File-7 初仕事

 フィラが首に巻いたストールに顔を埋め、リンゴを思わせる甘い香りを吸い込む。彼女の背中に腕を回してしまえば、身長差があるせいで抱きしめられているというよりは抱きしめているような状態になったが、それでも何かに包まれているようで、ふっと呼吸が楽になった。

 本当に慰めているつもりなのか、優しく背中を撫でられる。礼拝堂で抱き寄せてしまったときも後で深く反省したはずなのに、同じことを繰り返している自分が愚かしくて嫌になった。二度目では、さすがにもうなかったことにも出来ない。

「あの……もう、大丈夫、ですか?」

 耐えきれなくなったのか、控えめに問いかけてくるフィラに答える代わりに、抱きしめる腕に力を込める。

 先代団長がこの世を去ったのなどもう四年も前の話だ。それなのに、うんざりするほど弱っていた。もう前を歩く背中はない。あの、何もかもが自分と真逆の男を、理解する術ももう、ない。目指すべき道も守るべきものも、自分で決めなくてはならない。

 そんなことはとっくにわかっていたはずなのに、今は誰かに甘えたかった。泣くことさえできなくても、大切な存在を失った空虚を、痛みを、誰かに受け止めてもらえるなら。

 その相手がなぜフィラなのか、答えは見つからない。いつかきっと、自分は彼女を騙して利用して、そしてその罪を償うこともなく彼女の前から消えるのに。

 苦い罪悪感が胸の内に広がる。

 ふと、フィラが体を強張らせた。力を込めすぎていたことに気付いてはっと腕の力を緩める。ゆっくりと体を離すと、フィラはほっとしたように息を吐いた。

「……すまない」

「いえ……」

 以前と同じことを繰り返している自分に苛立ちながら、フィラから視線を逸らす。俯いたフィラの表情は憂いをたたえて儚げで、この状況で直視したら離れがたくなりそうだった。

「戻るか。さすがに寝ないと明日に響くだろう」

「そう、ですね」

 互いに視線を合わさないまま、塔を後にする。数歩後ろをついてくるフィラの気配を感じながら、先ほどの道を逆に辿った。

 執務室の前に着いたところで立ち止まる。フィラは無言で団服を脱ぎ、怖々とした仕草で差し出してきた。

「あの……ありがとうございました」

「いや」

 受け取りながら、俯いたままのフィラを見下ろす。コートを脱ぐときに外したストールを両手で握りしめたまま、フィラは頑なに視線を合わせようとしない。

「それじゃ、おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいね」

 いたわるような声は、心地の良い柔らかさで耳に流れ込んできた。

「ああ……おやすみ」

 声を抑えて応えると、フィラは小さく頷き、踵を返す。その背中を見送ってから、ジュリアンは執務室の扉を開いた。


「考え、まとまった?」

 戻ってくるなりそのままベッドに直行したフィラに、ティナが窓際から問いかける。

「……ううん。全然」

 まったく考えをまとめるどころではなかった。何もまとまっていないどころか、余計とっちらかっている。潜り込んだベッドの中で、腕に抱えたままだったストールに顔を埋める。考えなくてはならないことはたくさんあるはずなのに、どこから手をつけて良いかさえわからなかった。

「もう寝ちゃいなよ。これだけ考えてだめだったならさ、きっと材料が足りないんだ」

「うん」

 体を丸めながら、どうにかそれだけ答える。本当は、最初から何も考えられなかった。考えていたことまでぜんぶ押し流されて、真っ白になってしまった。今夜はもう、これ以上考えることもできないだろう。本当に諦めて寝てしまうほかはない。

 ――眠れる気は、まったくしないけれど。

 顔を埋めたストールには、ほんの少しだけ、注意していなければ気付かないほど微かな苦い香りが残っていた。最後までフィラの方には流れてこなかった煙草の煙の、初めて嗅ぐ匂い。明日には完全に消えてしまいそうなその儚さが、ひどく切なく感じられる。

 無理矢理目を閉じて眠りに就こうとしても、抱きしめられた腕の感触だけが鮮やかに思い出されて鼓動が早くなるばかりだ。長い夜になるんだろうなと半ば諦めながら、それでもフィラは瞳を閉じたまま体を丸めた。


「なあジュリアン、この世界は美しくないし、優しくない。むしろ残酷ですらある」

 血と泥と天魔の屍体と硝煙と混乱した魔力に満ちた荒野で、その男は言った。地平線の果てまで灰色の雲が重くのしかかる空の下で、白い団服を天魔の返り血でどす黒く染め上げながら、それでも男は人を食ったような笑みを浮かべたままだった。

「でもな、お前には、お前にだけはこの世界を好きになってもらいてえんだ」

 白いものが混じり始めた顎髭を撫でつけながら、男は地平線の彼方を見つめた。そこに青空が広がっているかのように、眩しそうに目を細めて。

「今は確かに美しくない。だけどよ、本当はこの世界はめちゃくちゃ綺麗なんだ。愛してやってくれよ。お前だけがこの世界を元の姿に戻してやれるんだ。それってすげえことじゃねえか。まあまたすぐに汚れちまうかもしれねえし、綺麗になったらなったでますますお高くとまって優しくなくなっちまうかもしれないけどよ。それでも……可愛い奴なんだぜ、この世界ってやつは」

 貴方がそう思えるのは、貴方の愛する人間がこの世界にいるからだ。

 そう思ったけれど何も言わなかった。言うべき言葉ではないと知っていた。だからジュリアンは答えた。

「そうですね。俺にもいつか、わかる日が来るかもしれない」

「来るさ」

 その男は笑って、ジュリアンの肩を親友みたいに抱いた。

「俺が保証してやる」

 それが、あの男との最後の会話だった。


 夜明けの光と共に、フィラは活動を開始した。結局一睡も出来なかったけれど、体は不思議と重くない。

「早起きだね」

 昨晩見たときと同じように窓際で丸くなっていたティナがつられたように伸びをする。

「今日は六時から仕事なんだ」

 フィアが持ってきてくれたワンピースに着替えて窓を開け放つと、よく晴れた夜明けの空が見えた。まだ朝焼けの色が残る青空を見上げる。

 たとえこの空が偽物だったとしても、朝の光を浴びて目を覚ます幸福は変わらない。

 目を閉じて大きく息を吸い込む。とりあえず昨夜のことは頭の片隅に追いやって、新鮮な空気を味わった。それからぱちりと目を開き、両手で頬を軽く叩いて気合いを入れる。

「よしっ! 初仕事、がんばるぞー!」

 おー、というかけ声に、ティナもやる気なく「にゃー」と声を上げた。


 早めに食堂へ着いたフィラは、勝手口で待っていた僧兵の少女に身体検査を受け、厨房へ入った。

 先に来ていたジェフの指示を受けながら、パンを焼いたり米を炊いたり野菜を切ったり数種類のスープを温めたりドレッシングや飲み物をつぎ足したりしている内に、三々五々僧兵たちが食堂に集まってくる。朝食のメニューは全てバイキング形式になっていたので、手順を覚えてしまえばそれほど難しいことはなさそうだ。メニューの種類は豊富だけれど、ほとんどが半調理品だったし、オーブンも温度管理は機械がやってくれるから火加減は見なくて良いと言われた。とにかく最小限の人数でどんな料理でも作れるようになっているようだ。家庭料理が中心の踊る小豚亭とは、厨房の使い勝手が全然違う。

 料理を一通り出してしまうと、後は戻ってきた皿を洗ったり足りなくなった料理を足したりという細々した仕事に追われた。

「フィラちゃ~ん」

 洗い終わった皿をまとめて乾燥機に放り込んだところで、カウンターの近くにいたジェフが呼びかけてくる。

「はい?」

 濡れた手を拭きながら顔を出すと、カウンターの向こうにはランティスが立っていた。

「よ、嬢ちゃん、仕事の調子はどうだ?」

 ランティスはカウンターに寄りかかったまま、軽く片手を上げる。

「初めてなので……ちょっとご迷惑をおかけしてしまったかもしれませんが、だいぶ覚えられたと思います」

「謙遜しなくて良いわよ~」

 ジェフが何やらくねくねと動きながら横から割って入った。

「今まで来た助手の中で一番優秀ね。手際が良くて助かっちゃったわ」

「そうか、そりゃ良かった。僧兵団の連中も安心するだろうよ」

 ほっとしたように頷くランティスの横で、ジェフがきょろきょろと辺りを見回す。

「ねえ、ところで、アタシの目の保養は?」

「あ? ああ、ジュリアンか。今日は来ねえよ」

「ええっ、何で!? 朝食抜く気なの!?」

「団長、体調悪いんですか?」

 昨夜の顔色の悪さから考えると、忙しさよりもそちらの方が気にかかる。不安げに見上げると、ランティスは苦笑して首を横に振った。

「いやあ、本人は平然としてたんだが、なぜか今朝の朝礼が終わった後でお前さんの妹がさ。今日は重要な仕事がないなら一日休めって厳命してたんだよ。だから今日は引きこもるってさ。つーわけでおやっさん、食事、後で運んでやってくれ。あいつあのままじゃ栄養ブロックだけで一日終わる」

 以前にも思ったが、ジュリアンの食生活はいったいどうなっているのだろう。ジェフも同じことを考えているのか、大げさにため息をついた。

「まったく、仕方ない子ねえ。わかったわ。フィラちゃん、終わったら食事持っていってあげて。ついでにフィアちゃんに薬の処方があるかも確認しておいた方が良いかしら?」

「だな。そっちも頼むわ」

 ジェフとランティスに視線を向けられて、フィラは一瞬たじろいだ。

「あ……はい。わかりました」

 それでも何とか答えを絞り出す。

 昨日の今日でめちゃくちゃ顔を合わせづらいのだが、断る理由はない。

(夢だったと思うことにしよう)

 なかったことには出来なくとも、せめてそのふりくらいはしなくてはならないだろう。

「ああそうだ。せっかくだから、あなた作ってくれない? 料理の腕も見ておきたいし」

「え?」

 あっさりとした提案に、フィラは思わず固まった。

「でも、団長って一番偉い人ですよね? その人の朝食をテストに使っちゃって良いんですか?」

「あんまり不味そうだったらアタシが作り直すけど、そうじゃなかったらやっぱり可愛い女の子の手料理の方が元気出そうじゃない」

 にこやかに主張するジェフに、ランティスもうんうんと頷いている。どうやら逃げ場はなさそうだ。

「さっきの手順見てたら心配ないと思ったのよ~。アタシだって腕の良い料理人じゃないもの。栄養素に関する知識と多種類の料理を知っていること、っていうのが雇用条件だったから。味なんて全然見てもらってないのよね」

「そうそう、このおっさん本職は軍人だったから。引退して管理栄養士の資格取ったけど、料理人ってほどの腕前じゃねえよなあ」

「ちょっと、おっさんはやめてよね」

 気にするのそっちなんだ、と少し引きつりながら、フィラは頭の中で何を作ろうか考え始めた。


「ねえ、あなたもグルなの?」

「は……?」

 フィラが朝食を作りに厨房の奥に引っ込んだところで、ジェフは声を潜めてランティスに問いかけた。

「フィアちゃんに昨日頼まれたのよ。出来るだけ団長とフィラちゃんの接点を増やして欲しいって」

 ランティスは眉根を寄せて考え込む。フィア・ルカがそんなことを言い出す理由に心当たりなどないが、フィアの来歴を考えると嫌な予想が立ってしまう。

「理由は聞いてるか」

「団長がフィアちゃんの治療を受け入れてくれないから、代わりにフィラちゃんにお願いしたいんだそうよ。だから二人の間に信頼関係が出来てくれると良いんですって」

 理由としてはもっともだ。だが、納得できない理由がランティスにはある。

「……わかった」

 フィラは恐らく、何も知らないはずだ。ジュリアンの考えていることはわからないが、一応耳に入れておく必要はあるだろう。

「とりあえず、従っておいてくれて良い。もし他にもフィアが何か言ってくるようなら、また俺に教えてくれ」

「了解。何だか難しい顔してるけど、せんせは患者のことを真剣に考えてるだけだと思うわよ」

「わかってる」

 だが、フィア・ルカはフランシス・フォルシウスの協力者である可能性が高い。わかっていてあえて聖騎士団に入団させて泳がせているとは言え、彼らの目的はまだはっきりしていない。フィアがジュリアンとフィラを近付けようとしている理由も、聖騎士団の害となるのか益となるのか、まだ判断するには材料が足りない。

「あっちでもこっちでも面倒なことに巻き込まれてるな、嬢ちゃんは」

 ランティスは嘆息して天井を仰いだ。ジュリアンは断言していないが、フィラの持つ力が何なのか、彼は今ではもうほぼ確信しているだろう。いつ動き出すのか、もはや時間の問題だ。

「大丈夫だろうな……?」

 一抹の不安が過ぎるのは、フィラに対するジュリアンの感情が読めないせいだ。

 ――それでも彼女は、俺を許すのかもしれない――

 奥のコンロでくるくると働き回るフィラの背中を見つめながら、昨日のジュリアンの言葉を思い出す。

(許されたいとか、絶対思ってねえだろ)

 そのとき、ジュリアンは非情になりきれるのか。答えはきっとイエスだ。誰を傷つけたとしても、ジュリアンはきっとその信念を守り抜く。フィラが何をどう思おうとも、関係はない、はずだ。

 それでも、ランティスは祈らずにいられなかった。

(あいつは許されたいなんて思っちゃいない)

 許された自分を、ジュリアン自身は許せないだろう。

(――だとしても)

 例えジュリアンがフィラを裏切ったとしても、フィラにはジュリアンを裏切らないでいて欲しい。

 それはただ巻き込まれただけの少女に願うには、余りにも身勝手な願いだった。

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