PΦS68

滝神淡

プロローグ

 部屋の入口から現れた女性がパンプスを鳴らし、奥へ歩いていく。その手にはバインダーが収まり、大事そうに抱えられていた。カジュアルを品よく着こなし、オフィスと一体となったような空気はメリハリを感じさせる。

 この姿を見て彼女が業務に従事していると思わない人はいないだろう。表情も程よい緊張感を湛え、頭の中では今してきた仕事のことやこれから何分後に何をこなし、その次は何時までに何をこなそう、というような事柄が目まぐるしくかけめぐっているのかもしれない。とはいえ、それと同時平行で洗濯物の心配とか、今夜の夕食のおかずは何にしようとか、そんな日常のことも片隅にあるのかも。それは表情からだけでは窺い知ることができない。

 壁際にスチール棚が並んでいる所があり、そこへ歩いていく男性の姿もある。男性もやはりカジュアル姿で、髪型はちょっと遊ばせている感じがしつつも悪い印象を与えない程度。鼻歌でも歌っているような軽い足取りで自身と同じ背丈の棚の前に行く。棚には大きなリングファイルがぎっしり詰め込まれていて、膨大な資料が収納されているのが容易に想像できた。男性は上の方から指差ししながらファイルの題名を確認していく。これじゃない、これじゃないという声が聴こえてきそうだ。それが進んでいくとやがて腰を落とし、下段の方になってようやく見つけたらしい。一つのファイルを引き抜いてしゃがんだままぱらぱらと捲り始めた。だが目的の物ではなかったらしく、ファイルを戻して首を傾げている。隣の棚に移ってまた指差し確認をし始めた。

 ある席では椅子を九十度回転させデスクの方を向いていなかった。そこに座る男性の向い側には向かい合わせの椅子があり、女性が座っていた。二人は手振りを交えながら熱く何かを語っている。二人は同じ仕事を協力して取り組んでいるのかもしれない。それで互いに直面している問題について解決策はないかとか、今後のスケジュールはどうしようかとか、そんなことを話し合っているのかも。もしくは、互いに別々の仕事に従事しているけど、有用な情報を交換しているのかもしれない。そっちの仕事は以前のこんな仕事の知識が役に立つかもしれないよ、とかこの情報はそっちの仕事に関係があるかもしれないよ、とか。はたまた失敗談や武勇伝かもしれない。いずれにせよ会話の声は活き活きと広がっていた。

 他にも電話を首の辺りに挟んで会話しながらメモを取っている人がいたり、休憩行こうよと二人で連れ立って部屋の入口へ歩いていく人達もいたり。

 話し声も歩く音も沢山だ。オフィスというよりちょっとしたサロンを連想させる。そこに張り詰めた空気や辛そうな表情は微塵も無い。

 窓から入ってくる陽光に負けないくらい、オフィスは明るかった。



 部屋の奥、窓際にはひときわ立派なデスクが鎮座している。他のデスクと明らかに違うそれは、この部屋の長の物であると主張しているようだった。そのデスクの前で女性が何やら報告していて、デスクに着いた女性が頷いたり一言二言返答したりしていた。報告していた女性は用事が済んだのか、一礼して去っていく。

 するとデスクの女性は僕の方へ微笑を向けて、指示を出した。

「そうだ、安辺さんの案件の報告書、作成してくれる?」

 おっとりとした感じの女性の言葉は、指示というよりお願いみたいな調子だった。彼女は強力なリーダーでも気難しいリーダーでもなく、割と僕らに視線を合わせてくれるタイプだと思う。一緒に頑張っていこう、というような。

 僕は短く返事をすると、報告書の用紙をデスクに置いた。つい最近対応した案件だから、思い出すのに苦労はしないだろう。さっそく案件の依頼者名や対応日、依頼内容をボールペンで記入していく。最初にとったボールペンはインクの出が悪く、文字がかすれてしまった。ボールペンを持ち上げて、中に通っているパイプみたいな所を注目してみる。インクと思われる黒い部分はパイプの中ほどまで詰まっているように見えるが、何でインクの出が悪いのか。不要な紙を隣に置いて、そこでワイパーみたいな軌跡でボールペンを走らせた。少し強めにそれをしていると、やがてインクの出が良くなった。僕は満足して、再び報告書を書き始めた。

 この案件は本当に大変だった。そもそも依頼を受ける段階では、到底解決できそうになかった内容だった。もちろん僕達だけでもできなかっただろう。

 の力あってこその解決であった。

 様々な紆余曲折や情報の錯綜があったけど、がみごと解決に導いた。

 三十分くらいかけて報告書が完成。立ち上がり、ひときわ立派なデスクへ向かう。そこに座る女性が報告書を受け取ると、チェックをしながら話しかけてきた。

「そういえば『』はね、結婚することになったんだって。良かったねえ」

 女性の目は紙に向いているので、ちょっとした世間話だ。この案件ではある二人の仲が引き裂かれそうになり、事件の解決によって奇跡的に結ばれたのである。

「それは良かったです」

「でね、意外なことに『』が付き合いだしたんだって」

「え、本当ですか? じゃあの通りに……」

に触発されちゃったみたいね。あ、ちょっとおー一番重要じゃないの」

 そう言って女性は世間話を中断し、報告書の一点を指し示した。そこにはこう印字がある。

【通常/NA】

 ああそうだ、と僕は『NA』に丸を付けた。これは一番重要なところだ。

 この『NA』は特別な案件を示している。

〈PΦS68〉たるが登場する、特別な案件を。

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