いつもは柔らかく響く彼女の声が、切れ切れになった思考の全てを断ち切る刃のようだった。頭の中で何かが焼き切れるのを感じた。乱暴に腕を引く。体勢を入れ替えてベッドに押さえつける。噛みつくようにキスをすると、フィラも喧嘩の続きみたいな調子で応えてきた。むさぼるようなキスの合間に、彼女の服に手をかける。優しくなんてできなかった。それでも求めずにはいられなかった。

 傷つけ合うように、奪い合うように、ただお互いを求めた。――それでも二人で、行き着くところまで行ってしまいたかった。

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