都市2 ―混乱ー

「ちっきしょー……」


 呟いた言葉は、分厚そうな壁に飲み込まれてしまった。

 後ろ手に縛られ、コンクリートの冷たい床に横たわっていた。居住棟のユウキの部屋ほどの広さもない。何もない小さな部屋だった。


 ここはじめじめしている。事務センターの階段を降り切ったときから聞こえている、水の流れるような音。それは微かにまだ、どこかから聞こえている。

 こんな感じは初めてだ。

 本当に、おれの知っている地下都市の中なのだろうか。

 だとしたら、どの部分なのだろうか。下ってきた記憶しかない。地下都市の、さらに下層。もしかしたら、近くを地下水脈でも流れているのではないか。そんな想像が浮かぶ。

 なんとなく、都市の心臓部に近い場所にいるような気持ちになった。この水の音は、都市の脈動。血管を流れる血の音だ。


 体のあちこちがずきずき痛む。口の中がさびくさい。

 気持ち悪い。吐きそうだ。

 動けない。重い。自分の体ではないようだった。


 かちゃりとドアノブの回る音がして、ゆっくりとドアが開いた。

 おずおずと入ってきたのは、見慣れた顔。だが目が合った瞬間、気まずげに視線を落とす。

 ユウキは目を見張り、入ってきた人物を見上げていた。見慣れていたはずなのに、どこか遠い気がする。


「ユウキ、おれ……」


 泣きそうな顔をしている。おまえ、そんな顔ができたんだな。いつも無表情で、冷静で、人を食ったような態度で友人に接していたクセに。

 何か、言ってやらなければならないのだろうか。


「シュウ……」


 呼びかけてみたが、続く言葉は出てこなかった。

 起き上がろうとすると、体中が悲鳴を上げた。肘で体を支えて、それでもなんとかユウキは重力に逆らおうとする。

 見下ろされたまま友人の弁解とか謝罪とかを聞くなんて、ごめんだ。弁解だとか謝罪だとか。するつもりがあるのかどうか、分からないけれど。


「すまない、ユウキ」

 シュウはためらいもなく床に膝をつき、頭を下げた。


「カナを、……カナが喧嘩の原因だったって、クラスのやつらが言ったんだ。それで、カナも処罰するって言われて、やつらに……」

 シュウはさらに深く、頭を垂れる。

「ごめん。本当に」


 ああそうだ。シュウには妹がいて。妹を思う気持ちっていうのは、たぶん特別なんだろうな。家族のいないユウキには分からないけれど。大切なものなのだろう。

 大事なものを守りたいと思うのは、ごく当然のことのように思えた。守るものがないユウキより、ずっと人間らしいと思った。


 だから、言った。


「……顔……上げろよ」

「ごめん、許してくれ」

「分かったから、……顔……」


 シュウが顔を上げる。半ベソみたいな顔をして。

「許してくれるのか?」


 ユウキは答えない。

 分かったから、泣くなよ。おまえはカナちゃんを守ってやりな。

 そう言ってやりたいのに、言葉が出ない。


 シュウは言葉を重ねる。

「ユウキ……頼むから、彼らの言うことを聞いてくれ」


 それを言うために、彼は接見を許されたのだろうか。

 ぼんやりとユウキは考えた。

 言うことを聞くも何も、ついて来いと言われただけだし、従うつもりがなくても連れてこられた。この上どうしろというのだ、この友人は。


「黙って従うんだ。これ以上に悪いようにはしないって、は言っている」

「時間です。シュウ、外へ」


 ドアが開いて、先ほどハシバの後ろにいた大男が声をかける。初めて聞く男の声は、事務センターの職員と同じように抑揚がなく人間の温度を感じさせなかった。


「ユウキ……」

 名残惜しそうな表情を残して、シュウは出て行く。

 友人の後姿を見送って、ユウキはため息をついた。




(黙って従え、だって?)


 暗く狭い部屋に取り残されて、友人の言葉を反芻する。言いようのない反発と不快感を感じながらも、という可能性をユウキは見出せずにいた。


(だって、ほかに、どんな方法がある?)


 「従わない」という選択肢が、果たして自分に存在するのだろうか。だとして、何をどうすればいい? 誰に何を指示されようと、嫌だと首を横に振り続けて抵抗の意思を示す? そんなことに意味があるのか。

 それとも、ここを逃げ出す方法を考えるか? だが、逃げてどこへ行く? 元の場所には戻れない。それはおそらく、事実なのだろう。あの学校に、あの地区に籍を置く者でないならば、自分にはもう、食料をはじめ生活に必要な何をも与えられない。それ以前に、ここから逃げたところですぐに連れ戻されるのがオチだろう。

 映画に出てくる野良犬のように、首輪もつけられずに紛れ込むような混沌や空隙は、都市にはない。あの整然とした街の中には、どこにも。


 結局。あの男、ハシバの言う通りにするしかないのだろう。これまでだって、ユウキは多少の反発をしたり故意のないルール違反をしたりはしたものの、おおむね指示された通りに暮らしてきた。これからも、そうするのだろうと思っていた。

 自分の意思で何か行動を取ったことなど、ない。何かがしたいと思ったことさえ、これまでにあっただろうか。


 何か素晴らしいものを欲しいと感じる前に、可もなく不可もなく手ごろなものが目の前に差し出される。空腹を感じて美味い食事を期待する前に、適当に食べられるものが支給される。心の躍るような、目の覚めるような楽しい冒険を求める前に、そこそこ満足のできる遊びが与えられる。それが、この都市の子供たちの生活の、すべて。

 ワクワクするような出来事は――そう、たとえば、トキタの部屋に通っていたあの十五日間は、楽しかった。でも、期限が終わったと言われれば、それでおしまいだ。教室のボロ端末を手懐けようと浮かれても、与えられるものに満足せず自分から手を伸ばそうとすれば、こういう状況に追い込まれるらしい。


 朝になったら目を覚まし、大した不満もない代わりにさほど楽しくもない一日を迎える。与えられた作業をこなして、夜になれば翌日がやってくることに特段の期待も抱かずに眠りにつく。その繰り返し。


 もう、どうにでもなれ。


 投げやりな気持ちで、ユウキは目を閉じ冷たい壁にぺたりと背中をつけて持たれかかった。

 学校にいたって、友達と遊んでいたって、明日が来るのが楽しみで仕方なくなるほどの特別に楽しいことなどないのだ。ハシバの言うことを聞いて言う通りにすることに、なんの抵抗がある? 今より悪いことになると言われたところで、今より悪い状況というものが想像できなかった。


(これ以上に悪いようにはしない、だって)


 そりゃそうだ。痛む体に顔をしかめ、舌打ちでもしたい気分になった。

 もっとこれ以上に悪くなるとしたら、そう――やはり生命そのものを奪われるか、それとも「外」に放り出されるか――外に、そう、外に出たら、どういうことになるのか……そもそも外には何があるのか……。

 外は人の住める場所ではないと、幼いころから言い聞かされてきた。地下都市を出ては、人間は生活してはいけないと――核戦争で世界は死の砂漠となり果て、気候は人間の生活に適さず、空気も水も放射能に汚染されているのだと。それでは、放り出されたりすればどちらにしろ死ぬことになるのだろうか?


(……?)


 あれ、と思う。トキタの部屋で会った男――ハルは――。彼はいったい、どこからやってきた?


――バニラの香りのタバコは珍しいって。彼が手に入れてくれるんだ。


 バニラは手に入らない貴重品。トキタはそう言っていなかっただろうか? たいして深く気に留めもしなかったことを、ユウキは不思議に感じる。タバコは、香料は、どこからやってくるというのか。ハルはどうやってそれを手に入れてくるのだろう。


(外にも世界が続いていて、人が生活しているのか……?)


 どうしてこれまで、深く考えずに来たのだろう。外は人の住めるところではない。外には世界はない。その言葉に疑いを抱いたことすらなかったが、本当にそうなのか?

 突然の思いつきに、ユウキは必死で記憶をまさぐる。自分たちは、「外」の様子について何か具体的な話を聞いたことがあっただろうか。学校で。授業で。テレビで、本で、他人との噂話で――どれだけ思い返しても、思い出すことはできなかった。


 これまで「外」について、ほとんどなんの興味も抱かずに暮らしてきたのだ。自分の住むこの地下都市以外の世界のことを、まったく考えたことすらなかったのだ。

 そして、おそらくほかの生徒たちもみな――。


 そう気づく。

 堪らない困惑に包まれた。

「知識」や「話題」さえも、与えられるもの以外には手を伸ばさないで過ごしてきた。だとすれば――


(だとすれば、なんだ?)


 混乱し始めた頭を整理しようと努めるが、どうにもまとまらない。なにか思いついて、そのことをすぐに忘れてしまったときのような。胸に大きなものがつかえているような、もどかしさ。手に触れかけているものを、どうしても捕まえられない歯がゆさ。

 これまで一方的に教えられてきた、様々なことの外側に。疑問に思うこともなかった、思っても深く考えてみようとしなかったことの中に。重大な。この世界の真相のようなものが、ないか。


 違和感を感じたこと。不審に思ったこと。そう、たとえば、エリやトオルはどうしてコールドスリープについたのか、だとか。それから、ほかに――。

 そう、自分たちはどのように生まれたのか。親はどこにいるのか。親だけではない。大人たちは? 学生や学校関係者以外は、ほかの階層にいるのだということをぼんやりと認識している。けれど、それはどこだ?

 この都市にはどれだけの階層があり、どのくらいの数の人間が暮らしているのか。分からない。


――この街には本当は誰もいないのではないか。


 まさか。そんなはずはない。学校の生徒たちがいる。同じクラスで授業を受けていた。それに、事務センターやマーケットや、警備の大人たち――


――さっきの事務員。あれ、なんだよ。人間じゃないんじゃないの?

――ロボットだ、ロボット。昔の映画に出てくるだろ


 まさか。


 空恐ろしさに首を振って、どうにか心を静める。

 混乱する頭の片隅で、再びドアの開かれる音を耳にした。


「ユウキくん」


 目を上げると、ハシバが立っていた。









 砂漠の廃墟の、マリアの部屋ほどの広さもあるかという大きなエレベータに乗って、ハルの後をついて長い通路を歩いた。左右には一定間隔ごとにたくさんのドアが並んでいるが、どれもひっそりとして中に人の気配がしない。

 エレベータを降りてからは、誰にも会わなかった。。――この広い空間に? たくさんの部屋に? そんな漠然とした不安を感じながら歩いていくと、ハルはひとつの部屋の前で唐突に立ち止まった。


 背中にぶつかりそうになって、慌ててマリアも立ち止まる。ハルがインターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いて中から小柄ながらも体格のいい老人が姿を現した。


「トキタさん――」

「ああ、ハル。どうすればいい。私はどうしたら……あの子は……ハシバはあの子を……」


 二人を迎え入れながら、慌しく意味の分からない言葉を口にする老人を、ハルは宥めるようにして部屋の奥まで連れて行き、椅子に座らせた。

「落ち着いて、状況を聞かせて。それから」


 そう言って、ハルが後ろに続いて部屋に入ったマリアを振り返る。縋るような目でハルを見上げていた老人が、マリアのほうに呆然と顔を向けた。

「……彼女が?」


「マリアだよ。を持っている」


「ああ――」

 呻くように言って、トキタと呼ばれた老人は両手で頭を抱え顔を伏せた。


「すまない。すまない。あのプログラムが使われたのだとしたら……いや、そうなんだろう……本当に……私はそんなつもりではなかったんだ。ハシバに言われるままに……あの子の……ユウキのことが心配で。だが、子らに、私はいったいなんと言ったらいいのか――」


 震えるように意味の分からない言葉を紡ぎ出す老人を、困惑のまま見つめていると、ハルがまたこちらを振り返った。

「マリア、悪い。少し待っててくれる?」


 ぎこちなく頷く。ハルはトキタと向かい合うように傍らの椅子に腰を下ろし、トキタの肩に手を置いた。


「トキタさん、ともかく、状況を詳しく教えて」

「……ハシバが……あの子を連れて行ったんだ。『裏』へと。これまでよりも重大な『規則違反』をしたということにして、都市から存在を抹消した」

「存在を、抹消?」

「もうほかの生徒たちと同じように暮らすことはできないよ。ハシバに従うか、都市から逃げ出すかするしかない」

「……なんで、そんなことに?」

「分からん」


 トキタは絞り出すように言って、ゆっくり首を振る。


「分からんよ、あの男の考えていることは……だが、ハシバは規則に反抗する者や、『疑惑』を抱く者を『処分』してきた。例のプログラムを利用してな。ユウキは反抗者と見做されたか、それとも本当に、あの端末を利用して何か不味いことを知ってしまったのか……」


「あれは俺の責任だ……だけど、そこから辿れるデータに、大した情報はなかったよ。それに、情報のほとんどは漢字か英語だ。彼には何が書いてあっても読めないだろ?」


「ああ。そのはずだ。だから、単なる口実だろう。やつは単に、あの子を手に入れたかっただけだ。理由はどうでもいい。あの子が消えたことを、周囲の者が納得さえすれば」


「そんな……なんのために、そんなこと。それで、何か取引でも持ちかけてきたのか?」


「全面的に自分に従えと言ってきたよ。それにあの子も、従わせろ、とな。やつの計画もまた前進したんだろう。次の段階に進もうとしている。そのために、私の協力を必要としているんだ。おそらくな」


 自棄やけになったように一息に言って、トキタは震えるような深い息を吐いた。ハルは腕を組んで軽くため息をつくと、少し考えてまた口を開く。


「従わなければ、どういうことになる?」

「……ユウキを、『覚醒者』にすると言っている」

「……覚醒者に? だって……」

「ああ……」


 苦しげに言葉を切って、トキタが一瞬マリアに目を向け、そしてすぐに逸らす。


「これまでの子たちと同じように、プログラムを使ってだよ。ユウキの自我は消されて、『ノボル』に上書きされる。反抗的で都市やハシバに疑惑を抱くユウキではなく、ハシバに忠実で従順なノボルにな」


「なあ、トキタさん――」

 静かに声を割り込ませて、ハルはマリアから話の内容を隠すように声を潜めた。

「本当に、そんなことってできるのか? 人間の記憶を、その――」


「無理だよ。完全にはな」

 トキタはそう言って、またゆっくりと首を左右に振る。


「上手く行ったように見えるのは一時的なことだ。どこかに思考の穴ができるし、記憶もちぐはぐになる。現実の感触を伴わない、それはほとんど『妄想』と言っていい種類のものだ。映画の主人公になり切るのと同じ。いずれは破綻が生じるさ」


 だがな、とトキタは声を震わせた。


「ハシバにしてみれば、それでいいんだ。彼らの役割は、これからの計画に向けて『道を均す』ことだけだ。あとからどんなボロが出ようと、その影響で彼らが人格的に、社会的にどういうことに今後なろうと、ハシバにとっちゃ瑣末なことなんだ。しかし今の状態を長く維持することもできない。だから次の段階へ進もうと――ここから先は私に積極的に協力をさせようと言うのさ」


 話の途中から、ハルに遠慮するまでもなく、マリアは意識を逸らす努力を始めていた。なぜかは分からない。なにか、聞いてはいけないことなのだという気がしていた。立ち聞きしてしまうことを避けるのとも違う。、それは聞かないほうがいいことなのだと。


「ともかく……」


 トキタはやはり苦しそうに、言葉を続ける。


「そうなる前に、あの子を連れ戻さなくては。ハル――」

「分かった。それは協力するよ。だけど、どうする? あんたの『計画』は……これからどうなる?」

「ユウキを連れ出したら、あの『計画』をすぐに実行に移さなくてはいけない」

「今すぐなんて、無理だ」

「準備はあとどのくらいで完了する?」


「計画の準備なら、この間も言ったようにだいたいは整っているよ。だけど、人数を集めなきゃならないし、ほかの村にも『決行』を報せなくちゃ。今は『外』は冬の支度で、どこの村も忙しいんだ。秋の小雨季がもうすぐだし、今日とか明日とか、そういうわけにはいかないよ」


 二人の会話から意識を遠ざけ、うろうろと室内に視線をさまよわせたマリアは、テーブルの上に載せられている一冊の本に目を留めた。表紙の文字は、室内の本棚に並べられたほかの本と同じ、読めない文字で書かれている。が、文字の下に描かれた絵に、何か引きつけられるものがあった。

 手に取って、何気なくページをめくる。意図があっての行動ではなかった。それは、ほんの手慰み。しかし――。

 適当にめくったページの絵に、マリアの目は釘付けになる。


 ……ナツミ?

 それに、ナカニシくん……。


(まさか……)


 ユイ?

 ……お母さん、お父さん……お兄ちゃん。


 愕然と、無意識にページをめくる。次々に浮かんでくる、呼び名。

 彼らのことを、私は知っている。

 そんな、馬鹿な。


 だって、これはただの絵で、マリアの知っている彼らは実在の人間だ。動いて、喋って、笑う。肌に手を触れることも、抱きつくことだってできる。


(――本当に?)


 突然、脳裏に浮かび上がった疑惑。ざらざらとした、不快な違和感。

 本当に、私は彼らに触れたことがある?


「三日だ」ハルが深いため息とともに、言った。「三日でどうにかする。それまで持たせられないかな」


「三日も待てるか! その間にあの子はどうなる!」

「彼はすぐに連れ出す。村に連れて帰ってもいい。あんたの身が危ないなら、一緒に一度ここを出よう」


「……うぅ……」トキタは呻くように絞り出した。「だが、ハシバに知られればすぐに出入り口を封鎖されるぞ。ロボットたちへの『命令』も変更するだろう。警戒を強められれば後から『計画』を実現するのは不可能だ。……あるいは――」


 それから、互いに考え込むような沈黙。


 めくったページで、懐かしい三人が、こちらを見ていた。この場所は、知っている。学校帰りによく行ったコーヒーショップ。内装もそのままだ。絵の周囲に書かれている文字は読めない。が、何を言っているのか、マリアには分かっていた。

 のだから。


『三組の女の子がナカニシに告白したらしいよ』

『キノシタさん。知ってる? バレー部の』

『えー! 美人じゃん、強敵出現!』


『手ごわいな、どうする?』


 一斉にマリアを見る三人。


(どうして? どうして?)


――現実の感触を伴わない、それはほとんど『妄想』と言っていい種類のものだ。映画の主人公になり切るのと同じ


 トキタの先ほどの言葉が、遅れて頭に染み込んできた。

 この感覚は……。


「先に、ハシバを消すか――だが――」

「できるのか? そんなことが?」

「どの道、やつの存在はこのままだと『計画』の差し障りになる。こうなってはもう、無視することもできないだろう」

「だけど――」


(そんなことない)


 マリアは夢中で頭に浮かんだ考えを打ち消した。

 現実の感触を伴わないなんて、そんなことはない。たしかに私はこの場所にいた。毎日のように行っていたコーヒーショップ。いつも注文するカフェオレの……あのカフェオレは、どんな味だった? カフェオレ? カフェオレって、なんだっけ……? そう、スティックの、粉を、お湯に溶いて……


 役割を忘れたようにぼんやりとしていた視界の端で、ハルとトキタが立ち上がる。


(ポテトと、ケーキと、アイスクリーム……バニラエッセンスを効かせたクッキーがあのお店の一押しで……バニラの香りが凄く……バニラの香りは……どうだった……?)


「マリア」


 呼ばれて、呆然と目を上げる。目の前に、背の高い男の姿。


(お兄ちゃん?)


 違う。お兄ちゃんじゃない。


「……マリア?」


 違う。マリアじゃない。


(私は、ユリ)


 違う。ユリじゃない。私はマリア。


 ゆるゆると、首を振る。頭の中が重く疼く。訳の分からないものがいっぱいに詰まっているみたいに。それが頭の中で、ぞわぞわとひしめき合うように。


 さらに大きく首を振って、混乱をどうにか頭の中から追い出そうとする。

 肩を掴まれハッと目を見開くと、心配そうにのぞき込んでいるハルと、その向こうで途方に暮れたように表情を歪ませるトキタが目に入った。

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