File-3 沈める寺

 わざと早めに指示を出したのに、ジュリアンは違和感一つ感じていない様子で、てきぱきと作業を終えていた。魔力を流すのはそんなに難しい作業ではないのだろうか。それとも単にジュリアンの手際が良いだけか。

 ――たぶん後者だろうな。

 二人が立ち上がって離れるタイミングを見計らったように、重くきしみながら奥へと開いていく石壁を見つめながら、フィラはぼんやりと考え込んでいた。モーターなどの機械音は聞こえない。たぶん、純粋に魔術的なしかけで動いているのだろう。扉が開いた先は、すぐに下へ向かう階段になっていた。

「いったい誰が何の目的で作ったんでしょうね?」

 隠し通路を覗き込みながら、フィラは呆れてため息をついた。今まで聖騎士たちに見つかっていなかったのだからそれなりに隠せてはいたのかもしれないが、それは石壁のカモフラージュと絡まった蔦の功績であって、鍵盤に魔力を流すこと自体はあまり意味のある仕掛けだとも思えない。暗証番号でも打ち込む形にした方が、よほどセキュリティレベルが上がるんじゃないだろうか。

「さあな。わざわざヒントを近くに置いておくあたり、よほど酔狂な暇人が作ったんだろうが」

 ジュリアンも同意見だったようで、冷淡な評価を口にした。

「このお城って、十世紀ごろのものじゃないですよね?」

「そんなわけがあるか。せいぜい百年前だ」

 ジュリアンは面倒くさそうに首を横に振る。

「じゃあ、作った方が楽譜マニアだったんですかね? これ、どこに通じてるんだろう?」

 フィラは頷き、それから首を伸ばして通路の先を覗き込んだ。

「後で調べておく。今は時間がない」

 声に振り向くと、ジュリアンはちょうど腕時計から目を上げたところだった。銀色の高そうな腕時計と袖の間に、ちらりと細い金属製の腕輪が見える。あまりアクセサリーを着けそうにないイメージがあったから、なんだかちょっと意外だ。

「そろそろ調律が終わる時間だ」

 ジュリアンはフィラの視線には気付いていない様子で言葉を続ける。

「……ほんとに呼んだんですか」

 一瞬考え込んでから、フィラは視線を上げてジュリアンを振り仰いだ。

「お前だって嘘は増やしたくないだろう。それに、そろそろ呼んでも良い時期だったし」

 ジュリアンの冷静な台詞に、フィラは頷きながら視線を逸らす。確かにそういうことは考えていたけれど、口に出した覚えはない。気持ちを見透かされてしまったような、妙に気恥ずかしい気分だった。特に理由はないけれど、なんだかずるい、とか言い出したい感じだ。

「行くぞ」

 先に立って礼拝堂へ向かうジュリアンに少し遅れて、フィラもため息を一つつき、その背中を追った。


「……弾いてみても良いですか?」

 調律師と共にピアノの最終調整をしていたフィラの声が、ふと耳に飛び込んできた。自らの思考に沈んでいたジュリアンは、その声に顔を上げる。

「ええ、どうぞ」

 期待を込めたフィラの問いに、調律師である初老の紳士は調律の道具を鞄にしまいながら頷いている。フィラは嬉しそうに微笑みながら礼を言い、ピアノの前に座った。

 ああいう表情をしていると、本当にただの一般人にしか見えないし、実際部下に調べさせた限りでは彼女は身元にも経歴にも特に不明な点はない一般人だ。いったいどこでこんな厄介事を背負い込んできたのか、考えられる可能性はいくつかあるが、確証を得るには情報がなさ過ぎる。

(せめて本人が覚えていればな……)

 詮無いことだが、ついため息が漏れてしまう。ため息のついでに当人に目を向ければ、集中のためなのか、フィラは膝の上で手を組んで瞳を閉じていた。敬虔な祈りを捧げるような真摯な横顔をぼんやりと見つめながら、ジュリアンは考え事を続行する。

 領主に就任してからの約一ヶ月で、条例や規制の整備を始めとしたユリン内部の懸案事項はほぼすべて片付けた。フィラ・ラピズラリの件さえ処理してしまえば、後はいつ異動があっても円滑に引き継ぎを進められるはずだ。実際、いつまでユリンの領主を務めることになるのかははっきりしていない。自分以外の人間が領主に就任すれば、それが誰であったにしろ、フィラ・ラピズラリの件を隠しておくことは出来ないだろう。それまでに何が出来るのか、打てる手はできる限り早く打っておかなければならない。

 そこまで考えたところで、フィラがゆっくりと瞳を開けた。道具を片付け終えた調律師も一歩下がり、音楽を聴く体勢に入っている。

 フィラは静かに腕を上げ、そっと鍵盤に触れた。力の抜けた動作とは裏腹な、深く重い音がジュリアンの思考を停止させる。

 夜の凪いだ海を思わせる音楽だった。音の波は静寂を際立たせるように響き合いながら、礼拝堂の広い空間を満たしていく。冷えた空気と相まって、深い海の底にいるような気分になる。

 凪いだ海を渡る風のように細い音は、重なり合い、泡立ち、力強さを増していった。何かを解き放つように、フィラは無心にピアノを弾き続けている。

 力強い音律は、収束して緊張感を孕んだ静けさへ変わった。何かの予感を語るような和音の連続が、もう一度徐々に力強く響き出す。音律を通して何かを訴えられているような気がするのに、その正体を掴むことができない。もどかしさに、ジュリアンは思わず耳をそばだてた。けれど和音の連続が作り出す旋律は、すぐにさざ波のような低音の連続へと沈んでいってしまう。

 ほとんど揺らぎのないさざ波の中から、やがて祈るような響きが浮かび上がった。囁くように、けれどはっきりとした意志を持って、響きは波間から立ち上ってくる。

 ピアノを弾くことだけに集中するためか、ずっと瞳を伏せていたフィラが、ふと視線を上げた。それと同時に、水面を覆うさざ波のような音の連続が途絶え、夜の凪いだ海のような空気が戻ってくる。

 フィラは霧の中を木霊する鐘のような音を、冒頭部と同じ静かな動作で弾ききった。始まりの静寂へ戻っていくように、音は礼拝堂の隅々まで染み通っていく。

 海の底から空高く持ち上げられ、そしてまた海底に引き込まれたような不思議な気分で、ジュリアンは音楽の余韻を噛みしめた。

 これほどとは思っていなかった。この間、酒場のピアノで聴いたときは、こんなものだろうくらいにしか思わなかったのに。

 深い海の底を思わせる余韻が、礼拝堂から完全に消え去ったところで、ジュリアンはようやくゆっくりと手を叩き始めた。調律師もそれに続いて拍手を始める。その音でようやく我に返ったらしいフィラは、夢から覚めたばかりのような茫洋とした視線でジュリアンを見た。

「お前、やっぱりピアノ上手いんだな」

 我ながらどうしようもない褒め言葉だと思いながら、ジュリアンは微笑する。

「ありがとうございます」

 フィラは瞬きして音楽の余韻を振り払い、言われ慣れている様子で微笑み返した。

「いや、本当に良かった。ドビュッシーの『沈める寺』ですね」

 調律師が言って、鞄を肩にかける。

「思いがけず素晴らしい演奏を耳にすることができた。忘れてしまうのが残念でなりません。もっと聴いていたいのですが、列車の時間が迫っていますので、私はこれで失礼します」

 ジュリアンは立ち上がり、調律師に向かって頭を下げた。

「本日は突然の依頼にもかかわらず、ご足労下さってありがとうございました。駅まで部下に送らせます。車までは私が」

 ジュリアンは言葉を切り、ピアノの前に座ったままのフィラを見上げる。

「少し待っていてくれるか?」

「はい。ピアノ弾いてます」

 フィラは少し笑ってそう言ったが、礼拝堂を出るときにちらりと振り返って見てみると、呆けたように鍵盤を見つめたまま、微動だにしていなかった。


「さっきの曲……『沈める寺』?」

「ええ、そうですよ」

 礼拝堂に戻るなり疑問文を口にしたジュリアンに、フィラはいつもと同じ調子で返事をした。演奏中の何かに取り憑かれたような様子も、演奏後の魂の抜けたような様子も、今は感じられない。

「聴いたことのある曲だった」

 ピアノの側板の上に肘を置きながら、ジュリアンは呟く。

「結構有名な曲ですから。クラシック音楽に興味がない人にも知られてる、ってほどではないですけど」

「あの曲……」

 輪郭のはっきりしない疑問をどう形にしたものかと思案しながら、ジュリアンは歯切れ悪く質問を続けた。

「皆……ああいう弾き方をするものなのか?」

「ああいうって……ええと、どこがどう……?」

 フィラは困惑した表情で首を傾げる。当然の反応だとは思うのだが、適当な答えが見つからない。さんざん迷った後で、ジュリアンはため息をついて敗北を認めた。

「いや……説明できないな。悪い」

 フィラはさらに首を傾け、片手で困惑を表しているらしい短いメロディをいくつか奏でる。

「なあ、お前、もしかして二年くらい前にその曲を」

 フィラがピアノを弾くのを止めて、ジュリアンの言葉も一緒に止まった。

 馬鹿なことを言いそうになった。例えそうだったとしても、彼女が覚えているはずがないのに。

「二年前?」

 フィラが鍵盤から顔を上げてこちらを見上げる。

「何でもない」

 フィラは思い切り不満そうに眉根を寄せる。また思わせぶりなことを言って、という彼女の思いが透けて見えるようだ。

「……団長って、消極的に嘘つきですよね」

「どういう意味だ」

 やはり不満そうな口調で言われた台詞に、ジュリアンは低く疑問を返す。『嘘つき』はともかく、『消極的』の意味がよくわからない。

「『何でもない』とか『大したことない』とか『気にする必要はない』とか、そういう感じの嘘が多そうだってことです」

 ジュリアンは目を細めて考え込んだ。確かにそうかもしれない。実際、リサにも似たようなことを言われたことがあるし、よく例に挙げられた台詞を口にしている気がする。

「参考にしよう」

 フィラはすっと半眼になって、冷たい視線でジュリアンを見た。

「……嘘のバリエーションを増やす方向にですか」

「まあ、そうだな」

 ジュリアンは斜め上方に視線を逸らしながら同意する。

「何か……どうしようもない感じですね」

 フィラはため息をつきながら鍵盤へ向き直り、軽快に『猫踏んじゃった』を弾き始めた。

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