File-2 彼女の帰る場所

 食事の後、ジュリアンは約束通りフィラが以前住んでいたトレーラーハウスへ向かってくれた。途中で小さな法律事務所に立ち寄り、鍵を受け取ってまた車を走らせる。高級住宅街を離れると、フィラにも見覚えのある風景が増えてきた。閑静な住宅街を抜け、光王庁の裏手にある公園へ入る。

 フィラの記憶の通りなら、トレーラーハウスは公園の奥の空き地に置いてあるはずだった。車の窓から見える懐かしいけれどどこかよそよそしい風景に、なぜだか鼓動が早くなっていく。

「大丈夫か?」

 運転席のジュリアンが心配そうな表情でこちらにちらりと視線をやって尋ねた。

「は、はい。ちょっと久しぶり過ぎて緊張してるだけなので……」

 答えた声もちょっと硬い。何が怖いのだろう。自分で自分の心がわからなくて、フィラは困惑したままただ窓の外を眺める。

 懐かしい場所へ自分で足を運んで、思い出して、そして確認したいことがある。それなのに思い出すのが怖いと思ってしまっている。でも、それでも、思い出さなければならない。そんな焦燥がどんどん強くなっていく。

 公園を抜けて辿り着いた空き地は、記憶にあるものよりずいぶんと鬱蒼として見えた。空き地の前の道に車を止め、生い茂った雑草をかき分けて辿り着いたトレーラーハウスは、消されてはいたけれど落書きにまみれ、外装も薄汚れてすっかりみすぼらしい姿になっていた。誰も住まないまま二年間も雨ざらしになっていたせいだろう。

 ――誰も。

 わかっていたことなのに、胸が締め付けられるようだった。ここにはもう誰もいない。フィラのことを待っていてくれる人は。ここへ戻ってきたって、先生エステルはもういないのだ。前に進むしかない。わかっているのに、足が竦みそうになる。

 ジュリアンが扉に鍵を差し込み、何度か左右に回そうとした後で力任せに開いた。続いて彼は扉を開けて中の様子を伺ってから、フィラに道を空ける。

 一歩入ってすぐに違和感を覚えた。室内にあまり埃は溜まっていないし整然としているけれど、その代わり物の配置が記憶と違う。まるで他人の手で片付けられたように。たぶん、荒らされていたのだ。それを誰かが――恐らくはジュリアンが、片付けたか片付けさせたかしてくれたのだろう。

 心の中で感謝しながら、部屋の奥へと歩みを進めた。目的の物が記憶と同じ場所にあるかはわからないけれど、どうにかして探し出さなければ。何も思い出に浸るためにここへ戻ってきたわけじゃない。

 狭いトレーラーハウスの中、奥へ行くには並べられた二台のピアノをすり抜けなければならない。ちらりと視線を走らせると、ピアノは二つともひどい状態になっているようだった。二年間も湿気の多い場所に放置されたせいだ。きっともう修理してもまともな音は出ないだろう。手に馴染んでいた、いつもそこにあったはずの存在がそんな風によそよそしく変わり果ててしまっていることが、妙に物悲しい。

 じわりと目の奥に滲んだ熱には気付かないふりをして、一番奥の書棚の前に立った。乱雑に詰め込まれていたはずの本は綺麗に並べられていて、やはり誰かが――先生エステルではない誰かが片付けたのだとわかってしまう。

 目的の物は書棚の一番下の段にあった。サイズが大きいからそこにしか入らなかったはずだ。だから探すのは容易かった。見つけたそれを手にとって立ち上がる。

「アルバム?」

 いつの間にか背後に立っていたジュリアンが肩越しに尋ねかけてきた。

「はい。旅先で撮った写真なんです。リタがいつも旅先の話を聞くと喜んでくれたから、写真も見せたら喜ぶかなって」

「……あいつには、自由がなかったからな」

 呟いたジュリアンの声には、どこか悔いるような響きが混じっている。それはきっとジュリアンのせいじゃない。そう思っても何も言えなかった。何も出来なかったのはフィラも一緒だ。

「私はいつも、このアルバムを持って……」

 今出来るのは、リタと話した何か大切な約束を思い出すことだけ。そこにきっとリタの願いも、フィラに光の巫女の力を手渡した理由もあるはずだから。

 そう思って、フィラは手にしたアルバムをぎゅっと抱きしめた。


 どこかふわふわとした歩調でトレーラーハウスを出て行くフィラを、数歩後ろから追いかけた。鬱蒼とした空き地を通り抜け、人気のない夜の公園の小道を辿って光王庁の裏手へと歩いて行く。この奥にあるのは湿度調整用の隔離区画だ。結界を張って一般人の立ち入りを禁じている区域だが、小動物や虫の出入りを自由にするために一定以下の魔力の持ち主は結界を通り抜けることが出来る。つまり、もともとほとんど魔力のないフィラは結界がそこにあることなど気付きもせずに出入り出来ていた、ということだ。公園と隔離区画の境目には、結界の存在を示す薄い光の膜が立ち上っていた。その向こうに広がるのは立体ホログラムで作られた白樺の森だ。夏も冬も変わらない新緑の柔らかな緑が、闇の中で微かな光を放っている。

 結界の光にそっと伸ばされたフィラの手首を掴んで止める。今のフィラでは結界をすり抜けることはできないはずだ。

「この向こうへ行きたいのか?」

「え、あ、はい」

 たった今我に返ったという様子で目を瞬かせるフィラに頷いて、結界の管理データベースに遠隔アクセスする。それほど機密レベルの高い区域ではないので、簡単な手続きで入場許可を得ることが出来た。

「入場許可は取った。もう入れるぞ」

「あ、ありがとうございます」

 アルバムを抱えたまま、少しだけ表情を引き締めて隔離区画に足を踏み入れるフィラの後に続いて、ジュリアンもホログラムの森へ分け入っていく。

「リタとはここで会っていたのか」

「はい。ここには他に、誰も来なかったから……」

 街灯はないが、立体ホログラムの放つ微かな光で足下が不安にならない程度の視界は確保されていた。外から見えないくらい奥へ入ったところで、フィラは足を止める。ふっと見上げた視線が、光王庁の巨大な建物の輪郭を彷徨う。

「リタ、あそこから来てたんですね」

 見上げる瞳に映る感傷は、何か遠いものを見るようだった。今はフィラの帰る場所があそこなのに、そんなことは忘れてしまっているかのように。

 ――いや、当然だ。

 あそこを『帰る場所』だなどと思えるはずがない。どんなに居心地良く取り繕ったところで、あそこはフィラにとっては突然連れて来られた牢獄に過ぎない。彼女が本当に帰りたい場所は、もっと素朴で平和な喜びに満ちたところのはずだ。

 考え込んでいるうちに、フィラは持ってきたアルバムを開いて目を落としていた。時折懐かしそうに目を細めながら、けれど真剣に何かを探すように。その横顔を見つめながら、何かざわざわとしたものが足下から這い上がってくるような心地がした。フィラの表情が少しずつ憂いに沈んでいく。その感情を反映するように、魔力が不安定に揺らぐ。

 気がついたときには、手を伸ばしていた。腕を掴まれたフィラがはっとジュリアンを振り仰ぐ。一瞬で我に返ったジュリアンも、何も言えずに呆然とフィラを見返した。意識する前に動いてしまった自分が信じられない。ずっと緊急の際でなければ大丈夫だと言い聞かせてきたのに、それを自ら裏切ってしまった。自分自身の感情を制御出来ない感覚が、ひどく心許なくて恐ろしかった。

「……魔力が、乱れている」

 何かを誤魔化すように絞り出した声に、フィラが申し訳なさそうに俯く。

「すみません。でも……もう少しだけ」

 どこか思い詰めたような表情のフィラに、駄目だとはとても言えなかった。それでも触れてしまった手を放す気になれなくて、その身体を引き寄せる。その拍子に閉じてしまったアルバムを抱え込みながら、フィラは素直にジュリアンに寄り添った。

 痛みを堪えているようなその横顔を見つめながら、ジュリアンはふと息苦しさを感じる。そんな表情をさせたくはないのに、どうしたら彼女の憂いを取り除けるのかわからなかった。

「大丈夫か?」

 結局、間の抜けた質問を繰り返すことしか出来ない。

「何か思い出したのか」

 団服に添えられたフィラの手が、ぎゅっと握り込まれる。頼られているような感覚に、複雑な感情が湧き上がった。

「……少しだけ、ですけど、リタのこと……」

 微笑もうとして失敗して、フィラは苦しそうに目を伏せる。

「ありがとう、ございます。あ、あの」

 フィラははっと我に返ったように身を引いて、少し気恥ずかしそうに視線を泳がせた。

「もう、戻りましょうか」

「……ああ」

 ゆっくりと踵を返し、元来た道を戻っていくフィラの背中は、どこか力なく弱々しく見える。

 やはり連れてくるべきではなかったのだろうか。フィラの本当に帰るべき場所がこんな風に荒れ果てているところなど、見せない方が良かったのかもしれない。

 ユリンは本当の居場所ではないと、行き場がないと泣いていたフィラのことを思い出す。

 彼女の居場所はどこにあるのだろう。ユリンも、ここも、本当の居場所ではないのだとしたら。フィラが本当に安らげる場所はどこにもないのではないかという疑問が頭を離れない。どこにでも馴染んでしまえるのに、つらい状況の中でも自分に出来ることを探せる強さがあるのに。懐かしそうにアルバムを見下ろす彼女の横顔に、埋められない孤独を見つけてしまった。

 今、彼女が接することが出来る生身の人間はほぼジュリアンだけだ。フィラの魔力が安定するまでは魔力酔いしてしまうティナも長時間側にいることはできない。寂しい思いをさせている自覚はあった。でも、さっき見つけた彼女の孤独はきっともっと深いところから来ている。

 孤児院から引き取られた後も、記憶を失ってユリンにやってきた後も、カルマに追われて城で生活していたときも、レイ家に預けられたときも、たぶんフィラにはどこか遠慮があった。自分に出来ることを探して、その場にごく自然に溶け込んでいくのは、そういう生活ばかりしてきたフィラが無自覚の内に身に着けた処世術なのかもしれない。

 たぶんフィラは、そういうふうにして一人で生きていけるのだろう。助けてくれる人々に囲まれ、周囲の人々に感謝しながら、孤独を自覚することもなく。

 ――いつか誰かが、彼女の孤独を見つけてそれに寄り添うまで。

 じわりと不快な熱が胸の奥に宿る。不意に沸き上がった凶暴な感情をフィラに悟られたくなくて、拳を握りしめて必死で押し殺す。

 フィラの幸せを、願わなくてはいけないはずなのに。沸き上がるのは、それとは逆の結果をもたらす衝動ばかりだ。

 無言のまま車へ戻り、やはり会話もなく車を走らせ、法律事務所に鍵を返してまた光王庁に向かいながら、意図的にあまり考えないようにしていたこれからのことを考えていた。これから自分がフィラにしてやれること。残していけるもの。彼女が幸せになるために、準備しておけること。下らない感情は封じ込めて、それだけを考えなければいけないと思った。

 部屋に戻るまで考えても結論は出なかったが、考え続ける時間は与えられなかった。戻ってすぐ、天魔襲撃の一報が入ったからだ。


 先に寝ていろ、と指示を出して、ジュリアンは出て行った。その言葉に従ってベッドには入ったものの、寝付くことが出来ずに時間だけがじりじりと過ぎていく。

 眠れるわけがない。最近ずっと胸の内に巣喰っていた不安が、はっきりとした形を持ってしまった。静まりかえった部屋の中で一人で横になりながら、フィラはさっき思い出したばかりのリタの言葉を頭のなかで辿っていた。


 ――ねえフィラ、空を見たい?――


 ホログラムの白樺の森。鮮やかな新緑。降り注ぐ雨と人工の光。中央省庁区を覆う結界を見上げるリタは、まるでその向こうの空を、空を覆い尽くす雲の向こうの碧空を見通そうとしているようだった。

「本物の空。本当の、青い空」

 久しぶりに姿を現したリタは、いつもよりもっと現実感がなく透き通って見えた。最後に会ったとき、危険な任務に就くかもしれないと言っていたリタのことをずっと心配していた。だからその日彼女の姿が見えたとき、フィラは心の底からほっとしたのだ。

「私は見たい。すごく、見たい」

 何かに焦がれるように絞り出された声は、けれど渇望と同じくらい絶望を含んでいた。安堵しかけていた心が、一気に不安で塗り替えられていく。

「そのためなら私、何を犠牲にしたって良いと思ってた」

 泣きそうな、いつものリタなら見せないような弱々しい表情のまま、リタはこちらを見ることもなく話し続ける。

「わかってしまったの。何を犠牲にしたら、手に入れられるのか……」

 リタが何を言っているのかわからなくて何も言えないフィラの方へ、ようやくリタの視線が向けられる。

「あの馬鹿兄貴、真剣な顔して約束するんだよ、絶対に青空を取り戻すって」

 いつものように強気な笑みを浮かべようとしたリタの声が、涙に滲む。擦れる声を振り絞るように、彼女は続ける。

「私がその約束を受け入れることができたのは、何も知らなかったから。知ってたら、青空を見たいなんて言ったりしなかったのに」

 瞬きしたリタの瞳から零れ落ちる涙を、フィラは呆然と見つめていた。あの時は、リタが何を言っているのか半分も理解することができなかった。でも今はわかる。リタがどんな状況で、何を嘆いていたのか。そしてその次に告げられた言葉の意味も。

「私は……兄さんを犠牲にしてまで空が見たいわけじゃない。でも、私が何を言っても兄さんは行ってしまう。だから、決めたの。一緒に行こうって。一人でなんて行かせない、私が一緒に行って、最後まで一緒にいようって」

 力なく決意を語って、リタは両手で顔を覆った。

「でも、出来ない」

 泣きじゃくるリタにかける言葉は、どうしても見つからなかった。

「もう、今の私にはそうする力が残っていない。私にはもう、何も出来ない」

 触れることの出来ないリタを、抱きしめてあげたかった。けれど伸ばした手は、リタの肩をすり抜けてしまう。

「私の声は、もう兄さんには届かない。それでもいつかはって思ってた。でも、もう……」

 顔を覆っていた手が、ぎゅっと握りしめられる。その拳で無理矢理涙を拭って、リタは切羽詰まった瞳でフィラを見つめた。

「お願い、フィラ。兄さんを助けて」

 こんなにはっきりとリタが「お願い」を口にしたのは、きっと初めてのことだった。何かをしたいと希望を語ることはあっても、何かしてほしいとは言わなかった彼女の、初めてのお願い。

「こんなこと、フィラに押しつけちゃだめなんだってわかってる。どうしたら助けられるのかも、私には全然わからない」

 リタの願いは叶えたかった。でも簡単に頷ける願いではないことも理解していた。あの頃のフィラにとってジュリアンは知らない他人で、彼にまつわることは全て遠い世界の出来事だったから。

「でも、他にいない。他に頼める人なんていない」

 リタの青い瞳が、痛々しいほど真剣にフィラを見つめる。他に縋るものがないのだと、その視線が何よりも雄弁に物語っていた。

「だから、フィラ――」


 ――兄さんを、助けて――


 そうして、フィラはリタの持つ光の魔力を引き継ぐことを決めた。でも結局二人で考えてもジュリアンを救う方法は見つからなくて、だからリタはフィラの記憶を消したのだ。ジュリアンを救えないことが、フィラの痛みにならないように。何も知らないまま、ただ光の巫女の力だけをジュリアンに手渡せるように。

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