(7)
保冷剤で冷やしてから寝たけれど、夜に散々泣いたから朝に起きた時にはもちろん目は腫れていて。結局、泣き腫らした顔で出勤した私は、就業後夏帆に捕まった。さやかや里見の心配そうな視線も感じてはいたのだけど、多分夏帆に一任されたのだろう。
夏帆に聞かれるままに昨夜の事を話すと、夏帆はほっとした顔で息をついた。
「じゃぁ、泣かされたんじゃないのね?」
「うん、むしろ……」
「むしろ?」
むしろ、抱き締めてもらったのは、どう受け止めたらいいんだろう。先生は、私がどんなに泣いていても抱きしめてくれたことなんて無かった。頭は撫でてくれていたけれど、それ以外に先生が私に触れたのは、一度だけ涙を拭ってくれた時だけだ。
「そりゃ……まぁ、泣いてる女の子は抱きしめたくなるもんだよ。ねぇ、翠とその人ってさ、元々はどういう知り合いなの?」
私は夏帆に会っている相手が、高校の頃の先生だと言うことを言っていなかった。なんとなく、先生の事をずっと誰にも話さずに居たから、教師と元生徒というこの関係が、他の人にどう受け止められるのか不安になってしまって、口に出せずにいた。
「えと……、高1の頃に付き合ってた人と別れたときに、色々聞いてもらってた人」
私が道又先輩と別れた本当の理由を知っているのは先生だけ。手紙をくれた先輩の事も、渡辺君の事も……知っているのは先生だけ。
「ふぅん…… その頃はさ、向こうから何か言われたりしなかったの?」
「なんにも言われたこと無かったんだけど……」
あの頃、先生は私に何も言わなかった。先生は保健室にすら行けない私に安心できる場所をくれた。あの頃の先生と私の関係は、男女とか、好きとか嫌いとか、そういうものではなく、大人として子供だった私に安全な場所をくれていたのだと思う。私が勝手に恋愛感情を持ち出して、壊してしまったのだと思っていた。だけど、昨日先生に言われたことは、聞き返すことはできなかったけれど、聞き流すことも出来ていなかった。
「昨夜何か言われたの?」
「えっと……散々悩んで踏ん切り、つかなかったって」
「悩んでって、好きか嫌いか悩んだってこと?」
「そうかもしれないけど、でも……」
踏ん切りの意味は、そういうのとは違うのだと判っていた。先生が躊躇ったのは、私が生徒だったことと、1年以上も会いに行かなかったことと……一番は、先輩との事を知っていたからだ。そう思うと、胸が痛い。あの頃私が逃げたりしないでちゃんと先生と会ってたら、私と先生の関係はどうなっていたんだろう。夏帆と話しながら、もう私と先生の関係を黙ったままなのは限界なのを実感する。
「夏帆、あの……ね。引かないで聞いてくれる?」
「うん?」
「あのね、先生……なの」
「え?」
聞き返してきた夏帆に、意を決してもう一度。
「私が会ってる人、高校の頃に一番仲が良かった、先生なの」
「……担任の先生かなんか?」
「ううん、担任でもなくて、授業も受けたこと無いんだけど、毎日放課後に会いに行ってて、凄く仲が良かった先生」
夏帆の表情は、それ微妙と告げていた。
「もっかい、昨夜の話聞かせて」
昨夜先生に言われたことをもう一度、今度は尋問のように聞かれた。
「連絡くれたの彼なんだよね?」
「うん」
「翠、ちゃんと確かめた方いいよ。だって、殆ど告られてるじゃん。昔踏ん切りつかなかったなんて、その辺の同級生に言われるのと教師に言われるのは重さが全然違うじゃない」
夏帆の声は、凛として真っ直ぐだった。
「もう教師と生徒じゃないんだから、彼が今翠の事どう思ってるのかちゃんと確認したほうがいいよ」
翠は、彼のこと好きなんでしょ?と夏帆の声が、耳に響いた。
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冷たい風が頬をなでる。緊張した心を沈めるように深呼吸して、私は発信ボタンを押した。耳に響くのは、無機質な呼び出し音。
仕事中かな? 電話出てくれるかな? やっぱり迷惑かな…?
そんな事が頭を巡る中、呼び出し音が止まった。
「北川?」
聞こえてきた先生の声は、少し固い声音。やっぱりまだ仕事していたかな、と少しだけ気が引けた。
「せんせ、まだ仕事してた?」
「ん、まだ学校。どうした? お前、今日は用事あるんじゃなかったのか?」
「そう、だったんだけど。……ドタキャンしちゃった」
予想通りに菊池君はさやか達に声をかけていて、二人からは飲み会に行くよと声をかけられていた。だけど、夏帆に「菊池のペースに巻き込まれてる場合なの?」と一蹴された。
「大丈夫なのか?」
「うん。もともと、行きたく……無かったし」
「そっか」
途切れてしまった会話と、訪れた沈黙にずっとドキドキとなっている心臓が更に加速する気がした。
「先生」
「ん?」
「あのね、私、先生に聞きたいことあって」
「なに?」
「それで……その、会い……たいんだけど」
会いたい、その言葉を先生に言うのは……初めてだった。昔は会いたいときに、会いにいけたから。待ってたら、会えたから。でも、今は違う。言わなきゃ、ちゃんと先生に時間を作ってもらわないと会えない。
「お前、今どこ?」
「ええと…学校の近くの、駅」
一瞬間があって、先生が小さく笑った。
「キリがいいとこまで片付けたら迎え行く。少し待ってな」
「うん」
切れた電話を片手に、私は目を閉じた。
言っちゃった。聞きたいことあるって言っちゃったし、呼び出しちゃった。もう、後戻りできない。
襲ってくる不安にぎゅっと自分の身体を抱きしめた。先生から「今から行く」とメールが届くまでの20分ほどの時間が2時間にも3時間にも感じられた。
ロータリーに滑り込んできた、先生の車がウインカーを上げて停まる。助手席のドアを開ける手が、かすかに震えていた。助手席に座るのは、二回目。昔は座らせてもらえなかったその場所に座ると、先生の手がくしゃっと頭をなでた。
「会社でなんかあったのか?」
何かと言うほどのことは無かったから、首を横に振る。
「飯は?」
「まだ」
「じゃ、先に飯食うか」
聞きたいことがあるといって呼び出したのに、そんなことには一切触れずに、車は走り出した。
私から呼び出したんだから、ちゃんと話さないといけないのは判っているのに、どう切り出して良いのか判らなくて車の中で会話はない。静かな車の中に、ヴーヴーッとスマホの音が響いて、いつまでも鳴り止まない呼び出し音に渋々と鞄の中から取り出すと、さやかからだった。だけど、さやかの電話で菊池君がかけているのだろうと想像がついて、電話には出ずにサイレントモードに切り替えた。
着信履歴を確認すると、しばらく前にも着信があった。そして、また私の手の中で大きな画面が点灯する。
「……電話、出ていいぞ?」
首を横に振った。出たくなかった。先生と居る時間を邪魔されたくなかったし、こんな静かな車の中で出たら先生に電話の声は殆ど聞こえてしまいそうだと思うと、尚更出ることなんてできなかった。
静寂に包まれた車内、先生がゆっくり口を開いた。
「北川。昔も言ったけど、お前はたまたま最初の男が最低だっただけだから。そんなに誰も彼も拒絶しなくて大丈夫だぞ」
私が電話にでなくても、先生は電話の相手が男の人だと気づいてたのかもしれない。私は、俯いて唇を噛むしか出来なかった。
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