第4話 呪われ女
「ダメ…です。稲田先生…こんな…こと…」
すぐ目の前に寄せられた顔に、ドキドキはしている。
でも、どうにか保たれている理性が、そこで凛子に顔を背けさせた。
「どうして、ダメなの…?」
背けた顔の耳元に、甘い声が囁きかける。
「だって、わ、わたし、まだ中二だし、先生は先生じゃないですか…こんなコトしちゃ、イケナイです…」
「きみは、私が、好き…違うの?」
「そう…ですけどっ…」
…ああ、ダメだ、何か力が抜けてく…
ふわふわとした感覚の中、凛子の体を捉えるように腰に回された手の存在だけがやけにはっきりしていて…。
「だったら、何も問題ないよね」
「いえ…でもっ」
顎を掴まれる感覚に思わず目を閉じる。瞬間、背筋の辺に、ぞくりと電気が走るような感覚。
…キス?キス来ちゃうの?え、うそ、まじ。うっわ〜〜!?…
「ダメ…」
喘ぐように本音とは逆の言葉を呟いた。
その刹那――
ジリリリリリリリリ…
「あ。」
…何だ畜生、夢オチかよぉ…
大分がっかりしながら、凛子が目ざましの音に目を開けると、見えたのは大好きな稲田先生の顔でなく、色気のない木目の天井で。
「しっかし…何て夢みてんだろか、私」
…そりゃぁ、稲田先生は好きだけど好きだけど好きだけどっ…
たった今見ていた夢の中身を反芻して、思わず赤面する。でも、口元はしっかりにやけている辺りが、何とも複雑な乙女心。
起き上がろうとして、毛布がぐるぐるととぐろを巻いて、体にしっかりと巻きついていることに気付く。一体どんな寝相をすれはこんな有様になるのか。凛子は自嘲するような笑みを浮かべながら、その拘束を解いて行く。
「は〜」
あんな夢をみたせいか、何だか切ない。
向こうは十も年上で、おまけに先生だ。手の届く恋でないのは分かっている。だから余計に、こんな妄想が暴走するのか。
…好きなら何も問題ない、だなんて…
まんま自分の願望だろうと思って、気恥ずかしさが増す。まだ余韻を残している熱っぽさに浮かされるように、言葉が零れ落ちる。
「好き…」
そう呟くと、凛子の胸はぎゅっと痛んだ。
ただ、こんな風に、好きだと呟くだけの遠い恋。
それでも、それがあるから、自分は今日も元気な振りをして学校に行けるのだ。
何事もないような顔をして教室に座っていられる。
一人でいることなんか、全然平気だって顔をしたまま、一日をやり過ごすことが出来る…。
いつしか凛子の口から溜息が洩れる。
「さ、学校行くかな」
行きたくはないけど、行かなければならないから。
でなければ、親に心配を掛けるから。
いつものように、凛子は機械的に身支度を整え、機械的に朝食を口に運び、同じ時間に家を出る。ただそんな毎日が、この先もずっと変わらずに続いて行く。何の疑いも無くそう思いながら。
それは小学校の低学年の頃のことだったろうか――
「ねえ、ちょっと大丈夫?ここ、血出てるよ?」
「え?」
凛子にそう指摘されて、クラスメートが怪訝そうな顔で確認する様に自分の腕を見る。
「んもう…やだな、凛子ちゃん。何の冗談?何にもないじゃない」
クラスメートが顔をしかめてそう言った。
「え…でも、血…」
言い掛けて、自分の目に見えている『それ』が彼女には見えていないのだと気付いた。
…私だけ…?…何で…
それから、同じようなやりとりが、何度か繰り返された。
凛子には確かに見えるのだ。その血の色が。でも、それが見えるのはどうやら自分だけらしかった。そして、そのことは人に言わない方がいいのだということ悟ったのは、その彼女が程なく、本当に腕を怪我したと知った時だった。それから、凛子が血を見た友達が次々に怪我をした。
『凛子ちゃんに何か言われると呪われるらしいよ』
そんな噂が何処からともなく広まって、それが彼女のそばにいると怪我をさせられるらしいというものに変容をしていく頃には、もう凛子の周りに友達と呼べる存在はいなくなっていた。
『呪われ女』
そんなあだ名を付けられて、それからの小学校生活を凛子は誰とも口を利かずに過ごした。
中学校に入学しても、クラスメートはほとんどそのまま同じ学区の小学校からの持ち上がりだから、状況は変わらなかった。
流石にもう、軽々しく「血が…」なんて言うことはないけど、ちょっと目が合っただけで、怯えて転んで怪我をするなんていうウッカリ野郎が少なからずいるせいで、その忌まわしいあだ名もしっかり継続中だ。寂しくないと言えば嘘になるが、いい加減そんな状況にはもう慣れた。
元々、本を読んだり一人で物思いに耽ったりということが好きな性格だったということもあるのだろう。現実逃避の材料には事欠かなかったし、避けられているというだけで、その噂に『あれに手を出すと呪われる』というオプションが付いていたお陰で、危害を加えられるということもなかったから、凛子自身もそう深刻にならずに済んだのかも知れない。その代わり、彼女の妄想癖は際限なく増長してしまっていたのだが。
そんな生活に何となく変化が生じたのは、数か月前のこと。
担任の先生が怪我で入院したとかで、凛子のクラスに代理の臨時講師が来た。
それが、稲田先生だった。
「女の子がそういうの読んでるのって、珍しいよね」
放課後、図書室で本を読んでいて、いきなりそう声を掛けられた。
先生の視線は間違いなく凛子の手にしている本を捉えていたのだが、凛子は思わずきょろきょろと周囲を見回した。この先生が、自分に声を掛けたのだとは、にわかには信じられなかったからだ。
「銀河騎士団物語〜黎明の章」
今度はズバリ本のタイトルを言われて、そこでようやくこの人は自分に話しかけたのだと認識した。
「そんなハードなSFの古典読むって、そうとうなマニアだね、きみ」
「…あのぉ、先生。呪われますよ」
会話をする前に、一応注意事項は言っておくべきだろうと思い、凛子がそう言うと、先生が笑った。
「…大丈夫。きみの力はそういうんじゃないから」
「は?」
「いや、それより、エンディミオンルークのさ、艦隊運用って凄いと思わない?」
「…エンディミオンルークが、というよりか、あれはダグラス提督の頭脳プレーありきなんじゃないかと」
そう応えると先生の顔が子供みたいに、ぱぁっと明るくなった。
「…やべっ。話通じちゃうね、俺達」
「ですね」
先生も相当ディープなマニアなんだな、と。そう気付いて凛子は思わず口元を綻ばせた。それからひとしきり、二人は余人には理解不能なマニアックな話題で盛り上がった。
それから、何となく互いの存在を気にする様になって。
そう頻繁に話をする訳でもなかったけど、視線が合えは互いに笑みを交わし合う。
そんな間柄になった。
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