第3話 生まれつきの殺人者

 この度、コットンカフェにあるテラス席の隣に、黒いアイアン製の洒落たベンチが一台設置された。ヨーロッパのワイヤークラフトに見られるような、植物をかたどったデザインが背もたれに施されてある。


 これは真綿がどこかのネットショップから買ったもので、丁寧に梱包されていた段ボールには、ヨーロピアンスタイルの美しさと喜びを……と印字されていた。きっと、お値段のほうは必ずしも喜ばしいとは言えまい。

 テラス席のテーブルには、白とロイヤルブルーのストライプ柄パラソルも広げられた。眩しい朝の陽射しとともに、夏の気配がここにもやってきたのだ。


 真綿が新作のスイーツ作りに没頭している日曜の午前中、私はひとりこのベンチでのんびりと日向ぼっこをしている。白地に小花柄のゆったりとしたミニのワンピース、つばの広いリゾート風麦わら帽子とサングラスが、いかにも湘南スタイルだ。


 そして、通りを行き交うお洒落な人々。

 上半身裸のウェットスーツ姿で、サーフボードを積み自転車に乗る男の子。トリミングしたばかりのおませなパピヨンを連れて、お散歩中の鵠沼くげぬまマダム。

 午前中のフレッシュな潮風を大いに満喫し、リゾート感覚の日常を私たちは……

 ん? おやっ?

 目深にかぶった帽子のまま、私はサングラスをずらす。

 突然、決して見てはいけないようなものが、私の目の前を突風のように通過していった。


 湘南は昔、日本の中国と言われていたほどの自転車保有率で、藤沢や茅ヶ崎の細く入り組んだ路地を車代わりとして人々は器用に使いこなしてきた。

 今でも、駐輪場があちらこちらにあり、いくら生活がお洒落になろうとも私たちの生活に自転車は欠かせないものとなっている。

 そして、先程、まどろむ私の前をものすごいスピードで走り抜けた一台の自転車。


 気付いた時はすでに後ろ姿しか見えなかったが、グレーの上下揃いのスウェットにひとまとめに雑に結わえた髪の毛、背中には赤い長細いポールのようなもの(後に丸めたヨガマットと判明)を斜めに背負い、ペダルの回転数は限界を超えていた。

 私はうつむき、ほんの一瞬だけ思い煩う。だが、真綿のスローライフを生き抜く心得の一つ『ま、いっか』を適用することにした。


「ふみさん、おはようございます」

「あ、伊織くんじゃん。おはよ」

 白いTシャツ、デニム生地のハーフパンツ、さらに真っ白なスニーカー。湘南にふさわしい爽やかな笑顔で現れた伊織くんこと加納伊織とは、ペット捜索に命を懸ける……いや、違った。副業の犬のお散歩に心身を傾ける、頭脳明晰、心優しいペット探偵なのである。

 そして何よりも素晴らしいのは、カフェに居ながらにしてミラクルに謎を解く、現代の安楽椅子探偵なのだ。


「さっき、礼美さんを見かけましたよ」

 伊織がさっそく地雷を踏んだ。

「……やっぱり。完璧に忘れてたんだけど、そう言えば、日曜の午前中はビーチヨガの体験に行くって言ってた。終わったら、ここに寄るって」

 どうやら伊織もあの自転車に乗った凄まじい女忍者を見かけたらしい。目じりの垂れた瞳で、優し気にふわりと笑う。

 そして、新品のヨーロピアンベンチにふたりで座った。


「ふみさん、いつから姓名鑑定士の仕事をしているんですか」

 珍しい。伊織から私への質問。

「うーん、ここのカフェで対面でやるようになったのは一年半ぐらい前かな。それまではメール専門でやってて。もともと独学で一応お勉強みたいなことしてたのね。その後、友達とかから口コミで広がってフリーでお仕事始めたの。今日もね、そろそろお客様が来るよ」

「へー、そうなんですか。あ、今から中でモーニング食べちゃっても平気ですか」

 伊織が心配そうに聞く。

「もちろんだよ。私のお仕事も見ていって」


 私たちが店内に入ると、焼き菓子の香ばしい匂いがしてきた。

 近所のサーフショップで買ったオレンジ色のTシャツに、デニム生地のエプロンをした真綿が出迎える。

「おー、伊織くん。いらっしゃい。あれ? いつもより早いねー」

「おはようございます。今日休みなんで、モーニング頂きに来ました」

「りょーかい。じゃ、ちょっと待ってて」


 真綿がキッチンに入ったと同時に、ドアベルが揺れ、ひとりの女性が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 私が立ち上がる。きっと、二十代後半くらいだろうか。丸顔の童顔を強調するような肩までのゆるい茶色のウェーブが、女性らしい柔らかさを醸し出している。

 可愛らしい顔に似合わず、お堅い職業に時々見られる表情の乏しい勤勉な顔つきをしていた。

 服装はシンプルなジーンズに、ライトグレーのカットソーのコーディネート。耳元で見え隠れするカラフルな天然石の揺れるピアスが、唯一のお洒落だ。


「すみません。『ふみの』の姓名判断を予約した、水河みずかわと言います」

「あ、おはようございます。私が鑑定士の花野はなのふみです」

 早速、用意しておいた名刺を取り出す。女性は私より一回り小さな手で受け取ると、そのまま斜め掛けのショルダーバッグに入れた。私は鑑定用で使う、定位置のテーブルへと案内する。伊織の座っている斜め前の席だ。


「こちらに、お名前をお書き下さい」

 鑑定専用で使用している、ハガキ大ほどのサイズの用紙を渡す。そして、備え付けの鉛筆立てに立ててあった、ほどほどに研がれた鉛筆を差し出した。

 女性は名前を書いた後、私を見て「あの……」と小さく言った。

「先に聞いておきたいことがあるのですが」


 私は意識して口角を上げる。

 世の中には、占いに疑問を持つ人も多い。もちろん、百パーセントの確率ではないし、天気予報のように明日雨かもしれないというくらいのスタンスで臨んで頂きたいとは思うが、料金が発生する以上、お客様の立場としてはなるべく納得出来る結果がほしい。

 そこで誠意を見せるべく、クリーンな状態で信頼して頂けるように私は最善を尽くすのみだ。


「姓名判断を最近ネットで調べたんですが、私の名前だと流派によって、字画が変わるみたいなんです。一画違うと、占いの結果が全く違ってしまって。どちらが正しいのでしょうか」

 女性は、名前の書かれた用紙をくるりと私に向ける。

 そこには、水河実梨(みずかわみり)と、小学校の先生が黒板に書くような読みやすい字があった。


「それは姓名判断ではよくある質問なんです。私の解釈でよろしければ……。姓名判断には様々な流派があります。そして、それによって新字体、旧字体など字画の数え方、細かな意味や運勢の見方が変わってきます。私の占い方は、旧字体を使用したクラッシックな流派をベースにしたものです。……今日私は、水河さんとお会いしたご縁を第一に大切にしたいと思っています。そこで、数ある姓名鑑定士の中から私を見つけて下さった、水河さんご自身を信じましょう。私を選んで下さった時点で、先程の答えは出ていました。字画うんぬんではなく、水河さんが見つけて、今回ご縁のあった私のやり方が正しいと考えては頂けないでしょうか」


 私は、女性の目をまっすぐ見据えて言った。

 その占いが信用出来るかどうかは、占い師の流派やスキルが問題ではないと私は思っている。あなた自身が選び、ご縁を紡いだ相手こそ、その時のあなたに見合った占い師なのだ。

 女性はにっこりと、心を開いたかのように微笑んだ。


 タイミングを見計らったかのように、真綿がメニュー表と水のグラスを持ってきた。鑑定と同時に、カフェメニューを一品以上頼むのが原則だ。

「ハニーレモンパイとアイスティーをお願いします」


 真綿がよそいきの声で返事を返し、私を保護者のような瞳で優しく見つめると、静かにキッチンへと戻った。良識あるあの目は……。

 あやしい。伊織のモーニングを忘れているのではと、私は気が気ではなくなった。案の定、キッチンの奥から「やっべ」という声が漏れドタバタと音がした。そして、斜め後ろに座っている伊織から安堵?のため息が聞こえた。


 私は気を取り直し、鑑定用紙に書かれてある、水河実梨という名前の横に字画を書き込んでいく。

 天格 十三、人格 十七、地格 十九、外格 十五、総格 三十二。


 まず、全体像を見渡す。

 もともと、頭が良く芸術面でも才能がある。だが、神経質で波乱やトラブルも招きやすい。人当たりが良く朗らかに見えるが、実際は気は強い。プライドも高い。

 海外の人など、様々な出会いがあり、仕事への人脈にも繋がる。

 中年以降は素直な面が人柄に表れてくるので、幸福を感じることが増える。実際、運もいい。運が良いことを過信せず、人に感謝をすることが成功に繋がる。

 それから、五行のバランスが特に素晴らしい。完璧である。バランスの良い運勢というのは、軸がぶれにくいということ。人と同じことをしていても、際立つものを生まれつき持っている。


 私は全体の運勢を把握し、お客様の相談内容と絡めてアドバイスをすることが多い。人生の流れをもとに、良質な生き方をお伝えしたい。

 どんな数字にも良い面と悪い面がある。言い換えれば、どんな人にも良い運と悪い運が訪れると言うこと。その出来事を良い方向へ持っていくのは自分。

 どれだけ良い運をクローズアップし、人生を輝かせることが出来るか。悪いと思われる出来事でさえ、裏を返せば、成功へのバネになるのだから。


 ここで、ハニーレモンパイとアイスティーが運ばれてきた。私専用マグカップには、アイスレモンティーが入っている。真綿の小さな愛情がうれしい。

 私は一通り、占い結果を伝え、ご相談があればアドバイス致しますと伝えた。

 実際ここで、悩み多き未来や現在抱えているトラブルなどを聞くことが多い。具体的な相談と向き合うことになるのだ。

 

「……実は、十日ほど前、友人が自殺しました」

 水河実梨は言った。

「そして、私がそれを見つけたんです」

 衝撃的な内容に、すぐには言葉が出なかった。実梨はうつむき、その時の忌まわしい状況を思い出したかのように声を震わせた。十日前など、まだつい最近ではないか。


「お悔み申し上げます。それはおつらい体験でしたね。水河さん、……偶然に発見されたのですか」

 わかっている、私が土足で立ち入るような話題ではない。

 しかし、丁寧に土を払い、靴を脱ぎ、正座してでも立ち入りたい会話がそこにはあった。ミステリマニアの血が、難なく理性を超えてしまう。

 実梨は言った。


「偶然ではないと思います。たぶん、彼女は私に見つけてもらいたがってたんです」

 これはこれは。どういうことだろう。

 ええい、もう全部、聞いちゃうしかない!

「あ、あの、もしよろしかったら、ここでそのお話をされていきませんか? もちろん、大変おつらいとは思います。でも吐き出したほうがいい時もあるかと。ひとりで抱え込むのは良くないって思うんです。守秘義務は必ず守ります」


 実梨はうっすらと眼のふちを赤くしながら、しどろもどろで話す私に僅かに微笑んだ。私に何が出来るというものでもないが、話すだけで心が軽くなることもある。

「ありがとうございます」

 実梨は小さく頷くと、本来の性格と思われる精神力の強さと爽やかな印象を取り戻していく。きっと笑顔が似合うと想像できた。


「……自殺した私の友人は、岩乃麻弥いわのまやといいます。二カ月前に偶然、東京でばったり会ったんです。私は都内の会社に勤めているのですが、麻弥は通院のために千葉から月に一度都内の病院へ通っていると言っていました。小学生時代の幼なじみだった私たちは懐かしくなり、その時お茶をして、また次に会う約束をして別れました。そして十日ほど前、千葉の麻弥の家に遊びに行ったんです」

「その時は、自殺するような雰囲気はなかったんですか? 麻弥さんって、ご実家なのかしら」

 実梨は少し間をあけて答えた。


「麻弥はシングルマザーだったんです。四歳になる男の子がひとりいます。ふたりで小さなアパートに暮らしていました。……以前、麻弥が私の通っていた学校に転入してきたのは、小学三年生の時でした。小柄なおとなしい子でしたが、私たちは席が隣になったのをきっかけに、すぐに打ち解け仲良くなりました。麻弥はどこだか忘れましたが、東北のほうから転校して来たんだと思います。こちらにはおばあ様のお家があり、そこに一人で越して来てました。ご両親は、お母様がご病気とかで離れて暮らすことになったようです」


「麻弥さん、寂しい子供時代だったんですね。その後はずっと仲良くされてたんですか」

「いえ、私たちが仲良くしていた時期は一年間だけです」

「あ、そうなんですか。それは、クラス替えとかで?」

「……おばあ様がご病気で突然亡くなられてしまったんです。それで、麻弥は四年生になる前にまたどこかへ引っ越してしまいました。その後は、確か何度か手紙のやり取りをしましたが、どちらともなくそれもなくなってしまって」

 子供時代の転校生、思い出の奥底の友達だった麻弥。

 そして、ふたりは大人になり、また偶然再会した。


「都内で突然、麻弥に呼び止められた時は驚きました。大人になっても面影は残ってるんでしょうね」

 実梨は恥ずかしそうに少し笑ったが、きっとその表情ひとつ取っても子供の頃の片鱗はどこかしこに表れてるのだろう。


「近くにあったカフェで、いろいろ話しました。当時同級生だった友人のこと、麻弥が転校してからの話、高校を卒業し就職したこと、職場で出会った恋人の話、その彼の子供が出来たこと……」

 所々、実梨は涙声になった。実梨と麻弥の離れた時間を埋める作業は、あっという間だったに違いない。

「今の彼の話も少し出ました。詳しくは時間がなくて聞けませんでしたが。麻弥の家に遊びに行った時にゆっくり話をすればいいと思っていたので」

「今の彼? 麻弥さんには、子供も彼もいたのに自殺してしまうなんて。理由はなんだったんでしょうか」


「確かに。そこは気になりますねぇ」

 思わず、私は顔をしかめ、唸ってしまった。なんで、真綿がそこで相槌を打っているのか。しかも、実梨に向かって「このコーヒーは僕からのサービスですよ」なんてやっている。

 実梨は真綿にコーヒーのお礼を小さく言い、戸惑い気味に私を見た。


 はい、すみませんです。これ、私の彼なんです……とは口が裂けても言えず、「やだぁ、マスターったら」と笑ってごまかそうとした。がしかし、もうすでに真綿はコーヒーの入ったマイカップを持ち、私の隣に鎮座している。

「水河さん、マスターは決して悪い人じゃないんです。どちらかというと、顔が広いほうなので何かチカラになれるかもしれません」

 苦し紛れの私の言い分は何となく通り、実梨が話の続きを始めた。


「警察でも話しましたが、自殺の理由は全くわかりません。それと、麻弥は現在の彼のことはほとんど話しませんでした。でも、付き合いだしたばかりで遠距離恋愛をしてるって言ってました。文通をしてるとかって」

「文通!?」

 私の声に真綿がかぶせる。

「彼が携帯電話を使わない人なのかと。麻弥は携帯を持ってます。自殺した朝も、電話で話しました。何にも持ってこなくていいから、気を付けて来てねって……」

 実梨は麻弥の生前の様子を思い出し、言葉に詰まったようだ。

 私も共感するように頷く。


「出来れば、その日のことを詳しくお話して頂けますか」

「……麻弥の家には午前中、十一時頃到着する予定にしてました。お昼ご飯は麻弥が用意してくれるというので、私はケーキを手土産に持って。九時に一度、麻弥から電話があって喋った時は普通でした。時間通り、麻弥の住むアパートに着いて、部屋の鍵を開けて……」

「えっ、水河さんが、麻弥さんの家の鍵を開けたんですか!?」

「はい、そうなんです。子供がやんちゃで手が離せない時があるので、着いたら勝手に鍵を開けて入ってくれないかと言われてたんです。玄関の鍵は事前に郵便で送ってもらってました」

 確かに小さな子供がいると大変なのかもしれないが、鍵を郵送するほど? 子供がいないのでよくわからないが、そういうものなのだろうか。


「十一時ちょうどに玄関チャイムを鳴らし、ドアの鍵を開けました。声をかけたのですが、返事はなくて。なので、言われた通り勝手に上がり、リビングへと繋がる引き戸を開けると、そこに……麻弥と息子のるいくんが一緒に寄り添って眠ってるみたいに……」

 実梨は何度も何度も思い起こしたであろう、自殺の現場を改めて再生してくれた。唇が微かに震えている。


「……フローリングの床に、ふたりは寄り添って眠っているみたいでした。私が近づくと類くんは麻弥の腕の中で目を覚まして、麻弥を起こそうとしました。でも、何度声を掛けても麻弥は起きることはなかった。そうだ、あの日は夏みたいな暑さだったのに、麻弥はなぜか黒いウールのピーコートを羽織ってたんです。類くんが麻弥を揺すり上向きにした時コートの前がはだけて、その胸元を見ると薄いTシャツの上からナイフが刺さっていて、血が……」


「あ、改めて麻弥さんのご冥福をお祈り致します。つらいお話をして下さって、すみませんでした。ありがとうございました」

 私は思いの外、生々しい話に申し訳なさが募った。話を聞き出しておきながら、情けない。


「あのー、その時の部屋の状況を詳しく聞かせてもらえますか」

「へっ?!」

 斜め後ろから聞こえたセリフに、思わずめまいがした。

 私と真綿が同時に振り返ると、いつの間にか食事を済ませた伊織が目を輝かせ無邪気な笑みを浮かべている。

 もう、やだぁ。このカフェ、こわいー。


「あ。は、はい。えっと、……リビングへ入ると、ふたりは眠っているような姿をしてました。でも床の上だったので、おかしいなとその時思って。……それから、えっと、ふたりの近くに類くんのいたずら書きがありました。たぶん、麻弥が眠ってると思い、フローリングの床にクレヨンで絵を描いちゃったみたいです。ゾウと蜂と……とても上手に描けてて、後は何だかぐちゃぐちゃでよくわかりませんでした。それから、麻弥の近くに空の小瓶が落ちてました。あとは……、すごく綺麗に整頓されてたんです。何だかまるでモデルルームの部屋みたいに生活感のない感じ。テーブルの上にも何もなかった。それが、不思議でした。お昼ご飯は麻弥が用意するって言ってくれてたのに」

 実梨は伊織の爽やかな圧に促され、言われるがままに喋った。


「なるほど。ゾウと蜂だけ、そんなに上手だったんですか?」

「え、あ、そうですね。割と。四歳の子供にしてはっていう意味ですが。他がぐちゃぐちゃだったので、その二つだけ描き慣れてるのかもしれません」

「遺書はありましたか」

「いいえ、それがないんです。麻弥はご両親とは縁がありません。頼れる身内もほとんどいないようです。類くんが唯一の家族でした。それなのに類くん宛の遺書も見当たらなかったんです」

 実梨はいぶかし気に首を振る。私もそこは本当に不思議でならない。自分の愛する子供に、書き残したいことは山ほどあっただろうに。


「そうですか。……ありがとうございました」

「えっ、伊織くん。そこでなんかないの? この謎は、天才的じゃない! とか何とかさぁ」

 真綿が後ろを振り向き、笑いながらからかうように言った。全くもう、非常識。後でみっちり叱っておかなきゃ。


「ええ、まあ、今はそうですね。……少し質問をしてもよろしいでしょうか」

 ちらりと真綿を見ると、伊織が眉間に指をやりながら実梨を見つめた。

「あ、はい」

 実梨が恥ずかしそうに、顔をほんのり赤らめる。


「麻弥さんの部屋ですが、他に何かおかしなところはありましたか」


「凶器と死因は、警察は何と言ってましたか」


「空の小瓶とはどんな形のものでしょうか」


 伊織が例の優れた集中力で、頭脳をフル回転させている。

 さすがプロの探偵、あ、いや。ペット探偵だ。瞳の輝きが増してきている。彼は知力という人類が授かったもっとも優れた才能で、自分を支配しようとしているのだ。


「麻弥の部屋? いえ、特に……。あ、そう言えば、私が借りた玄関ドアの鍵のほかにチェーンロックともう一つ、ドアの内側に簡易的な小さな鍵が取り付けられてました。ドアの上部すれすれのところです。手を伸ばしてぎりぎりに届く位置に。なぜだろうって、思いました。子供が勝手にドアを開けて出ないようにするためなのかも知れませんが」


「凶器は、セラミック製の白い小さな包丁です。普段、麻弥が料理で使用してたものだとか。死因は左胸のあたりを自分で刺して……。詳しいことはわかりませんが、傷はその一か所だけです。麻弥の指紋だけが付いてたそうです」


「小瓶は薬瓶のような、透明のよくあるガラスのビンです」


「わーかった! まず、睡眠薬を飲んだが死にきれず、キッチンにあった包丁を使ったんじゃないか? 睡眠薬一ビンくらい飲んだって、実際死ねないんだって! ドラマの見すぎ。胃洗浄のほうが医者に怒られながら、死ぬほど苦しいっていうぜ……あててて」

 とりあえず、真綿のうるさい口をつぐむために耳を引っ張る。

 実梨は質問の一つ一つをゆっくり丁寧に思い出しながら、静かに答えてくれた。

 睡眠薬は検出されなかったとも。


「おつらいところ、申し訳ありません。ありがとうございます」

 伊織が真摯にお礼を言うと、間をおいて一言付け加えた。

「……どうやらがわかってきました」


「えー、マジか!? 自殺って言ってんじゃん!」

「警察も自殺って言ってました!」

「伊織くん、どういうこと?」

 私のセリフが最後だったためか、私の目を見つめ、伊織は言った。

「この自殺は自殺であって、自殺ではありません。麻弥さんはずっと、僕たちに訴えかけています」

「自殺であって、自殺じゃない! 意味わかんねー」

 真綿がお手上げというように、組んだ両腕を首の後ろへ回した。


「……類くんのゾウと蜂のお絵描き。空の小瓶。そして、水河さんが麻弥さんの家へ訪ねることで、これは完成したんです」

 伊織は自分の顔の前で手を組み、冷静に言った。

「私が麻弥の家に行くことで。完、成?」

 実梨がつぶやく。

「はい、そうです。それで完成します。これは、いわゆるなんですよ」

「ダイイングメッセージ!!」

「え、ど、どういう意味?!」

 私たちは毎度、お決まりのように伊織に驚かされる。どういう頭の中してるのかしら。


「はい。ゾウと蜂だけ、年齢のわりに特に上手に描けてたとおっしゃいましたね。他は上手じゃなかった。もちろん、この二つだけいつも描いていたんだと思います。麻弥さんに教わってね。ゾウと蜂の一般的な共通点って何かお分かりになりますか」

 一般的な共通点?

「あ、あれか!」

 真綿が閃いたように言う。

「漢字では一文字。読み方は二文字! どうだっ」

 いや、それ絶対違うべ。

 これ以上ない静けさを、早く伊織が破ってくれることを願った。


「……共通点とは、です。一般的にゾウも蜂も、記憶力がいいと言われているんです。もちろん、他にも羊や馬など記憶力のいい動物はたくさんいます。ですが例えばゾウには、『象は忘れない』ということわざがイギリスにあったり。蜂は花の蜜を取るために、遠い場所にある美味しい花の種類や寝心地のいい花をしっかりと記憶している。最近では人の顔まで覚えると言われてますよね。生き物の記憶の良さに関しては、わかりやすい例えとも言えます」

「へー。さすが、生き物探偵」

 真綿が同じ姿勢のまま、感心したように言う。伊織は無視して続けた。


「記憶を暗示している絵。そして水河さんの登場となると、麻弥さんと水河さんとの記憶の中にヒントがあるはずです。記憶をキーとして当てはめると、最後にもう一つ水河さんにしなくてはいけない質問があります。ふたりの思い出の中で、ガラスの小瓶が関わった出来事がありますでしょうか」

 実梨は突然、時が止まったように顔面蒼白となった。それは私や真綿にもわかるほどで、思わず心配してしまう。

「言わなくてはいけないのでしょうか。……子供時代の絶対的な秘密なんです」

 実梨の声は震えていた。


「水河さん、麻弥さんの死をもって体現したメッセージを知りたくはないですか」

 伊織は静かに言うと、実梨を優しく見守る。

「……わかりました。……無山くん、無山恭也むやまきょうやくん、のことだと思います。私と麻弥、そして、無山くん。三人で秘密の誓いを書いた紙を小瓶に入れて、海へ流したんです」

 実梨は心から苦しげに言った。そして、そのまま黙ってしまった。


 その時、伊織が動いた。

 見ると、右の人差し指をふわりと柔らかく立て、天に向けている。そして、水を得た魚のように表情を輝かせた。

「そうですか。皆さん、この事件は今、すべて解けました! ……この謎はじゃない!! 信じられないほど、悪魔的な犯行です」

 出たー、悪魔的ー!! (って、どういう意味!?)

 伊織は圧倒的なオーラを放ち、実梨を見た。


「水河さん、無山という人物は現在、にいますね?」

 実梨はもう息継ぎだけで精一杯という感じで伊織を凝視し、こくりと頷いた。

「麻弥さんは、この無山恭也と付き合っていたんです。今お付き合いしている彼とは文通をしていると言ってました。遠距離恋愛を始めたばかりの恋人なら、いくらそれまで携帯を使っていなかったとはいえ、利用を考えてもおかしくない。では、使えない環境に置かれているとしたら。自衛隊員も入隊してすぐは携帯を使用出来ない時期があると聞いたことがありますが、事情があるなら水河さんにそう言えばいい。詳しく言えなかったということは、言いにくい理由があったということです。無山という人物の罪状は何なのでしょうか」


「……殺人です。四、五年ほど前、見ず知らずの男性を刺し殺し、逮捕されました」

 隣の真綿までが、思わず身体を乗り出す。

「やはりそうですか。……水河さん、ぜひ秘密の誓いの話を聞かせて頂けませんか」

 唖然としたまま実梨は、伊織に向かってぽつぽつと話し始めた。


「小学三年生の時、私のクラスに麻弥が転入してきました。私はその頃、親の離婚話で疲れていて、同い年の友達とも話が合わず、いつも一人でした。麻弥も親に縁がなく苦労している分、大人っぽい感じでした。私たちはすぐに仲良くなりました。そしてもう一人、無山くん。彼は優等生すぎて……どちらかというと、同級生を見下していたんです。やはり、クラスで孤立していました。私たち三人は、会うべくして出会ったんです」

 大人びた口数の少ない小学生。

 三人は出会い、そして結束する。しかし、一年もせず、麻弥はまた転校を余儀なくされた。


「麻弥が転校する最後の日、私たちは友達だった証を立てようということになりました。そして、いろいろ考え、誰にも内緒の自分だけの秘密、それも悪の秘密を共有しようということになったんです。大人はきっと、そんな子供の考えを微笑ましく思うんでしょうね。でも、実際はもっと悲惨なものでした」

「悲惨って?」

 私が聞く。実梨が顔を向けた。


「はい。私の秘密は子供っぽいものでしたが、無山くんと麻弥の秘密は、……幼い頃に犯したでした。ふたりは、物心ついて間もなく、すでに人を殺していたのです」

「殺人かぁ。事故じゃなくて?」

 真綿がやるせない声で、実梨に聞いた。


「麻弥は小学一年生の時、よちよち歩きだった妹を池に突き落としたと言っていました。たぶん、親に注目される妹に嫉妬したのでしょう。誰も見ていないと言ってましたが、たぶんご両親は気付いたのだと思います。その後、家庭が落ち着くまでという理由で、麻弥は親戚を転々とさせられました。ですが結局、母親が精神的な病気を患い、麻弥がご両親のもとで暮らすことは二度とありませんでした」


 それは、裁かれることのない秘密の殺人だった。善悪の区別がつく以前の、衝動的で動物的な犯行。

 実梨はうなだれた。


「水河さん、ありがとうございます。……麻弥さんはその出来事を心の傷として、ずっと抱えていたんだと思います。そして、子供を亡くした母親とは別の苦悩、人を殺めたという精神的な苦痛に耐えかねて、麻弥さんも心の病気を発症してしまった。その治療のために、都内の病院に通院していたのではないですか」

 伊織の分析は的を得ていた。


「そうです。麻弥はメンタルクリニックに通ってました。家の近くだと、人に見られて変な噂が立つのが嫌だったみたいです。母親と同じ病気になったと言っていました。遺伝性のものでもあるらしいです。症状は薬で随分と改善されてたみたいですが」


「そして、無山という男。彼もまた幼い頃に人を殺す経験をしていた。しかし、彼の場合、罪の意識がいつまでたっても薄かったようですね。彼は殺人に魅了されていた。余罪は他にもあるような気がします」


 伊織は険しい顔つきを崩さなかった。真綿が生徒のように、片手を挙げる。

「で、その無山って男はどうやって麻弥さんを自殺に見せかけて殺したの? 自殺には違いないし」

 伊織は真綿の顔を見てうなずき、話を続けた。


「自殺であって、自殺ではない。無山という男は刑務所に居ながら、殺人を欲していました。殺人が、彼の最大の喜びでもあるわけです。言葉巧みに麻弥さんを死へ誘い込みました。いや、息子の類くんでもどちらでもよかった。この男は、狂っているんだ! ……幼なじみの二人は大人に成長し、文通を通じて、徐々にふたりの距離を縮めていき恋人関係になりました。もちろん、魅力のある男なんでしょう。こういう男は自信に満ち溢れてますからね。そして、麻弥さんの病気のことも、当然彼は知ることとなる。無山に恋心を抱き、頼り、彼女は無防備となった。そこで、彼は、もしくは薬を断つことを勧めたんだと思います。精神病の薬は眠くなるものも多いと聞きます。麻弥さんは子育て中ですし、眠くてだるいなどと手紙に愚痴を書いたのかもしれません」

 伊織が息を整える。私たちは押し黙ったままだ。


「ヤブ医者なんかよりも、俺の言うことを聞いていればいい……などと、バカげた無責任なことを彼は手紙に書いたんだ。恋愛感情にある男女には、多々あることです。束縛するような男らしいセリフに弱い女性は、たぶんごまんといるでしょうから。麻弥さんは無山からの手紙が心の支えでした。彼に依存していた。そして、彼女はそれに従ったんです」

 真綿が私の耳元で、声をひそめ言った。「これ仮説だよね?」


「もちろん減薬後、彼女は病気の症状が悪化していることに気付きました。その証拠が、玄関ドアの内側上部に取り付けられていた簡易的な鍵です。麻弥さんが自分で取り付けたもの。……病気による徘徊を防ぐためだと考えられます。実際、そのような症状が出たかどうかはわかりませんが、徐々に自分が壊れていくのはわかったのでしょう。幻覚や幻聴、そして、体調の良い日と悪い日を繰り返し、麻弥さんは類くんに攻撃してしまう自分を恐れた。幼い日、衝動的に小さな妹を殺害した記憶が蘇ったのです。どんな恐怖だったかは、想像もつきません。無山はその念入れも忘れてはいないはず。きっと手紙に何度となくまわりくどく、例の秘密は俺たちだけのもの、俺たちは離れられない運命と麻弥さんを翻弄させる支配の言葉を。そして、無山との恋愛を手放すこともできず、良心の呵責と、迫りくる心神喪失に怯えた麻弥さんは決意したのです。類くんを殺してしまう前に、自分が死ななければと」


 実梨の嗚咽する声が聞こえた。私は、震える実梨の肩にそっと手をやる。

「ですが、麻弥さんは最後に、当てのないメッセージを残してくれました。それが、水河さんが登場することで完成するあのダイイングメッセージです。麻弥さんは遺書も、無山の名前を直接残すこともためらった。万が一、類くんに危害が及ぶのを避けたかったからです。自殺決行の朝、麻弥さんは水河さんにちゃんと来るかどうかの電話をし、黒いピーコートを羽織り、自ら胸に包丁を刺した。ピーコートを羽織っていたのは、包丁のの部分と流れ出る血を隠すためです」


 想像を絶する光景が、私の頭の中に広がった。全ては、息子を守るためだった。

 ゾウと蜂。お絵描きをする無邪気な息子を眺めながら、彼女は静かに死んでいったのだ。どんなに無念だっただろうか。


「僕たちは彼を、絶対に許してはいけない。無山恭也……、彼がこの世の悪魔です」

 伊織は息を吐いた。わずかに続く実梨の嗚咽だけが響く。

「じゃあ、無山の動機って……」

 伊織が真綿をまっすぐに見た。

「はい、暇つぶしが動機でした」



 実梨は帰り間際、泣きはらした目をしながらも笑顔を見せてくれた。そして、類くんの目元は麻弥にそっくりなのと言って、また小さく笑った。

 私たちは無山をどうすることも出来ない。確証は何もなかった。

 しかし、私たちは絶対に忘れない。

 悪魔のような男。無山恭也、その名前を。


 カランコロン。

 ドアが開いたと同時に、改めて夏の匂いに気付く。

 そして朝、通りで目撃した例の女忍者がさらに落ちぶれて入ってきた。

「あー、お腹すいたー」

「礼美……ちゃん、えらくふけたね……」

 真綿が顔を引きつらせながら言う。

「そんな訳ないでしょ。美容と健康にいいビーチヨガに行ってきたの!」

 そういうけれども、どこからどう見ても礼美は落ち武者と化していた。世が世なら、戦に負け、命からがら逃げてきた腹ペコの武士である。

 

 礼美が鼻をひくひくさせた。

「真綿くん、何このいい匂い。クッキー? 美味しそう。食べたいー」

「礼美ちゃん、これはダメだよ」

「なんでー、なんでー」

 落ち武者が拗ねる。

「だって、クッキーはクッキーでも犬用だよ?」

「犬用!?」

 私と伊織の声である。


「そうだよ。このあたりは犬の散歩してる人が多いからね。販売用に作ってみたんだ。今度、伊織くんのワンコも連れてきなよ。テラス席とベンチがあれば、みんなで外で座れるしさ」


 あ、そういうことかぁ。

 真綿は犬連れのお客様のために、ヨーロピアンのベンチを設置し、犬用クッキーを作ったのだ。

 礼美は空腹のあまり、泣き笑いになっている。

 伊織はその横で嬉しそうに笑った。

 日焼けした笑顔で大きく伸びをする真綿と、それから私。

 ここには、いつもの四人がいた。


 そうだ。私たちはこんな些細なことで幸せになれる。

 自分と関わる人々、生き物全て。

 小さなあたたかい想いを共有することが出来れば。そうすれば、これからも何があっても、私は笑顔で生きていける。

 そう信じてる。

 

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