第3話 情報屋
「あぁ……」
時刻にして六時。
朝早い時刻のリビングには、ソファーにもたれかかるソラの姿が。その目は未だ眠たげであり、半分寝たような状態だろう。
「顔洗うか……」
目覚めない意識のまま、洗面所へ向かう。
洗面所の小さな窓からは、ヒュウヒュウと音を立てて、冬の朝の冷たい風が吹き込んでいた。
開きっ放しになっていた窓は、一晩中冷気を纏った風を通し、洗面所を冷たく凍りつかせている。
ソラは肌を突き刺すような寒さに耐えながら、顔を洗うために水を出す。シャー、と心地の良い音を立てながら流れる水。
それに手を触れると、思わず声が漏れた。
「冷たっ……!」
冬の気温によって、水はとても冷たく感じられる。ソラは顔を洗う度に襲うこの感覚に、つい触れるのを躊躇ってしまうのだ。
しかし、そんなことで逃れることができる筈はなく。ソラは意を決して顔を洗った。
「ふぅ……」
一度触れてしまえば、なんてことはない。水の跳ねる音だけが朝の世界を支配し、不思議な安心感がソラに訪れる。
その余韻に浸ること少し。
「……さて、朝飯っと」
ソラはいつも通り、朝食の準備を始める。
白米、魚、味噌汁、次々とテーブルに並ぶ朝食は全て和食だ。ソラの家では、朝は和食と決まっており、パンなどは
「よし、できた」
朝食を作り終えたソラが時計を見ると、起床から既に一時間ほど経っていた。針が示す時刻は、七時。
「はぁ……あいつは、いつになったら一人で起きるんだか……」
ソラは呆れながら二階へ上がると、自室の前を通り過ぎ、沙夜の部屋へ。ノックもせず取っ手を下に下げ、部屋の中へ入った。
「すぅ……すぅ……」
ベッドの上には、まだすやすやと寝息を立てている沙夜の姿が。眠ってから体勢が変わっていないのか、ベッドにはシワ一つない。
「おい沙夜、起きろ」
ソラが声をかけるが、沙夜は規則正しく呼吸を続けるのみ。それからも数度声をかけるが、起きる気配はない。
「はぁ……」
ソラは仕方なく、といった様子でベッドに近付くと、沙夜の肩を揺すぶった。
「おい、起きろ」
沙夜は数度もぞもぞと動くと、ようやく目を開く。まだ寝ぼけたままの青い瞳が、ソラを見つめた。
そして、数秒見つめ合ったのち。
「後五年……」
沙夜は定番の言葉のスケールを更に拡大しながら、布団へ潜り込もうとする。しかし、それを遮る腕が。
「朝飯できてんだよ、起きろ」
ソラは沙夜から布団を剥がすと、閉じられたままのカーテンを容赦なく開く。既に上昇を始めている太陽は、遮蔽物のない窓から簡素な造りの部屋を明るく照らした。
「ほれ、さっさと来ないと飯抜きだぞ」
ソラはベッドの上で目をこする沙夜にそれだけを言い残すと、部屋を出た。
「はぁ……俺は召使いかよ……」
階段を降りながらそう呟いたソラは、自分の言葉が的を射ていることに気付き、更に落胆する。
「……ま、いいか」
しかし、直ぐに立ち直ると、先に椅子に座って沙夜を待つ。そして、ソラが沙夜を起こしに行ってから約五分後。
「おはよう」
「ああ、おはようさん」
ソラと同じく顔を洗ってきたのか、いつも通りの冷たい雰囲気を纏った沙夜が椅子に座る。別に、ソラが大嫌いだからそういった態度をとっている訳ではなく、これが沙夜のデフォなのだ。
だから、ソラも気にすることなく食事を促した。
「ほら、冷める前に食べるぞ」
「ええ」
「いただきます」
「いただきます」
二人は両手を合わせて感謝を捧げてから、食事を始める。
静寂が支配する空間に響く、鳥が羽ばたく音。
二人は食事中は話すことなく、流れるニュースに目を通すだけ。特にこれといって話すことがないということもあるが、二人はなんとなく朝のこういった空間が好きなのだ。
誰にも邪魔されない、なんてことない日常の一部。そういった時間は、この二人にとっては貴重なもの。だからこそ、まるで味わうように時を過ごす。
カチャリと箸を置く音が響く。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
二人は示し合わせたかのように同じタイミングで食べ終え、食器をシンクへ運んだ。そしてソラが、水を流して食器を洗おうとすると。
「私が洗うわ」
「……え?」
沙夜の言葉に耳を疑い、ポカーンと口を開くソラ。
「何よ?」
沙夜はそんなソラの反応に、不機嫌そうに眉をしかめた。といっても、こればかりはソラの反応も仕方ないことなのだが。
いつもは家事全般はソラがこなすため、沙夜は滅多に家事をしない。そんな沙夜が、自分から洗い物をすると言うのだ。ソラが驚くのも無理はない。
「あ、じゃあ頼む」
戸惑いつつも、やってくれるならいいかと納得し、ソラはソファーへ座り込む。特にすることもないので、ニュースの続きを眺めていると。
「マジかよ……」
一つのニュースが、ソラの目に留まった。
「昨夜、連続殺人が多発。現場には、
連続殺人。
この二つの言葉が導くのは、昨日ソラを襲った
「なんだ、何か目的があってやったのか……?」
疑問には思うが、今は深く考えることはしない。どっちにしろ、調べるつもりだったから。
「終わったわよ」
タイミングよく、洗い物が終わる。ソラはソファーから立ち上がると、テレビを消した。
「よし、それじゃあ準備をするぞ」
「またあの人の所でしょ……」
うんざりしたような顔でそう言う沙夜は、今から向かう場所にいる人に、本当に会いたくないらしい。というのも、ソラは慣れているからいいものの、確かにその人は好ましい性格ではないからだ。
しかし、そういった人間ほど優秀なのが世の常。
「まあ、仕方ない。アイツはなんだかんだ言って優秀だからな」
「ええ、それは認めるわよ。……それだけはね」
沙夜は棘のある言葉を残して、準備のため自室へ戻る。ソラは着替えるだけなので、適当に動きやすい服に着替え、沙夜を待つ。
「八時か」
ふと時計を見れば、食事から一時間。出掛けるにはかなり早い時刻だが、時間はある方が良い。
そうしている内に、ソラの耳に階段を下りる音が届く。
「済ませたわ。行きましょう」
沙夜も、スカートなどの動きにくい服ではなく、スポーツ着のような動きやすい服に着替えている。
万が一の時は、きちんと動けるように。
「よし、じゃあとっとと行きますか……」
ソラはしっかりと施錠すると、目的地に向けて歩き出した。
♢♢♢
薄暗い、路地裏。
人通りが少ないどころか皆無な場所を、ソラと沙夜は歩いていた。開発が続けられ、迷路のように入り組んでいるそこは、人を寄せ付けない不気味さがある。
周囲には、放棄された白い建物が所狭しと並んでいるだけで、人の気配は感じられない。
まだ昼前だが、まるで別世界へ迷い込んだ感覚を沙夜とソラは感じていた。
沈黙に耐えかねたのか、コツコツと足音だけが響く空間に、別の音が混じる。
「……毎回思うんだけど、わざわざこんな場所に住まなくてもいいんじゃない?」
周囲をぐるりと見渡しながら呟く沙夜。
その至極真っ当な意見に対し、ソラは。
「そうだな、確かに探せば他に隠れ場所なんていくらでもあるだろうな。だけど、何故かあいつはここを気に入ってる。まあ、確かに見つかりにくいとは思うが……」
そんなことは本人しか分からない、といった内容の回答だった。
確かに隠れるにはうってつけだが、出掛けるには非常に不便な場所であろうここ。好んで住む人間は、変わり者と呼ばれるだろう。
そして、その変わり者。
その人の住処に、ようやくたどり着いた。
「……さて、やっと着いたぞ」
「ええ、そうね……」
ソラが腕時計を見れば、時刻は十時。家を出てから、実に二時間が経過していることになる。
「用件だけ済ませて早く帰ろ……」
ソラは一人呟くと、沙夜とともに地下へ続く階段を下りていく。すると、冬にも関わらず、少し湿った気味の悪い風が通り過ぎた。不気味さを助長させるその現象は、生憎とソラと沙夜には効かなかったが。
「……相変わらず暗いな、おい」
そんなことより、ソラが気になったこと。
それは、長い階段の割に光源が乏しく、足元が不確かであることだ。前回も文句を言った部分がそのままであることに、ソラは多少の怒りを覚える。
そして、進んでいく内に、徐々に光が見えてきた。それは階段が終わる目印。一段一段と減っていった階段はついに無くなりーーソラと沙夜は対面する。
癖毛であり、少しくすんだ灰色の髪の毛。如何にも悪人っぽい、狐のような目。他人を小馬鹿にするような、飄々とした態度。
その男、
「来ると思ってたけど、割と早かったね?」
へらへらと笑いながらそう言う染章。ソラはその姿を見て、「やっぱり変わってねぇ……」と呻く。
少し薄暗いその部屋を進み、ソラと沙夜は勧められるがままソファーに座った。染章は六台のパソコンの前に座り、カタカタと小気味よい音を響かせている。
「というか、沙夜ちゃんが来るなんて珍しいね」
染章はカラカラと音を立てて椅子を回転させ、沙夜を見る。その目は、単純に沙夜がここにいることが気になっているようだ。
「別に、好んで来た訳じゃないわ。ただ、今回は重要そうだから来ただけよ」
「……いやー相変わらずツンデレだね〜」
沙夜は、キッと染章を睨む。
「おお、怖い怖い。……さて、用件を聞きましょうか?」
染章は未だニヤニヤと笑みを浮かべて、今度はソラに目を向けた。ソラは表情を変えることなく答える。
「ああ、お前の考えてる通り、
「勿論、
「ああ、分かってるよ……」
ソラが、今度はいくらふっかけられるのかと、遠い目をして待っていると。染章は一際口元を歪めさせ、愉快そうに言った。
「五千万」
「…………はい?」
「ソラ君、五千万」
「……お前、それ本気か?」
「マジだよ、本気だよ」
ニコニコと嬉しそうに言う染章に対し、ソラの顔色は絶望一色だ。沙夜も額に手を置き、呆れ返っている。
「で、なんでそんな高いんだよ……?」
どうにか持ち直しながら尋ねるソラに、染章は少し真面目な顔をして答える。
「ソラ君、君は犯人の
「まあ、なんで知ってるのかはこの際置いといてやるとして……ああ、間接的だが確かに襲われたな」
「僕も犯人の追跡やってみたんだけど……いや〜一瞬で気付かれて焦ったよ」
ソラは、ミスを笑顔で語る染章を殴りたい衝動を必死に抑える。怒りによってこめかみをぴくぴくと動かしながら、ソラは笑顔を浮かべた。
「それで、なんでそんな高いんだ?」
「そんなに怒るなよ……まあ、一つ面白いことが分かったんだよ」
「…………」
ソラが無言で先を促すと。
「本来だったら情報料を貰うまで話さないけど……まあ、僕と君の仲だ。特別にヒントをやろう」
そう言って染章はカタカタとキーボードを叩き、一つの画像を表示させる。映ったのは、闇に溶けるような黒い外套を羽織り、目深に帽子を被った人物。
ソラを襲った外套の人物と、全く同じだ。
「ほれ、これが君の戦闘を見てたやつだ」
「こいつが……?」
マンションの最上階にいた、犯人らしき影。そいつの正体が、襲撃者と同じ格好をした人物。
「つまり、こいつも死体ってことか……」
「ま、そういうことになるね。といっても、確かに犯人の意識はあっただろうけどね……」
「死体を複数体動かした上で、意識の分割か……」
中々というか、かなり厄介な能力だ。正確な内容までもは分からないが、現段階でこれだけの能力を保有しているのは、ソラにとって面倒にしかならない。
「……そして、これが一番重要なこと」
「なんだよ、そんな面倒くさい能力以上のことがまだあるのか……?」
「さあ、面倒くさいというより、喜ぶべきことなんじゃないかな」
楽しげな声音。
しかし、ソラにはそれが、ひどく歪に聞こえた。
「君はさっき軽く流したけどね……犯人は僕に気付いたんだよ?
告げられたのは、先ほどの言葉の繰り返し。だが、その言葉の重みは、先ほどとは比べ物にならない。
ソラの口からは、自然と掠れた声が出た。
「……嘘……だろ。いや、そういう
言い訳がましく首を振るソラに、染章は軽く言い放つ。
「それはないよ。犯人の
「だって、そんなことって……」
ソラは染章の言葉を聞き、分かった。いや、分かってしまった。
「くそ! 沙夜、帰るぞ」
「え、ちょっと、待ちなさいよ!」
ソラは静止の声を聞かずに階段を上がり、沙夜も慌ててその後を追う。階段を駆け上がる音が響き、やがて遠ざかった後。
薄暗い部屋には染章だけが残り、数回キーボードを叩く音が。
「実験、ね……」
ディスプレイに映った何かのデータを眺め、染章は憂いを帯びた声を出す。
「さて、ソラ君。君は何を選ぶのかな……」
染章は視線を少しだけ階段に移した後、再びキーボードを叩き始めた。
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