第五話 闇の竜と魔女

File-1 引き金

 翌日は何事もなく過ぎ去った。早起きしたフィラが作った朝食を皆で囲み、時折雑談しながら昼を待ち、昼食を食べ、そしてまた思い思いに時を過ごす。ただ待ち続けるだけの時間は苦痛だったけれど、聖騎士たちの様子がいつも通りだったので、フィラもどうにか平静を保っていられた。

 雰囲気が変わったのは夕食の頃からだった。リサとランティスの口数が減り、カイの表情がいつもより険しくなる。魔女の襲撃が近いことを、否が応でも実感させられる。

 夕食の後、フィラは膝に乗ってきたティナを撫でながら、今日も魔法をかけてもらわないと眠れないかもしれないと考えていた。そんなのんきなことを考えていられるのは、隣に座っているジュリアンがいつも通りだからだ。聖騎士たちの雰囲気が変わった後も、ジュリアンだけはいつもと変わらなかった。けれどいつも通りでいることも、リーダーとして彼が自分自身に課した役割なのかもしれないと思ってしまう。

 冷静なその横顔をぼんやりと見上げていたら、不意にジュリアンがこちらを見て思い切り目が合った。

「何だ?」

 ものすごく簡潔に尋ねられたが、特に意味もなく見ていただけなので答えようがない。

「えと、いえ……何でもない、です」

 目を逸らしながらごまかし笑いを浮かべる。視界の端でジュリアンが訝しげな表情を浮かべたのが見えた。

「何かあるなら早めに……」

 不自然に途切れた声に顔を上げると、ジュリアンは険しい表情で立ち上がっていた。何かが起こったのだと理解する前に、フィラも腕を引かれて立ち上がる。ティナが膝の上から肩に飛び乗った。状況を理解しようと周囲を見回せば、リサとカイとランティスもフィラを守るように身構えている。

「おいでなすった。くそ、早ぇな」

「ま、それでもこっちの準備は出来てるけどね」

 ランティスの舌打ちと、リサの不敵な笑み。カイは何か魔術を使おうとしているのか、黙って集中しているように見えた。

 騎士たちの視線を追って少し離れた広間の壁際を見ると、予想していたとおり、薄闇の中でも浮き上がるような漆黒が集っている。

 カルマが来たのだ。いざとなると、麻痺してしまったように危機感も恐怖も湧いてこない。ジュリアンに腕を取られたまま呆然と見ている前で、黒い霧は人の形を取り、ぼやけた輪郭の中に白い女の顔が浮かび上がる。

「愛する者。フィラ・ラピズラリ」

 吹き抜ける風のような声が、愛おしむようにフィラの名を呼んだ。

「目覚めなさい。そして私の元へおいでなさい。私たちにはお前の中にある力が必要なのです」

 慈愛と憎悪の混ざり合う底知れない闇のような瞳を向けられて、フィラは思わず身を竦ませる。強張った身体がふらりと魔女に吸い込まれるように動いて、フィラは今度こそ恐怖に震えた。

「何、で……?」

 嫌だ。そっちに行きたくない。そう思うのに勝手に身体が動こうとする。魔女の方へと数歩踏み出したフィラの腕を、ジュリアンが強く引いた。右手に無機質な白い剣――レーファレスを出現させながら、ジュリアンはほとんど拘束するようにフィラの肩を抱く。同時に勝手に身体を動かしていた感覚が消えて、全身の力が抜けそうになった。震える両足を叱咤して、フィラはどうにかジュリアンに支えられながら自力で立つ。

「お前にフィラは渡さない」

 カルマは低く告げられたジュリアンの言葉を聞いて、嘲るような笑みを浮かべた。

「人の情を理解しないものは、自覚なく残酷なことをするもの……いったい何のためにその娘を守るのですか?」

 静かに身構えたジュリアンは、何も答えようとはしない。

「青空を取り戻したいのならもっと簡単な方法があります。人類を滅ぼしてしまえば良いのです。そうすれば私たちは怒りから解放され、この星に青空を返すでしょう」

「下らない」

 呟く声に何か苦いものが混じったような気がして、フィラは思わずジュリアンを見上げた。その横顔は戦闘への緊張感に満ちて恐ろしいほど無表情だったけれど、なぜかその冷静さに胸が痛む。

「疎まれ、蔑まれ、排斥されながら、それでも人類を救おうというのですか?」

 慈しむように、いたぶるように、魔女は優しく微笑した。全身が身体の奥から冷やされたような感覚がして、フィラは思わず縋るようにジュリアンの団服を握ってしまう。

「愚かで愛しい私の子。そんなことをしても、お前は何者にもなれはしない」

 その場の空気が強張るのを感じた。三人の騎士が放つ殺気が膨れあがり、フィラの肩を抱くジュリアンの手に微かに力が籠もる。

「それでも私と戦うというのなら、相手になりましょう。宿命さだめの子よ」

 魔女は恍惚とした笑みを浮かべながら、ゆっくりと右手を持ち上げた。

「フィラ、下がっていろ」

 肩を押され、よろめくようにして後ろに下がる。

「そこから動くなよ」

 肩越しの言葉に頷きながら、その場にへたり込んだ。動きたくても動けそうになかった。体中の力が抜けてしまって、立ち上がれる気すらしない。

「大丈夫?」

 肩の上から問いかけるティナに答えることも出来ず、ただ座り込んで自分の肩を抱いた。自分の周囲に魔法陣が浮かび上がり、それを覆うように半球状の透明な魔力壁が現れたことも意識の端でしか知覚出来ない。

「この結界の中ならとりあえず安全だよ。あいつの魔術ってのは気に入らないけど、腕と魔力だけは確かだ」

 動揺するフィラを落ち着かせようと、ティナが必死で訴えかけてくる。フィラもどうにか落ち着こうと、深呼吸を繰り返した。戦闘が終わるまでは動いてはいけないけれど、それでも動けなくて良いわけではない。作戦では水の神器を奪還したら移動することになっていた。このままでは足手まといになってしまう。ただでさえ、守られていることしか出来ないのに。

(落ち着け、落ち着け……)

 何でも良いからよりどころが欲しくて、思い出したのはさっき肩を抱いて引き留めてくれたジュリアンの手の感触だった。大丈夫だと言われているみたいだった。魔女は「人の情を理解しない」とたぶんジュリアンのことを嘲ったけれど、そんなはずはない。自覚なく残酷なんて、絶対に違う。もう今はフィラにもわかっている。ジュリアンは優しい。危なっかしくさえ感じてしまうくらい。その優しさにフィラはずっと守られてきたし、結局、バルトロの記憶を奪ったことだって、竜化症の治療のためにユリンにとどまらなければならない彼を守るためだった。そして喪失感に苛まれていたバルトロに、ジュリアンは言ったのだ。『大丈夫、必ず取り戻せる』と。

(取り戻せる……?)

 バルトロの夢。空を飛ぶこと。ユリンのにせものの青空では叶わない願い。

 だとしたら、さっきの魔女の言葉は――

「フィラ……まずい」

 いつの間にか恐怖を忘れて思考の海に沈んでいたフィラの意識を、ティナの焦った声が引っ張り上げる。

「え……?」

 慌てて周囲を見回した。フィラを守る結界の外では、黒い霧の塊と炎と雷が間断なく飛び交っている。視界を遮る霧と幻惑するような光の中で、聖騎士たちの姿はほとんど見分けられないけれど、時折見える影から全員無事だということは見て取れる。いったい何がまずいのだろう。

「天魔が一体入ってきてる。カイの結界が間に合わなかったんだ」

 ティナの視線を追って上を見上げると、霧の隙間から小型のコウモリのようなものが広間の高い天井近くを飛んでいるのが見えた。そこよりも少し低い位置に浮かんだ魔力光に照らされて、不気味な影が天井に映り込んでいる。

「この結界は」

 と、ティナはフィラを守っている魔法陣を前足で示した。

「攻撃魔術と一定以上の魔力値を持った存在が抜けられないようになってるけど、あいつはたぶんこの結界を越えられる。すごく弱いから、逆にね」

 飛び交う魔術を避けるように、コウモリ型の天魔はふらふらとした軌道を描きながらこちらへ近付いてくる。

「こっちに、来る……?」

「たぶん来るよ。あいつが対抗出来るのは僕らだけだから。でも、その方が良い」

 緊張した声で言いながら、ティナはフィラの肩から飛び降りた。

「来たら僕が押さえつけるから、フィラはその銃で僕が光らせたところを撃って。僕には当たっても影響ないから、ためらわないでよ」

 言われるままにホルスターから拳銃を引き抜きながら、フィラはまた名状しがたい恐怖と緊張を感じる。手が、震えそうになる。

「良い? ためらっちゃ駄目だ。戦力は拮抗してる。あいつのちょっとした邪魔が聖騎士たちにとって致命傷になる可能性だってある」

 ティナがやたらと冷静に状況を分析しているのは、こういう状況に慣れているということなのだろうか。思い出せないからはっきりとは言えないけれど、フィラと一緒にいた頃はそんな状況はほとんどなかったんじゃないかと思うのに。

「……わかった」

 掠れる声を絞り出して、フィラは両手で銃を構えた。ふらつきながら近付いてくる天魔を、ティナがそれこそ獲物を狙う猫のように姿勢を低くして睨み付ける。近付いてくるにつれて、その姿がはっきり見えてくる。竜素と化した頭部はほとんど鋭い牙の生えた口で占められていて、瞳に当たる部分には薄黄色に光る真円が貼り付いていた。無機的なその瞳は、天魔が確かに普通の生き物ではないことを何よりも雄弁に物語っている。

 魔力壁を越えて、天魔が結界の中へ入ってきた。ティナが跳躍してその翼に爪を立てる。

「ギイィィイィ!」

 苦悶の叫びを上げて身を捩る天魔に取りすがりながら、ティナは飛膜に滅茶苦茶に噛みつき、ひっかいて破っていく。

「ティナ……!」

 天魔の牙がティナの前足に噛みついたように見えて、フィラは悲鳴を上げた。けれどティナはまったく怯むことなく、さらに激しく天魔の翼を攻撃する。飛膜を破られた天魔は、きりもみしながら地面に落ちた。くるりと身をひねって音もなく着地したティナは、すかさず飛びかかって天魔を床に押さえつけた。

「ギィィ! ギィ!」

「今だ! 早く!」

 天魔の頭部がぼんやりと輝く。ティナがここを撃てと示しているのだ。フィラは表情を引き締めて狙いを付ける。

(大丈夫)

 ちゃんと落ち着いている。今まで練習してきたことを繰り返すだけ。練習すればちゃんと本番でも上手くいく。ピアノと同じだ。

 そう言い聞かせる。

 無心になる。狙いをつけて、引き金を引く。ただそのことだけを考える。レイヴン・クロウに教わったとおり、ダブルアクションの少し重い引き金を引き絞る。

 撃つ。

 乾いた破裂音と共に、天魔の頭部が砕けた。ティナは素早く飛び退り、さっき噛みつかれた前足をぺろりと舐めた。天魔の身体が溶けて黒い竜素の水たまりに変わっていくのを、フィラは呆然と見つめる。殺した、ことになるのだろうか。まるで実感が湧かないのが、逆に恐ろしい。

「一発で仕留めるなんて、腕上がってるね。魔術の補正も入ったみたいだけど」

 ティナがふわりと肩の上に飛び乗りながら言う。

「ま、魔術……?」

「その銃に仕込まれてるやつ。使い手に魔力がないから電池代わりに魔竜石もついてて、引き金引いたら自動発動するようになってるんだ。忘れてるだろうけど、それ、結構高いよ。あの病室にいた奴が強化してるからもっと価値上がってるだろうね」

 ティナは説明を終えると、油断なく周囲を見回した。

「まだいるかもしれない。銃は構えておいて」

「うん」

 緊張しながら頷く。結界の外では、まだ戦闘が続いている。

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