第26話:化魄⑤
北東総合病院、その最上階の医院長室。
「黒依が滅んだか……」
黒衣を纏った妙齢の女性が、医院長室の大窓から稲荷大社の方向を見つめ、呟く。
「御前、どうかお心をお鎮め下さい」
その怒りを恐れ、多島が震えた声で語りかける。
「分かっておる。土地神を喰らえもせず、修錬丹師に敗れるとは情けない……我が血族の面汚しめ」
御前の言葉は、あくまで冷たい。
「御前……御前は黒依様を、愛しておられたのではないのですか?」
多島が問う。
「愛か。強き者なら愛しもしよう……だが黒依は違った。吾子として期待はしておったが、滅びた者に感ずる所など、何もない」
御前はそう言って、黒依を無情に切り捨てた。
「敵に異能の者が紛れ、その者によって黒依様は滅ぼされたと推察いたしますが」
「浄山の小僧か……興味はある。我が血族に取り込めば、さぞや強き吾子、その素材となるであろうて」
御前の口元に、野心に満ちた微笑みが浮かぶ。
「しかし、御前……」
「修錬丹師を皆殺しにし、浄山の小僧を捕らえてくれようぞ」
「はは……お申し付け通り、すでに院内に居る者の9割は屍で固めてあります」
「生きている人間がいては、彼奴等も踏み込み難かろう……残る1割、生ける者はすべて喰ろうておくとするか……」
御前の姿がゆらりと動いて、闇に消えた。
医院長室に、重い空気がのしかかる。
「終わりだ……私はもう、終わりだ……」
多島は、絶望に怯えた表情で、がっくりと膝をついた。
同日、19時。
北東総合病院の広大な敷地を覆うように、機動隊の大型輸送車4台が取り囲む。
「菊、どうだ?」
指揮車の助手席に座った菊が、北東病院の敷地内を念視する。
「信じられない、生きてる人の気配が……気配が全くないよ!」
事態の異常さに、戦慄する菊。
「全員降車! 敷地を囲めろ、出入り口全部だ! 絶対防御態勢! ここから先、何人たりとも外に逃がすな!」
鷲尾が号令を掛けると、銃を含め完全装備の機動隊員100名が、俊敏な動きで敷地を取り囲む。
「さて、乗り込むか……」
霧子が武者震いと共に、指をポキポキと鳴らす。
「大きな気配が最上階にあります。それが大妖かと」
霞が神妙な面持ちで問いかける。
「ああ、私もビンビンに感じてる……」
そう言って、霧子も厳しい表情になった。
「菊、敵の数は?」
霧子が問いかけると、菊は額に手を当て、最大限の集中力を発揮する。
「……千と……二百くらい」
苦渋の表情と共に、菊が答えた。
その数に、霧子は頭を掻きながら計算する。
「実弾はなるべく温存しておきたいな……K、間引けるか?」
霞を見つめ、真剣な口調で、問いかけた。
「お任せください」
霞が即答する。
「私も大丈夫……行けるよ!」
菊も、怯えを隠しながら、精一杯の決意を込めた表情で、答えた。
「第1・第2分隊、仙道に同行! 病棟の制圧にかかれ!」
鷲尾が命じると、機動隊員20名が霧子達の前に出る。
「お姉さん、雑魚には構わず、一直線に行きましょう!」
霞の提案に、霧子は首を横に振った。
「それは駄目だ、一千を超える屍が一気に外へ出たら、鷲尾ちゃん達では対処できない……なるべく駆逐しながら進むんだ」
「じゃあ、とりあえず手近な南エントランスからアタックをかけて、北、南、北、南……と、縫うように昇りますか」
霞の再提案に、霧子も納得する。
「18階までヒルクライムか……現代人にはキツイ運動だな」
これからの仕事に、儚さを覚える霧子。
「そうね~、スパルタエステ、二ヶ月分くらいかな~?」
菊は想像がつかないのか、呑気に笑っていた。
「いいじゃないですか、お姉さま方、痩せますよ?」
霞が声をかける。
その声に過敏に反応したのは、霧子だ。
「私は肥ってない! バスト84、ウェスト55、ヒップ80だ!」
そう言って、霞を睨む。
「私はね~、バスト99、ウェスト59、ヒップ85だよ~」
菊も笑いながら、自分のサイズを披露した。
「アタシは……て、どうせ子供体型ですよ! なんですか、この不二子ちゃん自慢大会は!」
霞は、自分の体を触り、恥ずかしさとも怒りともつかない叫びをあげる。
「大丈夫、大丈夫、Kちゃんはこれからだから、ね?」
菊が笑いながら、霞をなだめる。
美女たちが織成す一連の会話を聞いて、妄想に頬を紅くする隊員たち。
「あの、仙道さん、そろそろ……」
機動隊の分隊長が、霧子に問いかける。
「ああ、悪い」
はっと、現実に立ち返り、霧子は照れくさそうに頭を下げた。
「頼みますよ、本当に……」
霞が腕組みをして、呟く。
「脱線させたのは、お前だろうが」
霧子はそう言って、霞の頭に、軽い拳骨を喰らわせる。
そんな二人のやり取りに、その場にいる全員が、声を上げて笑い合った。
「さて、肩の力も抜けたことだし、改めて行くぞ……突入!」
霧子が病院の主病棟の入り口、強化ガラス製の扉に銃弾を撃ち込み、蹴り砕く。
フロアに居た数十人の人間が破壊音に反応し、一斉にこちらを凝視する。
「うじゃうじゃいるな……菊!」
霧子が問いかける。
「目の前にいる人、全部屍だよ!」
菊は即答した。
「よし、K、行け!」
「合点!」
霧子の号令を受け、霞が群衆に向かって飛び込んだ。
その場にいた屍達に、戦慄が走る。
そして人の姿をしたモノ達は、悲鳴を上げながら建物の奥に逃げ込んでいく。
その反応を許さぬ速度で、霞が瞬時に交錯すると、そこにいた屍全員の体から、血飛沫が上がった。
「お姉さん、北階段、確保しました!」
全ての屍が倒れたことを確認し、霞が霧子を呼ぶ。
「全隊前進! 二階に上がる!」
霧子が号令を掛け、警官隊が突入する。
かくて、戦いの火蓋は切って落とされた。
……それから先は、阿鼻叫喚の地獄絵図。
「ひい! やめて、助けて!」
「何なのですか、あなた達は!」
あくまで攻撃の姿勢を見せず、逃げ惑う屍たち。
いくら命乞いをされようとも、菊の眼力は完璧だ。
人間の姿をしたモノが、いつ反撃に転じるとも分からない。
霧子たちは、屍たちの背中に、容赦なく攻撃を加えていく。
映像だけを見れば、明らかに霧子達の方が悪……それも凶悪な殺人鬼だ。
しかし、霧子達は揺らがない。
同情し隙を見せれば、彼らは背後から襲い掛かってくるだろう。
心を揺らせてはならない。
鬼にならなければならない。
魂を喰われ、その骸に偽りの命を吹き込まれた悲しき者達を、今度こそ冥府に送り帰す。
その為に刃を振るい、情け容赦なく銃弾を撃ち込む。
それは、葬送の儀式だ。
霞が突っ込み、仕留めそこなったモノを、霧子が小機関銃で制圧する。
そして、階の出入り口を警官隊が固め、進路を確保する。
それが一時間以上、延々と繰り返された。
「……16階、確保!」
霞が叫ぶ。
彼女にしては珍しく、息を切らせていた。
「ふう、大分捌いたな……」
霧子も疲労を隠せない表情で、額の汗を拭う。
「9割方って所ですかね……数えていませんけど」
霞が呟く。
「それにしても屍の奴等、逃げ惑うだけで、かかってすら来やがらなかったな……後味が悪いったらありゃしない」
霧子が溜息をつく。
「傍から見たら、殺人鬼は私達ですもんね……」
霞もつられて、溜息をついた。
「霧ちゃん、私もうダメ……お願い、少し休ませて……」
菊がそう言って、その場にへたり込む。
体力も精神力も使い果たし、辛うじて息をしているといった様子だ。
「菊はもう限界か……いや、良く持ったよ」
霧子がそう言って、菊を支え、起こしてやる。
「ここから先は、アタシとお姉さんだけで行った方が良いでしょう。最悪、ここで大妖に出くわしたら、皆さんを守り切れません」
霞が、冷静に言った。
霧子は頷き、警官隊を見つめる。
さすが、彼らはプロだ、これだけの強行軍にも関わらず、息一つ切らせていない。
「そうだな……警官隊の諸君! ここまでの同行に感謝する、だがしかし、ここから先は私達に任せてもらおう。皆は菊を連れて、本体と合流して欲しい!」
霧子が号令をかける。
「しかし、仙道さん!」
「女性二人を残して、撤退などできませんよ!」
納得がいかず、食い下がる警官隊の面々。
「お願いです皆さん、菊さんを頼みます」
霞が、最敬礼をもって懇願する。
「Kちゃんまで……」
戸惑う警官隊。
そんな彼等に、霧子は穏やかな口調で言い聞かせる。
「ここから先は、この世ならぬ者の戦場だ。諸君らを庇いながら戦える自信がない、どうか聞き分けてくれ」
警官隊の眼を、真直ぐに見据えた。
「分かりました……菊さんの事はお任せください、我々の命に代えても守って見せます」
警官隊の一人が、菊を背負う。
そして一同が姿勢を正し、敬礼を以て霧子に答えた。
「すまない、感謝する」
霧子もまた、敬礼で返す。
「お姉さん」
霞が促す。
「ああ、行こう!」
霧子はそう言って、北階段に通じる鉄の扉を、勢いよく開け放った。
「静かですね……」
最上階へ続くつづら折りの階段を踏みしめ、ゆっくりと昇りながら、霞が呟く。
「ああ、敵は準備万端、完璧なコンディションで待ち構えていやがる」
二挺の小機関銃を油断なく構え、霧子が答える。
「それに比べて、アタシ達は消耗戦を強いられ、疲労困憊ですか……」
霞が自分たちのコンディションを冷静に分析して、溜息をついた。
「まったくだ……おまけにここまでの動画、全部しっかり録られてるぞ……潰せるカメラは全部潰したが、数秒の画像でも残っていたら、私達は大量虐殺で絞首台に直行だ」
霧子が苦い顔をしながら、吐き捨てる。
「ある意味、隙がありませんね……」
霞が、苦笑いで答える。
「屍は私達を仕留めるために配置されたんじゃない。逐次殲滅させることで、体力を削り、弾を消費させ、刀の斬れ味を鈍らせる……それが目的だったんだろうよ」
霧子はそう言って、煙草を一本、口に咥えた。
「でも、そうする事でしか大妖にたどり着けないのなら、やるしかありませんでしたよね」
霞も、小さな飴玉を一つ、口に放り込む。
「菊が見抜き、警官隊の諸君が盾になってくれたおかげで、私達の消耗は最小限に抑えられている」
そう言いながら煙草に火を付け、深く吸い込む。
「私の体力は十分ですよ? ジローちゃんが研いでくれた刀の斬れ味も、全然鈍ってません」
口の中で飴玉をコロコロと弄びながら、霞が言う。
「私も体力は余裕綽々……MAC11も弾は十分だ」
そう言って、霧子は紫煙を吐き出す。
「これが誤算になってくれると良いですね」
霞が上目遣いで、霧子を見つめる。
「誤算にしてやるのさ、違うか?」
霧子はそう言って、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「お姉さんにはかないませんよ」
つられて、霞も微笑む。
「さて、最上階だ……K、覚悟はいいか?」
最上階のフロアに通じる鉄扉を前に、さすがの霧子も息を呑む。
「はい!」
霞は、使命に燃える強い眼差しで、それに答えた。
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