第6話『メロストエロス』
家庭でも日月とねこ子の会話は以前よりも多くなり、それを光景を心音は「微笑ましい」と笑う。こういう平和な家庭を築きたかったのよね、と彼女の理想に限りなく近づいた優しい世界が眼前に――
「微笑んでないで、どうやったら治るのか考えてよ。お母さん」
そんな母親のようすにねこ子は憤慨する。
「お母さんはそのままのねこ子が好きですよ?」
「そのままのわたしって、これ異常にゃ状態だからね!?」
義理の姉と距離を感じなくなったこと自体はねこ子自身も前向きに捉えているものの、このコスプレじみた猫耳と尻尾装備は正直なところどうにかしたいと考えている。しっぽだって制服を着ている状態だと隠しようがないし、春休みが終わるまでになんとかしないと中二病少女が生徒指導室にお呼ばれしてしまう。それはまずい。たとえ今はこんな身なりでも内申書には自信があるのだ。
「まあ、ねこ子もそんなに気にしすぎずにね。わたしだってあなたを産めたんですし」
「そう言われてもにゃあ……」
母親の言うことをねこ子は一番信用していない。
色々と答えの出ないままリビングから日月の部屋へと向かった。
ノックをして声掛け、
「ねこ子です」
「いるよー」とドア越しに言葉が返ってきて、ねこ子は「失礼します」と告げ中に入る。
姉の日月にとってはねこ子の妙な丁寧さがツボに入る。
「いらっしゃい、ねこ子っち」
姉の部屋の暗さにはいつの間にやら慣れてきて、ねこ子はこの部屋をどこか落ち着くとさえ感じている。以前、そのことを部屋の主に告げてみたところ「それは鬱病の傾向にあると思われるから、早めにカウンセラーとかに相談したほうが……」と返された。猫は夜目が利くし、別にわたしが暗いところを好きでも問題ないじゃないかちくしょう。
「どうしたの、本でも読みに来た?」
「いえ、ちょっとのんびりしに」
「あらまあ、随分とらしくないことを言うね。なにか悩みでもあるのかな、ねこ子っち」
「別に……あとその変なあだ名やめてください」
「変なあだ名の代わりに、わたしのことをあだ名で呼んでくれてもいいのよ」
「呼びませんし。あと……姉さんは『姉さん』って呼んだほうがうれしそうだし」
「かわいいこと言うよね、ねこ子ちゃん」
「さすがにからかわれるのにも慣(にゃ)れちゃいましたか。ざんねん」
「あんまり残念そうでもないわね」
微笑む日月の横顔を見て一呼吸置き、
「ねえ、姉さんはふつうの女の子になりたいとか思わなかったんですか?」
「ねこ子ちゃんはそうなんだね。まあ、からかわれるだけで済めば良いけれど、実際問題として奇異の目で見られることもあるだろうしねえ」
「この状態で学校が始まったらと思うと、やっぱり怖いんです。『ふつうじゃない』ってレッテルを貼られるのが」
『猫宮ねこ子』という変な名前が嫌いだった。自分を悪目立ちさせないように立ち回っても、その名前はいつも彼女の足を引っ張ってきた。
初めて同じクラスになった人間からはしばらく名前のことでからかわれるし、それが沈静化するまでねこ子にできることは、からかわれても怒ったり相手に面白がられるような反応をせず、その名前に困っている自分をうまく相手に共感させて、からかうことに飽きるのを待つだけ。
「不安だよね。でも、まっすぐ質問に応えるにはわたしは『ふつう』が遠すぎるかな」
「どういうことです?」
「少なくとも百年以上生きているからね。戸籍上だと何回か死んでいるし、人生の尺が長すぎてさ、恋愛とかも早いうちに諦めちゃった」
苦笑いするように言う。
「でもね、心音さんを見ている限りねこ子ちゃんもふつうに歳を重ねていけるじゃない?」
「そう、ですね」
「月並みだけれども、ねこ子ちゃんに後ろ向きな思春期は送ってほしくないかなって思う」
「……そう、ですね」
日月の言葉を聞いてもねこ子の心のもやもやは晴れなかった。
彼女はいつものふざけた感じでなく真剣に相談に乗ってくれている、けれども「変」なふたりの間にある大きな違いが話をどこか他人事めいたものにしていると、ねこ子には感じられた。
「ま、心音さんレベルでも、恋愛してねこ子ちゃん産んで育てたわけだしね!」
励ますように言っているが、義理とはいえ母親への言葉が辛辣すぎやしないか。
「そうかにゃあー……」
まあでも、微笑むことができただけさっきよりもマシな気持ちになれたなとねこ子は思う。
「そういえば、思春期かあ……」
学校生活が大変だのなんだのと考えてはいたが、それ以前に猫宮ねこ子はまだこれから高校一年生になる女子だ。
なのに浮いた話はまるでなく、浮いた話が頭に浮かぶこともない。
恋愛をあまり意識しなかったのは、家が片親であったこととかそれによって家事もふたりで分担していかなければならずとかく多忙であったとか、自分の名前が変だからと悪目立ちしない振る舞いを意識した結果、人間関係に対して全然積極的になれなかったというのがあるのかもしれない。
「――恋って、どうやってするんだろう」
風呂あがりの自分を鏡に写し、鏡の向こうにいる無言の君へ問いかける。
髪の毛はすこしだけ背伸びして、月の小遣いまるごと持っていかれる値段の美容室で整えてもらっている。美容室のお姉さんに簡単なメイクのやりかたや、あんまりお金をかけなくてもそれなりに見える服の着こなしとか、いい感じの古着屋さんとかも教えてもらった。
「顔は、ふつうだと思う」
平均的で整っている顔というのが「ふつう」を指すのなら、猫宮ねこ子はその通り。けれど彼女の言う「ふつう」が割とひとに好かれやすい顔を指すことに、彼女は気づいていない。
耳にはピアスの穴もなく、目立ちたくないという主義のもと彼女自身をデコるアクセサリーは普段からひとつも身につけず、制服は校則に上手く反さない程度に着こなしている。良くも悪くも平均点、目立たずひっそりのんびり生きるというのが彼女の狙う立ち位置だ。
けれど、
「本当なら、恋愛のひとつやふたつしてもおかしくにゃいんだよね……」
――それこそ、キスのひとつやふたつくらいだって。
瞬間、フラッシュバックのように鋭い痛みが首筋に走る。
日月に血を吸われた場所。
痛みに軽く添えた右手を外すと、鏡の向こうに噛まれたときの痕が目に映った。
「なんか、キスマークみたい……」
考えてみて零コンマ五秒、首から上が瞬間沸騰でもしたみたいに血が上った。
なんでそんな恥ずかしいこと考えてんだわたし、違うだろ、恋ってなんだという話だし、たとえキスマークみたいに見えたとしても姉さんからのあれは畜生に噛まれたようなものだし、そもそも家族にキスをされたところでただのスキンシップみたいなものだし、なんならわたしから姉さんにキスくらいよゆ――
「――姉さんに、キス?」
ねえよ、なに言ってんの動揺してんのか、処女かよ、処女だよ。そして日本に暮らす姉妹はスキンシップでキスなんてなかなかしねえよ。
「一旦、落ち着こう」
バタバタと尻尾が動いて脱衣所のあちこちに水滴が飛びまくっている。
「ひとつ、姉さんの噛みつき痕はキスマークではない」
うむ。
「ひとつ、噛みつき痕は照れるタイプのものではにゃい」
そうだ。
「ひとつ、姉さんとのスキンシップくらいで照れては――」
想像して、また照れた。分かりやすく赤面している自分が鏡に映っているのを正視できずにねこ子はロクに拭っていない身体のまま洗面台の前でしゃがみ込む。
だめだだめだ、いくら恋愛を意識したことがなくて耐性がないからって、この程度のことで照れていたら処女とか以前になんかヘンタイっぽくてだめだ。
落ち着かない尻尾をなだめるように深呼吸、1、2、3秒、これだけでだんだん心が穏やかになってきた。
「あ、ねこ子ちゃん。わたしもいっしょに風呂入っていーい!」
ノーノック。野良猫のような反射速度で扉に飛びつき抑える阿呆が一匹。
「だめに決まっているでしょうが!!」
「えーなんでよう」
扉の向こうは不満気な声。
「どうも、こうも、ヘンタイっぽくてだめだからだめにゃの!!」
既に自分は入浴を終えていたからだと言えば良かったことに自室まで戻ってから気づいて、ねこ子はひどく、赤面した。
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