さよならのままでも

@tyunio

第1話



さよならのままでも


 


「なぁ、やっぱり祭りっていうのは暑苦しさと妙な高揚を子供のようにかみしめるものだろ。」


アイスを齧る小麦色の肌をした青年は、夏の風物詩への長年の願いとは裏腹な思いを言葉に移し替えてぽろぽろと零していた。


際限のない青さに浮かんだ雲は、映画のワンシーンを心に反映させた。山の上に位置する高校に通う僕らは、日常と非日常の中を往復する日々を斜め読みで過ごしていた。


「祭りかぁ・・・」


確かに、子供の頃はそうだったのかもしれない。今でも、祭りに変わらないものを求めて見渡しても、ガラス越しの風景の中では、いつもどこか白黒で、夏の暑さなのだろうか、それとも渇いた心がそうさせるのだろうか、いずれにせよ、祭りが少しさびしいものに感じられた。


何よりも行くたびに、自分の背丈に見合うものを持っていないことを思い知らされるような気がするからだ。


それでも、屋台独特の年季の入った匂い、子供たちのはしゃぐ姿に落ち着いてしまう自分がいることも否定はできない。


「おい」


祭りに対する斑な心を一つ一つ汲み上げている僕をよそに、7月の暑さに晒された溶けかけのアイスを、俯いたままの僕の頬っぺたに押し付けてきた。


「うわぁ」


「何すんだよ!」


思わず出た、間の抜けた声を誤魔化すように制服を器用に着崩した小麦色の青年に威嚇した。


「人の話も聞かずに、このクソ暑い中、爺さんみたいにしたばかり向いてるからだろ」


「だからって、それはねぇだろ・・・」


あまりの理由に半ばあきれる僕の言葉を左手で、遮って


「いや、まて・・・・・ 当たりだ!」


満面の笑みを浮かべた18歳の高校生は、青くなっていく舌をよそに、何てことない木の棒一つ持って、映画のワンシーンに消えて行った。


「はぁー、またか」


わかってはいる。長年彼の友人をしているが、気が付くと彼のペースに持ち込まれてしまうことを。小さな反撃は大きな一撃を伴って、自分の失敗は棚に上げることしばしばだが、何かと気を配っているのだろうか、落ち込んでいるときは、多くを語らず、少しだけ背中を押してくれることもある。子供っぽくあり、気を配る彼をこれからも憎むことは僕にはできないと思わされるのも少し癪だ。


「それにしても、祭りか・・・」


先程とは違う、二つ目の祭りの思い出が、また少し胸を焦がしていった。


陰りを見せる空を仰いだまま、胸の暑さを外に吐きだした。


「嫌いの方が楽だから、そのままで、さよならのままでよかったのだから。」


手を振って駆け寄ってくる、18歳の少年の声は、夏の匂いをまとった綿あめ模様の空に溶けて消えた。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


海底のオルゴール


 


「ほら、たちなよ」


トントン、机に突っ伏すお世辞にも華奢とは言えない背中をつつくのも、そろそろ飽きてきたころだ。高校二年生から幾度となくこの行為を繰り返してきた。もはや、強制に近いのだが。


さすがの彼女もクラスの白い目をむけられては、どうしようもないようだ。ムクッと起き上がると、不機嫌そうにこちらににらみを利かしてきた。


僕に急かされたこと、今の授業が彼女の苦手とする数学だったこと、それが、彼女の唇をだんだんと尖らせていった。


それを見た時、鼻が伸びていくピノキオが浮かんだ。いや、浮かんでしまったというべきだろうか。そこまでならまだしも、唇が尖っていく彼女は後どれだけ不機嫌にすれば、つぼみが出てくるのだろうか。でも、彼女のアヒル口なら、あるいは羽でも生えてくるのだろうか。


そんなくだらない想像に不覚にも笑ってしまった僕は、気が付けば、牛乳メガネの先生の前で、ぺこぺこと頭を下げていた。


「あなたは、何度言ったらわかるのですか? もういいかげんにしてくださいよ。」


新参者の僕とは違い常連の彼女は、牛乳メガネの先生の彼っているのか、勘弁してくださいと懇願しているのかわからないほどの言葉を受け流して、変わらない間抜け顔をちらつかせていた。綺麗な顔立ちでえくぼが売りの彼女に対して好感を持つものは少なくはないだろう。何気ない瞬間とのギャップは感慨深い深いものがあるが、僕の中で記憶に新しい彼女は、机に突っ伏した姿か、僕に八つ当たりしてくるピノキオぐらいだろうか・・・。


「すいません、以後気を付けます」


壊れたスピーカーのように繰り返されたその言葉に、牛乳メガネがバランスを失ってしまった。


「その以後、以後って、いつのなるのかしら・・・だいたい.・・・」


口ぶりからして教師は、どうやら彼女の事が相当気に食わないみたいだ。それは、彼女の常人離れした天才的な頭脳と授業を子守唄としか認識していない図々しさからであろう。


その姿ゆえ、一目置かれるどころか距離を置かれる彼女はいつもどこか退屈そうだった。


「失礼します。」


「え、ちょ、まちな・・」


伸ばしかけた腕と声は、勢い良く閉められた木製のドアによって隔てられた。


呆然としているのは先生だけではなかった。無論僕もだ。声にはしなかったが喉元まで、言葉が上がってきていた。


共犯者だった二人が単独犯になってしまった。この怒りが僕に向けられると思ったが、いい意味で僕の予想を裏切ってくれた先生は、ねじが止まった人形のように牛乳メガネが垂れて今時珍しい木製の床にへたり込んでしまった。


「はぁー、ため息もでないわ。」


真っ先に出てきた笑いをかみ殺して、構ってくれと言わんばかりの呟きを、いつものように心配をしたふりをした。偽物の仮面をかぶって、偽物の言葉をかけた僕は、彼女のせいで酷く疲弊した先生をさながらに三歳児の様にあやし、牛乳メガネを水平に保たせて、裏切り者の彼女についで教室を後にした。


生徒指導部を出た僕に下校時刻を告げるチャイムが茜色に染まる人気のない校舎でこだました。少しの間時間を奪われたような感覚に陥ってしまった。


曖昧な気持ちを思い出すのは、独りで綺麗なものを見た時のような気がする。


錦冠が夜空を泳いでいる。群衆は、その色とりどりの世界と鈍色の空を行き来することに息をのんで楽しんでいる。


感動しないわけじゃない、本当にきれいだと思った。なんせ久方ぶりに打ち上げ花火を見たから。錦冠が泳いだ10分間、見ていたのは朝顔柄の浴衣を振りまく、さっきの彼女よりも小さくて大きな瞳をした、あの子だった。


 


 


 


 


 


「海底に沈むオルゴールって知っている?」


僕を呼んだのは、ある日の女の子ではなく、先程まで共犯者だった裏切り者だった。現実に引き戻された僕は、あっけらかんとした彼女の表情に視線を移した。


「オルゴール自体、あまり聞いたことがないのだけれど・・・」


僕の予想外の答えは、天才の首を傾げさせてしまった。仕方が無い、知らないものは知らないのだから。


「うーん、そうきたか・・・ あ!えっと、そういえば」


高くて心地のいい声が、校舎に響いていく。こだました音が消えかかるころに、何かにひらめいた彼女は、ありふれたスクールバッグから、煉瓦一個ほどの少しくすんだ金色のオルゴールを取り出して、僕の前に突き出してきた。


「はい!」


「はいって言われても・・・」


重っ・・・


手渡された僕は、予想を超える重量に受け取った右手をひどく下に後退させた。こんな重いものを四六時中持ち歩いているのかと思うと、天才の一言だけで説明できない何かを彼女は持っているようだ。


「ここのねじを引いて、ここを開いて聞くだけだから。」


受け取った金色のオルゴールはくすんでいるとはいえ、美しく、宝石箱のようにも見えた。


オルゴールへの温度差が少し埋まったところで、急かす彼女に従うと高く細やかな音が奏でられていった。


僕は昔から、感動に疎かった。辛い物が得意とか、そういう類のもので感動が得意なのである。だからもし僕が普通だったなら、さっき思い出すのは、空に舞う錦冠だっただろうに。


「どう?これがオルゴール、綺麗な音色でしょ?」


「うん、確かに、最高だよ」


不意の問いかけに、彼女に対してまで仮面をかぶってしまった。


「オルゴールがわかったところで、海底のオルゴールっていうのは、あるお話なの。」


「へぇーそれはすごいね。」


「ちゃんと聞いて」


耳を引っ張られた僕は、正直言ってどんなオルゴールでもよかった話を聞かされることになってしまったみたいだ。


「続けるけど、その世界の中に住んでいるみんなは、誰しもオルゴールを持っているの。それで、感情を表すことができるの。ちょうど今でいう、言葉の様なもの。それで・・・」


「ちょっと待て」


頭の中がはてなでいっぱいの僕を知ってか知らずか、彼女はひたすら話を続けた。


要するにこういうことらしい、彼女がまだ幼い時に父に聞かされた話で、さっき見せてくれたオルゴールはその時に父にもらったものらしい。


そして、そこに住む住人達は言葉が話せない代わりに、オルゴールを使って意思の疎通を図っていたようだ。そんなメルヘンチックな世界に、オルゴールを持っていない少年が居たそうだ。その少年の名前はシギルだということ。


「でね、そのシギルのオルゴール、どこに行ったと思う?」


「うーん、なくしちゃったとか?」


目を見開かせて、こっちを見上げる彼女は悪戯っぽい表情をして手をクロスさせた。


こいつが出す問題だから、正解させる気など微塵もないことはわかっていたのに。それでも、適当な答えを出してしまったことに後悔した。


「聞きたい?ねぇ、聞きたい?」


もったいぶった彼女は、いつもより調子が良さそうに顔を覗き込んできた。それでも、彼女のこの話に付き合う気はさらさらなかった。


彼女に対して仮面をかぶってしまったこと、やけに思い出をひっくり返してしまったこと、そんな今日を早くおわらせてしまいたいとまで思っていたから。


「やっぱり変ねキミ。変なのはいつもだけど、私を見てるようで遠くの誰かを見ているようね。」


だんまりしていた僕に放ったその言葉は、彼女の周りはおろか、校舎中の時間が止まったようにも思えた。やはり、彼女は天才であり。隠し事はできないのだろう。


「わかっているなら余計に聞かないでくれよ。」


そういって、僕は彼女に背を向けたて茜色を失う校舎を出ようと、階段を下り靴箱に手をかけた時。


「食べたの。」


彼女は、少しだけ息を切らして僕の背後に立っていた。


「彼は、食べたの。一生誰かに喜びも悲しみも寂しさも伝えられないことを選んでまで。どうしてなのかしら。私にはわからない・・・でも、あなたにはわかるんじゃないの?」


小首を傾げた君は、諭すように僕にその言葉を送ってきた。その言葉は僕の灯りをともしかけて、灰になっていった。


「それは・・・ きっと、誰かに見て欲しくて、遊んでたらのんでしまっただけじゃないのかな。」


わざとバカを演じた右半分だけの笑顔を浮かべた僕は、今度こそ彼女の場を去った。


「うそ。。。」


彼女は人気のない校舎に消えて、呟くように言った彼女の言葉だけがその場に残った。


一人で歩く帰り道に7月の明るさをのみこんだ夜に月がさしている。


「海底のオルゴールか・・・」


差し込んだ光は、闇に沈む僕を照らしてはくれなかった。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


Long long ago         


 


どうして、祭りが楽しみでなくなったのか、別に楽しみでないわけじゃない。ただ、いろんなものが目の前を霞むから少し憂鬱な気分になるだけだ。


大阪に住んでいた頃は、夏の匂いに誘われて、何度も祭りに出かけた。大事に握りこんだ1000札のしわの分だけ何を買うか考えて、口の周りにソースの跡をつけては、母に注意されていた。


そんな祭りの中でも、小学校での祭りは格別だった。子供ながらに永遠の時間を望んでいた。祭りの後の寂しさを知るのが嫌だったから。


でも、そんな日々は、時間は、父の離婚を機に淡く溶けていった。


京都に移り住んで、慣れない土地の中で薄っぺらい友人との会話には、負の感情だけが付きまとっていた。


自分を繕うことに慣れていなかった僕は、敵を作ることばかりうまくなってしまった。その中での、数少ない友人たちはそんな自分を認めてくれる存在でもあった。


二つの天秤をいったりきたりし過ぎた僕は、家庭環境もあいまってか、ついに僕自身に耳を塞いだ。そして本当の自分と引き換えに、偽物の自分を二つ手に入れたのだ。


誰とでも仲良くできる笑顔と、誰にでも優しくできる言葉を。


つかっちゃいけないものだと始めからわかっていたが、それでも、手を伸ばすのにそう時間はかからなかった。


そのおかげで、もっと薄っぺらい友人が出来た。それは本当の自分を認めてくれた存在と引き換えということに。自分以外も仮面をかぶっている、その時に初めて気づいた。僕以外のみんなも仮面をかぶっていたことに。


牛乳メガネの先生も、18歳の少年も、心配性の天才もみんなそうだった。そう思えば思うほど、寂しくなって、夏の暑さにもかかわらず乾いた心は冷たくなっていった。


もしも、あの日にあの子が僕の仮面をとってくれなかったら僕は今でも、耳を塞いだままの僕だったのだろう。


夏の暑さを再確認させられた僕は、寝苦しいベットで夜を過ごした。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


Little traveler


 


寝苦しいベットからやっと這い出した僕は、視界がぼやけている中、渇いたのどを水で目いっぱい潤した。


平時より早い時間に起きた僕は、ふらつく体のまま朝食の支度にとりかかった。


あくまで個人的にだが、みんな寝静まっている朝早くの食事というのは何とも言えない雰囲気と静けさをまとっていて、好きなのだ。


また、早朝とはいろんなことを考えさせられてしまうものだ。それらすべてを差し引いても好きと言えるだろう。


17歳の僕は、職人になるか大学にいくかの岐路に立たされていた。進路の有効期限的にも本当にこの夏が過ぎたら、引き延ばしたままの答えを出さなければならない。それはあくまで、自分の中での答えであり、優等生の僕の悩みを先生方は知る由もなかった。期待を先生からも母からもうけている僕は、一歩踏み出す怖さにおびえていた。


そんな残された僅かな時間をかみしめるように、トーストを口に運んだ。いつもの倍程の時間をかけて楽しんだ朝食を片付けると、宿題へと取り掛かった。


ペン先が描き出す未来はまだ不確かなままだった。


 


 


 


学校にいつもより早く着いた僕は、隣の席の天才。昨日彼女と背中合わせになってしまった場所で待ちわびていた。昨日の事を謝りたかったからだ。


でも、一体なんて謝ればいいのかわからなかった僕は、思案に暮れていた。そもそも、何について謝ればいいのだろうか、漠然とした思いの中では、結論を出すことが出来なかった。いっそ、謝らないかと迷ったりもしたが、ここまで来たからとそこで蔓を張った。


いつもより早い時間と言えども、生徒達はまばらに校門をくぐっていた。不審がられながらも、彼女が到着する10分の間そこで、告白の為に呼び出した意中の子を待っているような気分で彼女を待ちわびていた。


眠気さからだろうか、不機嫌なのが目に見える彼女は唇を尖らせて、厚底のスニーカーをコツコツと鳴らしこちらに向かってきた。


「やぁ、おはよう」


出来る限り自然にふるまった僕は、明らかに不自然だった。


「おはよ」


僕の不自然さに何の違和感も抱かなかった彼女には多分わかっていたのだろう、僕が謝りに来ることを。それを見た僕は、安堵を思い、彼女に対しての謝罪を取りやめた。


昨日取り残されたままになっていた言葉は二人の関係を終わらすには至らなかった。


それから僕らは、いつもの他愛もない話をしあう二人に戻って、朝の陽ざしがさす教室へと向かった。


教室に入ると、やはり終業式とあって、夏休みを待ちわびていた者達でお祭り騒ぎになっていた。日頃から二人でよくいる僕たちを冷やかすことしばしばな彼らだったが、今日はそんなことを気にする暇もないほどの熱気を放っていた。


そんなクラスの喧騒をよそに彼女は席に着くや否や、体を机と共にしていた。


彼女の透き通るような栗色の髪がカーテンをふらつかせるような微風にさらされて、細かくリズムを刻んであちらこちらへと流されていった。その姿に、うすぼんやりと残る夏の記憶に彼女を重ねてしまった。


「そうか今日で一年になるのか・・・」


微風は僕の心もまた少しふらつかせていた。


チャイムの音と共に静まり返っていく教室の熱気を吸い上げたように、次第に僕の心が熱くなっていくのがわかった。


どうしてかわからないが、わからないなりにわかることもあった。それは、今日が7月25日で、始まった日だったということ。そして、今日が7月25日で終わりにする日だということ。


 


 


 


 


「よし、」


心の中で出した声が、のどを通って外にまで出てしまったようだ。いつもなら寝ている隣の席の彼女が不思議そうにこちらを見上げていたが、そんなことを気にするつもりはない。


牛乳メガネの先生が自分のテリトリーを主張するよう猛獣のように黒板に文字を刻んでいた。


そんな中で緊張も十分に、僕は小さく手を挙げた。


「すいません、調子が悪いので保健室に行ってきます」


「わかりました。」


クラスの視線を少し集めて出来事を無かったことにしようと、牛乳メガネの先生がマシンガンのように言葉を放って行った。


背後からは、ひそひそと声が聞こえるが、彼女の態度同様に気にするつもりはない。一つ目の計画を難なく終えたことを安堵する暇もなく、僕は席を立った。


彼女は、いつもより不機嫌そうな顔を肘で支えて、退屈そうにしていた。


教室を後にしてすぐにお祭り騒ぎの様な喧噪が聞こえたが、気にするほど気が回っていなかった僕は、北校舎の1階に位置する保健室へと続く階段に向かうことなく、昇降口へと向かった。誰もいない廊下を歩くと昨日の放課後を思い出してしまいそうだったので、余計なものを視界に入れないようにした。


教科書も、ノートも何もかもあそこにおいて、大事なものだけ二つ持ってここを出た。


2時間目を告げるチャイムを背にして、校門を出るといつもより清々しい気分になると思った。だが、優等生が抜けてないせいなのか、罪悪感を感じなくもなかったがまばらに散らばる雲の行方に目を奪われると、映画のワンシーンにでも入ったような気がして、最寄壁と向かった。


10時過ぎの駅にいる人たちは、僕を横目で見ては、不良少年のレッテルを張って過ぎ去っていった。


無理もないのだろう、この時間に手ぶらで歩く学生はサボり以外考えられないだろうから。僕がそんなやつを見かけたとしたら、レッテルを人一倍貼り付けていたに違いないだろう。


我が家の最寄駅とは、反対へ向かう電車に乗り、ガランとした車内を見渡した。


見知った顔などいるはずもなく貸切の車両に適当に腰を下ろした。


出発を告げるサイレンをポケットに忍ばせていたウォークマンで塞ごうとすると、ドアが閉まる、すんでのところで一人の女の子が車内に滑り込んできた。


それは、あまりにも見覚えのある制服で、肩で呼吸する彼女は僕を見つけると悪戯っぽい笑顔を浮かべた。


天才からしたら単純なことだったようだ、優等生の僕は彼女に対しては非行少年ということが知られていたということだけらしい。


僕が教室を出た後、それを不審がった彼女もまた保健室へとむかおうとした。そこで、牛乳メガネの先生との戦いを早々に切り上げて、保健室へと足を向けた。ぴんぴんしている彼女は、保健室に僕がいないことを確認すると大急ぎでここまで走ってきたということらしい。これが彼女がここにいる理由の全てだそうだが、納得できないことは多々あった。


それがわかったとして、なぜ彼女はここに来たのかということだ。


晴れない疑問を残したまま、また共犯者に逆戻りしまった僕らを乗せた電車は、次第にスピードを上げてレールを軋ませていた。


「百歩譲って、それがわかったとしてなんでこの電車に乗るってわかったんだ?」


「それこそ簡単よ。今日が何日かわかればそれで終わりよ」


普通なら終わりはしないはずなのだが。


「あなたが、前々から今日を特別視していたのはわかっていたもの。それに、今日朝私を待っていたこと、それが決定的だったわ。」


なんと、善意は僕を見事に裏切ってしまったようだ。それだけでわかるほど、僕は彼女の前でぼろを晒していたのだろうか。


「私は、あなたがとめて欲しいようにも思えるのだけれど。まぁ、何でもいいけど。」


ますます疑問が募るような言葉を言って彼女は僕の正面の席に腰かけた。


僕は、果たして止めて欲しかったのだろうか?横道にそれそうになる考えを引き留めて、より一層の決意を持って彼女に応戦した。


「さすがだな。


でも、そこまでわかっていたならなぜ来たんだ?いくら君が来たとしても、今日の僕を止めることをそれこそわかっていただろうに。」


「わかっているわよ、そんなこと。 ただ・・・」


小さな息を吐いて彼女は、言葉をつづけた。


「ただ・・・ 終わりにしなくてもいいんじゃないの? 無理して自分を終わらせなくとも。何もかもそのままで、中途半端でもいいんじゃない?」


分かってる上で彼女は僕の説得へと乗り出してきた。確かに、終わらせる必要は決してないのだ。この夢心地の毎日を。でも、固めたばかりの決意を弱くするほど、中途半端な男にはなりたくなかった。


「毎日・・・ 記憶の中でばかり笑っているあの子の影を捜して、思ってしまうんだ。これで最後、これで最後って。」


「じゃあ、それでいいじゃない。」


諭すような彼女の表情は、僕に理不尽をぶつけてくる少女の顔ではなかった。


「そうかもしれない。でも、僕は疲れてしまったんだ。あの子の事を思うと少しずつ何かを失っていく。昨日見た景色が白くなっていくみたいに。好きなことが嫌いになって、嫌いなことを好きになろうとしていくのが怖いんだ。」


僕はこの時、彼女に対して初めて本当の意味で話をしたのかもしれない。


彼女とは、高校に入ったときからの付き合いだが、感情を持って接することはそう多くはなった。思い出しても、先日のオルゴールの日と今日だけだろう。ただ本音をぶつけるほど、互いに純粋ではなかったからなのだろう。


「あの日の海底のオルゴール、僕は本当は、言いたかった。


多分その子は怖かったからだって。本当の自分をわかった上で拒絶されることを。


でも、言えなかった。それは僕があの子と同じだったから。君はそれをわかっていたのに、どうしてそれを僕に聞いたんだ?」


駄々をこねる子供のように、僕は彼女に尋ねた。


「小さい時に私はその話を聞いたの、それからずっとわからなかったの。


どうしてその子がオルゴールを食べてしまったことを。もうわかっていると思うけどそのオルゴールそうなの。


そして、そのオルゴールは鳴ることもなく、最後まで、誰にも心を開くことが出来ずに、ひっそりと海に身を投げてしまった。


その子がどうして死んでしまったのかも 私にはわからないの・・・」


あまりにも、答えになっていない答えだった。冷房を効かせた車内は、二人の会話の熱量に押されて、夏の暑さを取り戻していった。


きっと、僕が彼女に朝顔柄のあの子を重ねていたように、彼女は僕にその子を重ねていたのだろう。そして彼女はわかりたかったのだろう。


記憶の中だけで生きる父親の事を。何もかもわかってもわからないことが、それが無くなってしまった父親だったらなおさらなのだろう。


「その子はね、きっと誰かに助けて欲しかったんだよ。深くまで落ちてしまったことに気づいた時にはもう遅かったんだ。周りを見ても何を見ても、偽物な気がして、伝えたいことに口を噤んでしまうんだ。そして何よりも好きだった海で身を投げたんだろう。


でも、目の前にある暖かいものは、その子にとってはすごく怖いものだと思うんだ。その温度が変わってしまった時のことを知っているから。


だからこそ、君がシギルの様な子を見つけた時は、何も言わずその子のそばにいてあげて。


始めは戸惑うと思うけど、いつかは君の温度を頼ってくれると思うからさ。」


自分でも答えになっていないものは、感情を乗せてのどを通って行った。


「じゃあ、君は助かるのに、助かったふりをして苦しんでいくの?」


その質問には答えることはできなかった。本当にわからなかった、なぜ、そこまで執着していることに。


本当なら、目の前の彼女の変わらない優しさにすがって、泣きじゃくってしまいたいとも思う。


それでも、僕を突き動かすのは、心配性の天才ではなく思い出の、夏の記憶の中のあの子だった。


意味がないようであるような言葉が交錯した車内は先程の熱気がすっかり冷め、しばらくの静寂が訪れ、本来なら降りるべきでない降りる駅からのさわやかな風ここぞとばかりになだれ込んできた。


無言で立ち上がった僕は、袖に染み付いた跡を残させてしまった彼女と、僕自身が助かる最後のチャンスを残して、誰もいないホームに足を進めた。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


一年目の続き


 


たまたま目についたコンビニで昼食を済まし、いい具合に暇をつぶした僕は夏の記憶をたどって道を歩いていた。


携帯に左右されない時間は思いのほか進んで、もうすぐ影の輪郭を食べてしまう時間へと達しようとしていた。


流石に有名な場所と会ってぽつぽつと人がそこに向かおうとしていた。友達同士ではしゃぐものや、リボンの帯に藍色の着物を着て、幸せの押し売りが出来そうな仲睦まじい家族の姿もそこにはあった。


長い土手の道を永遠と歩くと、河川敷に面した会場が見えてきた。


暗くなってきたとはいえ、花火が揚がるのは7時を回ったころだ。小一時間はゆうにある、その間だけはこどもに戻って祭りを楽しんだ。色んな屋台に目を奪われては、所持金と照らしあわせて、汗を拭った。


童心に戻った僕は、花火の音を皮切りに元に戻ってしまった。本当はこのまま、何もかも忘れて泡沫の時間を過ごしていた方がよかったのかもしれない。


思い出が鳴る場所に、僕は去年一緒にきた友人と花火のスポットを探して歩き回って見つけた大きな朝顔畑へと足を向けた。


朝顔畑へと続く道には、肩を落とすものもいれば、期待に胸を膨らませるものもいた。僕の帰り道は、どんな風に目に映るのだろうか。そんな否定的な想像も花火の音が少しだけ和らげてくれている気がした。


朝顔畑の上に広がる土手には、一回り大人びた朝顔柄のあの子が花火に笑顔を見せていた。


確証なんてものはなかったが、ここにきてこの時この場所に行けば必ず会えると思ったのだ。


わざと大きな足音を立てた僕に、花火に夢中だったあの子はこっちに気づいて屈託のない笑顔を向けてくれた。


逢えてうれしかった。本当にそう思っているのに、曖昧な気持ちがどうも彼女の表情を曇りがかかって見せてしまった。


それでも花火が打ちあがるたびに鮮明になる彼女の姿に、一年越しに目を奪われてしまった。


 


 


 


 


 


 


 


一年前の花火の景色はほとんど覚えていなかった。本当は覚えていないわけではないのだが、如何せん印象になかった。


友達と朝顔畑に着くと、すぐ上の土手に寝転がって花火を見ていた。僕たち以外に誰もいなかったそこは特等席に違いなかった。


友人と僕は、右手に屋台の匂いを、左手では空に舞う花火をつかもうとしていた。傍から見たらなんと滑稽な二人だっただろうに。それでも、夏に酔った僕らは、気にかけることもなく空に手を伸ばしていた。


夏を彩るには不十分な話をしていると、小さい子を連れた母と子が祭り会場の方から歩いてきた。


カジュアルな姿をしている母親は、花火を見ている僕らを見ると


「ここいいですか?」


と、丁寧な口調で話しかけてきた。その少女の母親に対して、僕は花火をつかむのに夢中だった左手の掌をすぐそばの土手に向けた。


「どうぞ」


「どうも」


小さく笑みを浮かべた母の後に隠れている、水に飛び跳ねる小さな金魚の柄の着物を着た少女と母は僕らの横に腰かけた。


数年ぶりに見た打ち上げ花火の模様と色にすっかり目を奪われていた僕は、この感想を友達に伝えるだけでは飽き足らずに、すぐそばの母親に伝えようとして、視線を落とすと、時折、花火に映し出される影が4つから5つに増えていることに気づいた。


好奇心でしかなかったのか、それとも夏に酔って舞い上がっていたのだろうか、この影は誰なのか。


そう思って視線を向けると花火の光を受ける朝顔柄の着物を着た少女がいた。


僕は母親に感想を伝えることも花火を目に焼き付けることもせず、彼女に目を奪われてしまった。


僕は、花火と彼女の往復を続けていると、妙な胸騒ぎを感じた。


自分の心臓の音と気持ちに気づいてしまった僕は、なぜだか彼女にこの気持ちを伝えたくなってしまった。思いの中で夜に紛れて、消えてしまう前に。


喉まで出かかった言葉は、体の中を反響しても、彼女には伝わらなかった。


そんなことを幾度と繰り返していると、くすぶった気持ちの中で最後の花火が夜空へと消えて散って行った。


さっきまでの、にぎやかな声が消えた朝顔畑には、祭りの後の何とも言えない空気で満たされていた。風の音だけが夜空に響いていた。


その空気は、やがてここにいる五人を包み込んで、帰路へと急がせた。


立ち上がっていく彼女を見て、あの子が行ってしまう。もう二度と会えないかもしれない。


思いつく限りの言葉で心を奮い立たせようとした。僕との距離はゆっくりに、でも着実に広がっていった。


「ごめん、ちょっと行ってくるわ。」


花火の余韻に浸っている友達にそれだけ伝えると、心が溶けていくような感覚に陥った僕は朝顔畑を二人分の鼓動を打って駆け抜けていった。


祭囃子の中に溶け込んだあの子を見つけることはもうできなかった。


どれだけ呼吸を乱しても、心を乱しても彼女はもう夏の季節に消えて行ってしまった。


気を抜くと溢れてしまいそう涙を心に溜めこんだ。


その後も、独りで祭り会場をふらついていると置いてきぼりにしてしまった友人に肩をつかまれた。


「どうだった?」


「ごめん、言いそびれた・・・。」


励ますように笑い飛ばしてくれた友人と一緒に僕も会場を後にした。僕が彼女を見ていたとき、友人も彼女の事をわかっていたようだ。


「次もし見たら、絶対声かけるわ。」


帰りの話は、もっぱらそれでもちきりでそんな大口をたたいていると、土手の下、フェンス越しに見えた人達に何度も目に焼きつけたあの朝顔柄のあの子がいるように見えた。


「あれ、もしかして。」


今度は伝える。そうやって今度は体が真っ先に動いた。自分の倍ほどはあるフェンスを飛び越えて周りを見渡し、必死に彼女の姿を捜した。


それでも、どれだけ探してもあの朝顔柄の女の子は姿を見せてはくれなかった。


僕に残ったのは、後悔と置き場のない定まらない感情だった。


遅れて到着した友人に、そのことを伝えると、さっきよりも大きな声で笑い声をあげ仄灯りしかない、夜道を歩いた。


土地勘のない僕が帰りの駅へと適当にナビゲートしていると、駅の前の信号につかまった。


色んな出来事があったせいで、周りを気にしていなかったが街灯が照らす駅の周りは小奇麗に整備されているのがわかった。


この駅に来るのは今回が始めてだったので、友人の話に相槌を打ちながらも景色を眺めていた。本来なら会場へと向かうには一本道をひたすら歩き続ければいいのだが、適当な道を選んでいた僕は二つ目の道からこの駅についてしまったようだ。


僕はこの適当な案内に不覚にも感謝してしまうことになってしまった。


左をふと見ると、そこには何度も往復した彼女の姿があった。


「え、ほらあっち。」


僕が声を出す前に彼女に気づいた友人が僕にぼそっと呟いた。


心の中には、さっきの緊張がぶり返してきて、心臓の音がやけにうるさく感じた。


今度こそ最後なのかもしれない、そう思って右手に握りこんだままの思いを君に告げようと決めた。


信号が変わると僕は、彼女に駆け寄るではなく、駅へと続く長い階段をひたすら上り続けた。さっきの失敗を受けて、僕ら二人の答えは連絡先を渡した方がいいという結論に達していて、駅員にペンを貸してもらう為に全力で階段を駆けあがったのだ。


息の吸い方を忘れそうになった僕は、ガラス越しに駅員さんに荒い息をこぼしていた。


「す、いません。 ハァ・・書くものかしてくれませんか?」


駅員も僕のこの状況を察してくれたのか、心配そうに僕にペンを快く貸してくれた。


肩で息をしている僕の歪んだ文字で書いた連絡先は、汗で酷くにじんでしまった。


少しの空白が、僕の頭を冷やしてくれて、先程全速力で駆け上がった階段を、草履の音を奏でて彼女はゆっくり上ってきた。


そのすぐ後につけていた友人が僕に駆け寄ってきた。


「ほら、早くいくぞ」


僕よりも少し熱い友人に背中を押されて、僕らは改札をくぐって電車を待つあの子の下へ行った。


そこに近づくたびに、走ったときの汗なのか、緊張の汗なのか、はたまた両方なのか全身にまた熱が回ってきた。


階段の一番下で待つ朝顔柄のあの子は家族と数回会話を交わすと、一人ひっそりとつまらなさそうに電車を待っていた。


心の中で必要のない葛藤を繰り返していた。


「伝えなければならない」


何かに諦めて、線引きをしている僕を変えるのは今しかない。そう思っても、歩き始めた足はもう前に出なかった。


その結論を出せないまま、時間切れを表す列車が僕の隣に停まった。


おとなしくその紙を友人に託すと、不服そうな友人をホームに残して僕は曖昧な感情のまま列車へと移った。


ヒンヤリとした車内で自分の心をひたすら奮い立たせることに成功した僕は、冷え切った車内を抜け、友人に託した紙を半ば強引に奪い取りあの子の所まで歩いた。


歩くたびに鼓動がなって、ホームの音がまるで耳に入ってこなかった。


あと一歩、その一歩を前にして僕は足をすくませてしまった。心で何度叫んでも一度止まってしまった足はもう前に出ることはなかった。


不思議そうにこちらを見る、彼女に背を向け友人に紙を渡すと、先程の電車にのりこんだ。


今度こそ時間切れを示したその列車は、曖昧なままの僕を家まで運んで行った。


友達からの着信に気づかぬまま、疲労感と妙な寒さに襲われて、しずかに車内の中で眠りにいざなわれた。


 


 


 


それからの結末は、友人が彼女に連絡先を渡してくれたことを、知り


10時を過ぎたホームで大声を挙げそうになってしまったものの。


待てども彼女からの連絡は一向に来なかった。


友達の為にも、何より自分の為にも諦めきれなかった僕は、祭り会場に居合わせていた友人に頼み、なんと彼女との小さなつながりを手に入れた。


千切れそうな糸を手繰って連絡を重ねているうちに彼女が年上だったということ、思っていたより子供っぽいところや、面倒くさがりなとこ、必死に頑張っている姿など、色んな彼女を知ることが出来た。


小さな変化に一喜一憂する僕にも季節は少しずつ移ろっていった。


夏の影を追い求めたまま、木の葉が落ちて、頬を刺すような寒さが訪れた。彼女と半年ぶりに会えることが決まった僕は、学校が終わるとコンビニで服を着替えて、誕生日を控えた彼女の下へと急いだ。


変わらない姿にも慣れた僕は、少し背伸びをして彼女と暫しの時間を共にした。年末だったその日に、プレゼントに忍ばせた安っぽい便箋に綴った思いとへたくそな告白を告げてお別れをした。返事は、それから半年たった今でもお預けのままだった。


煮え切らない毎日を過ごして、大事なことは、いつもすり抜けてしまう猫のような彼女にため息をこぼして、僕よりも僕の心配してくれる彼女に頼って、日常の一つになっていたやり取りは雪が解け、桜が舞っても続いていた。


そして、僕は変わらないものを持ったまま、今日という日を迎えた。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


さよならのままでも


 


 


夜のとばりが下りた空を、星の代わりに精一杯照らす花火はあの時よりは少しだけ綺麗には見えなかった。


半年ぶりの笑顔に少しだけ胸が騒いだが、それを無理やり押し込めて、手を振って彼女との再会を果たした。


「今年もきたの?」


小走りで向かってくる彼女は疑うそぶりも見せずに僕に尋ねてきた。


「いや、ちょっと通りかかったから。」


昔から、どうでもいい嘘は言うことが出来たが、大事なことは嘘をつくことが出来なかった。


「そっか。やっぱりここだよね。」


不自然な僕の答えから何かを察した彼女は、ぱちぱちと音を鳴らす光へともう一度目を向けた。


気が付くと、この辺一帯は子供の用にはしゃいだ友人も、彼女の笑顔を伺わせるあの親子もいなくて、あるのは夜に芽を出した朝顔と二人だけだった。


彼女が今年もここに来たこと、そしてそれが一人で来たということ、愉快な想像が浮かんでは心に押し込めた。


きっと彼女は、何も考えてなどいないのだ。だからこそ、こんな僕と会うことができているのだ。だからこそ、あの夢心地の日々を過ごせたのだ。


せめて、花火の音が鳴るまでの間は彼女と言葉を交わして、時間を重ねていようと思っていた。土手に座り込んだ二人は花火を指さして、時には顔を見合わせて残された時間をかみしめた。


時の砂の粒が少しずつ落ちていくたびに、君との思い出まで削られていくような気がした。


これで最後を繰り返してきたこの一年間を終わらせるように、最後の錦冠が空を彩った。


少し離れた祭り会場では、小さな歓声が上がっていた。笑顔を浮かべた君に合わせた僕は、ちゃんと笑えていただろうか。


「あのさ・・・」


詰まる言葉を紡ぎ合わせようとした。これが最後なんだ。最後だから・・・


「返事はまだもらえてないけど、やっぱりまだあなたのことが好きです。 あなたはどうですか?」


精一杯の言葉は、人気のない朝顔畑に広がっていった。錦冠の余韻に浸る彼女は、消えかかった光を拾い集めるように夜空を見つめていた。


決して晴れやかではなかったのかもしれない。僕は今日この瞬間を迎えるために、日常を裏切って、一人の女の子を不覚にも泣かしてまで選んだのだ。


昔聞いた言葉にこんなものがあった。


「大事なもの一つだけえらんで、後は全部捨てるの。」


だからこそ、僕は大事な君との別れを選んで冴えない毎日を、心配性の天才を選んだのだ。結果的には、それを裏切ってしまったけれど。


「少ししゃがんでくれない?」


僕のさっきの言葉が完全に闇に溶け込むと、彼女が不意にこっちを向いてそういった。


僕の初めての恋が終わりを告げた時だった。あやふやのままの終わりが、しゃがむというより魂が抜けて人形のようにその場に崩れ落ちてしまった。


僕の肩を少し越す程度の背丈の彼女が、僕を見下げて、少しにやけたように見えた。


彼女はそのまま、地面に裾がふれてしまうこともいとわずに、僕の顔を覗き込んだ。


瞬きした瞬間に


君との距離が埋まってしまっていた。


少しの間僕には何が起きたのかわからなかった。でも、淡い涙の味だけがすべてだったのかもしれない。


一瞬は永遠を作っても、永遠は永久にはなってはくれなかった。


やがて、彼女は僕にほのかな温度を残して、何も言わず朝顔畑を去って行った。


残された僕は、押し込めていた涙を流し花火明けの夜空を見上げた。曖昧な感情も重ねていた君の姿もみんな洗い流して、その場を後にした。


残されたのは、夜なのに咲いている妙な朝顔と、いつまでも消えない夏の思い出だけだった。


 


 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよならのままでも @tyunio

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ