File-8 水を乞う

 食器を洗い終わった厨房で、フィラはセレスティーヌと向かい合ってハーブティーを飲んでいた。さっきまでここでリーゼルに出された宿題を片付けていたのだが、全部終わったので休憩しようとセレスティーヌが提案してくれたのだ。

「団長とお父様って、いったいどんな話をしているんでしょうか?」

 まだ熱いカモミールティーに息を吹きかけて冷ましながら、フィラは首を傾げた。

「想像がつかないわね」

 穏やかな表情でティーカップを見つめながら、セレスティーヌは答える。

「でも、きっと大丈夫よ。そう思えるようになったの」

 愛おしそうに目を細めるセレスティーヌに、フィラは思わず見とれた。やっぱりこういう表情をしているときのセレスティーヌが、一番綺麗だと思う。

「あの子、すごくランベールと似てるのね。今まで仕事をしているときのランベールとそっくりだとしか思ってなかったけど、仕事をしていないときのあの子も、やっぱりランベールそっくりなんだわ」

 それと同じことは、フィラもよく感じていたので、思わず深く頷いていた。

「そうですね。私も、お父様と話していると何だか団長に似てるなって思うことがよくあります」

 嬉しそうに頷いていたセレスティーヌが、考え込むようにふっと表情を消す。

「ねえ、フィラ」

 改まった表情を向けられて、フィラの背筋も自然と伸びた。

「ずっと思っていたのだけど、どうしてあの子の呼び方、『団長』なの?」

 至極真面目な表情で問いかけられる。

「え……?」

 まったく意識していなかったことを急に指摘されて、フィラは動揺した。

「あ、あのね、駄目ってことじゃないのよ。ただ、その、やっぱり婚約者なら名前で呼ぶ方が自然なんじゃないかと思って。それにね、私、結構一生懸命考えたのよ。七月生まれだっていうのもあるんだけど、ランベールが歴史上で一番好きな人物が実はユリウス・カエサルでね、ユリウスから派生した名前をつけたくて」

 必死で訴えるセレスティーヌにそんなつもりはないのだろうが、ものすごい勢いで逃げ道をふさがれていっている気がする。

「だから、その、良かったら、なんだけど」

 なぜセレスティーヌがそんなに必死なのか、話を聞きながら気付いてしまった。きっと、この邸の中ではジュリアンが聖騎士団団長であることを意識したくないのだろう。自分で最後の逃げ道をふさいでしまったフィラは、ものすごく追い詰められた気分で視線を落とす。

「ど、努力します……」

 カモミールティーの暖かい黄色を見つめながら、そう答えるのが精一杯だった。別に本人に名前で呼ぶななんて言われたわけではないけれど、許可を取らないと呼びづらい。しかし名前で呼んでも良いかと尋ねるのにも、相当な勇気が必要そうだった。

 それからしばらく、無言のうちにお茶を飲み続けた。カモミールの柔らかな香りに、だんだん眠気を誘われてくる。

「もう遅くなっちゃったし、そろそろ寝ましょうか。あの二人は明日休みだから放って置いても大丈夫よ」

 眠そうにしているフィラに気付いたセレスティーヌが、微笑みながら立ち上がった。フィラも慌てて立ち上がり、ティーカップを片付けようと手を伸ばす。そのとき、ふいに誰かの足音が聞こえてきた。どこか覚束ないその足音に、フィラは思わず振り返って廊下へ続く扉を見る。すぐに扉が開き、据わった目つきのランベールがふらふらと入ってきた。

「水をくれ……飲み過ぎた」

 よろめきながら入ってきたランベールは、それでもどうにかはっきりとした口調でそう言って手近な椅子の背に手をかける。

「飲み過ぎたって……ジュリアンはどうしたんです?」

 目を見開くフィラの横でセレスティーヌも驚いている様子から、ランベールがこんな風になるのはとても珍しいのだとわかった。

「寝てる」

 端的に答えながら椅子に座り込むランベールは、しばらく動けなさそうだ。

「つ、潰しちゃったんですか?」

 思わず声を上げたフィラは、唖然としているセレスティーヌと目を見合わせる。しばしの沈黙の後で、先に我に返ったのはセレスティーヌだった。

「フィラ、ジュリアンを見てきてちょうだい。この人は私が介抱するから」

「わ、わかりました」

 慌てて水を用意するフィラの背後から、セレスティーヌの深いため息が聞こえる。

「ごめんなさいね。いい年してこんなこと……」

「いえ、行ってきます」

 小さめのトレイに水差しとコップを乗せ、厨房を後にしながら、ジュリアンは大丈夫だろうかと考えていた。いつものように散歩に出ているティナが戻ってきたら、酔い冷ましの魔術が使えないか聞いてみた方が良いかもしれない。たぶん、自然回復を促す治癒魔術の応用で出来そうな気がする。

 そんなことを考えているうちに、二階の書斎の前まで来ていた。一応ノックしてみるが、当然のように答えはない。そっと扉を開くと、ジュリアンはソファの肘掛けにもたれかかって瞳を閉じていた。トレイをローテーブルに置き、コップに水を入れてからジュリアンの肩を叩く。

「団長、大丈夫ですか?」

 声をかけると、ジュリアンはぼんやりと目を開いた。

「お水飲みますか?」

 コップを差し出した右手首を、ふいに掴まれる。そのままかなり容赦のない勢いで引き寄せられた。

「えっ!? わっ!?」

 どうにかコップを水平に保とうと慌てふためくフィラは、ろくな抵抗も出来ずにその腕の中に閉じ込められてしまう。一瞬、全ての思考が完全に停止した。

「な……」

 無意識に漏れた自分の声で、ようやく意識が再起動する。

「ななななな何すんなら!?」

 動揺のあまり思いっきり訛ってしまったけれど、それにつっこみを入れられるはずの人間にはそんなことをする理性は残っていなかった。さらに強く抱きしめられて、全身の血液が沸騰しそうな気分になる。

「……ありがとう」

 低くかすれた声が、耳元で囁いた。

「何が!?」

 反射的に問いかけながら、この状況をどう脱すれば良いのか必死に考えを巡らせる。とにかく訳がわからない。意味もわからない。いや、酔っ払っているだけなのだろうが。

「……いろいろ」

 ろれつが回っていないのか、ジュリアンの答えはどこか舌足らずだった。

「わ、訳がわかりません! お水こぼれますから! 離してください!」

「やだ」

 子どもみたいな調子でだだをこねられる。

「やだって……」

 素面なら絶対言わないだろう台詞に、また思考が真っ白になりかけた。

「ちょっと、もう! これ絶対死ぬほど後悔するの、私じゃなくて団長ですからね!?」

 水が零れたときジュリアンにかかってしまわないようにとコップを持った右手を遠ざけ、左手を突っ張って酔っ払いの手から逃れようともがく。

「……だろうな」

 低く同意したジュリアンの腕が、少しだけ緩んだ。

「だろうなじゃなく! こ、この酔っ払い……! 起きてください!」

 どうにかその隙を突いて脱出し、水の入ったコップを押しつけた。

「ほら、飲んで」

 怒りと羞恥で真っ赤になりながら、妙に懐かしいような感覚もどこかに浮遊している。何だかずっと前にも、こんな風にたちの悪い酔っ払いを看病していたことがあったような――

 コップを押しつけられたジュリアンは、今度は素直に言うことを聞いて、水を飲んでくれた。

「立てますか?」

 飲み終わったコップを受け取りながら尋ねると、ジュリアンはやっぱり半分くらい意識を飛ばしたまま「ああ」と答える。

 ふらつきながら立ち上がるジュリアンの肩を支えて、書斎を出た。そのまま半分引き摺るようにしてジュリアンの部屋へ向かう。ランベールもこの調子ならセレスティーヌを手伝った方が良いかもしれないと思ったが、自分が今とても人に見せられないような顔をしている自覚はあったので、一瞬で諦める。たぶんまだエリックも起きているだろうから、いざとなれば何とかなるだろう。

 どうにか部屋に辿り着き、ほとんど投げ出すようにしてベッドに寝かせる。肩で息をしながら恨めしそうにジュリアンの寝顔を睨み付けるが、本人はすっかり夢の中だ。寝ているときも何となく緊張感が漂っているイメージだったけれど、今の彼は何か安心しきったように穏やかな表情をしていた。眠っているとやっぱり少し幼く見える。

「……もうやだ……」

 その場にへなへなとしゃがみ込みながら呟く。

 自分でも何がもう嫌なのかわからなかったが、泣き言を言わずにはいられない気分だった。ベッド際でしばし鬱々とした後で、フィラは自分を叱咤するように「ああもう!」と独り言を言いながら勢いよく立ち上がり、書斎にとって返す。置きっ放しだった水差しとコップをトレイに乗せ、ジュリアンの部屋のサイドテーブルまで運んでから、もう寝ている誰かのことは見ないようにして早足で自分の部屋に戻った。そしてそのままベッドに飛び込み、枕に顔を埋める。

(死ぬかと思った……!)

 絶対に顔は真っ赤だし、まだ動悸も収まらない。

(酔っ払いめ、酔っ払いめ!)

 うつぶせになって拳を握りしめながら、ひとしきり心の中で罵倒した。これで眠れなくなるの一回目じゃないんだから覚えてろよと思う。いや、少なくとも今までは向こうが弱ってたりこっちが弱ってたり、縋り付きたくなる理由があったのだ。それなのに。

(今さら酔った勢いとか……! 人の気も知らないで!)

 罪もない枕をばしばしと叩きながら、長い夜は更けていく。


 その後散歩から帰ってきたティナに不審そうな目で見られたり、理由を聞かれても説明できなかったり、結局夜明け近くまで眠れなかったり、その夜は散々だった。

 にも関わらずちゃんといつも通りの時間に起きられた自分を今日は誉めてあげても良いのではないかと、寝惚けた頭で考えながらフィラは一階に降りる。いつもと同じように朝食の準備をしていると、いつもと同じ時間にセレスティーヌも起きてきた。朝食の準備が整う頃、朝の日課である邸内の見回りをしていたエリックが戻ってきたが、いつもならこの時間には起きているはずのランベールもジュリアンも降りてこない。

「まあ、昨日の様子じゃ無理でしょうね」

 セレスティーヌが呆れたようにため息をつく。

「ランベールは良いのよ。自業自得なんだから。寝かせておくわ」

 それから少しだけ考え込んだ末に、セレスティーヌはフィラに視線を向けた。

「フィラ、悪いんだけれど、ジュリアンの様子を見てきてくれるかしら。起きられそうになかったら、部屋に持って行けるものを作るわ」

「わ、かりました」

 昨日の今日で顔を合わせることに躊躇いはあったけれど、ここで断るのも何かあったと言っているようなものだ。フィラは覚悟を決めて、新しい水差しを用意し、ジュリアンの部屋へ向かった。

 遠慮がちにドアをノックすると、部屋の中から意外としっかりした声で「どうぞ」という返事が返ってくる。静かに扉を開くと、ジュリアンはベッドの上に起き上がったまま、ぼんやりとサイドテーブルの水差しを眺めていた。

「大丈夫ですか?」

 問いかけると、途端にジュリアンの眉間に皺が寄る。

「あんまり大丈夫じゃない。どうやって部屋に戻ったんだ……?」

「えーと。一応、自力で歩いてはいましたよ。半分くらいは……」

 不機嫌そう、というよりは頭痛を堪えているような表情で、ジュリアンは視線を上げてフィラを見た。

「もしかしてお前が連れてきたのか」

「そうなります、かね」

 何となく気まずくて視線を逸らしてしまう。視界の端でジュリアンがものすごく不審そうな表情になるのが見えた。

「えっと、団長でも実家だと油断するんですね」

「そうみたいだな」

 どうにか意識をそこから逸らしたくて、引きつった笑顔を浮かべながら別の話題を振ると、ジュリアンはうんざりしたように深々とため息を吐く。

「もしかして、落ち込んでます?」

 どこか憔悴したような様子に、思わず首を傾げた。

「ものすごく。最悪だ、何も覚えてない」

 その言葉に少しだけほっとする。覚えていたら本当に死ぬほど後悔するに決まっているし、フィラだってなかったことにした方が困らないのだから、覚えていないならその方が良いに決まっていた。

「迷惑をかけたのか」

「それほどでも」

 迷わず即答したはずなのだが、一瞬抱きしめられたことを思い出してしまったかもしれない。わずかな躊躇いを感じ取ったのか、ジュリアンは気まずそうに視線を逸らし、ものすごい葛藤の表情を浮かべた末に口を開いた。

「……ごめんなさい。もうしません」

 妙にかわいげのあるその台詞と表情に、フィラは思わず吹き出してしまう。

「笑うなよ……本気で言ってるんだ」

 追い打ちをかけるように情けない台詞が飛んできて、フィラはついに身体を折って大笑いし始めた。昨夜の怒りも一気に吹き飛んでしまうくらいおかしかった。

「わ、わかってます、けど、言い方が……! もうしませんて」

 サイドテーブルに縋り付くようにして声を上げて笑い続けるフィラに、ジュリアンは長く深いため息を吐いた。

「だから酒は嫌いなんだ。もう二度とするものか」

「すみません、すみません。お、お水置いていきますから」

 どうにか笑いを堪えようとして失敗しながら、フィラは新しく持ってきた水差しと昨夜から置きっぱなしだった水差しを取り替える。

「まだ寝てて大丈夫ですよ。呼び出しも来てないですし。朝食は部屋に持ってきますね」

「ああ……ありがとう」

 笑いの滲んだ声で告げるフィラに、相変わらず視線を逸らしたまま、ジュリアンはぎこちなく頷いた。

「じゃあ、失礼します」

 最後まで笑いを堪えながら、フィラは退出する。しばらくは顔を見るたびに吹き出しそうだとか失礼なことを考えながら。

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