第三章 幽霊沈船のダンジョン
1
きょうも風はなく、海面も穏やかだった。空を見上げればまさに雲ひとつなく、すみ切った青が広がっている。
絶好のダイビング日和。ウエットスーツに袖を通すと、あまりの暑さにじっとりと汗ばんでくる。
今、ボートはスターダストロックのほぼ真上に止まっていた。航はボートから海を見下ろす。透明度も良さそうだ。海面に手を入れてみると、小川のせせらぎほどの流れもない。
「よっしゃ。これなら予定通りいけるな」
はじめはウエットスーツの背中のファスナーを上げながらいう。
皆無言で頷いた。ボートのデッキには航、葵、ジジがそれぞれ背負う分と持って入る分、計みっつずつ。それに海面待機するはじめ用と、合わせて十セットの器材が並んでいる。
「よし、準備をはじめるぞ。持って入る分の器材はボートから手渡すから、エントリーしろ」
はじめの号令で各自器材を装着した。
航はレギュレーターを咥え、一息吸い込むと、そのまま船尾に足をかけ、海に向かって一歩大きく前に踏み出した。
続いてジジ、そして葵が飛び込んでくる。
全員、海面にそろうと、はじめはひとりに二セットずつ、予備器材を渡していく。
受け取るとそれぞれの器材のバックルを左右両肩に通し、両手が使えるようにした。
はじめは最後に大型の水中ライトを渡した。大型とはいってももちろん片手で持てるもので、太めの円筒に取っ手が付いたような形をしている。大光量で長時間バッテリーが持つ。航はライトについた紐を右手首に通して、取っ手部分を持った。
それとは別に予備の小型ライトがBCからぶら下がっている。メインライトが水中で壊したりなくしたりした場合の予備だ。
「じゃあ、行ってこい。けっして無理はするんじゃねえぞ。それと深刻にもなりすぎるな。かえってよくない。まあ、一生に一度こんな冒険してみるのもいいさ、くらいの気持ちでリラックスしていけ。わははははは」
「じゃあ、みんな、がんばるんだよぉ」
ボートからはじめとみなみが檄を飛ばす。
葵とジジに潜行のサインを出すと、そのまま左肩のインフレーターホースからBCのエアを抜いた。そのまま大きく息を吐き出すと、足からゆっくりと沈んでいく。
一メートルも沈むと、真下には鉛筆の先のような塔の先端が見える。頭を下にしつつ、そこに向かった。
きょうも透明度はかなりいい。塔のような根の登頂までくると、下にはサンゴに覆われたヨンガルラ号の機体がかすかに見える。ちらりと後ろを確認したが、葵はちゃんと付いてきていた。もちろんジジは問題ない。
きょうは根の表面に根付いた色とりどりの魚たちの群れに目を向ける余裕はない。そのままこまめに耳抜きしつつ、一直線に真下に降りていく。
きのうのように離れた棚から移動することもなく、真上から最短距離で向かったこともあり、あっという間にきのうまで岩と信じていた機体の上までたどり着いた。
水深三十五メートル。残圧はまだ百八十ある。二十しか使っていない。
そのまま機体の下に回り込み、さらに少し下がると目の前の岩肌には例のケーブの入り口ぽっかりと口を開けていた。軽い窒素酔いの症状が出たのか、視界がわずかに霞む。ただきのうのように視界が狭まることはなかった。体が慣れたのかもしれない。
すぐにジジと葵が追いついた。ふたりとも窒素酔いの症状が現れているようには見えない。一番窒素酔いになりやすいのは航だったらしい。
互いに顔を見合わせると、水中ライトにスイッチを入れる。
まず航が入った。続いて葵。最後にジジ。
大型水中ライト三台に照らされると、狭いケーブの中は真っ暗ではなくなる。きのうはここら一帯にひしめき合っていた金色のキンメモドキの大群は、どこにいったのかいない。
航はライトで上を照らし、きのうくぐった煙突のような縦穴を探す。
これか?
光が上に行く道を映し出した。間違いない。
航は両肩に掛けた予備の器材二セットを、ジジの手前に置いた。この辺の段取りはきのうの夜に打ち合わせ済みだ。
航はそのまま縦穴に入った。狭いのでフィンを小さく蹴りながらゆっくりと穴を上に抜ける。きのう同様、広いホールに出た。
どこかから入り込む木漏れ日のような光がなにかが蠢いているものを薄ぼんやりと照らし出している。近づいてよく観察すると、それはきのう下の通路に集まっていたキンメモドキの大群であることがわかった。まるで深い森の中で風に舞った金色の枯れ葉が舞っている様子を、木々の隙間から差し込むわずかな光で見ているかのように錯覚する。
どうやらこいつらの住処は、下の通路ではなく、本来こっちのホールの方なのだろう。
この小魚たちの群れは光を当てるとそれに反応して、波打ち、弾ける。その様はまるで金色のオーロラが航の来訪を歓迎しているかのようだ。
この光のカーテンが動くことで、覆い隠されていた機体がようやく顔を見せる。
一応、異常がないか調べるために、ライトでこの空間を隅から隅まで照らす。
機体自体はきのうとなにも変わらず、周辺にもとくに変なところはない。
航は縦穴を上から見下ろし、ライトを下に向けると円を描くように振った。OKの合図。
数秒後、器材が一式浮いてくる。航はそれをキャッチすると、BCのエアを抜いて浮力を打ち消した。そのまま近くに置く。
もう一度、穴からライトで合図をする。やはり、別のBCが浮き上がってきた。同様にエアを抜き、さっきの器材のとなりに並べる。
下でジジがBCにエアを入れ、浮力を使って縦穴を通したのだ。BCのパワーインフレーターを使えば、ボタンひとつでタンクのエアをBC内部に送り込める。数秒でパンパンにふくらむ。もっとも今はタンクが浮けばいいだけだから、ちょっとだけ入れればすむ。ほんの一瞬のことだ。むしろエアを抜く方が時間がかかる。
次は葵が上がってきた。
『ジジちゃんが、先に行って上を手伝えって』
葵の声が頭に響く。航は先ほどつい慣れた意思伝達方法として、ライトでOKサインを出したが、よく考えてみれば、ライトを振ったり、ハンドシグナルを使ったりするより、こっちの方がはるかに早く確実なコミュニケーションだ。
『こっちは送るだけだからひとりでいい。エア抜いて並べる分、そっちの方が手間かかるだろ?』
ジジの考えが伝わる。もちろんジジと航はダイレクトに意思疎通できないが、近くに葵がいる場合、葵を中継して交信することが可能らしい。
葵に続いて、残りのBCも上がってきた。葵と手分けしてエアを抜きつつ、並べていく。
最後にジジが上がってきた。
三人そろったところでキンメモドキが形づくる金の雲海を掻き分け、ヨンガルラ号のコックピットの前にたどり着いた。
みっつのライトが中を照らした。
きのうはあまりじっくり観察する余裕がなかったが、今は違う。航はライトを少し動かしながら、隅々まで見た。
操縦席がふたつ。そこには死体はない。
壁には計器類が所狭しと並んでいるが、それらの多くは明らかに壊れている。金属類は錆び、床には沈殿物が堪っている。気をつけないと巻き上げて視界を悪くしてしまう。
奥にはドアが付いていた。図面によると、向こうは座席が並んだ通路、その奥が休憩、仮眠のためのラウンジのようになってる。きのうはよく見ていなかったが、ドアは残念ながら閉まっていた。開けるのに少し時間がかかるだろう。
航は自分のゲージを確認する。
水深、四十メートル。残圧、百四十。きのうよりは余裕がある。ここに来るまで寄り道しなかったし、きのうのより若干長いタンクを背負っているせいだ。こいつは容量にして約二割り増し。エアもそれだけ持つ。
ふたりにも確認すると、葵は同じくらい。ジジは百七十近くあった。
『入りましょう』
葵の声が頭に響いた。
『葵さん、床に沈殿物が堪ってる。フィンで煽れば舞い上がって、とたんに透明度が落ちる。気をつけて』
『わかったわ』
まず航が入った。窓の砕け散った部分をくぐり抜け、中性浮力を取りながら、ゆっくりと奥に行く。念のため、さらに細かくあたりを観察するが、とくに変わった様子はない。
念のため、ドアを開けてみようとしたが、やはり当然のごとく開きはしなかった。鍵が掛かっているというより、周囲の壁が少し湾曲していることから考えて、おそらく墜落の衝撃で歪んで開かなくなったのだろう。葵の道具が必要だ。
合図をすると、ふたりとも航に続いた。
『葵さん、ドアを開けて』
葵は頷くと、沈殿物を巻き上げないように、静かにドアの前に着地した。さらにBCのポケットから拳銃に似た形をした、片手に収まるほどの小型機械を取り出す。打ち合わせのとき、葵が用意するといったレーザーバーナーだ。
『ドアを照らして』
葵からリクエストが来た。航とジジは要求に応え、ライトを向ける。
葵は小型の機械の先端をドアの蝶番に当てる。火鉢を水に入れるような音とともに、火花が散った。
2
はじめはボートの側で海面に漂いながら、スノーケルを咥え、ずっと下を観察していた。
航たちがディープブルーの海に溶けるように消えていったあと、異変がないか、目をこらしている。
取り立ててなにも変化はない。見た目だけではなく、葵の心の声も聞こえなかった。
やはり遠すぎるのだろう。水の中で限定された能力。どれくらいの伝達距離があるのか知らないが、無線のようにはいかないようだ。
自分が行くべきだったろうかとも思う。
ジジが付いているとはいえ、航にまかせたのは少し不安が残る。
だがあのときの航に、そういってもおそらく聞きはしなかったろう。思い詰めていたようすだった。
はじめの実家は開業医だ。外科医で救急の受け入れもやっている。はじめも医者になってあとを継ぐつもりだった。
いつからだったろう。重圧に耐えきれなくなったのは。
親からの期待もそうだったが、それ以上に耐え難いのは、外科医のもとには今にも死にそうな患者が運ばれることが多々あるということだ。
自分がミスしなくても、患者は死ぬかもしれない。
それは仕方のないことなのか? 患者の寿命だったのか?
はじめにはとてもそうは割り切れなかった。一見豪快そうに見える性格だが、案外生真面目でプレッシャーにも弱い。
だから逃げ出した。好きだった南の海と島で愛する人とのんびり暮らそうと思ってダイビングショップを始めた。
この仕事も客の命を預かるという点では同じだが、無理さえしなければ事故はほぼ完璧に予防できる。手の施しようのない患者が運ばれてくることはない。
ここの生活ははじめにとって満足のいくものだった。
だがその反面、航には引け目を感じていた。はじめが家を飛び出したことにより、親は当然航にはじめの代わりを要求したことだろう。きっと航もその気になったはずだ。そしてけっきょく医学部にいくこともなく両親は事故で死んだ。しかも赤字経営続きだったため、病院はそのまま潰れ、はじめの元に来ることになる。
航はそのまま東京に残って大学に行く道もあった。ここだって儲かっているほどではないが、それくらいのことはしてやるつもりだった。
だが航ははじめと暮らすことを選択した。
ひょっとしたら、航もはじめ同様うんざりしていたのかもしれない。親の期待や東京での生活に。だがそれは航にしかわからないことだ。
航はここに来てから、自分の本音をぶつけることはなかったから。
だが、あのとき、はじめが葵を見捨てようとしたとき、航がいったことは胸にしみる。
『そのギリアムさんや、王女がまだ生きているのかどうかはわからない。っていうか、たぶん死んでるよ。だけど万が一にも生きていれば、そして俺たちに助ける力があるならば、助けるだろう? その後のことまでは関わる気はないさ。俺たちには荷が重すぎる。だけど、目の前で事故にあった人間を助けるのは、人間として当たり前のことだろう?』
はじめはその当たり前のことを親から期待されていた。そこから逃げ出した。
また逃げ出すのか、兄さん? 俺は違う。俺は目の前の人を助ける。
そういわれた気がした。
だから葵に協力することにした。航にやらせた。
だが結果によっては航を傷つけるだけかもしれない。
そんな思いを募らせているとき、ボートが近づく音が聞こえた。見るとバンカーボートがすぐ近くまで来て停船した。
ここは人気ポイントだから複数の船が集まることも珍しくない。おそらく「GOGOダイバース」のだろう。あそこは客が多いときは、地元の漁師のバンカーボートをチャーターすることもある。
ダイバーが次々とエントリーしていった。全部で四人。女もひとり混じっている。
はじめはそこで初めて違和感を覚えた。全員、ダブルタンクを背負っていたからだ。
しかもリーダーらしき先頭をいく男に見覚えはない。
誰だ? いったいなにをする気だよ?
男たちは頭を下にして一目散に下に向かっていく。ファンダイバーの潜り方じゃない。
いやな予感がした。
3
ドアの蝶番は上中下と三カ所ある。葵はひとつに付き十秒ほどで焼き切っていった。
次に丸いハンドル付近のドアの隙間に当てた。おそらくロックするための心棒を焼き切るつもりだ。
それも数秒で終わった。葵はハンドルを掴み、引っ張ったが動かない。
『手伝って。たぶんドアとドア枠が歪んでる。それに錆で固まってるせいもあるかも』
航とジジがともにハンドルを掴み、いっせいに引っ張るが、びくともしなかった。
『待って』
葵はハンドルから手を離すと、ライトを頭上に振った。天井に金属製のパイプが這っている。これはおそらく無重力の状態のとき、移動しやすいように手すりとして設けられているのだろう。特殊合金でできているのか、海水の中でもぼろぼろに腐食してはいない。葵はレーザーバーナーでそれをあっという間に二メートルほどに切断し、取り外すと、それをハンドルの中に突っ込んだ。その先端を壁に当てる。てこを使う気だ。
説明されるまでもなく、意図を理解した航とジジは葵とともにパイプを掴んだ。
三人の力でそれを引くと、細いながらも丈夫そうな金属棒がみしみしと悲鳴を上げる。しかしドアは明らかに少しずつ手前に動いた。少しずつそれを繰り返していくと、やがて、てこの棒は一気に振り切れた。蝶番まで切っているから、ドアは丸ごと外れ、ゆっくりと床に落ちると、沈殿物を巻き上げる。
とたんに船内の透明度が落ちた。ライトを向けても煙幕のような濁った水で覆われ、先が見えない。避けたかった事態だが仕方がない。
『葵さん、慌てるな。しばらくそのまま浮いてて』
『わかった』
こういう場合慌てても仕方がない。下手に動けば方向感覚をなくするだけだ。濁りが完全に収まるにはかなり時間がかかるだろうが、とりあえずちょっとの間待つだけでもだいぶましになるだろう。
『ちょっと中の様子を見てくる。ジジから離れないで』
航は葵にそう伝言すると、静かにドアをくぐった。
下の方の透明度は悪いが、上はそうでもない。天井を照らせば、光は通り、はっきりと見えた。
下を照らすと、両サイドに並んだ座席の背もたれがかすかに見える。まるで機内に霧が立ちこめたような異様な光景だ。とはいえ、上の方が見通せるおかげで、通路を通るのに不便は感じなかった。水深を天井近くにキープすればいい。
それでも少し前に進むと、葵たちの姿は振り向いても見えなくなった。こういう透明度の悪いとき、離ればなれになるのははぐれる元になるため危険だが、暗い場合は逆にライトの灯りで相手の位置がわかるので、少しぐらい離れてもその心配はいらない。それにいざとなれば葵のテレパシーという秘密兵器に頼ればいい。
『待って、航くん。中になにかいる』
『え?』
『魚だと思うけど、なにか変。敵意を感じる』
危険な魚がいるってことか?
緊張が走った。姿が見えないからよけい不安になる。
素人は危険な魚といえば、すぐにサメを連想する。だがダイバーがサメに襲われることは、じつはほとんどない。無害なサメも多いし、危険といわれているサメでも、むやみにダイバーを襲うことはない。むしろサメがいるとなると、積極的に見に行くのがダイバーという人種だ。「ジョーズ」でおなじみのホオジロザメなどはあるいは危険なのかもしれないが、海の中でじっさいそんなものに出会った経験のあるダイバーはほとんどいない。
だから航はなにか得体のしれないものを想像してしまう。
突然、顔の横をなにかが横切った。
サメなんかじゃない。もっと細長く、ヒレなどがごてごてした感じだった。大きさはさほどでもなかったような気がする。
上の方は透明度は悪くないといっても、ライトを横切ったのがほんの一瞬だったため、その正体を見極めるまでいかない。
なんだ?
思い当たる魚はない。少なくとも、航がガイドをしてからこの近海でそれらしいものを見た記憶はなかった。
たんなる妄想ではなく、ほんとうに得体の知れない魚かもしれない。なにしろここは普通の場所ではない。人類にとって未知の領域、宇宙から落ちてきた沈船なのだから。
さらに別のやつと思われる個体が足下をよぎる影が見えた。そのまま座席の下に潜ったのかもしれない。頭上にも似た気配を感じる。そっちにライトを向けると、なにかが高速で移動し、闇に紛れた。
『航、こっちにも来た。囲まれてる』
コックピットにいるジジから報告が来た。
いやな予感がする。せめて姿が見えれば、それなりの心構えもできるというのに。
『葵さん、いったん外に出よう。こいつらの正体がわかるまで進むべきじゃない』
『航くん、もう遅いわ。こっちにもそうとういる。何匹かはすでに船の外に出たわ』
葵には姿が見えなくても、水の中なら相手の発する意識で位置がわかる。それは魚でも例外ではないってことだ。
知らない間にそうとうの数がこっちから向こうに移動していたらしい。
ひょっとして長年、この中に閉じこめれらていたものを解き放ってしまったのか?
だがそれにしても変だ。もしそうなら百年もの間、そいつらはなにを喰って生きてきたんだ?
そう思ったとき、視界に見覚えのある魚が入った。
アカマツカサ。丸く大きな目が印象的な赤い魚。そう大きな魚ではない。この辺に普通に見られるなじみの魚だ。
どこかに外に繋がっている小さな穴があるんだ。だから小さな魚は出入りできる。やつらはそれを喰って生きてきたんだ。
直感的にそう思った。
とりあえず、まだ誰も襲われてはいない。おそらく人間を襲うような魚ではないのだろう。いたずらに脅える必要はない。
まず、こいつの正体を見極めてやる。
航は前に進んだ。ゆっくりと、これ以上濁った水を撹拌しないように気を遣いながら。
通路の両脇に座席がなくなり、比較的広いラウンジに出た。さいわいここにはドアが付いていない。
この辺まで来ると、下の方も透明度が回復している。航は謎の魚を探そうと正面にライトを当てる。
だが光に照らされ、いきなり航の目の前に現れたものは魚ではなかった。
『うあああああ』
それは軍服らしきものを着た白骨死体だった。
航の口から、レギュレーターを通して大量の泡があふれ出す。
ま、まさか……? これは?
『どうしたの? 航くん』
葵が航の動揺に敏感に反応した。
骸骨の着ている軍服は、腐食しづらい特殊な素材で作られているのか、百年の歳月海水に浸かっていたにもかかわらず、ぼろ布とは化していない。かなり形をとどめていた。そのせいで衣服の中にガスが堪っているのか、骸骨は床に朽ち果ててはおらず、微妙なバランスを保ちながらゆらゆらと漂っている。
その姿はまるで幽霊が両手を前に伸ばし、暗闇の中から現れたかとしか思えない。
いや、もちろん航にはそれが幽霊でないことはわかっている。問題は誰かだ。
葵が探し求めている恋人、ギリアムか? それとも王女? あるいはもうひとりのパイロットか?
着ているものから、たぶん王女ではないはずだ。ならば葵の彼氏である確率は半々。
目の前をなにかが横切った。
航は当初の目的を思い出した。正体不明の魚がなにか、たしかめる必要がある。
ライトをいったん遺骸から外す。魚を影を追う。
この辺の透明度は悪くないので、そいつを捜すのは難しくなかった。
そいつは部屋の隅っこの方で、中層に浮かび、航の方を見つめていた。
なんだこいつは?
見たことがない魚だった。普通ならば、新種発見と、大喜びしたいところだが、とてもそんな雰囲気ではない。
それほどそいつは異様で、危険なオーラを発散していた。
おなじみの魚で一番近いのはウツボだろうか?
体が細長く顔の形も似ている。全長一メートル以上あり、ウツボにしてはかなり大きいが、これくらいのやつだっていないわけじゃない。ただウツボはたいてい岩の中の穴に住み着き、外には顔だけ出すのがせいぜいだが、こいつは全身をさらし泳ぎ回っている。
だが相違点はそれだけではなかった。決定的な違いは、そいつがど派手な装いをしていることだ。ウツボは見た目がシンプルで、鱗らしきものもないが、そいつは相手を威嚇するかのように銀色に輝く鱗を目一杯逆立てていた。虹のように七色に輝く背びれと胸びれも大きく、しかも先端が妙に尖っている。
目は丸く、プラスティックのように精気を感じない。よくどろんとしたような目を、魚の死んだような目というが、それとも違う。むしろロボットのそれに近いだろう。
ウツボと違う点ばかり強調したが、似ている点が体型以外にもあった。
歯が鋭いということだ。そいつが細長い口を威嚇気味に開けると、そこには鋭い牙がびっしりと並んでいる。
そいつの一メートルほど前を、アカマツカサが一匹、不用意に通り過ぎようとした。
そのきんきらウツボは目にもとまらない速さで移動し、次の瞬間には哀れなアカマツカサは上下の鋭い牙に串刺しにされた。
航はさらにそいつの危険性を認識させられた。
瞬間的な動きとはいえ、水の中でこれほど速く動くとは……。
こんなやつに襲われたら、ひとたまりもない。
航は無意識に後ろずさる。
背中がなにかにぶつかった。思わず叫びそうになる。
『あたしよ』
その心を読み取ったのか、葵が頭に話しかける。
『あ、葵さん。こっちには来るなって……』
『同じよ。コックピットも、こいつらでいっぱいになったから』
こいつらに完全に囲まれたってことだ。生きた心地がしない。
葵は目の前にいる遺体と魚をじっくりと見た。
航は心配になる。この遺骸が恋人かもしれないのだ。この状況で取り乱されてはは危険きわまりない。
『だいじょうぶ。取り乱さないわ。あれはギリアムじゃない。階級が違う。バッジでわかるの』
いわれてみれば、軍服はかなり原形をとどめているせいで、階級を表すらしいバッジが残っている。それを見て判断したらしい。その辺は地球と同じだ。
つまり、この骸骨は副パイロット。
ならば、航が心配すべきことは、この魚の正体だ。
『こいつらは、もしかして……』
『ええ。ルッソの魚、マリナス……だと思う』
『でも、ルッソには海がないって……』
『ええ、でもかつてはあったのよ。海の生物を絶滅させることを避けて、水生生物を人工的な環境で生きながらえさせているの。すごくお金のかかることだけど、それをやめれば魚という魚は死に絶えてしまう。ここにいるってことはきっと王女が逃げるときに持ち出したんだわ』
『なんのために?』
『王女は魚を育てる事業に関わっていたの。きっと、セシール軍に襲われて飼育環境が全滅するのを避けたかったんでしょうね。逃げた先で育てようと、小さくて持ち運びができそうなものを選んでつがいで持ち出したんでしょう。そいつらがたぶん、地球の海水の中で繁殖したんだわ。でも、まさかこんなに大きくなるなんて』
きっと狭い水槽のような環境でしか生きられなかったルッソの魚が、豊富な餌に恵まれた地球の海で世代交代をしながら繁殖していった。
『いかにも凶暴そうだけど、どうなの? 人間を襲う?』
『わからないわ。どう猛なのは間違いないだろうけど、ルッソではこいつらの生活環境に人間が入ることはなかった。それにこんなに大きくなったのを見たことがないわ。せいぜい手の平サイズのはずなのよ』
いつの間にか、目の前で航たちを威嚇する異星の魚マリナスは数が増えた。
見える範囲だけでも、三匹が中層に浮かびながら、取り囲むようにして無機質な視線を浴びせる。
すぐに襲ってこないのは警戒しているからだろう。
『こいつらは何匹いるんだ? 葵さん、わかるか?』
『正確にはわからない。でも十匹以上が取り囲んでいるのは間違いないわ』
どうする? 前に進むにも、ここから次の廊下に出るためのドアは閉まったままだ。開けるためにはさっきの要領でやるしかないが、時間がかかる上に隙ができすぎる。かといって、戻るにしても危険はそう変わりはない。
『葵さん、こいつらをコントロールできないのか? いつかマンタを操ったように』
『無理よ。こいつらは敵意に満ちているわ。あのときは、彼らはあたしに友好的だったからこそシンクロできたの』
葵の能力はあくまでも交信することで、操ることではないということなのだろう。
『床の下を行きましょう』
葵がいった。
『この下にはパイプシャフトが走っている。意外と広いからきっとくぐり抜けられる。後ろの機関室まで抜けて、そこから人口冬眠室に抜けましょう』
図面を思い出す。そういえばそうだったが、航には思いつかない発想だった。それがベストかもしれない。下手に奥のドアを開けて進めば、その先もこいつらが追ってくるかもしれない。
『何分で開けられる?』
『すぐよ』
葵はいうが早いか、レーザーバーナーで床を切り始めた。
後はその間、こいつらが襲ってこないことを祈るばかりだ。
航はダイバーズナイフを抜いた。本来武器にするものではないが、ないよりましだ。あのスピードで襲ってこられれば、対応できるとは思えないが、ハッタリにでもなればいい。
『ジジ、通路の方はどうだ?』
『とりあえず、攻撃はしてこない』
座席間の通路の方はまだかなり濁りがひどく、ジジの姿も不気味な魚の姿も見えない。
『だいじょうぶだ。襲ってくるようなら応戦するから。しばらくは持つ』
なさけないことに、ジジの方が航よりも動揺していないようだ。
異星の魚は、まるで地獄からの使者のように歯をむき出して、航を威嚇しつつ、すこしずつ距離を縮めてくる。その気になれば、一瞬で航に牙を突きたてられる距離だ。
ほんの数分が、まるで一時間にも感じられる。
『開いた』
葵が切れた鉄板をずらした。
『切った板よこして』
航がそういって、一メートル角ほどに切り取られた床の金属板を受け取った。
ふたりを先に中に入れて、自分は最後に入るしかない。入った後にこれで穴を塞ぐのは自分の役目になる。それにこれがあれば盾として使えるかもしれない。
『葵さん、入った? 中はどう? 通れる?』
『入った。なんとかいけそう』
『ジジ、次に入れ』
注意が後ろに行った瞬間、悪魔の魚、マリナス三匹がいっせいに襲いかかってきた。
うわあああ。
航はとっさに右手のナイフの切っ先で襲ってきた一匹の顔を払い、左手に持った鉄板でもう一匹の突撃を防いだ。
だが最後の一匹が大口を開けて、航の目の前に迫ってくる。
鋭利な牙だらけの口に飲み込まれそうになったその瞬間、そいつの口の中になにかが突き刺さった。
銛?
それはついさっき、ドアを開けるために使った手すりの棒だった。だがその先端はなぜか鋭い。航の知らない間に、レーザーバーナーで竹槍のようにカットしていたらしい。
槍は引き抜かれ、同時に魚たちは警戒を強め、後ろに下がった。
もちろん槍の引かれた方向には、ジジがいた。
さすが子供のころから、銛を片手に素潜りで魚を突いていた女だ。
『なにやってんだ、馬鹿。隙を見せすぎだ』
ジジは魚たちを威嚇しながら、穴に入っていく。一暴れしたせいで、床下近辺の透明度はすでにかなり悪く、濁った水の中に溶けていくように見えた。
『銛で牽制してやるから、さっさと入れ、航』
煙幕のような水から銛の先だけが見えた。ジジが穴に入ったあと、そこから銛を突き出しているらしい。
航はいわれるまでもなく、床下に潜り込んだ。
銛は中に持ってはいるには長すぎたらしく、ジジは床に放ると、手を引っ込めた。
航はすかさず盾がわりに持ってきた切れた鉄板を下から押し当て、ふたをする。ただ、どうやって止めるかまで考えていなかった。なにかつっかえ棒になるようなものはあるか?
『そのまま持ってて。ジジちゃん、灯りを当てて』
葵はレーザーバーナーを押し当てる。溶接機能まで付いているらしい。いい加減に押し当てたので隙間は大きいが、やつらははいってこれないはず。葵は鉄板の四隅を簡易的に留めた。
じたばたしている内に、この中もあっという間に透明度は悪くなった。それでも見える範囲で判断すると、パイプシャフトらしく無数のパイプが走っている。その間にかろうじて人間ひとり通れそうな空間が空いていた。
『進みましょう』
葵はそういって先頭を行く。航としては彼女を矢面に立てるのは抵抗があったが、狭すぎて入った順に進むしかない。体を入れ替えられないのだ。航はしんがりを守る形になる。
もっともこの船を一番熟知しているのは葵だし、危険な生物感知レーダーのようなものだから、ある意味この陣形がベストなのかもしれない。
4
どうやら先客がいるらしいな。
ダジルは水深五十メートルの洞窟をくぐりながら考えた。
潜行するとき、水面から自分たちを見ていたダイバーは、自分たちがヨンガルラに入り込むのではないかと疑っているかのようだった。
つまり、あいつは見張りであると同時、緊急時のバックアップ要員だ。思考波の形状から察するに地球人のようだが、なんらかの理由で協力しているのだろう。
もちろん協力相手は先行して機内に潜り込んだサバラム王国軍だ。
『ええ、大尉。間違いなく先客は中にいます』
女隊員のサミルがダジルの思考を読んだらしく。反応した。
『え? 本当か?』
巨漢の豪傑ゴーラが驚く。
『ゴーラ、思考をむやみに垂れ流すな。中のやつらに気づかれる。話しかけるときは、サミルのように俺たちだけに話しかけろ』
『すみません、ダジル大尉』
水を媒体に意思伝達する場合、周囲のすべてに伝達することと、特定の誰かにしか伝達しないこと両方が可能だ。相手に心を読まれたくない場合はバリアを張ることもできる。ルッソにいるときは、複数の人間が同じ水の中に浸かるなどという経験がなかったため、実感できなかったことだが、この星で海というものの中にいると、それが使い分けられることがよくわかる。
とはいうものの、テレパシー能力には個人差もあり、ゴーラはかなり苦手だ。逆にサミルはずば抜けている。ダジルといえど水の中でこの女に心を読ませないようにするにはかなり意識的にブロックを掛けないといけない。ちょっと気を抜くと読まれてしまう。
ライトで岩の上部を照らし、上に抜ける穴を見つける。きょう、朝早く一度潜ったが、そのとき見つけた穴だ。そのさいヨンガルラの機体を見つけるまではいったが、それまでに時間を食いすぎ、進入することはできなかった。時間をおいて今出直してきたわけだ。
『サミル、連中の動きがここからわかるか?』
『敵は三人。いずれも艦内に潜入しています。この上の洞窟には誰もいません。ただ、魚が溢れていますが、その中にどう猛そうなやつが混じっています』
『ゴーラ。先に上に行き、状態をたしかめろ』
『了解』
ゴーラはでかい体を窮屈そう縮ませ、トンネル状の穴の中を登っていく。
ダブルタンクを背負っているとぎりぎりの狭さだが、かろうじて通れることは朝、潜ったときに確認済みだ。
『サミルのいうとおり、機の外には誰もいません。どう猛そうな魚の姿は確認できません。岩陰に潜んでいるのかも知れません』
テレパシーで報告が来る。
『サミル、行け』
『はっ』
美貌の女コマンドが続く。一分ほどして連絡が入る。
『取りあえず危険はないようです。危険な魚はそこらの岩陰に隠れて様子を見ています。ゴーラに脅えたのでしょう』
納得したダジルはエンジニアのグラークを送り込み、最後に自分がくぐる。
ダイビング知識を習うとき、窒素酔いというものを教わったが、水深五十メートルにして誰も窒素酔いを起こさない。ルッソの人間は地球人の末裔だが、おそらく窒素酔いを起こしにくい体質に変化したのだろう。
上に抜けると、朝と同じようにホール状の空間の中にヨンガルラの先端は横たわっていた。その周辺を霧のように、取るに足らない小魚どもが大群をなして覆っている。邪魔なことこの上ない。
『大尉。ダイビング器材が置かれています』
ゴーラがライトで地面を照らす。
『ふん。帰りのエアを心配しているらしい』
『エアを抜いてやりましょうか』
サミルが意地の悪そうな目をむける。
『ふん、好きにしろ』
サミルはナイフを抜くと、楽しそうに手慣れた手つきで並べられたレギュレーターのホースを片っ端から切っていった。そこから大量のエアが噴き出し、小魚たちがそれに反応して逃げまどう。
『大尉。まわりに注意を』
サミルが突然、警告を発した。
その直後、機体を覆っていた小魚の群れが、不自然に弾けた。それも一度ではなく、二度、三度。
ダジルにも敵意は感じられる。それも一カ所からではなく、数カ所から。
人間ではない。サミルがいっていたどう猛な魚だ。そいつがこの小魚を襲っている。喰うためだろう。
小魚を食っている分にはなんの問題もないが、自分たちを襲ってこないとも限らない。それほど攻撃的な気を発している。当然、部下たちも気づいているはずだ。
『気をつけろ。素早いぞ』
『グラーク、後ろだ』
サミルがそう警告した瞬間、ダジルの頭の中に断末魔の悲鳴が鳴り響いた。
エンジニアのグラークの方を見ると、その首元には銀色の鱗をした細長い魚が鋭い牙を突きたてていた。
グラークは細身の体をがくがくとゆらし、レギュレーターから大量のエアを吹き出しながらもがき苦しんでいる。
不気味な魚の脳天にナイフが突き刺さった。サミルだ。近くにいたサミルが瞬時にダイバーズナイフをその切っ先をぶち込んだ。
『ぐわっ』
ゴーラも叫んだ。見ると腕に魚が噛みついている。しかしゴーラはグラークとは違い、慌てずに魚の首を掴むとへし折った。
魚の攻撃的な気が消え、遠のいていく。
こちらの強さに戦意を失ったのだ。
グラークの首は完全にえぐれ、血で透明度が目に見えて悪化した。残念ながら、もう絶命したのは間違いない。
『進むぞ』
グラークには悪いが、弔うのはあとだ。王立軍のやつは今のグラークの断末魔の叫びを心で聞いたはずだ。気づかれた以上、ぐずぐずしているわけにはいかない。
『サミル、おまえが前を行け。ゴーラ、おまえは後ろを守れ』
『はっ』
レーダー役のサミルは右手にナイフ、左手にライトを持ちながら、コックピットの窓の割れ目から中に進入する。ダジルは後に続いた。
5
狭く、暗く、しかも透明度が悪く、邪魔なパイプだらけの道を進んでいると、航は気が滅入ってきた。
真っ暗だからライトを当てたところ以外はなにも見えないのは仕方がないが、そのライトが当たった部分すらも舞い上がった沈殿物のせいでほとんどなにも見えない。普段透明度が抜群にいいミルル島で潜っている航は、こういうダイビングには慣れていない。
ライトを横に振ると、無造作に並んださまざまなパイプがかすかに見えるだけ。それが左右とも体のすぐ側にあり、両手を横に広げるスペースすらない。おまけに上下の天井と床の間も体が通るぎりぎりの高さしかないから圧迫感のあることはなはだしい。前方を照らすと、すぐ前を行くジジの下半身の形はかろうじてわかるが、たかだか四、五メートル先を行く葵の姿はもう見えなかった。
そんな状態で前に進んでいると、なにか体ひとつがようやく入る太さのパイプの中を延々と這っているような気になる。いつ終わるかわからない行程。振り返っても帰り道ははるか彼方。そんな錯覚に陥る。
いや、もちろん知識としては この道がほんの十五、六メートルで終わることを知っている。それが唯一の救いだ。もし本当にどれくらい続くかわからないとなると、まず耐えられない。
ダイビングガイドの自分でさえそう思うのだから、まだダイビング経験の浅い葵はだいじょうぶだろうか? しかも先頭はよけいにプレッシャーもきつそうだ。
そんなことを考えていると、頭の中に誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。
だが航にはそんなものより、四、五メートル先を進んでいた葵の動揺のほうがはっきりと感じられた。
視界の悪さのせいで、葵の動きこそよくわからなかったが、その分、激しい心の変化は地球人にはない不思議な力で波動のように広がり、航の脳を直撃する。
『なにがあった、葵さん?』
『誰かが死んだ。きっとあの魚に食いちぎられて』
『誰かって、……誰?』
『ひょっとしたら、追っ手かもしれない』
『追っ手って、その……セリーナ社会主義共和国とかのこと?』
『……なんてこと。ああ、きっと、あたしが……尾行されたんだわ』
葵の絶望感が言葉ではなく感覚として伝わってくる。
『葵さん、相手は何人なんだ? どこにいる?』
『わからない。あたしに読まれないように心にバリアを張っている。さっきのは死に際の悲鳴。そんなことをしている余裕がなかっただけだわ』
『でも、葵さんもそれできるんだろ? そのバリア? 心を読ませないようにすること』
『あたしにはできるわ。だけど、あいつらは航くんたちの思考を読めるのよ』
なんてこった。それはつまりこの暗闇の中で、相手はこっちの位置や狙いを正確に読めるが、こっちには相手の位置も出方もわからないことに他ならない。
それだけじゃない。こっちは戦闘の素人。あっちは任務を帯びた軍人。しかもその数すらわからない。不利な条件がそろいすぎている。
『とりあえずわかるのは、さっき相手がひとり死んだ時点ではまだ中に入っていなかった。例の縦穴の上のホールのような洞窟の中。きっと今ころ、中に入り込んでいるはずよ』
悲観的に考えるな。あいつらが武装していようと、水中で使える武器は限られるはず。しかもまわりには例の殺人魚がうようよいる。こっちに追いつく前に、やつらがやられる可能性だって高い。
無理矢理にでもそう思おうとした。そうでもしないと、パニックになりそうだ。ただでさえ苦行のような行進をしているというのに、これ以上ネガティブな考えに取り憑かれれば殺される前に潜水事故で死んでしまう。
そんなことを思いつつ、前に進んでいると、いきなり目の前の空間が開けた。
広い部屋に出るとともに、透明度がよくなったのだ。
『ここが?』
『機関室よ、航くん』
一足先に穴蔵から出た葵が伝える。葵とジジは中層に浮きながら、ライトであたりを見回していた。
航もライトを隅々まで当てる。たしかに機関室らしく、大きなロケットエンジンらしきものが左右に設置されている。中央には液体燃料タンクとおぼしきものもある。いずれもさび付いた上に沈殿物が表面を覆っているが、形からして間違いないだろう。
相変わらず真っ暗で、その全貌を一度に見ることはできないが、少なくともライトを当てた部分は鮮明に見て取れた。
『上に行きましょう』
葵は少し上に行くと、今まで進んできた方向とは反対向きにライトを当てる。
視界にドアが写り込んだ。ここから人口冬眠室に向かう廊下に出るドアのはず。
葵は例によって携帯用のレーザーバーナーでドアのロックと蝶番を焼き切り出す。
『航くん、ジジちゃん、なにかつっかえ棒になるものを探して』
葵は作業しながらいった。
『あいつらより先に廊下に出て、中から向こうのドアにつっかえ棒をするのよ』
その説明で納得がいった。人口冬眠室に通じる廊下と階段室は、このドアの向こうにあるが、同時にラウンジ、つまり敵のいるエリアとも隣接している。こっちが中に入っても、相手がドアを開ければ、敵兵と同時にあの魚まで乱入してくることになる。それは絶対に避けないといけない。
図面によれば、向こう側のドアはこっち開き。中からつっかえ棒をすれば簡単には入ってこれない。
『長さは四メートルくらいいるわ。長めのほうがいい。長い分には仕掛けるときに切ればいいから。二、三本必要よ。左のBCのポケットに予備のレーザーバーナーがあるから持っていって』
航は後ろから葵のポケットに手を突っ込むと、小型拳銃に似た機械を取り出した。
『使い方は簡単。切るものに先端を押しつけて引き金を引くだけ』
そういっている内に蝶番がひとつ解除された。
『急いで。それとなるべく丈夫そうなやつを……』
カンカンと金属を叩く音が鳴り響く。音の方にライトを向けると、ジジがナイフでタンクを叩いて鳴らしていた。
『なにやってる航、さっさと来い』
ジジはとっくにつっかえ棒に適当なものを探していたらしい。行動が早い。
葵から借りた道具を持ってそこに行く。ジジが使おうと考えているのは、燃料タンクをぐるりと囲っている手すりの横パイプのようだ。たしかに長さは適当といえる。
航はいちおう叩いて強度をたしかめた。表面は錆びているが、航が叩いたくらいではびくともしない。特殊合金でできているのだろう。径も案外太いし、なんとかなる。
レーザーバーナーの先端を、横パイプと支柱部のつなぎ部分に当て、引き金を絞った。
ぶん、とかすかに振動すると、火花を散らし、数秒後に向こうまで抜けた手応えがする。そのまま横にゆっくりとスライドしていくと手すり天端が支柱から、かくんと離れた。
これで切れたのか?
そう思うほど、あまりにもあっけない。残りの支柱数本を片っ端から切断した。
『取りあえず一本持ってきて』
ドアは開いたようだ。葵の声が響く。
ジジが今切れたばかりの一本を持って上に行った。航は引き続き、適当な長さの手すりを切っていく。あっという間に、もう二本のつっかえ棒ができあがった。
航はレーザーバーナーをBCのポケットに入れると、つっかえ棒を掴み、葵たちのいるところに向かう。だが、こんな棒でも二本掴むと、それなりの重量になるため、死ぬほどフィンを蹴ってもなかなか上に進まない。BCにエアを送り込むことでようやく体がふわりと浮き、楽に進むことができた。
ドアはすでに外れていた。航が中に入るとジジが持っていった棒はすでにドアと反対側の壁に押しつけられている。ドアと棒の先端の間には、細長い鉄板のようなものが挟まっていた。よく見ると、上へ行く階段の踏み板を切り取って当てたらしい。
『航くん、それの先端を貸して』
航が一本を葵に渡すと、葵はそれを階段の踏み板に押しつける。
『反対側を壁に』
航は長さを考え、壁の適当な位置に先端を当てる。そのまま閉まる方向に蹴りこんでつっかえ棒を効かせた。
『ジジちゃん、三本目を掛けて。航くんは、階段の手すりを切って。それで三本を繋いで補強するの』
葵はドアを押さえている踏み板とつっかえ棒を溶接しながらいった。
航は持ってきた最後の棒をジジに渡すと、いわれるがままに階段の手すりを切り始めた。
そして内心、葵の統率力に驚いている。もっと、のんびりしたマイペースの人としか思っていなかったからだ。愛は女を強くするのかもしれない。
『だけど葵さん、あいつらここから来るのかな? 俺たちのようにパイプシャフトから来るかもしれない。葵さんに心を読ませないようにしているんだろ?』
『いえ、ここから来る。あいつらの意識は読めないけど、まわりの魚の反応がわかるの』
なるほど、例のマリナスとかいう凶暴な魚が、追っ手に対して放つ殺気のようなもので判断しているわけか。
『もうそこまで来てるわ。マリナスを殺しながら』
葵はドアでの溶接作業を終えたようだ。
『切ったやつを一本渡して』
航が手渡すと、葵はそれでつっかえ棒を互いに繋いで補強し出す。
『航くんも手伝って。レーザーバーナーを握ったとき、親指のあたりにレバーがあるでしょう? それを起こして。それで溶接に切り替わるから』
手に持った機械を見てみると、たしかにそれらしきものがある。それを直角に押し上げると、切った手すりをつっかえ棒に当て、試してみる。引き金を引くと、ばちんとさっきとは違った手応えがし、両者がくっついているのがわかる。便利な機械だ。
とはいえ、慣れない作業。たんに切断するだけのようにはうまくいかない。
『溶接はあたしがやるわ。航くんはもっと切って』
葵もそれに気づいたか、指示を変えた。航はふたたび手すりの切断に入る。
葵が何本かを繋ぎ追えたころ、ドアになにか大きなものがぶち当たる音がした。
つっかえ棒がみしみし軋むが、折れることはなかった。
『ついに来たわ。蝶番を焼き切られても、しばらくは持つはずよ。上に行きましょう』
葵は作業をやめ、ジジを促しつつ、航のいた階段まで上がってくる。
『人口冬眠室はこの上よ』
葵はそのまま踊り場を通り、さらに上に向かった。航もあとに続く。
『入り口が見えたわ』
葵がライトを照らす少し上の方に、たしかにドアが見えた。下は透明度が三メートルくらいまで落ちてきたが、この辺はまだ視界がいい。
葵はドアにたどり着くや、手早くレーザーを使い、切るべきところを切っていく。このドアは比較的簡単に開いた。
この部屋だけ水没していないなどという都合のいいことはやはりなく、しっかり海水で埋まっていた。葵も当然予期していたらしく、うろたえなかった。
『行きましょう』
そういって一歩前に進んだ葵のライトがいきなり消えた。
『な、なに?』
航は葵の水中ライトを照らす。驚いたことに、ライトの先端がなにか鋭利な刃物で切り取ったかのようになくなっている。
『ま、まさか……?』
『葵さん、なんだ。なにが起こったんだ?』
航にはまったく理解不能のできごとだ。ライトをなにかにぶつけて壊れたとかいうレベルの話ではない。明らかになにかが切った。
航が葵の側に駆け寄ろうとしたとき、葵が叫ぶ。
『動かないで』
葵の同様が伝わる。なにかとてつもなく深刻なできごとらしい。
『信じられないけど、……きっと人口冬眠室を守るためにシステムが作動したんだわ』
『どういうこと?』
『人口冬眠装置が作動しているとき、外敵が潜入したと船のメインコンピューターが判断した場合、自動的に防御システムが作動する仕掛けなの。つまり、この船のコンピューターはまだ生きてるんだわ』
『だけど、人口冬眠の機械は密閉されているから水の中でもたぶん壊れないっていったのは、葵さんだよ』
『それはあくまでも人口冬眠装置に限ったことよ。船全体のコンピューターが生きているのは理解できないわ』
『よくわからないけど、つまりどういうこと。なにが起こってるの?』
葵は踊り場の床を手で仰いだ。沈殿物が舞い、下の方の透明度が落ちる。
そのとき、きらりと赤く光る一本の直線が見えた。
『レーザーよ。入り口を超高出力レーザー網が守っている。触れば人間の体なんてあっとう間に切断されるわ』
『切る方法は?』
『奥の方にあるスイッチを切るしかないわ』
奥に行く? どうやって?
葵は一歩下がって体勢を入れ替え、脚を前に出した。そのままフィンで床を煽る。
瞬く間に沈殿物は上の方まで舞い上がる。そのことによって見えなかったレーザー網が浮かび上がる。
暗闇の中、赤く光る幾筋もの直線。
それはとても人間が通り抜けられるとは思えないほど、複雑かつ狭い間隔で張り巡らされていた。
こんなところを通れるもんか。
ただでさえ、タンクというよけいなものを背負っているのだ。
下では、いったん静かになっていたのが、ふたたびドアをたたき付ける音と、つっかえ棒が軋む音がし始めた。おそらくレーザーでロックと蝶番を切り追え、開けようとしているのだろう。あのつっかえ棒では長時間は持たない。
『誰かがここをくぐってスイッチを切るしかないわ。あたしがやる』
葵が突然とんでもないことをいい出した。
中に入る? たしかに人間が通れる隙間がまったくないわけではないが、簡単ではない。おそらくそうとう複雑な経路を行かないと無理だろう。歩いては絶対に不可能。泳ぐという三次元的な移動によって初めて通過できる可能性が生まれるという感じだ。
『無理だ、葵さん。そんなことできるわけないだろ?』
『で、でも……、それしか方法はないの。このまま手をこまねいていても、追ってきたセシール軍のやつらに捕まるだけ。いえ、殺されるかも。……こんなことになってごめんなさい。これはあたしがまいた種、あたしがやるしかないの』
『だけど、それならレーザーを切って中に入ったって……』
『だいじょうぶ。あたしに考えがあるから。あいつらを倒すにはたぶんそれしかないわ』
『考えって?』
『それはいえない。あいつらに航くんの心を読まれる』
いきなりジジがBCを脱ぎだした。
『なにをする気だ?』
『あたしが入る』
『馬鹿なことをいうな。いくらおまえだってそんなことができるもんか』
『できるさ。どう考えても、網の目はあたしの体よりも大きいところがある。しかも続いている。そのルートを取ればいい。ひとりじゃ無理だけど、葵さんが目になってくれれば必ず通れる』
そのルートを取ればいいって、そんな複雑な動きができるとでもいうのか?
『そんな危険なこと、あなたにやらせられない。あたしが……』
『葵さんには無理だ。だけどあたしにならできる』
ジジは譲らなかった。
『考えたってしょうがない。誰かがやらないといけないんだ。だったら、もっとも成功率の高いやつがやるしかない』
ジジはそんなことをいいつつ、完全にBCを脱いだ。
タンクを背負っていてはこの網の目を通過できそうにないと思ったからだろう。
たしかにもしこの中の誰かがやらなければならないとすると、ジジが一番適任だろう。一番体が小さく、泳ぎも上手い。
『わかった。任せる。俺は……』
航はきびすを返した。
『俺は下のドアを死守する』
ジジがここを通るには葵の力がいる。ならば、自分にできることは、ジジが底を抜ける間、敵の侵入を防ぐことだ。
『ま、待って航くん。いったいなにをする気なの? 相手は戦闘のプロなのよ。はっきりいって、航くんに勝てる相手じゃない』
『ドアを固めるだけだよ、葵さん。ここでじっとしてるより、ずっとましさ』
そう伝え、階段部分から下に向かって泳ぐ。
葵にはそういったが、もちろん相手がドアを破った場合は戦うしかない。
航が下に行ったとき、ドアにぶち当たる音は止まっていた。体当たりで開けることは諦めたらしい。
だがドアの側まで行ったとき、異変に気がついた。ドアが火花を放ちながら、ジジジと音を立て、ゆっくりと中央から切れていくのだった。
レーザーバーナーだ。やつらこじ開けるのを諦めて、ドアを切り刻む気だ。
6
なぜこんなことを志願したんだろうと、ジジは自分でも思う。
葵は好きじゃなかったのに。
そこまで考えて、ジジは内心自虐的に笑った。
いや、違う。あたしはたんに嫉妬していただけだ。
航が葵に夢中だったから。それで……面白くなかっただけ。
ジジが航に抱いている感情は、恋なのか、似たような境遇の仲間意識なのか、自分でもよくわからない。事故で肉親を亡くし、ダイビングの仕事をしている仲間であり、ライバルでもあるのはたしかだが、異性としてはどうなのだろう?
それでも航が他の女に気を奪われていると思うと、無性に腹立たしかった。自分より美しく、教養もある大人の女ならなおさらだ。
だが、葵には恋人がいた。生きているか死んでいるかもわからないのに、星の彼方から彼氏を探しにやってきた。そう思うと、むしろ積極的に助けたくなった。
それにしたって、命まで賭けなくたっていいのにね。
また心の中で笑った。
まったくこんなはずじゃなかった。殺人魚に敵の軍隊、挙げ句の果てにレーザービームのトラップだ。ほとんどアクション映画の主人公としか思えない。
それでも一度引き受けた以上、いい加減なことはしたくない。第一、敵の追っ手がすぐそこまで来ている以上、他に手段はない。ここで立ち往生して、やってきたやつらにあっさり殺されるくらいなら、レーザーの中を突っ込む方がいくらかましだ。
ジジは脱いだBCのエアを完全に抜き去り、レーザーぎりぎりのところに置く。
どう見ても、レーザーの隙間は、体ひとつぎりぎりで通るか通らないかだ。タンクを背負っていてはそれだけレーザーを浴びる確率が増える。しかもレーザーを受けた場合、手や足ならそこだけの負傷ですむが、圧縮空気の詰まったタンクにレーザーが当たった場合、破裂する恐れがある。そうなったら体が吹っ飛んだ上、レーザー網でずたずたになるのは目に見えている。
だからどうしても、BCは脱ぐ必要があった。
レギュレーターのホースが伸びる限りエアを吸い続け、届かなくなったら、無呼吸で向こうまで行くしかない。奥まで行ってスイッチを切れば、葵がタンクを持って入ってこれる。そうなればなんとかなるはず。
レーザー網がどうなっているかもう一度観察し、その位置を頭にたたき込む。
張り巡らされた網は、下の方はそうとう密だが、上の方はそうでもない。この船を設計した人間は、歩いてくる人間に対してこの防御装置を設定しているはずだから、当然だ。
つまり、ここを通り抜けるには床に足を付かないよう中性浮力を取りながら、レーザー網に触れないようにして、かなりアクロバティックなポーズをとりつつ進むしかない。
ライトは葵に渡した。邪魔になるだけではなく、これで照らすとかえってレーザーが見えなくなるから持っている意味がない。灯りが欲しいときは、葵に照らしてもらうに限る。
『これから中に入る。葵さん、あたしが見えないところはカバーして。あ、でもライトをつければレーザーがよく見えないし、消せばあたしの体が見えないか?』
『だいじょうぶ。小さなライトでなるべく体だけに光を当てるから。それに目で見えなくても、テレパシーで体の感覚を捉えたら、位置がわかるし』
ジジは咥えていたメインのレギュを口から外すと、オクトに切り替えた。オクトはエア切れのバディに渡すことを想定しているために、メインのレギュよりホースが長いからだ。
すうっと大きく息を吸う。それで体がふわりと浮いた。その時点で息を止める。同時に浮きかけた体がぴたりと止まった。
『葵さん、タンクをあたしの高さまで持ち上げて。で、あたしが進んだら、それに合わせてタンクも前に送り込んで。もちろんレーザーに触れないように注意して』
『わかった。でも気をつけて。……絶対に死なないで』
そのままフィンを小さくゆっくりと蹴る。ジジの体が静かに前方に動き、狙っていた床から一メートルくらいの高さの隙間に頭をくぐらせた。
ここは比較的レーザーの間隔が大きく、入りやすい。問題はそのまま直進できないことだ。腹のあたりまでくぐったころ、目の前にレーザー網の壁ができる。
静かに頭を右に振った。それに合わせて体をねじっていく。ホースが突っ張った。これ以上伸びないらしい。
『葵さん、このまま右に進みたい。もうちょっとタンクを中に送り込んで、ホースを伸ばせない?』
『やってみる。だけどそのまま進めば、縦のレーザーでホースを切られるわ』
『だいじょうぶ、わかってる』
ジジはホースが伸びたのを確認すると、いったんオクトを口から離し、縦に伸びているレーザーの向こう側にくぐらせ、ふたたび咥えた。
呼吸が乱れ、体の上下動が大きくなる。背中にかすかな痛みが走る。レーザーがかすったらしい。
『浮きすぎっ!』
葵の声が響く。わかってる。ジジはそう思いつつ息を吐いた。
落ち着け。慌てて吐きすぎるな。こんどは沈みすぎる。
自分にいい聞かせた。その甲斐あって、体はぴたりと止まる。
体をくの字にしながら、フィンをこまめに動かし、少しずつ右の方向に曲がっていく。
オクトが軽く引っ張られた。今度こそホースの長さの限界だろう。
ジジは止まったまま、両膝を曲げ、足を引きつける。体をコンパクトな状態にしてようやく曲がっていた腰をまっすぐにできた。後はこの脚を伸ばしたいところだが、うっかり伸ばせばレーザーに引っかかるはず。
『葵さん、脚を少し上の方に伸ばしたい。指示して』
『了解。……ゆっくり伸ばして』
ジジはいわれるがままに、そろりそろりと脚を伸ばす。
『もうちょい上』
見えない以上、葵の指示を信じるしかない。『ちょい右』、『ちょい下』と葵の指示の微調整は続いた。
『そのまま、ゆう~っくり伸ばして』
その通りにすると、ジジはようやく体をまっすぐ伸ばすことができた。
さあ、ここからが本番だ。この先はタンクのエアが使えない。
『葵さん、この状態でフィンキックする余裕ある?』
『ほとんど無理。やるにしてもほんの軽~いやつ』
『どのくらい進めば、まともに蹴れる?』
『一メートルかな? それでもあまり大きくは蹴れない』
『オッケー。わかった』
ジジはルートを確認した。
抜け道は進行方向の左下。そこを抜ければ、レーザー網から脱出できる。
問題はどうやって向きを変えるか?
あと二メートルも前に進めば、床下およそ三十センチより下にはなぜかレーザー網がない。そこで地を這うようにして脚を振るしかない。
エアを手放す以上、ここから先はもたもたできない。一気に行く必要がある。ジジは後ろにあった両手を、体に這わすようにしながら前に持っていき、伸ばす。
『葵さん、オクトを離す。たぶんホースが切れるけど慌てないで。それよりあたしの姿を目で追って。特に脚を。タンクのバルブを閉めるのはそのあとでいい』
『わかった』
ジジは覚悟を決めると、大きく息を吸った。
オクトを吐き捨てると、体が浮き上がる前にフィンを蹴った。最小限の動きで数度。
わずかに前に進むと、両人差し指を、床のレーザー網の隙間に伸ばす。
届け。
脇の方で、ぶわあああっと派手な音がしたが気にしない。レーザーで切れたホースからエアが噴き出しただけだ。想定内のできごと。
目一杯手を伸ばし、指先が床にくっつくと、それを頼りに体を前に引っ張った。
『フィン、蹴れる?』
『今よ、蹴って!』
そこで一発、小さいながら鋭いドルフィンキックを入れる。
体は滑るように床すれすれを進む。左に脱出口を確認すると、床に手を付いた。それを支点に回る。
脚を上げすぎると、レーザーで切られる。脚を伸ばし、床にこすりつけるようにしながら体を九十度回転させた。
さいわい脚は切れなかった。
さっき目一杯吸い込んだエアのおかげで体が浮きそうになる。ここで浮くわけにはいかない。強くエアを吐いた。ここを抜けたあと、活動できるための最低限のエアを残して。
おかげで体は安定した。あとはまっすぐ進むだけ。ジジは脚を動かさないようにしつつ、レーザーの下をくぐりながら、ほふく前進のように進む。
『体が抜けたら教えて』
気が気ではなかった。浮力を落としたとはいえ、なにかの拍子にちょっとでも体が浮き上がったらバラバラになる。
『頭が抜けた』
これを聞いて、少し気が楽になった。
『胸まで出た』
ジジは両手を伸ばし、床に着けると、意識的に脚を床に擦りつけるようにしながら、一気に前に引っ張った。
『侵入成功!』
葵の声に、安堵のため息をつきそうになったが、エアがもったいない。
ジジは体を起こすと、葵に聞く。
『どうすればいい?』
『右の壁を探して。分電盤のようなパネルがあるはず』
葵は入り口からライトで壁を照らす。
入口付近は床を擦ってかなり沈殿物を巻き上げたから、透明度が落ちていたが、ここらあたりまで来るとそうでもない。たしかに壁にはそれらしきものが付いていた。
見ればいくつものスイッチらしきものが並んでいる。
『どれをどうするのよ?』
のんびりしてはいられない。早くレーザーを切って、葵からエアをもらわないと。
そのときジジは自分がなにかに囲まれていることに気づいた。
例の凶暴な魚なんかじゃない。きらきらと光る霧のようなものだ。
最初はスカシテンジクダイかキンメモドキの群れかと思った。しかしそれは光を反射して輝いているわけじゃない。ここは暗闇なのだ。自ら発光している。
夜光虫?
いや違う。夜光虫なら青白く光る。しかしこれは一色ではなかった。それも数が半端ではない。それこそ虹のように七色に輝く微小な発光体の集合。それが雲のようにジジを四方から覆う。
一個一個が微小な宝石のように鮮やかな色で煌めきつつ、ゆっくりとジジを中心に回り始めた。光はしだいに強くなり、あたりは暗闇ではなくなっていく。
『な、なに、……これ?』
この正体不明のものは、ジジの長いダイバー生活でも経験したことのないものだ。
葵の声が響く。ずいぶん遠くから叫んでいるような気がした。
右から三番目のスイッチを上げろとかなんとか。
しかしジジにはそれが自分に無関係なことのような気がした。
なぜかこの妖しい光に心を惑わされる。いや、惹きつけられる。
目の前の光景が変わった。暗く、濁った水の沈船内なんかじゃない。もっと青く、明るく、広々とした海。綺麗な魚たちが乱舞する、五十メートル先も見渡せそうな水に降り注ぐ灼熱の太陽の光。
ジジが育ったミルル島の大海原。
気がつくとジジはスクーバ器材はもちろん、ウエットスーツすらまとっていない。かろうじてマスクとフィン、それにTシャツと短パンだけを身につけている。
こ、これは……?
7
航はレーザーバーナーを取り出すと、階段の手すりの残っている部分を切り取った。さらにその先端をレーザーで削っていく。もちろん武器にするためだ。
その作業が終わるのとほぼ同時に、ドアの上三分の一ほどが音を立てて床に落ちた。ライトを当てると、その向こうには男の顔が見える。透明度が悪い上、マスクとレギュレーターのせいでよくは見えないが、いかにも軍人らしい厳つい顔のような気がする。
航の姿を確認すると、そいつは笑ったように見えた。
今切り落としてできた隙間からそいつは丸太のように太い腕を入れる。その手にはレーザーバーナー。それでつっかえ棒を切断する気だ。
男がつっかえ棒にレーザーバーナーを押し当てようとしたとき、航は手製の槍をその手に突きたてようとした。
だが男は意外な敏捷さでひらりとかわし、槍の先端は扉を直撃する。じ~んとした痺れが手を襲う。
だが航は反射的に、切っ先で男の手を払った。なにも考えずにやったのがかえってよかったのかもしれない。男の手からは血が溢れ、持っていたレーザーバーナーは床に落ちた。
しかしこれで航は一瞬油断した。男はそれを感じ取ったのか、傷を負った手で槍を掴む。そのまますさまじい怪力で引っ張り込んだ。
航はあっという間に引き寄せられ、槍が奪われると同時に、反対側の手で首を捕まれる。
グローブのように大きな手が首に食い込んだ。息ができない。
男はさらにドアの向こう側まで航の頭を引きずり込む。
『なんのつもりで王立軍に協力しているのか知らんが、それはおまえの人生最大の間違いだ。後悔しながら死ね、小僧』
男の邪悪な思念が脳に流れ込んでくる。
明確な殺気、そして首を掴んだ手にこもる力に、航は死にものぐるいでレーザーバーナーの先端を男の手首に押し当てた。
『ぎゃああああああ』
引き金を引くと同時に、男の叫びが頭の中に響く。
手首を切り落とすことはなかったが、かなりのダメージを与えられたようだ。男は航を離し、航は頭をドアから引き抜く。
そのまま一歩退いた。あまりドアの近くにいればまた腕が伸びてくるかもしれない。
『小僧、殺す』
男の憎悪が明確に強くなった。さっきまではたんに任務の障壁程度にしか考えていなかったのかもしれないが、今、間違いなく私怨が加わっている。
少し間をおいて、ものすごい音と衝撃がドアの向こうから響く。
腕を入れるのは危険と感じたか、あるいは予備のレーザーバーナーがないのか、小細工はやめて、ふたたび肉弾攻撃でドアを突破することにしたらしい。
だが最初のころに比べ、迫力がぜんぜん違う。
すぐに体当たりの第二弾が来た。
筋交いのように、つっかえ棒とつっかえ棒を繋いでいた短い棒がはじけ飛ぶ。
ど、どうする?
なにもいい考えは浮かばなかった。
覚悟が決まる前に、三度目の衝撃音。ついにつっかえ棒はめきめきと音を立て、ひしゃげた。ドアは枠から完全に外れる。男は長い棒がくっついたままの金属ドアを鷲掴みにすると、まるで障子でも投げるかのように軽々と放った。
轟音とともに床に落ちたドアは沈殿物を巻き上げ、視界をさらに悪くする。透明度にして二メートルもないだろう。だがドア枠をくぐり抜けた男の大きさはわかった。プロレスラー並みの体格をしている。
その後ろから、さらにふたり、中層を泳ぎながら近づいてくる。どんなやつかはよくわからないが、シルエットから判断すると、最初のやつのように馬鹿でかくはない。
航は左手でライトを持ち、右手でレーザーバーナーを拳銃のように構えた。もちろんこれは相手に押し当てないと威力を発揮しない。拳銃のように弾は飛ばない。そもそも武器ではないのだ。相手は当然そのことを熟知している。
三人ともとくに武器になるようなものは持っていないように見える。せいぜいナイフくらいだ。海のない惑星ルッソでは水中戦用の武器は発達しなかったはず。
だが三人からにじみ出るような殺気は、自分から心を読むことができない航にも、はっきりと感じられた。
『ふふん。ナイトのつもりか、小僧? 別におまえは任務遂行の障害にすらならないようだ。本来ならどうでもいいし、見逃してもいいが、ゴーラがおまえに借りを返したいそうだ。オイタが過ぎたな』
もうひとりの男の方が話しかけてきた。話し方からいって、こいつの方が格上らしい。
『じゃ、坊や、がんばってね』
もうひとりは女らしい。からかいの言葉を投げつける。
ふたりはなにごともなかったかのように、航の頭上を通り過ぎていこうとする。
『ま、待て』
航がそれを止めようとすると、ゴーラと呼ばれた大男が航の右腕を掴み、ものすごい力で引き寄せた。
完全にバランスを崩し、無様に床にたたき付けられる。右手を捕まれているからレーザーバーナーで反撃することも無理だ。
『葵さん、敵がふたり行った!』
もはや航には葵に危機を知らせることしかできない。
腕を捻られると、もはやレーザーバーナーを掴んでいることすら不可能になった。
落としたレーザーバーナーを、ゴーラは奪い取るでもなく、邪魔そうに放り投げる。
さらに航のBCにセットされているナイフも抜き取ると、手の届かないところに投げ捨てた。透明度が悪いせいで、どこに落ちたかすらわからない。
『男の戦いにそんなものは無用だろう、小僧? やはり、タイマンは素手でなくっちゃな』
ゴーラの馬鹿笑いが頭の中に響いた。
俺を嬲り殺す気だ。万が一にも反撃に使われそうな武器はすべて奪い取ったあとで。
航は戦慄した。
この男は武器などなくても怪力と軍隊格闘技で簡単に航を殺す自信があるに違いない。
航は必死で捕まれた右腕を振り払おうとした。だがゴーラの握力は怪我をしているにもかかわらず、異常ともいえるほど強い。逃れるのは不可能としか思えなかった。
ゴーラは自分のBCのエアをすべて抜きさると、足を床に付け、仁王立ちした。泳ぎながらの戦いは性に合わないらしい。その状態で、まさに航を玩具にする。
振り回され、投げつけられ、ついには仰向けに床に転がった航の上にゴーラが馬乗りになった。いわゆるマウントポジション。背中にタンクがあるせいで航の体は斜めに傾いているが、ゴーラはそんなこと気にしないとばかりに両手を航の喉に当てる。
『一瞬で首の骨を折ってやろうか? それともじわじわと絞め殺してやろうか?』
頭の中に、ゴーラの歓喜がダイレクトに伝わってくる。こいつは殺戮が喜びなのだ。
航はせめてもの防御と、相手の両手首を掴み、引きはがそうとした。しかしまったくびくともしない。力ではとても敵いそうにない。
『決めた。やっぱり、時間をじっくり掛けて絞め殺してやろう』
ゴーラは徹底して航を嬲る気だ。
ライトは手首に掛けた紐のせいで離れることはなく、航のもがきに応じて揺れた。
そのせいで灯りはゴーラの顔を照らさず、その表情はわからない。だがきっと笑っているに違いない
ライトは無秩序に揺れる。そのせいで大男の背景の妖しい光が狂ったように激しく踊る。まるでサイケデリックな幻影のように。
首に掛かる力は、少しずつ、しかし確実に強まっていった。
8
いったい中でなにが起こっているのか?
葵には理解できなかった。
窒素酔い? 違う。それなら洞窟の入り口水深五十メートルでなるはずだ。ここはあそこに比べればかなり浅い。窒素酔いになどなるはずがない。
じゃあ、いったいなんなの?
ジジは間違いなくレーザー網を突破した。そしてパネルまでたどり着いた。
だが目の前のレーザー網は切れない。
ライトが当たっているところはわからないが、それ以外のところを見ると、舞い上がった沈殿物に写り込んだレーザーがはっきりと見える。
ジジがなにかトラブルを起こしたのは間違いないが、急にジジからの交信が途絶えたため、葵にはそれがなにかわからない。
かといって、目の前を煙幕のように覆う濁った水のせいで、中の様子を目で確認することができない。
いずれにしろ、すぐにでもジジにエアを与えないことには溺れ死んでしまう。
だが今の葵にはレーザー網を突破する術はなかった。
葵はこの部屋の奥の方でなにかが光っていることに気がついた。
なに?
ライトを床に伏せると部屋が真っ暗になり、その様子がよくわかる。
透明度が悪いため、よくはわからないが、ちょうどジジがいるあたりにちらちらと灯りが瞬いている。
魚が光を反射しているわけではなさそうだ。自分で発光している。それも七色の光を。
ま、……まさか?
葵はあることを思い出した。
自分では見たこともない、知識で知っているだけのもの。
宇宙生命体サリージャ。さまざまな光を放つバクテリアの一種でひとつひとつは下等な生き物だが、集合体になるとそれぞれがテレパシーで連絡し合い、お互いが作業分担し、高度な知性体になる。
こいつの餌は生物の魂といわれている。テレパシーで相手の精神を同調し、精神エネルギーを吸収するらしい。
ルッソの人間とは違い、外からの精神波の侵入を遮断できない地球人にはその攻撃は防ぎようがない。
きっとこの宇宙船が漂流したときに取り憑かれ、そいつが地球の海の中で百年掛けて増殖し、水棲生活に適応したのだ。
このままではジジは魂を喰われて死ぬ。いや、その前に、エア切れで死ぬだろう。
自分のせいだ。命に代えてでも、死ねせるわけにはいかない。
だけど、いったい、どうすれば……?
苦悩する葵の頭の中に航の声が鳴り響く。
『葵さん、敵がふたり行った!』
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