File-5 いつか帰る場所

 連れて行かれた先は城の中庭だった。そこで待っていたエルマーとエディスに、ジュリアンはまず事情を説明し始めた。少し離れたところでは、ソニアとレックスもそれを聞いている。

 今回全住民を避難させる原因となった荒神がフィラの転移の力を狙っていること。そのため、聖騎士団がフィラを保護することになったこと。今回の騒動が収束した後は、安全のため中央省庁区に移動してもらう可能性が高いということ。

「彼女のことは私が責任を持って守ります。私のような若輩者に任せることに不安はあると思いますが、信じて任せていただけますか?」

「私たちの大切な娘です。本当なら手元で守ってやりたいが、それは叶わないのでしょう。どうか、どうか必ずお守りください」

「一緒に過ごしたのが短い間だったとしても、あたしたちは家族なんです。領主様、フィラをよろしくお願いします。そして、叶うことなら、どうかもう一度……」

 深く頭を下げるジュリアンに、エルマーとエディスがさらに深々と頭を下げている。避難の規模から考えて、自分たちの手に負える話ではないとわかっているからか、二人は躊躇いながらもジュリアンに任せることを決めたようだった。

「彼女がここへ戻ってこられるよう、最大限努力したいと思っています」

「そう言っていただけるだけで……」

 エディスの声が涙に震えたのに気付いて、フィラも泣き出したくなった。

(……駄目だ)

 ちゃんと笑って、お別れを言わなくては。こんなことがなくても、いつか来るかもしれないと、ずっと思っていた瞬間だ。ダストにここがどんな施設なのか聞く前から、いつまでもユリンにいられるとは思っていなかった。ついにその時が来ただけだ。だから、笑わなければ。その時が来たら心配をかけないようにしようと決めていたのだから。

 ジュリアンに背中を押されて、エルマーとエディスの前に出る。言おうと思っていた言葉が喉に詰まる。

(……どうしよう)

 声が出ない。決意とは裏腹に、表情も固まったままだ。

「……ちゃんとピアノと料理は練習しておけ」

 沈黙を破ったのは、普段は無口なエルマーだった。

「せっかく上手いんだからな」

「健康には気をつけるんだよ。ちゃんと栄養のあるものを食べて、きちんと睡眠を取っていれば、たいがいのつらいことは乗り越えられるんだから」

 エディスもフィラの両肩に手を置いて、いつものはきはきとした調子で語りかけてくれる。

「良いかい、フィラ。踊る小豚亭はいつだってあんたの帰る場所だ。それを忘れるんじゃないよ」

 ――帰る場所。

 その言葉が、不安と寂しさでいっぱいになっていた心に暖かく沁み通る。堪えていた涙があふれそうになる。本当はここはフィラの帰る場所ではない。そうわかっていても、帰る場所だと思っていて良いのだと言ってもらえることが嬉しかった。

「……はい。エルマーさん、エディスさん。今まで本当に、お世話になりました。何もお礼できないままで、本当に……」

 声が震えて続かない。

「何水くさいこと言ってるんだい? 言っただろう? あんたの帰ってくる場所はここだって。あたしたちは家族なんだ。礼なんて言う必要ないんだよ」

 わざと明るい調子で言おうとしたエディスの声も震えていた。

 本当に幸運だったのだと思う。何もかもを失って、そうやってここに来たフィラを受け入れてもらえたことは。短い間だったけれど、エルマーとエディスが与えてくれたものは、確かに家族のぬくもりだった。

「ああ、ほら、ソニアとレックスにも挨拶してきな。まだ少し時間はあるから」

 今度はエディスに背中を押されて、ソニアとレックスの方へと、フィラは駆けだした。

「フィラ!」

 駆け寄ってきたソニアがフィラを抱きしめて泣きそうな声で名前を呼ぶ。

「ねえ、大丈夫なの? なんかわけわかんないものに狙われてるって。私、心配で」

 フィラを抱きしめたまま、ソニアは早口で言った。

「うん、今のところは無事だよ。団……領主様に守ってもらったから」

 そう、守ってもらった。結局、魔女が狙っていたのはフィラだ。地下空洞でのやりとりで、それははっきりしていた。

「ていうかさ、こんな、みんなで避難しないといけないような何に狙われてるの!?」

「……わからない」

 魔女、と呼んでいるけれど、その正体も目的もフィラはわかっていない。もう今では聞けば教えてもらえそうな気もするが、鎮火と避難誘導に追われる聖騎士たちを前に質問するタイミングを逃したままだった。

「フィラが大変なときに、私たちだけ眠ったまんま守られてるなんて冗談じゃないけど……でも、一緒にいても足手まといになるだけなのよね」

「私だって、ソニアたちを巻き込みたくないよ」

 そのために出来ることが、黙って指示に従っていることだけなんて、本当に嫌になってしまうけれど。

「これで、お別れなの? もう会えなくなっちゃうの?」

「……それも、わからない。私はまた、会いたいけど」

 ユリンの町の性質を考えれば、それが難しいだろうということは予想できる。可能性があるとすればさっきジュリアンがエルマーとエディスに言っていた言葉だけだが、それだってきっと気休めだ。

「フィラ。ちょっと、良いかな」

 ソニアの一歩後ろでずっと黙っていたレックスが、いつになく真摯な調子で声をかけてきた。

「二人だけで話したいことがあるんだ」

「うん。でも……領主様の目の届くところにいないと」

 ジュリアンはフィラの護衛なのだから、目を離すわけにはいかないはずだ。

「わかってる」

 レックスはそう言いながらも、フィラを回廊まで引っ張っていく。それを追うように、ジュリアンが様子が見えるところまで移動するのが見えた。声が聞こえないくらいの位置で立ち止まって手近な木にもたれかかったジュリアンに向かって一礼してから、レックスはフィラに向き直る。

「あのさ、もう、戻ってこない、んだよね」

「……わからない。……領主様は戻せるなら戻したいって言ってくれてるけど、きっと……簡単なことじゃないと思う」

「あーあ。もっと早く言っておけば良かったな」

 レックスは天を仰いでため息をついた。

「いつでも言えるなんて、思ってちゃ駄目だったんだ」

 目を閉じたレックスは、何か決意したように拳を握りしめ、目を開いてフィラに向き直る。

「僕は……フィラに行って欲しくないよ」

 言いながら伸ばされた手が、フィラの肩を引き寄せる。あ、と思ったときには、フィラはレックスの腕の中にいた。

「好きだ」

 低い声が耳元で囁く。いつも飄々としているレックスが、急に知らない人になったみたいだった。

「君のことが、好きなんだ」

 とっさに、何も反応できなかった。ただ、抱きしめられた瞬間に強張ってしまった身体が、違う、と、訴えていた。彼は違う。応えることは出来ない、と。


 猟師の少年に、フィラが抱きしめられるのが見えた。心がざわつく。喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。自分だって同じことをしたくせに――いや、それだからこそ、不愉快になる。

 二人並んで立っている様子が妙にしっくりと馴染んで見えるけれど、それを不愉快に思うなんてどうかしている。どう考えても彼の方が正しい。間違っているのはジュリアンの方だ。あんな風に彼女を抱き寄せる資格は、自分にはなかったはずだ。

 見ていられなくなって視線を外そうとしたとき、フィラがゆっくりと少年を押し戻すのが見えた。交わす言葉は聞こえないけれど、フィラが何か言った後、少年の表情が切なく歪んだのは不思議とはっきり見分けられる。それだけで、わかってしまった。彼がフィラに向けた想いの意味も、それにフィラが何と答えたのかも。

 今、この状況でフィラが彼の想いに応えられるはずはない。でも、もしこんな時でなかったなら、彼女の出した決断は違っていただろうか。

 無意味だとわかっていても考えずにはいられなかった。

 もしもジュリアンがここに領主として赴任せず、魔女を招き寄せることもなかったら。平和なままのこの町で、誰にも知られることなく、彼女は日常を送り続けることが出来たのかもしれない。その日常の中には、もちろん彼もいただろう。もしも今がそんな、平和な状況だったとしたら。

 彼女は、応えられたのではないだろうか。彼の、想いに。

 ぼんやりと考えている内に、フィラはエディスとエルマーの所に戻って、最後の抱擁を交わしていた。それからフィラは二人に向かって深々と頭を下げ、こちらへ歩いてくる。その一歩一歩が、彼女を築き上げてきた日常から引き離していく。俯いたまま泣きもしないフィラに、罪悪感が募った。


「振られちゃった」

 ジュリアンの方へと歩いて行くフィラの背中を見送りながら、レックスがぽつりと呟いた。レックスが告白したことに気付いていたソニアは、何とも言えない気持ちで頷く。

「でも、離れてもずっと友だちだって言ったら喜んでくれてたから良かった、のかな」

 いつも穏やかな笑みを浮かべている印象だった『領主様』は今日はずっと痛ましそうに沈んだ表情をしていた。フィラと並んで城へ戻っていく背中を見つめながら、ソニアは自分も同じような表情をしているんだろうと思った。つい数日前まで普通の友だちとして過ごしていた少女がこんなわけのわからない事件に巻き込まれているなんて、ソニアには今のフィラのつらさを推し量ることも出来ない。

「フィラはやっぱり領主様のことが好きなんだろうな。何か、領主様に取られちゃった感じだね」

 レックスが唐突にそんなことを言う。どうやら彼の方は並んで遠ざかる背中に違う感慨を抱いていたようだ。

「領主様に……ってそれ、どう考えてもフィラの片思いじゃない」

「そうでもないかも」

「なんで?」

 振られたばかりなのに、もうすっかり普段の飄々とした調子を取り戻しているレックスに首を傾げる。

「なんか僕、睨まれた気がするんだよね」

「領主様に?」

「領主様に」

「……嘘でしょ?」

 呆然とレックスの横顔を見上げた。

「いや、本当。意外と大人げないのかもなあ、あの人」

 何故か不思議とほっとしたような表情で、レックスは言う。

「えー、ないわよ。大人げないじゃなくて、あり得ない。それはない」

「そうかなあ……?」

 首を傾げながらも、レックスは自分の見立てに自信を持っている様子だった。


 団長執務室に着くまで、二人とも一言も口を開かなかった。

 部屋に入ったところで所在なさげに立ち止まってしまったフィラを振り返る。

「……良かったのか。あの、猟師の」

 気がつけばそんなことを呟いていた。馬鹿なことを聞いている。

「はい」

 フィラは少しだけ苦しそうに微笑んで頷いた。それ以外に答えようがないことくらいわかっていたのに、なぜ尋ねてしまったのだろう。

「レックスは、友だち、だから。これからも……ずっと」

 とうに潤んでいた瞳がさらに揺れて、フィラは顔を隠すように俯いた。

「……すいません。ちょっと、泣いてしまいそう、です」

「泣けば良い」

 低く答える。むしろ泣かない方がおかしいはずだ。それなのに彼女は泣かなかった。たったひとり、今まで共に過ごしてきたすべての人から切り離されることになったと聞かされた後も、彼らと最後の別れを交わしたその時も。笑おうとして失敗しているくせに、泣くことだけはしようとしない。

「……泣いて、当然だ」

 むしろ、泣きながら責め立てられても仕方ないと思っていた。なのにフィラは、何か手伝いたがったり、人の心配をしたり、そんなことばかりだ。

 俯いたままのフィラの頬を、涙がゆっくりと伝い落ちた。すぐに両手で顔を覆ってしまったフィラは、声もなくただ涙を流す。

 迷った。ついさっき、間違っていると思ったばかりなのに。意味が違うなんて、言い訳にもなりはしない。それでもジュリアンは、気付けば手を伸ばしていた。軽く肩を抱き寄せるだけで、フィラは縋り付くようにジュリアンの胸に身体を預けてくる。細い肩の震えを、その身体のやわらかさとあたたかさを、全身で感じた。

「無理をさせているな」

 理不尽な覚悟ばかり決めさせている自覚はあった。ほんの数日で彼女の世界は壊れてしまったのに、それに代わるものは何もない。

「そんなこと……ありません。私、守ってもらってばっかりです。たぶん、これは、自分で望んで招いたことなのに……何も、思い出せなくて」

 嗚咽混じりの言葉に、何も返してやることが出来なかった。望んだのが誰なのか、結局ジュリアンにもわかってはいないのだ。

「わかってるんです。ユリンは私の居場所じゃないって。でも、ユリンの外にも帰る場所がないっていうのも、本当なんですよね」

「ああ……お前の保護者は、お前が姿を消す一ヶ月前に死亡している。その後の引き取り手は決まっていなかった」

 冷酷な言葉しか、自分は紡げない。それなのに彼女に触れる資格など、自分にはないのだろう。わかっていても突き放せない。腕の中のぬくもりを、手放すことが出来ない。

「……本当、笑っちゃうくらい、どこにも……行き場がないんですね。私……」

 力なく呟くフィラが痛々しくて、行き場はあるのだと言いたくなった。

 分の悪い賭けではないが、わざわざ賭けをする理由もない。確証のないことを言ってもし間違っていたら、自分にとっても彼女にとっても致命的だ。

 それでも、衝動に抗えなかった。

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