ボーダー・オブ・スプークス -日本の高校にやって来たスパイ-

あきら ふとし

プロローグ

第1話  『追想』

 日本の学生をことが、これほど難しいとは——伊里谷いりや 聖二せいじは思いもしなかった。


 彼は、この仕事を与えられてから、気苦労が絶えなかった。


 日本の東京都渋谷区に所在する三ノ宮みつのみや高校に転校して一ヶ月、現地に違和感なく溶け込むため準備は入念に行ったはずだった。


 彼は、学校の空き部屋を利用した事務作業の手伝いを行っていた。現地の学生が言うところの委員会と呼ばれる活動だった。


「伊里谷くん、これお願いね」


 活発な声とともに無造作に置かれたプリントの山を前に伊里谷は言葉につまる。


「スパイって、事務仕事も得意そうだよね? だから手伝ってほしかったんだ」


 屈託のない笑みで同じクラスメイトである夏目なつめあきらは伊里谷に説明した。ここ数日の出来事で彼女には頭が上がらなかった。伊里谷の本当の仕事を知ったうえで、こんな当てつけをしてくる始末だった。


「前にも言ったが俺はスパイじゃない。それに俺は、」


諜報員エージェントでしょ?」


 伊里谷は答えに窮する。自分はあくまで学生だと言い張るつもりが彼女に遮られてしまった。それに、諜報員エージェントだから事務仕事が得意そうというのは偏見な気がした。あきらは話を続ける。


「呼び方が変わろうが作業は同じでしょ。伊里谷くんには、片付けて欲しい書類があるんだから」


 あきらは、そう言ってプリントの山を指を指して話を続ける。


「この書類を封詰めしなくちゃならないの。これ委員会で使うんだって。でも変な話じゃない? この量を二人で捌くようにするのは割にあわないって」


「委員会の都合は知らないが、君が困ってるなら手伝う」


「いやあ、そういうとこ好きだね」


「ああ、すぐに終わらせよう」


 あきらが教室の隅に立て掛けてある手近なパイプ椅子を取りだし、伊里谷の向かい側に座る。ふたりは机に置いてある書類を黙々と封詰めていく。


 終業のチャイムが鳴ってから数十分が経っていたので窓から帰り際の学生の声が聞こえてきた。伊里谷は、この光景にも慣れつつあったし、書類仕事や何か黙々と作業すること自体は嫌いではなかった。

 

 また、伊里谷が住んでいる渋谷のアパートに戻ったところで厄介な奴もいるので、用事があって学校に残ることは問題ではなかった。


 夏目あきらの思惑通りではあるが、命の危険もない。これくらいの環境なら悪くない。


 黙々と手を動かしていたあきらが、不意に口を開いた。


「さっきの話なんだけどさ」


 あきらの声に伊里谷は顔を上げた。


「実際、どうなのさ」


「何がだ」


「君がスパイかどうか」


「知らんな」


 伊里谷は即答する。あきらは即答で否定する伊里谷に対して、眉間にしわを寄せた。


「じゃあ、あのとき私を助けてくれたのは誰なのよ」


「前にも言った。俺に似た奴だろ。君の話は理解できない」


 伊里谷の言葉に、あきらは呆れた様子をしていた。


「認めないんならいいけどさ。でも、正体が分かるまで言い続けるからね」


「そうか」と伊里谷は答えた。


 伊里谷は、相槌を打ちそのまま作業をしていくが、内心落ち着かなかった。書類の中には手書きで書かなければいけないものがあり、彼は書き慣れない日本語で書いた自分の字が歪んでいく。


 彼女、夏目あきらの指摘は間違いではない。むしろ正しい。一ヶ月前、伊里谷が彼女を助けたのも事実である。


 伊里谷いりや 聖二せいじ諜報員エージェントである。


 かつてと呼ばれていたその仕事は、今では“諜報員エージェント”と名を変えた。


 冷戦の産物とされていた諜報員エージェントは、未だ情報機関内では人間の足を使うことが効果が高いということになっていた。伊里谷も仕事で、この三ノ宮みつのみや高校に潜入し、仕事に当たっていた。


 教室の扉から小刻みにノックが鳴る。古い扉のため、ノックをすると扉が反響するような代物だった。ガラガラと古い建付の扉が開いていく。


「おつかれ〜、いまどんな感じ?」


 緩い挨拶をしながら、扉から同じ委員会メンバーである榊原さかきばら志帆しほが入ってきた。伊里谷やあきらとは別のクラスであるが、あきらとは一年時からの友人とのことだった。


 伊里谷は志帆を横目に机に広がっている紙の資料に手を広げる。


「ふたりだと時間が掛かると思ってたところだ。助かる」


「わたしが伊里谷くんをスパイの容疑で尋問し続けてるしね」


「また、その話してるの? も凝りないねえ……」呆れるように志帆は答えた。


 志帆には、冗談に思われているようであったが、伊里谷にはその方が都合が良かった。


「ほら、伊里谷くんも困ってるよ……。あきが変なこと言うから」


「いやあ、ホントなんだって」


 前屈みに胸を机に押し付けるようにしながら、あきらは恨めしそうに言った。


 このようなやり取りを伊里谷は彼女を助けた日からというものの、ほぼ毎日続けていた。日本に来てから調子が狂っていると感じる要因は、彼女にあると伊里谷は感じていた。


 日本の学生として潜入し諜報員エージェントの仕事をするなど作戦前に渡されたブリーフィングの書類を読むまで思ってもみなかった。あきらは伊里谷の正体には少なくとも気付いている。


 これは自分の諜報員エージェントとしての能力の問題かもしれないし、伊里谷の拠点先のアパートで遊び呆けているはずの少女パートナーのせいのかもしれないと思った。


「そういえば、あきの言ってた子って来る予定なの?」


 あきらは相槌あいづちする。


「前に会った時は、きょう来るって言ってたんだけどな」


 伊里谷も一ヶ月前の事件を皮切りに、ここの委員会に所属されていた。三ノ宮みつのみや高校では、各クラスでは必ず委員会という形で、学生が何かしら学校の手伝いをする決まりになっていた。

 毎年4月の時期に係りを決めており、この仕事はあきらと志帆が行っていた。その中に伊里谷と、もう一人の少女が途中から加入していた。


 教師に提出する資料があるということで学生間の人気はないが、この小さな教室を丸々使ってもいいとのことで、ふたりは日ごろたまり場に使っているとのことだった。


「場所わかるのかな?」

 

 志帆がやや心配するように言った。


「教室の場所は教えてるし、そこは大丈夫だと思う」


 そういった話をしていると、突然ノックもなしに使い古された教室の扉がきしむ音をたてながら開いていく。


 扉が開いた瞬間、高校生にしてはまだ背丈の低い少女と呼んでも差し支えない生徒が勢いよく入ってきた。髪は黒だが眼は碧く顔立ちは人形のように整っていた。一目見て日本人ではないのは明らかだった。


「伊里谷、貴様また抜けがけか!」


 少女が勢いよく飛び出し、流暢な日本語で伊里谷をなじり始める。


 制服の糊もまだ残る、新入りのあおい瞳の少女が、開口一番、伊里谷を睨みつけた。伊里谷は、ひたいから冷や汗を流し、この少女パートナーは一体何の話をしているか理解できなかった。


「待て、クロエ……。これは誤解だ。君が何を言ってるのか俺にはさっぱり分からん」


 クロエ・ディズレーリは、一週間前にこの三ノ宮みつのみや高校には、イギリスからの留学生という形で転向してきた生徒であった。


 そして伊里谷の仕事上の相棒パートナーであり同居人でもあった。


「同居人の分際で、随分大きな口になったものだな。姿が見えないし、帰るには妙に早すぎると思って探してたら、まさかこんな所にいるとはな」


「彼女たちの手伝いをしていただけだ」


「今日は私と帰る約束だ。まだこの国に来て日が浅いのだから色々案内してくれと頼んだはずだ」


「それは君が悪い。俺は先約があると朝に言ったはずだ」


霧絵きりえもちゃんと手伝えって言ってた。この状況、どう説明するつもりだ?」


「それは……」


 伊里谷とクロエのやり取りを、あきらと志帆は見ていた。あきらはクロエが現われてから、徐々に態度が弱くなっていく伊里谷を見て何だか可笑しかった。


「伊里谷くん大丈夫だよ。その代わり明日から仕事の量は増やしておくからね」


「すまぬ、あきら。今度何か作って食わせてやる」


 クロエの言葉に、あきらは一瞬顔が硬直する。以前、料理の勉強をしているというクロエに一度料理をふるってもらったことがあったが、おおよそ人間の食べられるものではなかった。


 伊里谷は「……すまない」といった表情で半ばクロエに連れていかれる形で教室から出ていった。


「台風みたいな子だね」


 教室が静かになると志帆は言った。


「良い子だよ、クロエは」


「すぐ仲良くなっちゃったもんね、あき」


 親友から少し皮肉とも取れる言葉に、あきらはひたいに手を当てて唸る。


「別にそういう訳じゃないんだけどさ。まあ、色々ね……」


 志帆はこの話題だけは何も話してくれないあきらに対して肩を落とす。


「ごめん、ごめん。今度ちゃんと話すからさ」


「本当だよ、あき! 打ち明けてくれないなんてさ」


 志帆にはそう答えたが、あきらはクロエの一件についてはすぐに話すことが出来ないものだと感じていた。それは、先ほどまで伊里谷を弄っていた感情とは異なるものだった。そして、ふたりは再び伊里谷とクロエがやるはずであった作業を再開していく。



                △▼△▼△▼△



「おい待て、何をそんなに急ぐ」


 教室を出てから伊里谷はクロエに尋ねた。その言葉に反応してかクロエは振り向いて伊里谷に問い詰める。強い口調だった。まるで伊里谷が何も知らないことを揶揄するように。


「あきらや志帆に嫉妬してるようにでも見えたか? 先ほどモーズレー局長から連絡があった。お前を呼んだ理由はそれだけだ。それにの件もある」


 夏目あきらの事だ。彼女の存在も自分たちの仕事に関係していたからだ。


「正体は話していないよな? 聞くまでもないことだが」


「ああ、だが長くは持たないだろうな」


 伊里谷の言葉にクロエは頷く。


 こんな生活は長くは続かない。絶対にどこかで破綻する。校舎から見える景色をふたりは見ていた。運動部の掛け声や廊下から聞こえる談笑、校舎から見える四月まで枯れている桜の木。ここから見える景色は、伊里谷やクロエの本来見るはずのない景色だ。


 伊里谷が、この異国とも呼べるような場所で原因の顛末を思い返すと一ヶ月前の仕事から全て変わったように思えた。

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