第一部
第一話 スローカーブ
1
「だから大丈夫だから。東京から電車で一本で来れるから。大丈夫だって」
四月、俺は神奈川に引っ越してきた。高校生だが、念願の一人暮らしである。これで毎晩夜更かししても怒られないぞ! というよこしまな理由を抑えて、母親には勉強と野球の両方に打ち込められる環境と言って、半ば強引に引っ越してきたのだ。
引っ越し先はアパートの一室だが、駅から徒歩十分。近くて便利だ。
ここに引っ越した理由は、一つに単純に母親から離れたかったこと、そして二つ目にここ神奈川の県立高校に入学したことがある。
中三の時にほとんどの人が直面する高校受験というもので、俺は地元の都立ではなくあえて隣の神奈川の県立を受験した。人から離れたかったというのもあるし、なによりこの高校は県立のくせに野球がそこそこ強いことで知られている。
まぁ県境を超えてまでして公立を受験した奴は見たことがないから、たぶん知り合いも一人もいないだろうし、本当に全く新しい生活が始まるのである。一種の高校デビューとやらかもしれない。
まずとりあえずは新生活になれることが大事だ。ガス、水道の位置は確認した。今後暮らしていく上では特に重要となる料理のスペックだが、家庭科の成績は大丈夫。料理は人並みにできる。……はずだ。だよな?
もともと家具は一式置いてあるという部屋に入居しただけあって、すでにだいぶ住みやすくなっている。
朝食に適当にスーパーで買った半額の六枚切りの食パンを食って、家を出る。扉を開けると太陽の光が差し込んできた。なるほど春は始まったということか。つい最近まで寒い寒いと言ってた記憶があるが、もらったばかりのブレザーがもうかなり暑い。
最寄駅から歩いて十分。
どの学校も桜はあるものなのだろうか。すでに割と散り始めている桜に迎えられて、期待と不安とを胸に校門をくぐる。
これが俺の歴史における高校生活のはじめの一歩である。誰も気にしねぇよ。
ところで、入学式といえば、三月以来の再会の日でもある。当然地元の中学から進学したっぽい奴はすでに楽しそうに話している。しかし、それも一部。大半は知り合いがいないかいまだに会えていなくて、そわそわしたままだ。
俺に至っては知り合いが誰もいないのを確認済みだ。地元からは遠いからな。進学実績とかもそんないいものじゃないし、わざわざここまで通うやつはいないのだ。
「新入生諸君は自立をうんぬんかんぬん……」
校長のありがたいお言葉を右から左に受け流しながら、適当に時間をつぶしていく。基本この手の話はつまらないものが多い。周知の事実だが。
一通りプログラムを終えた後、クラス別に写真撮影。その後、教員に連れられてそれぞれのクラスに誘導されていく。
俺自身、文化祭も何も見ていないので、見るものすべてが新鮮に映る。体育館から教室へ向かう途中にも桜が見える。桜好きすぎだろ。
しばらくして、これから一年間同じ教室で過ごす生徒全員が着席したタイミングを見計らって、担任と思われる教師が口を開いた。
「えーと、みんな、入学おめでとう。ここが新しい学び舎となります。私は担任の
と、妙に間延びした挨拶をしたのが、うちのクラスの担任らしい。見た感じ老けた感じではない。アラサーくらいかな……まあ教師の年齢なんてどうでもいい。
檜原先生は簡単にこの学校の設備を紹介した。立ち入り禁止区域とか。この学校のすごいところは校長室が立ち入り禁止区域内なことだ。強すぎるだろ校長。ラスボスかよ。
そのあとはひたすら先生の私情について聞かされた。先生、その年でいまだに未婚とか手遅れだと思いますけど。
「じゃ、さっそくだけど自己紹介でもしてもらおうか」
ひとしきり愚痴をこぼした後は、いうことがなくなったのか、始業式特有の暇つぶしを始めた。
まぁそんなところか……とは前から考えていて、とりあえず用意していた特技とかを脳内再生。よし、無難だ。
周りのやつが存外さらさらと進めていくのを聞き流しながら、俺まであと半分となったところで、不意に外で金属バットの音がした。俺の斜め前のやつまで順番が回ってきていた。
すっくと立ちあがった少女は恐ろしくきれいだった。白くてつややかな肌に、腰まで伸びた長髪。清純派の黒髪はその見かけには少し不釣りあいなうさぎのピン止め。
まごうことなき、美少女。
「
彼女がその自己紹介を終えた時には、俺はおろか、クラスの男子全員が彼女のほうを見ていた。見とれていた。
だから、続いた言葉はもっとクラスを驚かせることになった。
「久しぶり、
「え?」
唐突に呼びかけられ、たっぷり十秒ほど見合った。え? どういうこと? 俺はこんな奴と会った覚えなんてないぞ。そもそも女子と会話できないんだ俺は。知り合いとは思えない。だいたいこんな美人なんだから会ってたら覚えてるはずだろ。もしかして……
「整形?」
「は? 何言ってんの?」
「あ、すみません」
怖ぇぇぇ! なんだ今の。射殺されたかと思ったぜ。
「あ、えと、あのー…………そろそろいいかな?」
「あ、すみません先生。忘れてください」
「忘れられるか!」
冗談だったの? 冗談だったの?
「忘れるの」
「あ、はい」
ものすんごい目でにらまれた。もう鋭利という言葉では済まされない。なんかもう、ほんとに目が殺すぞって言ってた。あー怖。
「えーと、はい、じゃあ次の人―」
何事もなかったかのように進行させる先生。そのメンタルちょっと分けてほしい。
しかしつつがなく自己紹介は進んでいき、俺もそれなりに喋って、時間は過ぎていった。自己紹介が終わると、時計は十時を回っており、入学式の今日はもう終わりということで、なんだかよくわからない気持ちを抱えながら、記念すべき初登校は終わった。
まぁなんだ、端から高校デビューなんて単語は信じてもいなかったし、この一か月で生活態度や性格がもろもろ変遷できるとしたら、そんなやつは中学時代からそういう片鱗を見せてるっつーの。
俺の高校生活、暗雲である。
翌日。
よく晴れた。前日の予報では朝から小雨だといったのに、快晴である。晴れの日は無条件で気持ちよくなる。中学時代も宿題をやらなかった日とかはこれでスカッとしたものだ。むろんその場合は午後に教師から雷が落ちるが。
この素晴らしい日を、さらに彩る人影がある。世間的には、だが。
教室に入り、席に着――
「⁉」
刹那、左足に激痛。どうやら足を踏まれているらしい。痛すぎる。
「あら、ごめんなさい。ついそこにゴミ虫が見えたから思わず踏みつぶしてしまったわ」
「入学そうそう人をゴミ虫呼ばわりかよ」
「ん? ああ、よくしゃべるゴミ虫だと思ったら羽…………なんとかじゃない」
「名前憶えてねぇのかよ!」
なんて失礼な奴なんだ。
「え? なんで私があなたの名前を憶えなきゃならないのよ」
なんて失礼な奴なんだ!
「お前昨日俺にあったことあるとか言ってたじゃねぇかよ」
「そんなこと言ったかしらね」
「言ってたよ! 注目集めてたろ⁉」
「ああ、そんなことも…………ん? やっぱり覚えてないわね」
「えぇ⁉ 昨日の今日だぞ! 俺はもう今後ふと思い出して叫びたくなるような苦いトラウマになりそうだよ‼」
「…………冗談よ。覚えてるわ」
「なんだよ……」
五ノ神はブレザーの上着を脱いで背もたれにかけると、
「今日は四月十日よ。老人ホームじゃないんだから。そんなこと訊かなくてもいいのに」
とぬかした。
「そんなこと訊いた覚えはねぇよ!」
「なんだ、あなたも覚えてないんじゃない」
「話題が変わってるだろ!」
「じゃあ何なのよ羽村くん」
「だから会ったことあるって…………ん?」
「羽村くん、でしょ?」
「あ、うん、そうだけど。なんだ、名前覚えてんじゃねぇか」
「あなた、冗談か否かの区別もつかないの? どうやってこの世の中を生き抜いてきたのかしら。甚だ疑問だわ」
「っ!」
このクールな口調で冗談だったのかよ。まぁ、ここはそんなの見抜いてますって感じで取り繕っておこう。
「区別とか、つ、ついてたしー、余裕だから。マジで」
「……ごめんなさい。本当に哀れに見えるわ」
「言わなくていいんだよそういうのは‼」
俺ももうちょっとマシな言い訳するべきだと思う。危機回避能力が弱いな。
「じゃあ羽村くん。あなたが私に質問したんだから、私もあなたに質問していいかしら」
「なんだよまわりくどいな……で?」
「なに、簡単な記憶力チェックよ」
「お前もかよ」
「あなたが先にやってきたんでしょう、そんなこともわからないの?」
「なんで逆ギレされてんの俺」
俺が吹っ掛けたわけじゃなくてお前がとぼけたからだろ。
「勝手に怒り出したのはあなたでしょうよ」
「うるさいな」
ざわっ、と、外の木々が揺れた。
「六月三十日」
「…………が、どうかしたのか?」
俺はどうしたものかすこしあせって、なぜか無知を装う。
「覚えてない、なんて言わせないわよ。昨日の会話の話じゃないけど」
五ノ神はさっきまでのクールな表情と態度を変えずに、ただ雰囲気だけを変えて話しだした。
「その日が、なんだっていうんだよ」
「あなた、あの時、とある球場で野球やってたわよね?」
「…………まぁ」
「あなたは、送球エラーで最終回に逆転負けした。そうよね?」
「まぁそうだけど」
もうだいぶ昔のように思われることだが、脳裏には鮮明にフラッシュバックしてくる。なんでこいつがそのことを知ってるんだ……?
「そう……あなたがあの羽村くんなのね…………わかったわ、ありがとう。もういいわ」
「何が聞きたかったんだよ」
「別に」
「…………」
そこで言葉を切った五ノ神は床に視線を落とした。
「ところで」
「なんだよ」
「あなたはどうして私が整形だと思ったの?」
「マジ? 整形だったの? 引くわー」
この美貌が整形だったら萎えるわー。つーかこんなに作れんのかよ人の顔。
「そんなわけないでしょ、大体偽りの作られた自分で満足して何になるというのよ。だいたい鼻を高くしすぎて皮膚が破れてる人の画像とか見たことある? もう地獄絵図よ。はっきり言ってばかばかしい」
五ノ神は心底あきれたような表情をして、視線を下げる。
「…………お前、整形に関してなんかあったの?」
「別に。何もないわ」
「いや何もないわけじゃないだろその反応。尋常じゃねぇぞ」
「別に、あなたには関係ないから」
なぜか、はわからない。が、この言葉に少々イラッと来たのは間違いない。
だから、こんなことを口走った。
「……関係なくなんかねぇよ。同じ時間にいるんだろ。同じような状況を共有してるんだろ。それなら…………関係なくなんか、ねぇよ」
「…………そう、かもしれないわね。ごめんなさい。トラウマだったかしら」
「別に。単なる独り言だ」
「そう、わかったわ」
なぜ、こんなことをしゃべったのか、それはわからない。ただ、五ノ神亜美、という存在が、妙に俺の心にはしっくりくる、というか、どこか懐かしさを感じさせる存在だった。
「心身二元論って知ってる?」
「いや知らねぇな」
「まぁそうだと思ったわ。見るからに哲学を読まなさそうな顔してるもの」
「だいぶなめられてんじゃねぇか俺」
「舐めないわよ気持ち悪い」
「物理的な問題じゃねぇよ」
気持ち悪いな。
「まあ舐めろと言われて舐めはしないけれど」
「お前なに口走ってるかわかってるよな? な?」
「心身二元論っていうのはね」
「あ、語りだすのね」
「バカにもわかるように言うと、心と体は連携してるってことよ」
「なるほど、すごくわかりやすいね」
よくわかんないけど。
「つまり、体が変われば心も変わるの。それが整形という行為の意味なのかもしれないわね」
「お、おう」
こいつ、整形関連でなんかあったとしか思えないぞ。
五ノ神はそれ以降特に問うてくることはなかった。彼女が少々悟ったような表情をしているのが気になったが、彼女がそのまま本を読みだしてしまったので、こちらからさらに話しかけることはできなかった。
だから、あの時のことを彼女がなぜ覚えているのかは全く分からなかった。
横浜の湾岸にあるこの学校は、それでも四方が山に囲まれている。よって学校内には坂が滅茶苦茶ある。まるで長崎。これを三年間毎日上ると考えるとなぜこの学校を志望したのかわからなくなる。これシャレにならない。夏とか半端ないだろ。桜坂もとい遅刻坂と呼ばれる校門からつながる坂を走ったとしても、校門からダッシュして教室まで五分はかかる。なぜこんなことを語っているかというと、今まさにその危機に瀕しているからである。
三日目からこれである。中学時代から通算して遅刻は両手の指で数えきれない。高校はもうちょっとまともな生活したかったなー。だらしねぇなー。なんて、人ごとのように考えている。
階段を駆け上がって、教室に飛び込む。残り二十秒。危ない。
「あー、羽村くん、だめですよー、もっとはやくこなきゃー。まあ今日はセーフにしますけど」
「ありがとうございます」
「どうしたんですか、寝坊ですか?」
「すみません、起床のダイヤが乱れました」
「はいはい、意味わからないですよー」
軽く受け流された。鉄板ネタだろー。
現実逃避しながら息をととのえる。ひっひふー、ひっひふー。よし。
「あ、いたのね」
ホームルーム後になって、五ノ神が俺に話しかけてきた。
「え? 割と振り切った入場だったよね」
「いや? 置きに行ってたわ」
「マジで?」
「そう。前もって用意されていたような」
「いつか使えると思ってな、中学の時に二発撃って、二回とも大受けだったんだぜ」
「…………あ、すごーいすごーい」
「もういいよ……」
俺のテンションのダイヤが乱れている。うまいこと言ったつもりかよ。
2
ところで、今日は部活を見学する会が放課後にあるというので、俺ら新入生一同は体育館に詰め込まれた。
文化部の先輩が活動内容などを運動部より先に説明する。たまに実演、たまに寒いギャグで場を盛り上げたり凍らせたりしながら。
まぁ俺は部活やるなら野球かなぁーと、漠然と考えていたが、実演されるともう初心者はいらねぇよという暗黙のオーラがむんむんと漂っている。リフティングは三回であきらめたわ。
たいてい初心者歓迎とか言ってるところは基本ガチ勢がいるんだ。サッカーなんてその最たる例だ。だから人差し指でボールを回すな。バスケは体育で十分だ。
とか何とか考えているとここに座っているのが億劫になるし、野球部が始まるまでのこの暗澹たる気持ちをどうしてくれようか。
いっそ寝てしまおうか。なんて思って下にうつむいたところ、ちょうど野球部が説明を始めた。そうそう、これを待っていたのさ。
なるほど。初心者歓迎、か。ここも初心者駆逐型の部活のようだな。まぁ俺初心者じゃないけど。
野球部というのは週に5日間――割とハードだな――+試合前練習と活動しているらしい。入部届は今日中に出さなければならないので、とりあえず野球部の体験入部に出かけることにする。
終礼が終わり、おのおの目的の部活に足を運びだした。俺もグラウンドに降りようとしていたところ、後ろから声をかけられた。
「あなたは野球部に行くの?」
唐突な質問だった。
「おう、そうだけどお前は?」
お前とは、背後に立っていた五ノ神だ。
「私は特に決めてないけど、たぶん文芸部になるわ」
「へー、そりゃまたなんで?」
「私、本読むの好きなの」
「そうか、それはよかったな」
好きなことができる部活ほどいて楽しいものはない。俺も今のところ野球は好きだし、野球ができる環境が整っていれば間違いなく野球部に入るだろう。
「あなたは」
「ん?」
「あなたは、野球を続けるの?」
「なんでお前にそんなこと言われなきゃならないんだよ」
「だから言ったでしょ、私たちは一回あったことあるって」
「またその話かよ、いい加減にしてくれ」
五ノ神はどうやら俺と会ったことがあるという不確定の要素にかなり執着しているようだ。うっとうしいこと極まりない。
「……本当に覚えてないのね」
「ああそうだよ、だいたいそんな起伏のない胸は見覚えがないね! おっと」
「なんか言った?」
「すみません」
つい条件反射で謝ってしまった。
これまで怖いから一度も語ってこなかったが、五ノ神のちょうど胸のあたりには、女性特有の夢のある膨らみがちょっとばかり、いやこの際マジでいうとだいぶない。いわば絶壁。うーん、三点。
五ノ神は一瞬さみしそうな眼をしたが、すぐにいつものクールな顔に戻った。そして天井を見上げると、すぐさま俺に向き直っていった。
「あなたも、大きいほうが好きなの?」
「そりゃ、それなりにはあるべきかと」
「それなりって?」
「え?」
妙な食いつきだな。珍しいぞ。ここはちょっと遊んでみよう。
「それなり、というのは?」
「まぁ、いうなれば、人並みくらい?」
「日本人は平均Bカップくらいらしいわ」
「へー、知らなかった。そうなんだ、お前はどれくらいなの?」
「見ればわかるでしょう、それなりよ」
五ノ神はつつましやかな胸をぐっと前に突き出した。ほんと壁みてぇだな。うーん、三点。
「わかったわかった、はいはい、よく考えたら女子の前で胸の話するのもあれだからな、俺もう部活行くよ」
「あ、そうね、私も文芸部見に行きたいもの」
あれ? もうちょっと食いつくと思ったんだけどな……って、五ノ神との会話にそんな執着する必要もないなと思い直し、俺は教室を後にした。
ふと見上げて時計を見る。すでに四時前になってしまった。五時ごろまでの体験入部の時間をだいぶ五ノ神に持っていかれた。なんだあいつ、俺にくってかかってきやがって。…………あ、それは俺のせいか。
教室の目の前の薄暗い階段を駆け下り、その先の
グラウンドに至る階段は二つあり、野球部が練習しているあたりのグラウンドは下駄箱から右に曲がってハンドボールコートに至る階段を下る。野球部のグラウンド――校庭全体はサッカー部と兼用しているので実際は内野しか使えないが――にはバックネットが置いてあり、バッティングマシンとかも置いてあって、割と設備は充実している。
すでに体験入部自体は始まっており、野球部の入部希望者はすでに十数人集まって試合形式で練習する先輩を眺めている。
「いいよー、ナイスピッチ!」
パシン、という破裂音を伴ってピッチャーの先輩は返球を受け取る。
二球目を投じる。サウスポーだ。右足を上げ、大きく前へ踏み込む。ガシッ、というスパイクが土をしっかり食う音が聞こえるようである。
腰をひねる。左利きにしてはきれいなフォームだ。すらりと伸びる左手から投じられた白球は、まっすぐキャッチャーの手元へ届く――前に、ストン、と、打者の手元で落ちる。
フォークボール。
それも130キロ台と思われる。寸前まで勢いの衰えない、それでいて鋭く手元をはずす変化球。
衝撃なんて言葉では測れない。
打者のバットはまるで遊ばれたように空を切る。
県立高校にこんなピッチャーがいたという事実に、戦慄する。
「おっけ、調子出てるよ」
キャッチャーは何気なく返球。ピッチャーはその白球を自身のグローブに収めると、涼やかな顔を見せる。
それは、獲物をしとめる獣の瞳にも見えて。
その後も彼の奪三振ショーは続いた。途中わずかにランナーをためることはあっても、すぐに三振で抑える。五回までと決められた試合らしいが、途中から入った俺でも五個以上三振を見ている。
恐ろしい。それが最初の感想だった。
「よし、一年、集合!」
呼びかけたのはこの試合に出ていないキャプテンらしき先輩だ。
「今、試合形式の練習を見てもらったけど、入部後もこんな感じで、一年もボールを触った練習を中心にやっていくつもりだ。県立高校とはいえ、うちはセレクションも行っているくらい強いという自信を持っている」
初耳だった。セレクションしてたのかよ。推薦されたら勉強しなくてもはいれたじゃんこの高校。なんだよ推薦してくれればよかったのに。
「では、今日は見学だけだが、俺たちのプレーを見て、各人がそれぞれに刺激を感じてくれればそれでいい。じゃ、解散」
キャプテンのさわやかなあいさつの後も、見学時間は三十分くらい残っていたので、することもないし、先輩の練習を眺めていた。
内野までしかグラウンドがないからか、今度はベースランニングに練習を変えていた。
そろそろ帰ろうか……と思ったところ、後ろに人影を感じた。
俺は一度振り返ろうとしたが、思い出したようにグラウンドに向き直る。時間帯は夕方。海に面しているわけでもないのに、風は止んでいる。
「何の用だよこんなところまで」
「ベースランニングでは、特にベースを踏み越えるときにいかに効率よく回れるかがカギとなっているわ」
「何語りだしてんだよ」
「私はこの基礎練習、嫌いじゃないわ」
「……お前、文芸部はいいのか」
「見に行ったわよ。素晴らしかった。文字列というのは人の心をつかむことができるのね」
「お前高校生ごときの文章で感動したのか?」
「何を言っているの? 文芸部は本を書くだけじゃないのよ。知ったかぶりはやめなさい」
「……読書するだけってのもありなのか」
「ええそうよ」
「そんなの家でもできるだろ」
「家でできることをやっちゃダメなの?」
「少なくとも俺は家では野球やらないからな」
部活っていうのは、自分の特技を磨くとか、リフレッシュとか、それぞれにやる理由はある。が、そこには家でできないことをできる良さ、優越感が付随してくる。そういうものだ。だから部活をやりたいと思うのだ。
五ノ神はどこか一点を見つめる。遠い、俺には見えない一点を。
そしてつぶやいた。まるで鏡のような水面にしずくが一滴落ちたように、ぽつり、と。
「そう。……幸せなのね」
「え?」
予想外の反応だった。
「なぁ、それってどういう」
「そういえば」
初夏の風に揺れる髪をかき上げながら、淡々と、報告のように、されどたっぷりと間をあけて言った。
「斎藤君が、F組にいるらしいの」
「……どの斎藤だよ。斎藤って苗字なら全国にたくさんいるだろ」
「あなたがバッテリーを組んでいた、斎藤くんその人よ」
中学時代、バッテリーという言葉が脳内にループする。
「……なんでお前がそのことを知ってるんだよ」
俺の問いに、五ノ神は一瞬目を曇らせたが、すぐにいつものクールな目つきに戻って、
「風のうわさよ」
と言った。
「違う、中学の時の話だよ」
「それはね」
五ノ神は俺が何度も聞いたフレーズを繰り返す。
「私があなたの幼馴染だから、よ」
「お前何者なんだよ」
背後にはもう五ノ神の姿はなかった。
ところで、出会いというのは概して唐突なのである。数年前に引っ越した友達に、家族旅行の出先で偶然再会とか、なんかの試験で隣り合わせになった人と偶然意気投合、そのまま恋人同士に、みたいな。まあ後者はさっさと爆発してくれればいいのだが、ともかく偶然というのは予兆なく起きるのである。
しかし、唐突じゃない偶然――裏を返せば必然――も世の中にはあって、雨の日の決闘の後にがっちりと握手、また会おうな、的な。そんなものは現実にあるかよ、と言われればそれまでなのだが、実際あるのだろうと信じている。
つまるところ、この後起こる出来事は偶然なのか必然なのか判断に苦しむが、たぶん後者だったのだろう。よく思い返せば予測できた未来だったかもしれない。
翌日。
今日は本入部初日。心なしか生徒のテンションは高い。俺もそんな洋風なところに泊まりたいなー。すごいきれいなんだろーなー。それはペンションだろ。
いつもより一層退屈な授業を終えて、ホームルームで担任が本入部の流れを説明した。
「でねー、私も若いころは各部からひっぱりだこでねー、人気者だったんだから―。ほんとよー、ほんとだからねー? なんで彼氏もできないんだろうね……」
檜原先生はそうつぶやいた後、静かにうつむいた。やめろやめろしんみりすんな。クラス中が妙な空気になってるじゃねぇか。どうすりゃいいんだこれ。迷宮入りしちゃうよ。
全員が考えあぐねて、「あっ、ごめんねー、勝手に話し出しちゃって」と先生に付け加えられるまでの十秒間くらいの沈黙はまさに地獄絵図。もう二度とごめんだ。
きりーつ、れーいと気の抜けた挨拶を済ませた一同は、それぞれ入部すると決めたところに向かう。中学時代と同じものをやるという生徒は寸分の迷いもなく彼らの入るべき部活を見つけ、それぞれが自分の居場所を見つけていく。
俺もそのような生徒の一人で、すぐに階段を駆け下りて野球部のグラウンドに向かう。なるほど野球というのは国民的スポーツのようで、すでに二十人ほどが集まっている。昨日先輩が言ってたように、県立の中では一、二を争う強豪校であるここ高校は、県立のくせにセレクション、つまり野球推薦が用意されているのである。
俺もそれで受かっちゃえば二次関数なんてやんなくてもここに入れたのになーとか思っちゃっている。しかし入試の前にはxとは友達になったからいっか! よくねぇよ。
推薦組との顔合わせは今日が初である。彼らはAからEまでのクラスには在籍しておらず、F組という特別クラスで授業を受けている。それは彼らが特別扱いされているのではなく、半年勉強してないんだろ? じゃあ授業のレベルはこれくらいにしとくよ? っていう半ばなめたような制度である。ほんとなめてんな。
でも授業内容は他と大して変わらないらしい。どんなツンデレだよ。
「はい集合ー。えーっと、お前らが今日から入部の新入生だな、よし、これから部室に案内するから、ついてこい」
後ろを振り返ってざっざっと歩を進める部長に新入部員一同がぞろぞろと続く。もう気合を入れて坊主にしてる奴がいる。すごい。俺は丸刈りにしたあと天パみたいになるといううわさを聞いてから丸刈りをやめた。あれほんとなの? 知ってたら最初からそんなことしてなかったよ? だいたいそうだとしたら小四まで丸刈りだった俺は手遅れなんじゃないか? とか思うと元も子もないので考えるのをやめとする。逃げたわけじゃないぞ。
先輩に連れられて到着した部室は、他校のそれと特に変わりなく、ロッカーが設置されている。
「よし、全員入ったか、これが俺らの部室だ。明日からはここにきて着替えてもらって、それでいつでもプレーできる体勢でグラウンドに来てもらう。もちろん教室で着替えてもいいんだが、それはほら、いろいろあるだろ? 以前男子校から進学した奴が教室で着替えだして騒ぎになったらしい。気をつけろよ」
エキサイティングだな男子校。
さっそく着替えて十分後に集合という部長の鶴の一声で、新入部員はそれぞれ着替え始めた。俺は手早く持ってきたジャージに着替え、グラウンドに降り立った。
昨日も使われていたはずのグラウンドは整備されていて、ほぼ平らになっていた。
先輩たちは一足先に練習を始めていて、基本の練習なのだろう、ノックを行っていた。
監督らしい人物が放ったサードゴロを手慣れた動作で捕球、一塁へ送球したわが部長は、自分の練習を終えると一年のもとへ駆け寄ってきた。
全員の集合を確認すると、部長はまず監督にあいさつに行くよう指示した。
「これから嫌でも二年半くらい顔を突き合わせなければならないんだ。最初のイメージから悪く思われるなよ。いやほんと」
と、部長は最後にこう付け加えた。目がうつろである。なんかあったのか?
意味深な言葉を残しながら練習に戻った部長につられるように、俺たち新入部員は監督のところに走って行った。
監督は部員を一人ひとり眺めた後、これからよろしく、といった定型のあいさつと、自分の名前が
そして選手全員の自己紹介を求めた。
「じゃあ左から、適当に始めてくれ」
やばい。俺が五番目くらいになった。どうしよう何言えばいいんだろう。
とか俺が脳内で右往左往していると、指示された最初の生徒が自分を語りだした。
「一年B組、
やけに緊張した面持ちだったが、対照的に無難なことを言った。そんなもんでいいのか。
型さえあればなんとでも応用できる。高校生にもなればそのくらいできるようになるのか、全員それなりに――むろん俺も適当に受け流して――語り終わってスムーズに終わっていった。
それでは早速、と監督が勧めたのは先輩に交じってのノックだった。
ところで、このグラウンドは内野までしか取れないということで、外野フライの守備練習は週末とかサッカー部が休みの時にやると聞いた。ただ、サッカー部が休みなんてのはほとんど奇跡レベルらしいので、基本内野のノックしかできないということも聞いた。
前の先輩が軽々と処理していく中、我々一年生も経験者は軽快な守備を見せる。
俺の番になった。監督が左手を上げて声を上げる。具体的には聞こえないが、たぶん「いくぞー」とでも言っているのだろう。
硬球が金属バットに接触して甲高い音を上げる。一筋の閃光のような強い打球。
目の前で小さくバウンドしたところをグローブで素早く捕球。グッ、と手首が後ろに押される。県立とはいえベスト八まで上り詰めたこともある強豪の監督のノックは、それを証拠づけるかの如く重みがある。
足元におろしていたグローブをすぐに胸元まで上げる。右手をグローブの中に突っ込み、ボールを探し出してつかみ、正確な送球を一塁手めがけて投げる。
我ながら完璧な守備だった。
一塁手がボールを捕ったのを確認して、元の列の後ろに戻る。並んだ位置はショートのあたりだったので、今の一球を投げるのにも大分力が必要だった。
断続的に続く小気味いい金属音に、革と硬球の接触音がリズムよく呼応する。さながら合いの手のようだ。
が、それも未経験者の前では違う。
ゴロの捕球の基本がなっていなく、目の前でバウンドした球をもろに体で受けてしまった生徒がいた。さいわいにも胸のあたりだったので大事には至らなかったが、部活紹介の時のように、本当の初心者歓迎はされていないようだった。
そのあと、十数回守備の順番が回ってきたが、いずれも危なげなく捕球、送球を繰り返した。
時計が五時を少し回ったところで、監督の招集がかかる。
「よし、一年、今日はここまで、お疲れ」
「「「ありがとうございました‼」」」
「明日から基本毎日ここに来るように。スペースは狭いが、基礎練習は他校の数倍やるからな。それと」
監督はここで言葉を区切って、
「ゴールデンウィークに一回は一年だけで練習試合やるからな、よろしく」
と、さも何でもないように言った。
練習試合。それも一年だけということは、入部したての俺らにもすでに序列をつけようとしているということであり、それはつまり、俺らの背番号にもダイレクトにかかわってくることだ。夏はおろか、この印象次第では秋の進退にもかかわってくる。ということか。
ざわ……ざわ……
状況を察した周囲の部員は、興奮と不安に駆られて複雑な心境になっているようだ。
無理はない。
しかし、唐突な試合宣言だったが、久々にまともな野球ができるといった高揚感が、不思議と俺の感情を平静に保っていた。
野球部が使っているグラウンドは狭いが、見わたしてみれば他校より大きめだ。広大なグラウンドに、ごうっ、と突風が吹き、砂煙が起こる。粉塵が目に入ったのか、瞬間ボールを見失ったサッカー部の人が怒られている。理不尽だ……
この時は忘れていた。いや、忘れたかったのかもしれない。
五ノ神の言っていた、斎藤の存在を。
半年前の、相棒を。
3
翌日。
四限に英語の授業があった。担当は担任でもある檜原先生だ。
高校に入っても、しばらくは中学の復習が中心で、基本的に寝てても理解できたのだが、最近はさすがに高校の範囲に入ったようで、少し難しくなっている。えーとなになに…、目的語がOで主語がSで……? Cが炭素…………違うこれ理科だな。
英語の授業といえば、恒例は「隣の人と会話練習」だ。
檜原先生は、新クラスの親睦を深めようとでもしているのか、これを多用してくる。今日もその方式がとられた。
別にそんなに苦でもなかったこの練習が、突然嫌になったのは、隣のやつが五ノ神になってからだ。なんでも、俺の後ろの席のやつが視力悪くて前じゃないと黒板が見えずらいとか。そんなに視力悪いならメガネかけろよこの野郎。
五ノ神との対話練習において嫌なところは、俺が言った後にいちいちワンクッションおいていくところだ。
たとえば前回。
「えっと……『私はリンゴよりミカンのほうが好きです』」
「へぇ、たまにはましなこと言えるのね」
「これくらいは言えるわ。まがりなりにも高校生だぞ」
「あぁ、そういえばそうだったわね。普段の授業の様子を見るかぎりだと高校生には見えなくて」
「どういう意味だよそれ」
「言葉通りよ」
「…………」
はたまた前々回。
「『私はサッカーより野球がしたいです』」
「まぁあなたはサッカーしそうに見えないから妥当ね」
「うるせぇな」
「たとえ地球が滅んでも野球をしていそうだわ」
「どういう意味だそれ」
「地球の未来より自分のことを考えるなんて……」
「おい、自己完結して勝手に引くな」
みたいな。
こんなん英語の練習じゃねぇ。メンタルトレーニングだ。
今日もそんな対話練習を迎える。
「たまにはさ、お前からやってみるのはどうだ」
「いいわね、新鮮味があって面白いと思うわ」
「新鮮味っつーか、いつも俺が語って終わりだからな」
「語ってはないわね、あの程度で語ったというなら私はもう教祖レベルよ」
「わかったわかった。ハイ教祖様ー」
「……なんかムカつくわね」
「勝手にムカついてろ。てか早く始めろよ」
「わかったわ。えーっと、『World eventually the face is all.』」
「は? 何言ってんのお前」
「あら、英語わかんなかったのかしら?」
「あぁまぁそれもあるけど」
「けど、なにかしら?」
「今日の単元って比較だよね? 今全然違うこと言った気がするよ?」
「あら、そうだったかしら」
「うん、だってワールドとかいべんちゅ……なんとかとか聞いたことないし」
「それはあなたが悪いわ」
「まぁ語彙力の問題かもな」
「そうね、ちなみに実際さっきのは『世の中結局顔か』よ」
「顔? お前の場合心配すべきは別にあるだろ」
「? 何のことかしら」
「それはもちろんそのぜっぺおっとなんでもない」
「…………」
「いたいいたい、上履き踏まないで、あ、ちょ、いたい、とてつもなく痛い‼」
「ふんっ、反省ね」
「俺は本当のこと言っただけだ」
「うるさい」
「はいすみません」
指がもげるかと思った。どんな怪力だよ。
そんな諍いがあったからか、お互いになんか気まずくなり、それ以降授業で俺と五ノ神は英語で会話することも日本語で会話することもなかった。
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