仙境異聞 霞
神楽坂 幻駆郎
第一章 遠い山から来た少女
第1話:仙道霧子①
夜の空気は嫌いではない。
夜の闇も嫌いではない。
人が活動を休み、空気がしんと静まり返るこの空間は、ざわつく心を研ぎ澄ませてくれる。
口に咥えたタバコの煙を一気に吸い込み、胸まで深く行き渡らせてから紫煙を吐き出すと、自分の心を完全に切り替えることが出来た。
日常から非日常へ。
平和から戦いへ。
携帯灰皿へ吸殻を移す頃には、霧子の心は完全に切り替わっていた。
ギラリと輝く眼で月を睨む。
「畜生、今日も明るいな」
霧子は呟いて、左脇の銃帯から短銃身の拳銃を抜いた。
「リボルバー、か」
なんとも心細い短いため息をつく。
ざ……
無線の音が鳴った。
「仙道! おい、仙道!」
甲高い男の声が霧子を呼ぶ。
「そっちに行ったぞ、準備は出来てるのか!」
男の声が霧子をせかす。
霧子は鼻で一呼吸し、応えた。
「聞こえてるよー、鷲尾ちゃん。そっちはどうよ? ちゃんと誘導してる?」
「今やってる! おいそこ、ひるむな! 盾をしっかり持て!」
切羽詰った男の怒号が無線越しに響く。
霧子は、まるで汚いものでも持つかのように無線機を指先でつまみ、耳から放した。
「鷲尾ちゃーん、大丈夫かい?」
マイクにだけ口を近づけ、呆れたように呟く。
「ちゃんとやってる! それより大丈夫なんだろうな? この札!」
鷲尾と呼ばれる男の声が、無線機のスピーカーから、ヒステリックに響く。
「うるさいなー、妖檄舎の護符は良く出来てるって評判なんだ、間違いはないよ。それよりちゃんと、逃げずに追い込んでくれよ?」
「わかってる!」
鷲尾の怒号を最後に、無線の電波が途絶えた。
「へえ、電波干渉したか……やるね」
霧子が、にまっと笑う。
獲物の強さを楽しむ、狩人の表情だ。
「鷲尾ちゃん、ご苦労! 丁度いま目の前に来たよ。じゃあ仕事すっから、後処理よろしく、オーバー?」
取るもののいない無線に向かって 紋切り方の応答をし、霧子は無線機を捨てた。
霧子が待ち構える路地の封鎖路に、一つしかない角を曲がって飛び込んできた影。
それは、少女だ。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん、助けて!」
少女は、駆け出す勢いそのままに霧子の胸に飛び込んでくる。
「おっとぉ!」
「あの、私、怖い……怖い人達に追われているの、助けて!」
少女は霧子の身体を掴み、こわばった表情で助けを求める。
「ほう、怖い人達に、ねぇ・・・・・・それは大変だ」
少女の表情を見透かし、答える霧子の口調は冷たかった。
次の瞬間。
タアン!
乾いた銃声が、夜の路地裏に、こだました。
「あ! うぐ……!」
表情をゆがめ、腹部を押さえ、後ずさる少女。
その視線の先には、銃口を燻らせる霧子の姿があった。
「こんなちっこいスナップ・ノーズじゃ、大して効かないだろう、それとも少しは堪えたかな? お嬢ちゃん」
霧子が冷徹に言い放つ。
「お、お姉ちゃん、なんで……」
困惑した少女は痛みにもだえながら、信じられないという視線を霧子に投げかける。
霧子は言った。
「話は簡単……私はね、その人達より怖いお姉さんなのさ」
「ひどい……痛い、痛いよ、お姉ちゃん・・・・・・」
すがり付こうとする少女の手を振り払い、霧子は更に銃口を向けた。
「お話よりダンスが好きだろ? お嬢ちゃんは」
二発、三発、銃弾を打ち込む。
「が! ぐ! がぁ! ぎゃう!」
もんどりうって倒れる少女。
霧子は冷徹に笑う。
「ほら、いい顔になってきた」
うつ伏せに地面に横たわる少女。
霧子を見上げる少女の表情が見る間に歪み、ケモノのような醜悪さで満ちる。
「ぐ、ぐ……この人間風情が……」
少女とは思えない、地の底を這うような うめき声があがる。
「そうそう、そう言う物言いの方が似合ってるよ」
霧子は、冷笑のまま言う。
「いい気になるな……うぬなど物の数ではないわ!」
少女は……いや、それまで少女だったモノは、まるで昆虫が蛹を破るようにバリバリと不快な音を立てながら元の肉体を引き裂き、巨大かつ凶悪な姿を顕していった。
霧子は、冷静に呟く。
「マルヒト、マルゴー、対象の変妖を確認。仙事特令9号適用、霊具の封印を解除する」
霧子の構えた小型拳銃が青白く発光し、それまでとは比べ物にならない、大口径・長銃身の異形の銃に変化した。
「スピード・スター、五行周天」
霧子が呟くと、右手の甲に星型のあざが浮かび、激しく輝く。
「最後に聞くぞ……お前、何人喰った?」
そう言って、撃鉄を起こす。
カチンと、トリガーの嵌る音がした。
「おのれぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
少女の骸を脱いだ化け物が、霧子に襲い掛かる。
「もういい、死ね」
霧子の銃が火を噴いた、いや、それは火というよりは、稲妻。
激しい稲光が化け物の額、そのど真ん中を一直線に射抜く。
化け物の振り下ろした腕の爪先が、霧子の胸をえぐろうとする、まさにその直前の状態で硬直した。
そして、霧子を襲おうとした姿勢のまま地面に崩れ落ちる。
「な、何故だ、何故人間に……我は人の世に棲み、人の姿をし、人を喰らうもの……それが、何故人間なぞに……」
恨みがましい口調で呻き声を上げるその化け物だったモノに、霧子は小さな声で因果を含めた。
「それはな、あんたが聖魔だからさ。私は霧子……修練丹師の仙道霧子だ」
化け物だったモノの顔が、断末魔の恐怖に歪む。
霧子は、残りの銃弾を、無言で、残らずそれに撃ち込んだ。
身体が弾けるように地面で踊り、そしてそれはピクリとも動かなくなった。
「あーあ、月が碧いやあ」
夜空の月を遠くに見上げ、霧子は胸ポケットの煙草を取り出し、一本口に咥える。
戦いと言うには、あまりにも一方的な虐殺が、今、終わった。
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