めぐり めぐる
@chuinya
始まりの時①
彼、イナサは、近くの村の村人でさえめったに近づかない山の頂にある切り立った崖の上に立っていた。
気持ちの良い冬の朝だった。
うっすらと朝焼けの残る空を見上げれば、雲ひとつ無い快晴だ。
「くうぅ~」
山の上の空気はどこまでも澄んでいて、一気に深く吸い込むと肺がキーンと痛む。
だがとても心地良い。
このまま山の上で空を眺めて一日を過ごしたい衝動に駆られるが、そういう訳にもいかなかった。
「はあ」
肩の力を抜くいたようにも、溜め息をついたようにも見える白い息を吐き出すと、足下に視線を落とした。
崖下は、そこから続く不自然なほど垂直な壁と見渡すかぎり広がる谷底で形成されていた。
谷底の岩は奇妙なことに、ある一点を中心に放射状に拡がっていて、そこは彼が立っている崖の真下だった。
その姿は、イナサが背にしている美しい山々の景色とは全く対照的な姿をしていたが、それもまた美しい。
だが、イナサが見つめているのは景色などではなかった。
その視線の先には獲物を待ち受けるかのようにぽっかりと口を開けたカエルに良く似た巨大な岩があった。
この高さから見ていてもかなり大きく感じるのだから、目の前にあったならもっと巨大だ。
イナサはその穴の暗闇のもっと奥を、苦悩の表情を浮かべながら、じっと見つめた。
風が吹いてくる訳でも、何か音がする訳でもなかったが、何かがじわじわ沸き上がってくる気配がする。
先程から全身に鳥肌が立ち、腹の底から吐き気が込み上げてくる。
山の気温の低さから来るもので無いことはイナサが一番わかっている。
彼女だ。
だが、もう彼女ではない。
この気配、圧迫感をイナサは知っている。
これは『祟り
いや、正確に言えば『祟り神』に“なりつつある”だ。
死後も、この世への哀しみを受け止めきれず、怨み、憎み、全てを呪い、それでもまだ足りず、周りの全てを飲み込み滅ぼし続ける。
最後には存在自体が保てなくなり崩壊し、残った魂のかけらは地獄の最下層にある永劫の闇に囚われ、苛まれ続けなくてはならないという。
そこまで
ただ、普通の人間や動物がそこまで至ることは少ない。
しかし、この世界はまだ天地の境が曖昧で、いかに神々が天に引き揚げてしまっても、地に残された神々の子孫達が大勢いた。
また神々の中には地上に好んで子孫を増やしている者すら未だにいる始末。
彼ら子孫の中には己の力を上手く制御することが出来ず、自分の感情を“神の血”で善くも悪くも増幅させてしまう者がいる。
善に向かえば『奇跡』を起こす。
悪に向かえば当然『悲劇』を引き起こす。
悲劇の中でも悲惨なのが『祟り神』だ。
そうなってしまえば、辺り一面焼け野原程度では済まされない。
実に甚大な被害が及ぼされることになる。
堕ちてしまった者の素質次第では国が地図から消える事もある。
そんな事態を未然に防ぐよう、天界上層部は天界の末席に名を連ねるイナサ達のような神々を監視役として各地に
「いざ、事が起これば迅速に対処せよ」
それだけがイナサ達に伝えられた命だった。
ひたすら情報を求めて地上を放浪し、監視し、対処する。
天界の末端でしかないイナサにはそんな仕事しか与えられなかったが、最近の彼は真面目に取り組んでいた。
だからイナサにとって堕ちかけた者を見るのは初めてではない。これまで幾度となく堕ちかけた者や堕ちてしまった者に対処してきた。
それでもイナサがここまで苦悩の表情を見せたことはなかった。
「ごめん……」
ぽつりと呟くと目から涙が溢れ、胸の奥がズキリと痛む。
友との約束を護りきれなかった。
そして、もう自分に出来ることもなかった。
彼女を封印しようと力を使い果たしてしまったイナサに出来るのは、彼女から逃げずに成り行きを見守ることだけだ。
周囲の行き場を無くした魂の悲しみが、怒りが、怨みが、彼女の中に集まっていく。
彼女の中で収束していく。
『祟り神』に成っていく。
嘲笑うように“祟り神”が目を覚ます。
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