スターダストレックの精霊
南野海
第一章 海の中の魔法使い
1
軽く潮が走り出した。
体が少し流されていく。だがそれは危険を感じるほどでもなく、むしろ心地よい。
下を見ると、一面に広がる真っ白い砂地に、
航は後ろを振り向いた。客のファンダイバーたちは流れにあわてることもなくついてくる。それぞれ楽しんでいるようだ。
海面を見上げた。五十メートル先まで見渡せそうな水のクリアさと、快晴の青空のせいで、気持ちよいライトブルーが全面に広がり、太陽のある部分だけが真っ白に輝いている。帰還すべきボートのシルエットは、太陽に重なっているためにより鮮明に見えた。
水深・
客の方を向くと、ゲージを指さし、ひとりひとりの残圧を聞いた。みなそれぞれ指を立て、残圧を示していく。どれも航と大差はない。一番少ない人でも五十はある。
安心して浮上ポイントである、ボートのアンカーを目指す。
航はまだガイドダイバーとしては半年ほどの経験しか持たず、ベテランとはいえない。しかも一年半ほど前は高校に入学したばかりだったわけだから、客にしてみれば、こんな若いガイドでだいじょうぶかいな? と思ったところで不思議はない。本来ならば、高校二年生である十七歳なのだから。
だからこそ航は水中では完璧に振る舞いたい。客に安心して楽しんでもらい、浮上後に「きょうのポイントはすごかったね」といってほしい。
そういうことでは、兄のはじめにも、ジジにも負けたくはなかった。
ジジはやはり十七歳の少女だが、ガイド経験は航よりもはるかに長く、しかも地元、ミルル島で生まれ育ったため、ここの海をよく知っている。だから自分は航よりも上だという意識があるらしい。それを態度に出されるとはっきりいってかなりむかつく。
きょうは航のアシストについていて、後ろから客を見守っているから、航のガイドの粗がすべて見える。だからどんな小さな失敗だってやるつもりはない。
航はそんなことをちらっとだけ考えつつ、スローペースでボートに向かった。
さらさらのグラニュー糖のような砂丘の上を、緩やかな風に乗りながらゆったりと飛ぶような感覚だ。
ボートに近づくにつれて、水深が浅くなっていく。それに伴い流れは穏やかになり、砂でできた真っ白なキャンパスに海面の波紋が映り込む。航の好きな光景だ。
アンカーが引っかかっている岩場がすぐ前に見えた。ここまで来ると水深五メートルほどで、流れもほとんどなくなった。
まだ各自エアは残っているはずだから、安全停止を兼ねてこの周辺で遊ばせることにする。航は客たちにそういうサインを出した。
ちなみに安全停止とは潜水によって体内に溶け込んだ過剰な窒素を、水深五メートル程度の浅場で何分か過ごすことで浮上前に体外に排出することだ。これによって減圧症を起こすリスクをさらに減らすことができるため、ファンダイビングの最後のころは、こうやって浅場で遊ぶことが多い。
このエリアにはオアシスのように、広大な砂場に小さな岩場が点在し、そこにはテーブルサンゴやエダサンゴが密集している。さらには扇のように広がった大小の赤いイソバナが咲き乱れ、まわりには色とりどりの小さな熱帯魚たちが乱舞して、まるで花園のようだ。
一見金魚のように見えるキンギョハナダイ。コバルト色のアオバスズメダイ。それらが一定のリズムを取りつつ、チームダンサーのように踊った。
小指の先ほどの大きさしかない、ガラスのように半透明なスカシテンジクダイ。一般人がイメージできる魚で一番近いのはおそらくメダカだろう。その大群が太陽の光を受け、煌めく様はまさに泳ぐ宝石。それが密集し、雲のように形を変え、うねっている。
東京から来たダイビングショップ『ピンクドルフィン』の一行は、大半がカメラを持っており、夢中でそれらを撮影した。水中ストロボがひっきりなしにあちこちで光る。
そのチームとは別に、ひとりでファンダイブに参加している人がいた。
航は必然的に葵に注意を向けた。なにも葵が魅力的だからではない。初心者をマークするのはガイドの基本。なにをしでかすかわからない存在だからだ。とはいえ、内心葵に惹かれているのは紛れもない事実だった。
葵はやはり東京のダイビングショップのメンバー以上に心躍らせていた。呼吸を見ればわかる。口にくわえた
葵はまだ水中に慣れていないため、バランスを上手くとれず、ペンギンのように両手をぱたぱたと動かしながら、スカシテンジクダイの群れに近づいていく。まだ浮力をうまく調整できないために沈みがちで、フィンが水底を煽り、砂を煙幕のように巻き上げていた。
しょうがないなぁ。
そうは思いながらも、葵の姿を見ていると妙になごむ。
そんな状態でも、なんとかスカシテンジクダイの群れの中に入り込んだようだ。銀色に光り輝く雲海の中で楽しそうに手を振りかざし、それに反応してスカシテンジクダイが飛び散るように群れの形を変えるのを見て大はしゃぎだ。
まるで子供みたいな人だな。
航は内心苦笑いしつつも、みょうに嬉しい。
オーバーアクションのせいか、いままでのどんな客よりも、葵の喜びがダイレクトに伝わってくる。
この人は初めて店に来たときは、むしろいかにもインテリ風で口数も少なく、むしろ陰りを感じるほどだった。だから逆に今の姿はギャップがあり、魅力的に映る。
ふと上を見ると、ジジがふわりと中層に浮かびながら、客全体の動きを眺めている。東京のショップの客は、ジジに任せておけばいいだろう。航はそう判断し、また目線を葵に戻した。
葵は右手を高々と上げた。スカシテンジクダイの群れは葵を中心に回り始める。
え?
航はその光景に驚いた。まるで葵の合図で、スカシテンジクダイが芸をするかのように渦を巻きはじめたからだ。
そもそもこの魚は群れて蠢くことはあっても、あんな竜巻のような動きはしない。少なくとも航は見たことがなかった。
葵はさらに指揮者のように左右の腕をふるう。楽しくて堪らないといった感じで。
銀色の雲海は、今度はそれにともなって右に左にふくらみ、形を変える。
たんに葵の手の動きに反応しているというよりも、まるで彼女が操っているかのようだ。
葵よりもずっと熟練したダイバーである航にも、あんなことはできない。
なんなんだ?
強烈な違和感が航を襲う。
『ピンクドルフィン』のダイバーたちも、不思議な光景と感じ取ったのか、カメラを葵に向け始めた。
それはステージショーのような気がした。美女が銀色に輝く魚の群れを自在に操り、ストロボの光を浴びている。
突然葵が斜め後ろを振り返った。
同時にまわりを踊っていたスカシテンジクダイは弾け散り、もとのサンゴの根に戻っていく。
だがそんなことはたいしたことじゃない。葵はなぜ振り返ったのか? 航は当然のようにそっちを見ると、マンタが近づいてくる。
水族館でも人気者の、空飛ぶ絨毯さながらふんわりと飛ぶように泳ぐ大きなエイだ。
けっこう遠い。葵はマンタに気づいたから振り返ったのだろうか?
後ろから音も立てずに近づいてくるマンタに?
だが航のそんな疑問などどこ吹く風といった感じで、葵は大はしゃぎ。両手をばたばたさせながら、エアをぼこぼこと大量にはき出している。
マンタが通り過ぎようとしたとき、葵は右手でマンタに向かっておいでおいでをした。
そのこと自体は別に不思議でもなんでもない。ダイバーの、それも初めてマンタを見た初心者ダイバーの行為としては充分自然だったろう。問題は、マンタがそれにしたがったことだ。
マンタはまるで葵のラブコールに答えるかのように、くるりと方向を変えると、こっちの方に向かってきた。
ゆったりと翼のようなひれをはためかせながら、優雅に滑るように。
マンタはそのままファッションショーのモデルのように、自分の姿を見せびらかせながら上空を旋回した。
ストロボがたてつづけに光る。葵ならずともみな大興奮だ。
航はマンタが渦巻く中心が、葵であることに気づいた。マンタは明らかに葵のために回っているのであり、あとの連中はおまけなんだろう。
いや、でも、まさか。……ただの偶然だ。
しかしその思いを覆すようなできごとが続く。どこからともなく、もう一匹のマンタが現れ、合流したのだ。
マンタはまさしくワルツを踊っているようだった。
二匹のマンタは、それこそ恋人同士か、ペアのダンサーのように息をぴったりと合わせ、ときにはシンクロしつつ同じリズムで泳ぎ、ときには鏡に映ったかのように左右反対の動きをする。
こんなことがあり得るのか?
客のダイバー同様、押さえきれない興奮を感じながら、同時にこの現実を拒絶しようとしている自分がいた。
航にとって目の前で繰り広げられている光景は夢としか思えない。
けっして現実であるはずのない幻想だ。
夢は長くは続かなかった。やがておとぎの国のペアダンサーはゆっくりと去っていく。さっきまであれほど同期していた動きが乱れ、別々の方向に分かれながら。
『助けて』
声が聞こえた。水中にもかかわらず。
航は反射的に振り返る。
葵がじたばたしていた。だがレギュレーターからエアが漏れていない。
エア切れ?
ダッシュしようとした瞬間、上からジジが飛んで降りてきた。そして自分のオクト《予備のレギュレーター》を葵の口に押し込む。
しばらくしてジジがハンドシグナルでOK? と聞く。葵も同じサインを返した。
ジジが
弁解の余地はない。航はなんだかんだいいながら、あまりの異様な光景に見とれ、葵がエア切れを起こすかもしれないという可能性を思いつきさえしなかった。
浅瀬とはいえ、あれだけ興奮して荒い呼吸をしていたのだから、当然、考慮すべきことだった。
ジジは葵をつれ、アンカーロープ越しに浮上していく。
航は『ピンクドルフィン』の一行にも、浮上のサインを出した。彼らも充分に満足したらしく、バディ単位で次々に浮上していった。
それを見ながら航は考える。
葵とはいったい何者なのか?
航の目にはまさに『海の中の魔法使い』にしか見えなかった。
2
「ねえねえ、見ました? すごかったですね」
ダイビングボートの上で、葵は目を輝かせてはしゃいでいた。『ピンクドルフィン』の一行も大いに同調し、盛り上がっている。
もっとも溺れかかったにしては無邪気すぎる。案外冷静だったのかもしれない。それとも感動の方がはるかに大きかったのか? いずれにしろ葵の明るさには救われると同時に、妙に心を惹かれる。
このボートはさほど大きくはなく、前の方に屋根付きの操舵室がある以外はオープンデッキになっていて、お客さんが五、六人も座れば満杯になる。そうでなくても器財やタンクが場所を取るからだ。『ピンクドルフィン』のメンバーは五人だから、葵が加わることで一杯。必然的に顔をつきあわせることになり、葵はメンバーとすぐにうち解けたようだ。
「ええ~っと、ここ、なんていうポイントでしたっけ、航くん」
葵は子供のような目を航に向ける。
「『シュガーポット』です。このエリアのどこよりも砂が真っ白で綺麗だから」
「ふ~ん。お砂糖の壷かぁ。たしかにそんな感じよね」
そういって、きゃっきゃきゃっきゃと笑った。
ボートが海面を走るに伴って、葵のお下げにした後ろ髪がぴょんぴょん跳ねる。普段は後ろに垂らしっぱなしの長い髪は潜るときは邪魔になるため、編んでいるようだ。ボートに乗るなり掛けた黒縁眼鏡も妙に可愛らしい。カラフルな
こんな姿を見ていると、とても魔法使いなんかには見えない。あの海の中のできごとは夢だったかのようだ。事実、『ピンクドルフィン』の面子は、とくにあのことを不思議だとは思わず、ただたんにとてつもなくラッキーだったくらいにしか考えていないらしい。
「ねえ、葵ちゃん、君がお魚と戯れているところを激写したから、店に着いたらプリントしてあげるよ」
『ピンクドルフィン』のメンバーのひとり、ちょっと軽そうな風貌の三十代、水木がちょっとだけ下心を覗かせつついった。
「え? 本当ですか?」
葵は両手を胸の前でぱしんと打ち鳴らし、心底嬉しそうに叫ぶ。
「ほんとほんと、いやあ、いい被写体だったよ。君みたいないい女が、宝石のようなお魚たちと戯れる姿は格別格別」
「もう、水木さんたら、エッチなんだから」
メンバーの中の若いOL聡美が口を尖らせる。他のメンバーたちは笑い飛ばした。
事実、写真はいいできだろう。水木のカメラはニコンのデジタル一眼レフ。ハウジングという水中ケースに入れたもので、レンズは20ミリ。ワイドよりの画角で、人物の全身を入れて撮るにはちょうどいい。
なによりもモデルがいい。水中ではレギュレーターを咥え、マスクを被ることでほとんど顔が見えないが、葵の大きく輝いた目はマスク越しでも綺麗に映るだろうし、そもそもスタイル抜群だ。長身で細身、そのくせ大きな胸にエッチといってもいいほどの曲線美。そのまわりをスカシテンジクダイの群れがきらきらと輝きながら踊っている。暴力的なほどの日ざしに、真っ白な砂。明るさだって充分だ。いい写真に決まっている。
店に帰れば、パソコンもプリンターもあって簡単にプリントできるから、できのほどはすぐにわかるだろう。
航はただでさえこの魅力的な少し年上の女性に惹かれていたのに、きょうのようなことがあればなおさらまいってしまう。
なにしろ、可愛くて、美しくて、その上神秘的な秘密がある女、『海の中の魔法使い』なのだから。
「ねえねえ、航くん、あと何分くらいで着くの?」
ボートはショップのあるミルル島に向かっている。ランチは一度戻ってショップで取るのがここでは普通だ。
「ほんの十分くらいですよ」
「あ、そうなんだ。う~ん、楽しみっ」
葵は目を細め、きゃらきゃらと笑った。
「それにしても暑いわねぇ」
葵は顔を汗まみれにしていた。実際ここでは潜っているとき以外は暑くてとてもウエットスーツなど着ていられない。航や他の客たちはとっくに脱いでいた。
葵もそのことに気づいたらしく、ウエットスーツの背中のファスナーを下ろそうとするが、どうやら噛んだらしく、うんうんうなりながらもがいていた。
「ごめ~ん。航くん。下ろしてくれる?」
小悪魔のように魅惑的な笑みを見せたあと、くるりと後ろを向いた。
内心どきどきしつつも、航はファスナーの噛んでいた部分を外し、腰まで下ろした。葵の背中が露わになり、ビキニの後ろの紐が見える。
「ありがとう」
葵はそういいつつ、ウエットスーツを脱いでいく。あまり面積が多いとはいい難い水着に覆われた大きな胸がぼよんと揺れた。さらに、うんせうんせと変なかけ声を上げながら、体に密着したスーツを足下までずり下ろしていく。
それを見続けることは、下半身がやばいことになりかねないので、航は葵に背を向け、操舵室に入った。そこではジジが立ったまま舵を握っている。
「ふん、鼻の下、伸ばしちゃって」
ジジはじろりと航を睨んだ。
鋭いが子供のように澄んだ綺麗な瞳。それこそがジジのすべてを表している。純真で正義感が強く、それでいてちょっときつめの性格。潮焼けして金髪に近くなった髪は男の子のように短く、肌は日本人より若干、浅黒い。背は小さいが、胸もあまりないため、よく中学生くらいの男と間違われる。もっともそうだとするとかなりの美少年だが。
「なんだよ、怒っているのか? サービス業だから、客に愛想よくするのは当然だ」
「どうだか?」
ジジは顔を前に向け、吐き捨てた。客のほとんどが日本人のせいで、ジジはほとんど日本人並みに日本度を話す。もっとも覚え方が悪かったのか、喋り方はほとんど男だ。
「そんなことより航、きょうのガイディングはなんだ? 客にエア切れ起こさせるなんて、ガイド失格だ」
それに関しては弁解の余地がなかった。初心者が事故を起こさないようにマークするのは当然のことなのだから。
「い、いや、まあ、だけどおまえのおかげで助かったよ」
ああいう場合、初心者はパニックを起こしてその場で暴れ回るか、急浮上しがちだ。その場で暴れた場合は、そのまま水を飲んで溺れる可能性が高いし、息を止めたまま急浮上した場合、まわりの圧力が急に下がることで肺がふくらみ破裂する恐れがある。
「浅瀬だから油断したんだろうが、吐いてるエアの量を見れば、興奮していることやエアが速くなってることはまるわかりだ」
それを見抜けないおまえは三流だと、いいたいらしい。
「マンタなんかに見とれてるから、あんなことになるんだ」
否定はしないが、あんな不思議な光景が繰り広げられたら見ちゃうだろう、普通?
「陸で客のご機嫌取るしか脳のないガイドなんて最低だ」
ほんとこいつには遠慮とか容赦とかいう概念は存在しないらしい。
ジジはたしかにガイドとしては航よりもいろんな意味で上級だった。年齢は同じにもかかわらず、経験年数、泳力、ポイントの知識、客のフォロー、エア持ちの良さ、どれをとっても航よりも上だ。
なにしろミルル島で生まれ育ち、小さな子供のころから漁師の親父といっしょに、素潜りで魚突いて取ってたやつだ。数年前、親父が海での事故で死んでから、航の兄はじめにガイドとしてスカウトされたらしい。
それに対して航のダイビング歴はまだ一年半ほどしかない。中学のとき水泳部だったこともあり、水面を普通に泳げば航の方が速いが、フィンを履いて水中を移動させればジジの方が速く、深く長く潜れる上、はるかに巧みだ。
ちくしょう。絶対こいつに勝ってみせる。
なにもいい返せない航は、心の中でそう思うだけだ。もっとも、それはダイバーとしての向上心といった高級なものではなく、たんに意地からこいつにだけは負けたくないと思っているにすぎない。
今の航にとって絶対に負けたくない相手は、このジジともうひとり。それは兄でショップのオーナーでもあるはじめだ。
「はじめさんにはちゃんと報告しておくからな」
ジジはさらに航の神経を逆なですることをいう。
「勝手にしろ」
航はいらいらしつつ後部デッキに出た。これ以上ジジと顔をつきあわせいれば、殴り合いになりかねない。
葵はビキニの水着の上にTシャツを羽織った姿で、手を船縁について海を見ていた。その顔は海というよりもまるで宝石でも見ているかのようにうっとりとしている。
「あら、どうしたの、航くん。怖い顔をして」
葵がこっちを見るなり、無邪気に聞いてくる。
「い、いや、なんでもありません」
航は笑顔を作った。いや、無理をしたわけじゃない。葵の顔を見ると自然と心がなごむ。
「葵さん、……怖くなかったですか?」
航は気になっていたことを、他の客には聞こえないように小声で聞いた。
「ちょっとね。だけどジジちゃんが飛んできてくれたから、すぐ安心した」
飛んでいったのが俺じゃなくてすみません。
内心謝りつつ、あることを思い出した。あのとき、『助けて』という声が聞こえたような気がしたのだ。
水の中でレギュレーター越しに叫んでも、なにか叫んでいることがわかるだけで、明瞭な言葉にはならない。あれは不明瞭な言葉を、脳内補正してそう聞こえたんだろうか?
「ひょっとして葵さん、あのとき叫びませんでした? 助けてって」
「や~ねぇ。なにかいったかもしれないけど、言葉になるわけないでしょう。もしそう聞こえたんなら、きっと以心伝心ってやつね」
葵はそういって、にっこりと笑った。
以心伝心? なにか違うような気がする。そして葵にはもうひとつ聞きたいことがあった。ただ、ここで聞いていいかどうかわからないようなことだ。それは……。
葵さんは、魚を操れるんですか?
そんなことを聞いても否定するだろう。けらけら笑うかもしれない。自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。
しかし、それは航にとって、拭いがたい疑惑だ。
航の憧れの人は、水の中で不思議な力を持っている。『海の中の魔法使い』。
そんなことを思っている内に、ボートはミルル島の桟橋に着いた。
3
一日のダイビングが終わり、夕食になると、ダイバーたちは酒が入り、きょうのダイビングのことを語り合うのが常だ。それはここ『ブルーラグーンダイバーズ』でも変わらない。
ショップの外にあるテラスでテーブルを囲みながら、『ピンクドルフィン』のメンバーに葵、店のオーナーでもある兄のはじめと奥さんのみなみ、それに航が顔をつきあわせている。みなTシャツに短パンというラフな格好だ。葵はダイビング用に後ろで結っていた髪をほどいているうえ、アルコールで顔が適度に赤い。さらに大きめの眼鏡がミスマッチで、航にはますます魅力的に見えた。もっとも未成年の航以外はみなビールで盛り上がっている。
とりあえず今はこれしか客がいないが、正月や盆といった日本の長期休みに絡むと、かなりの客で混雑する。
ここ『ブルーラグーンダイバーズ』は、はじめが十年ほど前に駆け落ち同然で家を飛び出し、みなみとともに渡ったミルル島で始めたダイビングショップだ。ミルル島は赤道近くの太平洋に浮かぶ島で、ピルピナ共和国に属する。はじめがショップを始めるまでは漁業で生活を営んでいる島民がほんのわずかいただけのごく小さな島だったが、この店のせいで多くの日本人観光ダイバーがやってきて活気が出てきた。世界に名だたるダイビングポイントと比較しても引けを取らないこの島は、瞬く間の内に人気を得、日本人ダイバーのたまり場になっている。今では後続のショップまで現れるほどになった。
「いやあ、はじめさん、きょうは本当にすごかったよ。見せたかったね」
『ピンクドルフィン』の水木がすでにほろ酔いなのか、上機嫌でいった。
「おお、聞いた、聞いた。ほんとにすごかったってねえ」
はじめは日焼けした顔で「わはは」と笑った。
豪快な性格をしてるわりには、好きなことをして暮らしているせいか見た目が若く、はじめは三十歳なのに二十代前半に見えてしまう。
「写真、プリントしたって?」
はじめが子供みたいに目をくりくりさせながらいうと、水木はさらに嬉しそうになり、プリントした数枚の写真をテーブルの空いたスペースに置き、見せびらかした。
「おう、こりゃすげえや!」
二匹のマンタがランデブーしている写真。
やはりこうやって写真で見ても、長年練習を積み重ねてきたペアダンサーのようだ。あれはけっして航の夢などではなかった。ここにこうして証拠がある。
「あそこじゃマンタなんてさほど珍しくもないけど、ペアで現れるのはめったにないよなあ」
はじめは写真を見ながらうらやましそうにいう。
「それとこれ。これも見てくださいよ」
水木が興奮で鼻の穴を広げながら、次の写真を出す。航はそれをさりげなく眺めた。
葵が写っていた。一本指を立て、右手を高々と上げた状態で、そこを中心にスカシテンジクダイの大群が渦を巻いている。バックには幾筋もの線を放射状に放つ真っ白な太陽が写り込み、半透明の微小な魚の群れは光を通し、銀色に輝いていた。
水中では後ろ姿しか見ていないが、正面から写された葵の顔はほんとうに子供のように楽しそうだ。
「ね、いいでしょう? まるで人魚だ。これで今年のフォトコンはいただきだな」
水木は自慢げに胸を張る。
「もう、やだ~っ、水木さんったら」
葵が顔を真っ赤にして、ぱし~んと水木の頭のてっぺんを平手で叩いた。
「いててて。ところで葵ちゃん、恋人いるの?」
「あ~っ、水木さん、葵さん狙ってんの?」
聡美が茶化した。
「妬くな、聡美。しょうがないだろうが。こんな美女と知り合ったんだから、これくらいのことは聞くのが礼儀だ」
おまえはイタリア人か? とつっこみを入れたくなった航だが、当の葵は胸の前の掌と同時に顔を左右にぶんぶん振った。
「び、美女なんかじゃありませんよ。それに恋人も……いません」
「ほんとうかな? じゃあその首のロケットはなに? 中に恋人の写真でも入ってるんじゃないの?」
「え? これは……ロケットじゃないです。ただのペンダント。これは飾りですから開きませんよ」
「うわっ、露骨に怪しい」
水木はおちゃらけたが、航には気になった。葵の首に掛かったペンダント。その飾りの部分はほんとうに開かないのか? その中に誰かの写真は入っていないのか?
「はいはい~っ、みんなデザートだよぉ」
けたたましい声を上げ、現地スタッフのウエイトレスとともに皿を運んできたのは、みなみだった。みなみは大柄でちゃきちゃきした姉御肌の女性だ。脂肪太りではなく筋肉質で、胸も厚ければ腕も太い。ふらつくこともなくパパイヤやマンゴで大盛りになった皿をテーブルに置く。
「うほほ~い」
水木は嬉しそうにパパイヤを手に取った。酒飲みの癖に甘いものも好きらしい。
葵もビールを飲むのは休憩タイムに入ったらしく、子供のようにはしゃぎながらマンゴをスプーンで口に運んだ。
「おいしい~っ。こっちの果物ってほんとうにおいしいですねぇ」
「はいはい、たくさんあるから慌てな~い」
みなみがそういって、あははははと笑うと、自分も席に着き、ビール瓶を口に当てる。こっちのビール瓶は日本と違って小さく、直に飲むのが普通だ。出遅れた分を取り戻す気らしい。もっともみなみの場合、しらふでも酔っていても、たいして変わらない。
「あれっ、そういえば、ジジちゃんは?」
葵は思いだしたようにいった。
「ジジは近くに兄弟たちと住んでるから、夕食は家で取るのさっ」
みなみが快活にいうと、葵は「ふ~ん」とうなずいた。
ジジは漁師の親父が死んでから、日本や香港などに出稼ぎに行く母親に代わって、小さな兄弟たちの面倒を見ている。近くに両親がいないという点では航と似ていた。もっとも航は、高校入学してすぐ両親が交通事故死したため、家出したはじめを頼らざるを得なかったわけだが。
「ねえ、はじめさん。スターダストロックっていうのは、どんなポイントですか?」
葵が唐突にいった。
そこはミルル島から行けるダイビングポイントではもっとも有名でエキサイティングなところだから、葵が興味を持ってもおかしくはない。しかしそこは潜る人間を選ぶ上級者向けポイントだ。
「はっはぁ、葵ちゃんも興味があるか。ま、すごいところだよ。ボートは浅瀬の珊瑚礁に止めるんだけど、少し行くとドロップオフになっててさ」
「ドロップオフって?」
「ま、海の中の断崖絶壁ってところかな。サンゴの棚は水深五メートルくらい。だけどそのさきは岩場がほとんど垂直に切り立っていて、そこは水底が見えないくらい深いんだ。たぶん水深二百メートル以上あるよ」
「へええ。ほんとうに凄そう」
葵は話を聞いて目を輝かせた。
「いや、本当に凄いのは、その先に見える根なんだ。底の見えない海底からでかい岩がず~んと水面近くまで塔のようにそそり立っているんだ。しかもその途中にギザギザしている岩が飛び出している」
「ギザギザしている岩?」
「おう、巨大なヒトデというか、それこそクリスマスツリーのてっぺんにでも飾りそうな星が空から降ってきて、塔に突き刺さったみたいな形になってんだね。だから地元では空から降ってきた星が岩になったという伝説があるんだよね。だから『星くずの岩』、スターダストロックってわけだ。ま、はっきりいって、こんなダイビングポイント、世界中でここだけだね。わはははは」
「そ、それで?」
葵の口調が思わず興奮を帯びる。
「お? ずいぶん気に入ったようだな、葵ちゃん」
はじめの解説にも熱が入ってくる。
「う~ん。ま、地形的にはそんなもんかな。あとは岩場のまわりにはびっしりとサンゴが覆ってるし、根付いている魚の群れの数も半端じゃないよ。それにマンタや回遊魚なんかもしょっちゅう見れるしね。まさに地形と魚と両方楽しめるお得なポイントなんだけど、いかんせん流れが速いことが多いんだ。しかもどん深のところを落っこちないように中性浮力を取って水深をキープしながら泳がないといけないし、見所の星形の岩のところは水深も深いから、完全な上級者向けポイントだね。ま、残念だけど葵ちゃんにはまだ無理かな?」
葵は少し考え込んだ末にいう。
「あたしでもなんとかそこに行けませんか?」
航は、それはたんにポイントにあこがれるダイバー以上の必死さを感じた。
なにか特別な理由かなにかがあるように思えてしまう。
「心配ない。たしか葵ちゃんはまだ一ヶ月くらい滞在するんだろ? しばらく他のポイントで腕を磨けば、最後の方には行けるって。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
はじめは笑顔で答えた。
「ありがとうございます」
葵は嬉しそうにいいながら、ロケットを握りしめていた。それがすごく気になった。
「ふ~ん。意外だな。葵ちゃんはそういうダイナミックなところが好きなんだね? でも俺はきょうの『シュガーポット』のようなところが好きなのかと思ったけどなぁ」
水木はビールをかっくらいながらいう。航も同感だった。現にきょうは海の中でも上がったあとでも、心の底から嬉しそうな顔をしていた。
「だ、だってロマンチックじゃないですか?」
葵は少し慌てたように、いいわけめいたことを口走った。
「ほら、この満面の星を見てくださいよ」
葵は天を見上げる。たしかにここは東京などと違って晴れた夜は空一杯に星が広がる。きょうも星たちは月に負けないくらいに輝きつつ、自己主張していた。
「この星のひとつが落ちたと思ってください。それが海の中にあるんですよ。見たくないんですか?」
「かあ~っ、さすが乙女だねぇ、葵ちゃん。聡美、おまえもなんか気の利いたことをいってみろ」
「な、なによ、水木さん、馬鹿じゃないの?」
そんなやりとりの中、葵は夜空のある一点を見つめていた。まるでそこにあった星が落ちてきたといわんばかりに。
ただしその顔は、ロマンチックな伝説にぽ~っとなる乙女というよりも、なにかもっと真剣な目つきをしていた。必死といい換えてもいいくらいに。
そういえば、葵が初めてこの店に来たときもこんな感じだった。ちょっと暗く、悲壮感すら感じさせる顔。今でもこんな陰りを感じさせる顔を見せることもあるのか?
ほんとうに謎めいた人だ。
航はそう思った。
4
一週間、二週間とたち、客は長期滞在の葵を除いて入れ替わっていった。それにともなって葵のダイビングの実力は上がっていく。三週目にもなると、葵はもう初心者とはいえなくなってきた。航の目から見ても、初めのころのように水中で無駄な動きをすることもなくなり、海中を自由に泳ぎ回る姿はまるで妖精のように見える。もっともあのとき見たような不思議な現象がふたたび海の中で起こることはなかった。
葵が自信を深めるにつけ、『スターダストロック』に対するリクエストも強くなっていき、はじめもそろそろいいだろうと判断したようだ。とはいえ、きょうは風の関係でスターダストロック近辺は荒れている。そこで別のエリアのやはり上級者向けポイント『ワイルドアクアリウム』にボートは向かっている。スキルの最終チェックをするにもちょうどいいかもしれない。
葵以外では武田という中年夫婦に中学生の娘の家族グループが乗っている。夫婦はベテランダイバーで、娘の翔子も中学生とはいえ初心者ではない。全員それなりのスキルを持つファミリーダイバーで五日前から来ている。きょうが最終日で、帰国はあしたのフライトだ。
「ねえねえ、葵さん。葵さんはこのポイント潜ったことあるの?」
黒の競泳用水着にショートカットというまるで水泳選手のような格好をした翔子が、なれなれしい口調で聞いた。いつのまにか葵にすっかりなついている。
「じつはあたしも初めてなの。でもと~っても凄いところらしいわよ」
葵はお下げにした髪を潮風に揺らしながら嬉しそうな顔をした。例によって、ビキニの水着でダイナマイトボディを包み、子供っぽい顔とはミスマッチで不思議なエロスを振りまいている。
ふたりはまるで姉妹のようにはしゃぎ合っていた。航は葵のことをここしばらく密かに観察してきたが、夜にはときおり見せるもの悲しげな顔を、海の上、あるいは中では絶対に見せない。ほんとうに海が好きらしく、好きな男といっしょにいるときの女子高生のような顔をする。
そんな顔を見ているだけで楽しかった。
「ねえ、航さん。まだ着かないの?」
翔子は質問を航に向けた。
「もうすぐだよ。ほら、あそこに小さな島が見えるだろう。あのすぐ側さ」
航は前方にある無人島を指さした。島というよりもほとんど岩の固まりだが、あのあたりの水の中は、山脈のような岩の固まりが集まっている。まるで海底の迷宮のような地形だが、『ワイルドアクアリウム』はその中を迷い込むかのようにして楽しむポイントだ。
いっている側からボートは小島に近づいていった。『スターダストロック』方面のポイントは荒れているらしいが、さいわいにしてこの辺一体はべた凪だ。海面は波らしい波が立っておらず、まるで鏡のようだ。おまけに雲がほとんどないような快晴で、真夏の強い日差しが降り注いでいるため、ボートの上からでも山脈のような地形がおぼろげにわかる。水の透明度もかなりいい。
「うわぁ、すっごおい」
葵と翔子はボートから身を乗り出しながら、その景色を見て顔を見合わせた。翔子の両親も、さすがに歓声を上げる。
ボートはスローダウンしてエンジンを止めた。
「はい。ここが『ワイルドアクアリウム』です。じゃあ、ブリーフィングをしますから聞いてください」
航はボートから海面を覗き込んでいる彼らに呼びかける。ブリーフィングとは潜る前のポイント説明のことだ。葵たちはきゃいきゃいいいつつも、航の方を注目する。
「今、上から見たように、地形は連なった山のようです。岩肌にはサンゴがびっしりくっついていて、そのまわりには大小さまざまな魚が根付いています。それを見ながら、移動していくわけですが、このポイントは激しく流れるときがあります。今はほとんど流れがないようですが、潜っている間に流れが出てくることもありますし、流れた場合、けっこう強く、しかも複雑な流れになりがちですから、アンカーは打ちません。僕が皆さんといっしょに入って、ジジがボートに残ります。僕たちは浮上する際にはボートまで行く必要がなく、逆にボートが僕らを拾いに来ます」
いわゆるドリフトダイブだ。ボートが浮上したダイバーを見失わない限り、流れの中を無理してボートに戻るよりもはるかに安全になる。潜る方は海中でばらけないようにする必要があるが、潮に乗って流されていけばいいのだから、楽なものだ。
武田一家は何度もやったことがあるようだし、葵もここで似たようなダイビングを経験済み。航はこの方法になんの危険も感じなかった。
「なんだぁ。ジジはいっしょに潜んないの?」
翔子が不満げにいう。この子はここ数日のダイビングでジジと妙に意気投合している。
「まあ、航ががんばるから」
ジジが後ろから声を掛けた。ちらっとふりかえると、操舵室から顔を出し、にやにやしている。
馬鹿にされているようでむかついたが、気を取り直して説明を続ける。
「見られる魚は、ギンガメアジの大群、ナポレオン、イソマグロ、ときおりカメやマンタもいます。それにサンゴのまわりには各種ハナダイ、チョウチョウウオ、スズメダイなどが密集していますからそれを楽しむのもいいと思います」
「きゃああ。楽しみぃ」
葵と翔子は互いに手をたたき合った。
「海底は深いですから、行こうと思えば水深五十メートルでも行けますが、潜りすぎないように。最大水深三十メートルをキープしてください。一番エアの早い人が残圧五十になった時点で全員で浮上。水深五メートルで安全停止、五分したあと海面に出て、ボートのピックアップを待ちます。海面ではBCにエアを入れて浮力を確保するように」
BCとはタンクを背中に固定するためのジャケットで、同時に内部に空気を出し入れして浮力を調整することができる。海中では空気の量を適度に保ち、浮きも沈みもしない中性浮力を取るが、海面では目一杯エアを入れ、沈まないようにするのが定石だ。
「なにか質問は?」
特になにもなかった。全員の顔が輝いている。
「じゃあ、準備しましょう」
港でタンクにBCとレギュレーターはセット済みだから、あとはウエットスーツを着て担ぐだけだ。みな楽しそうにウエットに脚を通す。
航もいち早くウエットスーツを着ると、器材一式を身につけた。
「じゃあ、僕が先に入っていますから、バディ同士で潜行したら、僕の側に来てください」
航はそういうと、船尾から海面に飛び込んだ。
幸いにして流れはない。おそらく海の中も静かだろう。楽なダイビングになりそうだ。
航はBCのエアを抜きつつ、肺に残った空気を吐き、潜行を開始した。
五メートルほど沈んだ時点で、航は大きく息を吸った。肺が満杯になることで浮力が働き、その水深でぴたりと止まる。
透明度は四十メートルはあるだろう。かなり遠くの根までしっかりと見渡せる。水底はさすがに濃い藍色に溶け込み見えなかったが、もう少し下の方まで潜ればそのうち見えてくるだろう。この辺は深いといってもどん深ではない。すぐ近くにある根にはサンゴがびっしりと密集し、色とりどりの熱帯魚たちが極彩色の群れとなってブルーの世界に華を添えている。
水面を見上げた。ボートの船尾からダイバーがふたり飛び込んでくる。武田夫妻だ。夫妻は足からゆっくりと潜行してくる。航と同じ水深まで来ると、ふたり同時にぴたりと止まった。ベテランらしくそつがない。
続いて葵と翔子のバディが潜行してくる。このふたりも難なく航のところまでたどり着いた。ワイルドな地形と珊瑚礁の美しさに感動したせいか、マスクから覗く目はふたりとも輝いている。
航は四人に問題がないのを確認すると、親指で進行方向を指し、そちらに向かって泳ぎはじめた。
透明度がいいせいもあって、まるで空を飛んでいるような錯覚に陥る。ゆっくりと岩肌に沿って前進しつつ、少しずつ深度を落としていく。ちらりと後ろを振り返ると、四人はふたりずつ横に並びながらちゃんと付いてきていた。
水深二十メートルをキープしつつ、最初のコーナーを右に曲がる。
巨大な竜巻が回っていた。
正確にいうと、ギンガメが大群をなしてやや上方で渦を巻いている。
ギンガメといっても亀じゃない。正確にいえばギンガメアジ。大振りのアジの仲間で、太陽光線が当たると銀色に反射する。こいつが何千匹も密集して蠢いている姿は圧巻だ。
いままでおとなしく後ろを付いてきたダイバーたちはいつのまにか航の前に飛び出していた。とくに葵と翔子はギンガメの渦の中に突撃しようとしている。
別に問題はないのでそのまま見ていた。だいたい連れてきた客の五人にひとりくらいは同じような行動に出る。
葵たちが中に入ることで渦は大きくなり、その分、中の空間がひろがっていく。
航は以前葵がスカシテンジクダイやマンタを自分を中心に回らせたことを思い出した。あれは不可解な現象だったが、ギンガメに関していえば、ダイバーを中心に回ることはさほど珍しいことでもないから、不思議な光景とはいえない。
ギンガメはしばらくその勇姿を見せつけていたが、やがて流れるように退場していった。
航は四人に合図をして先に進む。
そこから先はまさに『
黄色い体に四本の筋が入ったヨスジフエダイ。
少し丸っこい座布団のような形をしたユーモラスかつ美しいツバメウオ。
熱帯魚の代表格のチョウチョウウオの仲間たち。
それらが根と根に挟まれた水路の中に密集している。
その中を一メートル以上もある大きな魚が一匹、悠々と横断した。緑色の体をしておでこが飛び出、ぶ厚い唇に真ん丸の愛嬌のある目。メガネモチノウオ、通称ナポレオンだ。
後ろを振り向くと、葵たちはぱたぱたと魚を追っかけ回している。武田夫妻もたいして変わらない。航はしばらくこのまま移動せずに遊ばせてやることにした。
葵と翔子はナポレオンに構いだした。ここのやつは人間慣れしているせいか、逃げない。餌付けしているわけでもないのに、犬のようにまとわりつく。ふたりは水中で互いの手をたたき合い、大喜びだ。
ちらりと水面を見る。ボートはちゃんと航たちを追ってきていた。きょうのように波がないとボートの方でも追いやすい。ダイバーの吐いた気泡がはっきりと見えるからだ。ジジはそういうことでは絶対にへまをしない。
五分ほどしたあと、航はBCに挿したダイバーズナイフを抜くと、刃先でタンクをカンカン叩いて合図をした。葵たちがその音で自分を方を振り返ったのを確認して、前に進むサインを出すと、少しずつさらに深度を落としながら、根の角を反対側に回り込んでいく。
こっちサイドは岩肌がほぼ垂直に切り立っていた。そのせいでさすがにサンゴも根付いてはいないが、代わりにイソバナやウミトサカが咲き乱れている。
イソバナは扇状に広がりゆらゆらと揺らめくし、ウミトサカは巨大なカリフラワーというのが一番わかりやすい。ともに一見植物のようにしか見えないが、刺胞動物の集合体で、固い殻を持つハードコーラルに対し、ソフトコーラルと呼ばれる。いろいろな種類があるが、このエリアのものはピンクだのオレンジだのじつにカラフルだ。
それぞれがピンク、赤、イエロー、グリーンといった小さな熱帯魚たちを伴う様は、まるで垂直の壁に広がった花園。しかもそれが延々と続いている。
航は壁の名画でも見るようにゆっくりと移動していった。客たちも中性浮力を取りながら付いてくる。
ゲージを確認した。水深三十メートル、エア残圧百。タンクのほぼ半分を消費した。そろそろ深度を上げるべきだ。
ハンドシグナルで各人の残圧を尋ねる。みなほぼ航と同じでばらつきはほとんどない。
航は安心しつつ、徐々に浅場に向かう。水深を上げると、かすかに見えていた水底の岩肌が紺の闇に溶け込み、底のない空間を飛ぶ浮遊感が強まっていく。
水深十五メートルに達したとき、わずかに流れを感じた。進行方向と逆方向の流れだ。もっともこのポイントではこの程度の流れはよくある。むしろもっと強くてあたりまえ。
航は気にせず前に進む。だが次第に流れが強くなっていくように感じる。
後ろを振り返った。誰も流れに負けているものはいない。
どうする?
一瞬迷った。このまま流れに逆らってもいいが、別に浮上ポイントを決めているわけではない。ボートの方が自分たちを追うドリフトダイブだ。
このまま流れに乗るか?
海面を確認する。ボートを探そうとしたのだ。しかし見えない。いや、必ずしもジジが見失ったというわけじゃない。いつの間にか浅場の透明度が悪くなっている。水が濁ってボートが探せない。
あらためて客の方を見ると、明らかに透明度が落ちてきていた。悪い潮に捕まったらしい。強い流れがどこからか濁った水を運んできている。
ちょっといやな予感がした。
そう思っている内に、みるみる透明度は落ちていく。航は客たちに、ばらけないで集まるように手で指示した。
四十メートルはあった透明度が、十メートルもない。いや、さらに悪くなる。
八メートル。五メートル。三メートル先が見えるかどうかまで落ちたころ、流れはさらに強くなった。
やばい。
こうなったら、はぐれないように皆を集めたまま、流れに乗って浮上するしかない。それでも問題なくジジが水面で見つけ、ピックアップしてくれるだろう。
そう思った瞬間、目の前にマンタがいきなり現れた。まさにぶつかる寸前だった。
あれほど間近にマンタを見たのは、航にとっては初めての経験だ。思わずのけぞってしまった。
しかし濁った水はあっという間にマンタの姿をかき消してしまう。
航はあらためて客の姿を確認する。
三人?
ついさっきまでそこにいた四人は三人しかいなかった。
誰だ。誰がいなくなった?
翔子だ。翔子が消えた。
おそらくマンタに驚いて動いた一瞬の隙に変な流れに捕まった。
まずい。本格的にまずい。
ドリフトダイビングでひとりだけはぐれるのは危険だ。浮上ポイントが著しく離れると、ボートが見つけられずに漂流する危険がある。とくに表層の流れが速く複雑な場合、見つけるのが難しい。
かといってこの透明度じゃ、海中で探すのはおそらく無理だ。
焦るな。彼女も初心者じゃない。ひとりだけはぐれたら浮上してボートのピックアップを待つはず。
このまま流れに乗って水面を目指せ。そうすればだいたい同じ位置で浮上するはず。海面で落ち合える可能性が高いし、最悪の場合でも、ボートに乗りこんで、そのまま船上から探せばいい。
航がみんなをまとめ、そのまま流れに乗ろうとしたとき、頭の中に声が鳴り響いた。
『違う。そっちにいっちゃだめ。翔子ちゃんは逆の方向にいる』
5
葵さん?
今頭の中に響いたのは、紛れもなく葵の声だった。
航は思わず葵の顔を見る。瞳が語っていた。夢でもなんでもないと。
最初のころ、『シュガーポット』で葵がエア切れになったとき、『助けて』と呼びかけられたことを思い出した。あれは気のせいだろうと思いこんでいたが、違った。
どういうことかわからないが、葵には水中でも相手に言葉を伝えることができる。理解不能だが、そのことは事実だ。
だがそのことを認めても、理解できないことは、翔子が反対の方向にいるということだ。
こんな強い流れの中、一瞬の隙にいなくなったのなら流れに乗ったに決まっている。流れの反対側に行くなんて考えられない。
『下。下に行って、航くん』
下? 下だって?
わからない。葵がなにをいおうとしているのかわからない。
だが葵を信じることにした。根拠はない。だがなぜかそうすべきだと思った。
航は武田夫妻に向かって潜行のサインを出す。
夫妻は明らかに動揺していたが、頷いた。航はそれを確認すると、頭を下に向けフィンを蹴る。葵と夫妻も続いた。
ほんの三メートルほど深度を落とすと流れが急激に弱くなる。
この激流は表層だけだったのか?
そういえば透明度も少し上がり、十メートルほど先が見える。
『もっと下』
葵の声がふたたび鳴り響いた。
もっと下? 下にいけばなにがある?
航は疑問に思いつつもさらに下降した。
まるで飛行機が雲を突き抜けたかのように、状況が一変した。濁っていた水がすこんと抜ける。
透明度にして五十メートルほどあるだろうか? 上が濁っているために薄暗くはあるが、明らかに潜り初めのころよりも遠くが見渡せる。
同時にふたたび強い潮を感じる。ただし方向は真逆だ。
二枚潮だったのか?
航はようやく事態を理解した。同時にまったく別の方向から潮が入り込んだ。ひとつは濁った潮、もうひとつは澄み切った潮だ。
濁った潮が表層に流れ込み、澄んだ潮がその下に潜り込んでしまった。まったく逆の方向に流れながら。
そういうことはめったにないが、まれに起こることもある。とくにこの『ワイルドアクアリウム』は潮が速く、複雑なことで有名だから充分にあり得ることだった。
武田夫妻と葵もこの下の層に入ってきた。あまりの変わりように驚いた表情をしている。
航は親指で進行方向を指示し、流れに乗った。
翔子はこの層に落ち込んだのだとしたら、葵のいうとおり翔子はこの潮に乗り、最初行こうとした方向と反対側に流れていったはず。
問題はどこまで行ったかだ。すぐわきに岩の固まりがあるのだから、どこかに掴まって流れをやり過ごそうとしているのかもしれないし、岩に掴まる余裕すらなくすっ飛ばされた可能性もなくはない。
根から離れ、遠くに運ばれたなら探せない。だが根の周辺にいるなら必ず見つけることができるはず。
目をさらにしながら、ソフトコーラルと熱帯魚で彩られている壁を見つめた。
いつもなら目を楽しませるこの光景も、張り付いた人間を捜すには邪魔だった。カラフルなウエットスーツはこの中に溶け込む。なにもない岩肌の方がはるかに探しやすい。
航は翔子を探しながら焦りはじめた。
ほんとうに翔子はこの層にいるのか?
ひょっとしたら、たしかに一時的にはこの層に落ち込んだのかもしれないが、その後、自分たちを追うため、あるいは浮上するために上に向かったんじゃないのか? もしそうだとするとふたたび別の方向の流れに掴まり、まったく逆の方向に向かってることになる。
『違う。そうじゃない。ここにいるわ。このまま流れに乗って』
またしても葵の声が鳴り響いた。
葵は自分の心が読めるのか?
だが、もう驚かなかった。なぜそんなことができるのかはわからないが、そう考えればいろいろ納得がいく。
おそらく葵は水を通じて言葉に頼らないコミュニケーションを取ることができる。それは人間に限らない。だからあのとき、マンタは葵を中心に踊りながら回ったんだ。
葵はほんとうに『海の中の魔法使い』だった。
その葵がいっている。翔子はここにいると。
ついに根の先端まで流されようというとき、航はついに大きなイソバナの影から立ち上がるエアを見つけた。
あれか?
航はそこに向かってダッシュした。見間違いなどではない。あの泡はダイバーの呼気だ。
イソバナの影には翔子がいた。エアの吐き出される感覚が頻繁なこと、マスク越しの目が尋常でないことからパニックを起こしているのは間違いない。
航は一瞬後ろを振り返り、皆がついてきているのを確認すると、翔子の正面に入り込み、両肩を掴んで顔を覗き込んだ。
翔子の目が正気に戻っていく。パニックといっても比較的軽いもので、助けが来たことを認識したことで落ち着いたらしい。
それにしても翔子はなぜパニックを起こしつつも、こんなところから動こうとしなかったのか? ほんとうの初心者ならともかく、翔子くらいのダイバーならこういう場合、水面を目指すのが普通だ。
航はその時初めて、翔子のゲージが岩の隙間に引っかかっていることに気づいた。
動こうにも動けなかったのだ。
航が抜こうとしてもどういうふうに入り込んだのか、びくともしなかった。
とりあえずゲージを読む。タンク残圧二十。フル充填の一割しかない。
非常にまずい。パニックによる荒い呼吸がエア消費を著しく早めたのだ。
水深は二十メートル。そう深くもないが、その程度の残圧はあっという間になくなる。すぐに浮上を初めても、まだ呼吸が荒い翔子では海面まで持たない。
航は自分自身の残圧を確認した。六十気圧。ひとりなら問題ないが、今の状況の翔子とエアを分かち合って浮上するには微妙だ。だがやるしかない。
自分のオクトを掴むと、翔子に渡す。翔子は自分のレギュレーターを口から離すと、オクトに咥え直した。これでふたりのエアは航のタンクから供給されることになる。
葵たちが近くにいることを確認した。みな近くの岩に掴まりつつ、流れをやり過ごしている。浮上のサインを出した。
航はBCからナイフを抜くと、翔子のゲージとタンクを繋ぐ高圧ホースを切る。
とたんにものすごい勢いでエアが吹き出した。
ナイフを鞘に差し込むと、離ればなれにならないように翔子のBCのバックルを掴み、上に向かってフィンキックした。
とたんに流される。根から離れていく。
しかしみんないっしょならば問題ない。きっとジジは見つけてくれる。
航はみながばらけないように注意を払いながら、浮上していく。
例の別の層の水に入った。
とたんに透明度が落ち、さらに上に行くと逆の方向の流れがうねり出す。
ついに目の前の葵たちが霞むくらいまで水が濁ってきたが、もう恐れる必要はない。ゆっくりとペースを守りながら浮上するだけだ。
水深五メートルまできた。本来なら体内の残留窒素を排出するために、ここで安全停止するべきだ。だが航の残圧はすでに二十を切っている。おまけにもたもたしているとどこまで流されるかわかったものではない。
ここにとどまる方がリスクが高いと判断した航は、そのまま一気に海面まで出た。
BCにエアを入れ、浮力を確保しつつ、ボートを探した。
かなり遠い。予想以上に流されたらしい。
航はダイブアラートを使う。これはようはタンクのエアで鳴らす笛だ。甲高い音が鳴り響いた。
ジジは気づいたらしく、ボートがこっちに向かって走り始めた。
6
「いやあ、おたくの航くんはすごいですねぇ」
夕食の席ではじめに向かって、武田は非常に感心したようにいった。
「あれは突発的な事故で防ぎようがなかった。あんなことはまず起こらないし、対処だってできない。いやあ、こういっちゃんなんだけど、僕だってベテランで、たくさんのガイドダイバーを見てきましたからわかりますよ」
海中の葵の声は武田夫妻には届かなかったらしい。だからまるで航が超人的なガイドのように見えたのだろう。
奥さんの方もしきりに感謝の言葉を述べる。航はそれを聞いていて叫びたかった。
違う、そうじゃない。
だがそれはできない。葵との約束だからだ。
あのあと、ボートで葵はこっそりと、それでいて頑固に航に秘密を保つように迫った。
気持ちはわかる。どうしてあんな力を持っているのかは知らないが、他人に知られれば化け物扱いされるかもしれない。そこまでいかなくても、いままでの平穏な生活が乱されるのは間違いない。
「あそこは潮が複雑ですけど、まさかそんなことがあるなんてねぇ。充分気をつけないといけませんね。いずれにしろ帰る前日に事故がなくてなりよりです」
「いやっ、まあ、事故がなくてなによりですわ。わははは」
はじめは上機嫌で相づちを打つと、航にいった。
「それにしても航、どうして翔子ちゃんが反対の方向に流されたってわかったんだ?」
「どうしてって、見えただけさ。翔子ちゃんがマンタに驚いて下に向かったとたん、逆方向に流されたのが」
嘘もいいところだ。そんなことにまったく気づきもしなかった。だがそういうしかないだろう。
「あのときは、もうほんとにびっくりしたよ」
翔子はもう完全に立ち直っている。潜るのが怖くなったともいわない。航にとっては不幸中の幸いだ。
「ゲージが引っかかって浮上できないってわかったときは、死んじゃうかと思った。航さんが来てくれたときは、後光が差してたよ。ほんとにありがとうね、航さん」
翔子がとびきりの笑顔を向けた。
「い、いやあ、仕事だから」
航は心が重くなっていく。あれは自分の手柄なんかじゃない。ほんとうなら自分の判断ミスで翔子を殺していたはずだ。翔子を助けたのは葵だ。
もちろんあれはいろんな偶然が積み重なり起こった事故で、普通ならまず考えられない状況だった。だがそれは理由にならない。他人の命を預かっている以上、判断ミスは許されない世界だ。葵がいなければ、もうガイドは続けられなかったろう。
「ねえ、はじめさん。武田さんたちが帰れば、しばらく客はあたししかいなくなるでしょう? そろそろあたしのリクエストをかなえてくれませんか?」
葵がはじめにいった。
「おう、そうだったな。『スターダストロック』か。天気予報によると、たぶんあしたはあっちのほうは荒れないはずだな。じゃあ、いってみるか?」
「やったぁ」
両手を挙げて喜ぶ葵を見て、翔子は「ずっる~い」とすねる。彼女も行きたかったらしい。きょう、死にそこねたばかりだというのに、タフな女の子だ。
「わははは。翔子ちゃん、またいつでも来なさい。そのうちきっと潜れるさ」
翔子は「ほんとう?」と疑い深い目ではじめを見た。はじめは豪快に笑う。
なんにしろ、話題が変わったのは航にとってはありがたい。きょうの事故の話から離れたくてしょうがなかった。
「音楽でもかけませんか?」
航はそういうと、席を立ち、壁際の棚に置いてあるCDラジカセのスイッチを入れた。話題がふたたび戻ることを嫌ったのだ。
ラテンのダンスミュージックが流れる。
「あ、この曲大好き」
葵はいきなり立ち上がると、踊り出した。
顔にはこぼれ落ちるほどの笑顔。ここ数週間、葵のことは見続けているが、人一倍好きなものは海と音楽。ほんとうに心の底から愛しているって感じだ。
悲しい曲も、メロウな曲も、明るく激しい曲もとにかく好き。
「航くん。踊ろう」
葵は輝く目を航を見つめ、手を取って引っ張り出した。
「あ、あたしもぉ」
翔子も負けじと飛び出してきた。
星空の下、海の見えるテラスで潮風を受けながら踊るのは楽しい。心に残ったわだかまりも解けていく。
少し汗が出てきたころ、曲調が変わった。ムーディーな大人のダンスタイムに流れる曲。
「ほらほら、航。ちゃんとリードしてあげなさいよ。男なんだからさ」
そうちゃちゃを入れたのはみなみだった。勝手に曲を変えたのはこの人らしい。顔に悪戯っぽい笑みが溢れている。
Tシャツと短パンでする踊りではないと思うが、海辺ではこれもありだろう。
手を取り、腰に手を回した。
葵の魅力的な顔が間近に見える。心持ち赤かった。眼鏡越しの目もはにかんでいるように見える。
さっきまで快活に踊っていた葵がとたんにぎこちなくなる。こういう踊りは慣れていないのかもしれない。
もっともそれは航にしても同じだ。思わず足を踏んでしまった。
「あ、ごめんなさい」
ふたりとも同じ台詞をいった。それでちょっと緊張気味だった顔に笑みが浮かぶ。
聞きたいことは山ほどあった。だけどそれを上手く口に出せない。
「ひょっとして葵さん、いまも僕の心が読めます?」
誰にも聞こえないように、耳元でささやいた。
「いいえ。あたしは水を媒体にしないとそういうことはできないの」
やはり思ったとおりだった。葵のあの力は海の中だからこそ発揮されたのだ。
「でも、どうして、……そんなことができるんですか?」
「それは……、生まれつきなの」
生まれつき。そう答えられると、そうですかとしかいいようがない。まあ、超能力の類とはそういうものなのかもしれない。
「なんにしても、きょうはありがとうございました」
葵は無言のままだ。
「秘密なんでしょう? 僕を信じてくれたおかげで、翔子ちゃんが助かった」
「航くん。もうこの話は……」
「ごめんなさい」
もっといろいろ聞きたかった。
恋人はいるんですか?
その首から下げているロケットの中には愛しい人の写真が入っているんですか?
一番聞きたかったことは、あなたは誰なんですか?
だがそれは聞けない。それを聞いたら葵が離れていくような気がする。
もともと男にとって女は、魅力的であると同時に神秘的で不思議な生き物。葵はまさにその極致だった。
それでいいような気がする。どうせしばらくすれば、どこかに去っていく人なのだから。
音楽が終わった。葵は航から離れると、「部屋に戻ります」といい残し、食堂を去った。
「航ぅ。あんたなんかエッチなことしたんじゃないの?」
みなみがとんでもないことをいう。
「じょうだんじゃない。そんなことするもんか」
必死になっていうと、みな爆笑した。
「ちょっと外を歩いてくる」
別にすねたわけじゃない。少し頭を冷やしたかっただけだ。
店を出ると舗装もしていない細い一本道。片側には海が見え、反対側には椰子の木が茂っている。都会とは違って、街灯もないため、店を少し離れると月明かりだけが頼りだ。
「どこ行くんだ?」
海辺の砂浜から声が聞こえた。
「ジジか?」
声の主を捜すと、ジジは店の方を向いて砂浜に座っている。
「なにしてんだそんなところで?」
「別に」
航はジジのところまで歩くと、隣に座った。
夜は兄弟たちとの時間を大切にするジジがこんなところでひとりでいるのは変だ。航は気になった。ここから店の様子を観察していたようにすら見える。
いつも気むずかしいやつだが、今は特にそう見えた。少年のように凛々しい顔が不機嫌そうに固まっている。
「楽しそうに踊ってたじゃないか?」
「見てたのか、ここから?」
意外だった。そういうキャラじゃないと思っていた。
ジジはますます不機嫌そうな顔になり、質問を重ねる。
「おまえさぁ、きょうどうして翔子の行方がわかったんだ?」
「それは、見えたからだよ。翔子ちゃんが下の潮に巻き込まれる……」
「嘘だね。そんなこと信じられるか」
ジジはきっぱりといった。
言葉に詰まる。その通りだからだ。
「葵さんが教えたんだろう?」
どうして? と思わずいいそうになった。
「葵さんがエア切れしたときのことを覚えているよな?」
ジジは航の顔を見た。
「あのときあたしだって聞いたんだ。『助けて』っていう叫びを。どうしてだか知らないけど、あの人は水の中で心を通じ合える」
あの声を聞いたのは航だけではなかった。ジジは知らんぷりをしながら、すべてを理解していたのだ。
「あの人、何者?」
「わからない」
「いったいここになにしに来た?」
「なにしに?」
「ただ遊びに来たようには見えないよ。悪い人じゃないと思うから、変な意味じゃないけど、なにか目的を持ってきてるよ」
そうかもしれない。あの海ではしゃぐ姿を見ると、とてもそうは思えないけど、長期滞在といい、不思議な力といい、なにかあっても不思議じゃない。
そういえば葵はスターダストロックに妙にこだわっていた。なにか関係があるのかもしれない。
「好きなのか、あの人のこと?」
ジジは意外なことをいう。ますますきょうは変だ。
「そうかも……しれない」
航はそう答えつつ、自分でもよくわからなかった。
「気になるのか、おまえ?」
「馬鹿か? 誰がそんなこと気にするもんか」
かなり強い口調でいう。
「あたしが気にしているのはおまえじゃなく、葵さんの方だ。だって、……気になるだろう? なんかやばいよ」
顔を背け、いいわけめいたことを口にする。
ジジは星空を見上げながら、もうひと言いった。
「あの人はいったいどこから来たんだろう?」
7
月明かりの中、若い男女が浜辺で立ちつくし、打ち寄せる波を見ていた。
ともにリゾートならではのラフな恰好をしている。男は眼鏡を掛け、痩身だが弱々しくは見えない。むしろ強靱な肉体と精神を隠し持ったようなタイプだ。女は美形にして妖艶。ショートカットが似合うが、同時にグラマラスな肉体を持っている。イメージは毒を含んだ綺麗な花。ともにリゾートでリラックスしているようには見えない。
女が波打ち際に素足で入ると、浅場で小魚がぴちぴちと海面に跳びはねた。
「うふふふ」
女は手をふる。オーケストラの指揮者のように。
それに会わせて、魚たちは踊った。長年練習を積んだダンサーグループのように。
男はふいに笑った。
「お気に召しましたか、ダジル大尉?」
「ふん、べつにおまえの芸に笑ったわけではない。おまえはこれを見て笑いたくならないのか、サミル?」
ダジルは腕で海全体をぐるっと指した。
「これを? つまり、この大量の水をですか?」
「そうだ。軍の敷地いっぱいに広がる水があれば贅沢の極みと驚愕するだろうが、ここまで大量にあればもう笑うしかあるまい。しかしここのやつらはそのありがたさがまるでわかっていない」
「まあ、そうかもしれませんねぇ」
サミルは妖艶な唇に怪しい笑みを浮かべる。
「ちょっと帰りたくなくなりました」
ふん。俺はちがう。
ダジルはサミルのいったことにはとうてい同意できない。
たしかにここにいれば、水に困ることはないし、豊かな自然も堪能できる。だが、それだけのことだ。もし国を捨て、ここに永住などすれば、俺はなんの力も持たぬただの風来坊でしかない。
男には野望というものがある。それはここではけっして達成することはできない。
俺は目的を果たし、帰る。それで出世の階段をまた一歩上るのだ。
「王女はほんとうにいると思いますか。あの中に?」
サミルがダジルの目をのぞき込むようにして聞いた。
「いる。必ずいる」
願わくば生きていてほしい。そのほうが任務を果たしたときのありがたみが大きいというものだ。
ただ、王女の死を確認するだけではなく、このダジル自ら王女の命を絶つ。しかも王立軍の妨害を阻止して。
それでこそ、このダジルの伝説が生まれるというものだ。新しい英雄の伝説が。
ダジルはふたたび笑っていた。もちろん海の大きさがおかしかったからではない。
待っていろ、エステリーナ王女。海の中で眠るがいい。あそこをおまえの棺に変えてやる。
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