─序─
廻り始めた歯車
第1話.眼帯の王女
......。
冬の終わりを告げる風が、車窓を通り過ぎてゆく。
今日は
「…ヘンリエッタ様。城下の門が見えて参りましたぞ。」
(やっと、…ロンドンに。)
数ヶ月振りとは言え、やはり慣れ親しんだ場所である。城下の門へと近付いていけば少しは落ち着くものだ。見上げるとそこには、我が国の中枢たる城が聳え立っていた。かつての隷属より解放される以前からの、白亜に輝く堅牢なその城は、今ではこの英国の確かな象徴である。一本木を思わせる外観から、「
まだ夜までには時間がある。流石に今日は、退屈からの解放を喜びたい。少し城下を散策してから帰るとしよう。そう思い、付き添いの者に一言断ると、
城を囲むよう段々に連なる家々は、
時代を感じさせる石造りの街並みは、優雅に夕暮れ時を刻んでいく。角のパン屋から流れる微かな匂いは空腹を誘うよう。城下の中でも歴史あるその店の主は、来客を穏やかな笑みで迎えていた。
だが、突如として不釣り合いな怒号が辺りを貫いた。見ると、憩いの場の一角――例の
罵声を放つ中年の男性は、
…ひそり。
「…やぁねぇ、お店のものを盗むだなんて。」
「城下も最近は、…物騒なようですね?」
近頃の城下については素知らぬ振りで、世間話を続けることにした。
老婆は
「…それ、眼帯かしら? あまり見掛けない子ねぇ。女の子が一人で居るものじゃないわよ。最近、…酷い事件が起きているんだから。」
“酷い事件”。この数日の内に連続している、凄惨な殺人事件のことだろう。ただでさえ、この狭く小さな城下町で、犯人は未だ捕まらない。
老婆は忠告を続ける。
「まだ貴女みたいな子どもは狙われていないようだけど、用心なさいね。…細くてお人形さんみたいな子は、攫われるよ。」
…今まさに、目の前で話す
―お前も一体何者だ、と。微笑の裏から睨まれる。
「……あの、彼は?」
数年前までは、
「何をすればあそこまで…。
「あたしゃパンを買いに来たんだけどねぇ、ちょっと道に迷ってた子を連れて来てやったら、あたしが財布を落とした隙にお店の物をくすねたんだよ。…全く、
小言を聞きながらも、その騒ぎを見ていると、パン屋の店主が声を荒げ続けていた。
「─おい、返事もしねぇか。自分が何したかぐらい分かってんだろ。なぁ。」
「......。」
少年は答えずにきっと睨み返していたが、その顔には大きな拳が振り落とされるだけだった。
……。
パンを一つ万引きしたくらいで此処までするのだろうか。
「…関わっているのなら、此処で眺めていては、 」
そう、老婆を振り向いた時には、既に見当たらない。周りを一通り探してみたものの、見失ってしまった。
諦めて少年の方を見やり、気になりつつも場を去る頃合いを図ってみる。そろそろ戻らなければならないだろうが、放っていくのも気が引ける…
そして、目が合ってしまった。
透き通った美しい金の前髪から覗く、蒼い瞳は澄んでいた。
この国では、この日のようにすっきりとした青空を見ることはあまり無い。彼の瞳の
否、きっと彼らが泥沼の如く汚れきっているのではない。彼らは極自然な“人間”だ。彼らはただ、ありのままに怒りや疑心を現しているだけに過ぎない。しかし、これはー
(…これは一体、何?)
見物人たちが耳打ちし合う。面白可笑しく、又、ある者は恐々と、好き勝手を口々にする。
子どもたちも。
「こわ〜い。睨んでくる〜。」
「出てけ! 犯罪者!」
「逃げよ、逃げよ。殺される。」
大人たちも。
「嫌ね、あの子、“あのお爺さん”のところに居た…」
「昔、
「
「恐いわぁ。
「いつも何してるのか分からないし…、犯人なんじゃない?」
「どうせ、こいつも絡んでるんじゃ…。」
「ガキの皮被った悪魔だな。」
「恐ろしい。本当にさっさと消えてくれれば良いのに。」
……。
城下の者たちというのは、何処か閉鎖的なところがあった。顔見知りの者であれば自然と接するが、まるで互いを監視し合ってもいるような、親しくあり他人でもある関係。それは、相手が“余所者”であるとなればより顕著に、極端に警戒の目を向ける。例え、その相手が子どもであっても。
居住権が得られるのにも厳しい条件と審査を通過した者たちだ。居住するが故の特別税も高く、又、王族を崇拝する者にとってはこの上ない
そんな城下町で起きている連続殺人事件。どの遺体も首の骨が折られ胴体はめった刺し。極めつけは、必ず一部が欠損していること。城下町内外を震撼させるこの事件の未解決という体たらくに、城下の者たちの不満は募るばかりである。そして、その現状に鬱屈した不満をぶつける相手としては、“余所者”で罪を犯した少年が格好の餌食になってしまった。
(…酷い巻き添えだわ。)
城下の閉鎖的空気は一層増し、部外者や異端者への排除意識が高まりつつある緊迫した街。夕刻の闇に包まれ、正体を見せる。美しい景観にそぐわぬ人々の疑心。
最早、城下全体が異様な空気だ。…やがては
......家を出た時刻にはどこまでも深かった青空が、今ではすっかり白めいて、立ち並ぶ建物の合間に差し込む空は、うっすらと紫掛かっていた。
憩いの場の周囲に佇む木々が、風に吹かれてざわざわと音を立てる。まるで不平を
「…
「おぉ、これはエディス様。見てください、この子ども――」
…何か出来る筈もない。
少年の訴えを背に、後ろ髪を引かれる思いではあったものの、その場を立ち去ることにした。木々のざわめきさえも、聞こえない振りをして。
…
……。
それから帰宅後、
白亜の石材により築かれた廊下は、長い藍色の
窓から少し強めの風が吹いてくる。先日まで土砂降りだった荒天が、まるで嘘のように美しい夕空を魅せる。毎日歩くこの廊下でも、曇天覆われる日々では中々見られない。
見飽きた廊下などには 一瞥もくれてやらず空を覗く。絶妙な
その美しさを堪能しつつ廊下を進んでいると、前方の窓の隅で
ネコ科のよく見知った生物は、どうやら爪を研いでいるようだ。...よりによって、つるつるとした窓で。ただただ、ひたすらに。
「キャシー。」
そう名前を呼ぶと反応し、足下に歩み寄って来てくれた。
しかし、彼女はこの城の子ではない。
「あなたが居るということは、
そっと抱き寄せ、腕の中で撫でてやると気持ち良さそうにしている。こうされるのが、キャシーは大好きなのだ。
キャシーと二人、外に目をやる。
......。本当に、この夕景は格別美しいものだ。
キャシーを
─あの少年は、こんなに美しい空を見上げる
ふと、城下で見た光景を思い返す。
少年の前髪を掴み上げ、罵声を放つパン屋の主人。身動きの取れない少年の脇腹を蹴り上げる若い男性。身なりのみすぼらしさを罵る、
…立ち去っていったあの老婆。
彼の瞳だけが歪んではいないようだった。
キャシーの肉球を揉みながらに耽っていると、声を掛ける者が居た。
「どうした、妹よ。あまり眉に皺を寄せるものでないぞ。」
向かうべき先には、二番目の姉君が額に指を当て笑みを見せている。
「エディス様…。」
「おぉ、キャシー。
「先程の城下での一幕、遠目から拝見致しました。」
見え透いた嘘だ。途中で離れた。
憩いの場を離れる時、エディス姉様が止めに入って行ったのに気が付いた。姉様は幼少から城下に馴染み深い。パン屋の店主とも顔見知りだったと覚えている。あの場を収める
「…あの者たちも、流石に
「
「……ヘンリエッタ、気負う必要はないぞ。
思わず俯く
あの時に
ふと、暫く蓋を閉じていた、幼い頃の城下での一幕を回想する。エディス姉様のような人望など、
「…
そう言うと姉様は、今度は
返答と共に両手を伸ばすと、姉様から飛び降りていたキャシーが舞い戻る。姉様の手の温もりは、
「キャシーも。
立ち去る姉君へ一礼した後、
―旧王家の時代から存在する謎多き建築芸術…、もとい、この王城は、城下の中心に聳えて、永い時を英国と共に過ごしてきた。
玉座の間には、
玉座の間へ通じる扉の横、もう一つある扉が少し開いていたのだ。それは女王陛下が、この廊下と同じく本当に信頼ある者しか入室を許可しない隠し部屋。中からは話し声が聞こえて来た。
「...例の殺人事件か。」
そして、やはり話し相手はキャシーの主人である
「最近の城下はどうなっているのでしょうね…。随分と急に物騒な話題で持ちきりだこと。」
「城下で殺人なんて、なかなかない」
“あの子”だ。
彼女は普段、言葉を発することが出来ない、…というのは語弊が生じるだろう。
彼女と会話が出来る者は限られている。母である
「何百年振りだろう」 と、仰っております。」
…彼女たち母娘は、
「ホホホ、確かに滅多にはないけれど、百年単位でもないわよ。この子ったら世間知らずね。」
愛娘の言葉に
「まぁ、今日は暗い話なんてお
「ふ、
「ふふふ、そう。今はリラックスなさい、アンリエット。気を張り続けてはいけないわ。」
一人の親族として、
「まだまだです。…
「いいえ、貴女はよくやっているわ。たまには緩めなければ、
「ヘンリエッタだって、心配する。エディスだって。」 と、仰っております。」
(…ローズマリー。)
しかし、この空気の中、あの話を持って入りづらい。
「...そういえば、ヘンリエッタ様は?
「あぁ、それが…。先日、頼まれてくれた用事を片付けていてな、まだ戻っていないだろう。」
「…なら、また来る。」 ――と。」
ローズマリーの付き人が残念そうに代弁すると、よく聞き取れない声が間を挟み、
「あら、まさか…。」
「キャシーならば先程扉の向こうへ抜けていったぞ。」
「……えぇ、お願いするわ。」
聞き取りにくい声の
このままでは、盗み聞きしていたかのようだ。そのようなはしたない事をしているなどとは思われたくない。仮にも
「そういえば、最近はまたゴシックが流行っているとか。」
「えぇ、そうね。流行に乗って
思わず後退りするも、間に合わないかもしれない。この部屋の前となると、隠れられる場所は...。
束の間に
「この流行は
「…。”ただの嗜好”では止まれないところまで来ている?」
「…かもしれない。…姉妹揃って疎いんですもの。心配だわ。」
──お二方の会話が続く中、ドアは開け放たれてしまった。
「流行はその治世の表れでもあるんだから、芸術にも目を向けておくのよ。」
...部屋から出て来たのは、城の者たちの中でも特によく知る人物だった。
それにしても間一髪である。
彼女は
「貴女は真面目過ぎるのよ。気晴らしだと思って、ね? 女王はお洒落でも注目の的なのよ?
流石は一流服飾ブランドを経営するオズボーン家が現・当主夫人とだけあって、
女王は一人、装飾が施された長椅子に体を沈め、くつろいだご様子で
もう既に、かなりの量を飲まれているだろうが、それでも、女王陛下の飲むスピードは変わらない。
頼まれていた雑事の報告が終わると
「ヘンリエッタに任せて良かった、ありがとう。…ただ、あの男。長々と待たせてはどう出るか…。」
「返答はどうなさいますか。」
「…返事は
「畏まりました。」
ふと、次の一杯が
「ふん...。瓶ごと一気飲みしたいところだな。」
「なりません。」
これは流石に聞き捨てならなかった。
「
「ご歓談を楽しまれていらしたようですので…。」
思わず、目を伏せながらに答えてしまい、すかさず
「お会いせずに暫くだったろう? お気になさっていた。ご令嬢もな。…気兼ねなく付き合える友人がローズマリー様だけというのも、
「……。」
「たまには城下に降りることを勧めたいところではあるけれども、…例の事件が収束していない内には…。」
「帰路の途中、少しばかり様子を拝見して参りました。」
「…ッ、行ったのか! 何を考えている! 危険だろう!」
「……
「その話は
軽い溜息を漏らしながらに、また一口、赤い液体がグラスから減っていく。しかし、
「例の事件、…遺体には必ず、体のどこかに欠損が見られると伺っています。被害者によっては、…
「…ヘンリエッタ。」
「先代も、この左目も、奪われたまま。また、今回も…。」
...六年前、
そして、
「ヘンリエッタ、この事件からは離れなさい。他に頼みたい事が― 」
あの時のことを思うと、
先代女王をも亡き者とせしめた
(それに、事件以外でも幾つか気になることもある。…もし繋がりがあるならーー)
いつの間にか、顔半分に痛みを感じていた。当てた手に隠れた眼帯は、瞼の裏に守るものもなく、ただ、見せかけ
「…
柔らかな右手に包まれて、痛みも忘れられるような気がした。掌から伝わる体温が、冷たい頬に心地
「姉として言わせて。…
…
エディス姉様にだって、守り継いでいかなければならないものが多くある。姉君方の両手一杯を重責でふさぐならば、汚れるのは末子のこの手で充分だろう。
―
…どんなに細い糸でも、手繰り寄せてみせる。僅かでも、六年前のあの顔の正体が掴めるならば、何もしない手はない。
この思いがいつしか、大きく彼を歪めることになるとは知らずに。
─小さな歯車は、ゆっくりと確実に廻り始めていた。
【第1章-1話.眼帯の王女- 終】
第一稿 2015/02/22(初出:FC2ブログ)
前回改稿 2018/01/03(カクヨム)
【ヘスペリデスの園で 第1章「―序―」 To be continue...】
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