第九話 神さまはめんどくさい
奉行所を出て横浜の街に戻った時には、七つ半(※午後五時)を過ぎていた。
短い冬の陽はもう傾いて、赤い残照を横浜の街に投げかけている。往来をゆく人々も白い息を吐きながら歩いていた。日本人と異人が雑多に交わる横浜居留地だが、皆寒そうに首を縮めているのは変わりがない。ぴゅう、と木枯らしが枯れ葉を浮かせて吹き過ぎてゆき、私も思わず襟元をかきあわせた。
会所での出来事が、一種刺のように私の心に刺さっていた。結局踏んでしまったことが、心に重くのしかかる。
あの場合ああするより他に仕様がなかったのだが、あまり気持ちのいいものではない。
屋敷へ帰るのが、少し億劫だった。昼までには帰るつもりだったのに、組頭に会っていたせいでどうにも遅くなってしまっている。いくら昼寝の好きなヴラドでももうさすがに起きているだろう。
いちおう奉行所の
しかし意に反して足取りは重かった。ヴラドに申し訳ないと思う気持ちがある。彼女も他の異人と同じく
自然と、ため息が漏れる。
横浜が開港して異国人がわんさとくるようになったのに、どうして幕府は未だに禁教令など出しているのだろう。
*
やがて、屋敷に帰り着いた。ヴラドも起きているだろうと思って門をくぐった時に声をかけたのだが、返事がない。もしや、一人で屋敷の外に出ていったのではないかと思い慌てて奥に行くと、台所の方で音がした。
「おやサツキ、遅かったですね」
ヴラドは台所にいた。ちょうど夕飯の準備をするところであったらしく、木台の上に食材が並べられている。ヴラドは普段の洋服ではなく、女中のクレアがつけているような前掛けをつけていた。エプロンというらしい。
「すまんな、鍛錬のあと、奉行所に呼び出されて遅くなった」
「それはご苦労様でした。まったく、あなたがいないから外にも出れないので困りましたよ。ひまなので夕食の準備をしてました」
ヴラドはうっすら笑って、少し不平らしく言った。彼女を困らせてしまったことは事実なので、素直に謝る
「すまなかった。私もこれほど遅くなるとは思わなかったんだ」
ヴラドはくすくす笑った。
「フフ、失礼、少し意地悪を言ってみただけです。どうせ仕事の予定はありませんでしたから気にしないでいいですよ。今日はSundayですからね」
そう言われて朝南蛮寺に参詣に行く異人達のことを私は思い出した。そういえば今日はSundayといい
「それなら良かった。実は、私のいない間にお前が勝手に屋敷を出て行ってしまうのではないかと少し心配していたんだ」
「ふむ、いったんはそうしようかとも思ったんですが……」
「待て、やめろ。絶対にやめろ」
「フフ、そうやってサツキを怒らせるよりは、先にこの前の汚名を返上しようかと思ったのですよ」
妙に私を困らせたがるヴラドの悪癖に辟易しつつも、汚名という言葉が気になった。
「汚名とは? なにかあったか」
「忘れたんですか? 私が前に料理を作ったときあなた食べもしなかったでしょう」
思い出した。
最近私とヴラドは時間の空いた時に交代で食事を作っていた。
それまでは出前や棒手振り、弁当屋で何とかなっていたのだが、ヴラドがどうしても肉を食べたいと言い出して、次第に屋敷で作るようになった。横浜にある食い物の店はどこも魚をおかずにしていて、肉屋は少なかったためだ。
たいていは私が作ったが、仕事のないときはヴラドが作ることもあった。彼女が言っているのはこの前の料理のことだろう。
「あのときか、ちゃんと野菜は食べたじゃないか」
「ええ、ですが肉に少しも手を付けなかったのはいささか傷つきました」
「あ、あれは、確かにすまなかったがお前も悪い! 生の肉を食わせようとするからだ」
ヴラドが皿を食卓に並べたとき私は目を疑った。血の滴るような赤い牛肉がどん、と目の前に置かれたのだ。
「ローストビーフはちゃんと火を通してありますよ。やれやれ、一応一番得意な料理だったんですけどねえ」
「どう言われようと生の肉を食う気はない。どうして異人はあれが平気で食べれるんだ」
「私からすると、生魚を平気で食べている日本人の方が奇妙に映りますが」
とにかく、とヴラドは言った。
「その汚名を返上するために、今日の夕食はこうして私が作ろうかと思ったのです。必ずおいしいと言わせましょう」
「もう生肉はかんべんしてくれよ」
「大丈夫です。今日は魚と米の料理ですから」
「む」
木台を見ると、たしかに普通の食材が並んでいた。鱈に鮭、海老に、幾らかの野菜。魚はどれも新鮮で、きっといま棒手振りから買ったばかりなのだろう。
「ほう」
美味しそうだな、と素直に思う。まだどんな料理をつくるかも知らないが、食材だけで美味しいものができそうだと察せられる。ヴラドは(意外なことに)料理の腕自体はとてもいいので、期待できそうだった。
「楽しみにしている」
そう言うと、ヴラドは自信ありげに笑った。
「フフ、任せて下さい」
*
「で、あれがどうしてこんなことになるんだ……」
膳に盛られた料理を見て、私は開いた口がふさがらなかった。人のことをとやかく言える腕ではないが、それにしても……あまりにも想像とかけ離れている。
てっきり白米に味噌汁、タラの焼き物、かぶと海老の煮物、なんてものが出てくるかと思っていたのだが、膳の上にあるのはたった一皿、それも実に珍妙な料理がのっていた。
まず、全体的に黄色い。すごい黄色い。
香りも私が今まで嗅いだことのない強いものだ。
具材はたらも海老も米と一緒くたに混ぜられていて、どう見ても美味しそうではない。
嫌な予感はしていたのだ、台所から漢方薬じみた匂いがしていたから。
しかし万事にそつのないヴラドのことだから、きっと大丈夫だろうと高をくくっていたのだが。
そのヴラドは、意外そうな顔をしている。
「おや、気に入りませんか。米と魚のある食事を作れといったのは、あなたですよ」
「いや、たしかにそうだがこれは……そもそもこれは一体何だ?」
「ケジャリー(※イギリスのシーフードカレー)です。鱈や鮭の切り身、海老を炒めて炊いた米と混ぜて、カレーのスパイスで味付けした料理です。イギリスではよく食べられているんですが、日本でも比較的材料が揃えやすかったのは助かりました。日本の米はずいぶん粘りがあって、うまく炒められなかったのだけ残念ですが」
「エゲレスの料理なのはまあいい、だがなんで米が黄色いんだ」
「インドのスパイスを使っているからです。体に害はありませんよ。騙されたと思って食べてみてください」
「うーむ……」
正直、美味しそうには見えない。
しかしヴラドがせっかく私好みのものを作ってくれたのに、食べもしないのはさすがに悪い。
今回は魚だし、ちゃんと火も通してあるようだし、死にはしないだろう。観念して席についた。
いま屋敷で食事に使っている部屋にはヴラドの希望で椅子と机が運び込まれている。洋式の椅子は足が高くて座ると違和感を覚えるのだが、、今日は特に座り心地が悪かった。
「どうぞ、スプーンで食べてください」
ヴラドから金物の匙を手渡される。たしかに箸では食べにくそうだった
「いただきます」
料理をひとすくいし、恐る恐る口に運んだ。瞬間、口の中に今まで食べたことのない味が広がる。辛いような、苦いような、甘いような、うまいような、なんとも言えない味だ。今まで食べたどの料理にも似てないので言葉で表現しようがない。
しばらく咀嚼して、飲み込む。
「どうですか?」
ヴラドが尋ねてくる・
「……思っていたよりずっとうまい」
「それは良かった」
「うまい」
二口目を食べると、やはりうまかった。舌が刺激的な味付けに慣れると、美味しさがわかる。鱈と海老の旨味がたっぷり米の中に染み込んでいて、香辛料の複雑な味付けがそれを引き立てている。
エゲレス料理で初めて好きな食べ物ができた。
ヴラドも、自分の分を食べ始めた。世界は広い。いままで想像したこともない料理が出てくるものだ。
しばらく二人黙って「けじゃりー」を食べた。異国の料理は全般的にそうなのだが、やや油っこいのでだんだんと胃にもたれてくる。
「ブラド、エゲレス人はこれを普通に食べているのか? 私には少し油が多すぎるんだが……」
ヴラドは意外そうな顔をした。
「これ、イギリスでは朝食ですよ」
「信じられん」
「使ってる油も日本の菜種油ですからイギリスよりずっと薄いですよ。向こうではラードやヘットでしたからね」
「なんだそれは?」
「牛や豚の脂身のことです」
「……うえええ」
聞いただけで胸焼けがする。
「残しても構いませんが」
「それはもったいないから食べるさ。味はいいしな」
「ふむ、今度作るときは油を少し控えましょう」
「そうしてくれ。肉といい油といい、異人の胃袋はおかしい」
「日本の料理があっさりし過ぎなのです。初めてあなたが夕食を作ってくれたとき、あなたに嫌われているのかと真剣に悩みました」
「あれは、まあ、すまなかった」
屋敷で料理を始めたとき、私は夕食にご飯と味噌汁、白菜の漬物と焼いたメザシを出したらヴラドに真剣に驚かれた。どうもその料理は異人の感覚では粗食に当たるらしい。最近は頑張って獣肉屋からイノシシや豚の肉を買ってきては焼いたりしている。
時々失敗して焦がしてしまうが……。
「サツキももう少し料理のレパートリーを増やしたらどうですか。たまになら魚でも私はかまいませんよ」
「うぐ」
思わず言葉を詰まらせる。言いたくなかったが、しぶしぶ口を開いた。
「私は、魚はさばけないんだ。メザシは焼くだけから何とかなったんだが……」
もうさばかれている肉はともかく、魚は大抵そのままで売っている。それを三枚に下ろすことがまだできないので、魚料理は作れなかった。さらには飯炊きもあまりうまくなくて、たまに失敗する。初めてでもちゃんと米を炊けたヴラドとは偉い違いだ。
案の定、ヴラドが吹き出した。匙を置いて笑い出す。
「ククク……、それでよく今まで食事が出来ましたね」
「江戸にいた時は、組の小者が作ってくれていたんだ」
ヴラドがいよいよ笑い出した。恥ずかしくて、思わず大きな声を出す。
「笑うな、どうせ私は下手なんだ。うまい料理が食いたいなら飯炊きを雇え」
「クックックク、ハハハハ。失礼。コックを雇ってもいいですが、もうすこしいい人材を探してからにしましょう」
肩を震わせたまま、ヴラドは言った。そこで前から気になっていた疑問があるので、彼女に尋ねる。
「お前は何で奉公人を使いたがらないんだ? 他の異人館では日本人の女中や用人を雇っているぞ」
ヴラドはようやく笑いを引っ込めて、と言っても口元は片側を釣り上げたまま、答えた。
「使うのが嫌なわけではありませんよ。今もいい召使がいないか探しています」
「・・・・・・探しているようには、見えないが」
「私はあなたのような召使が欲しいんですよ。私の言うことに逆らったり、意見するような召使が」
ヴラドの言葉に首を傾げる。普通奉公人を雇うときは従順で文句を言わないものを選ぶのではないだろうか。
私の疑問を察したのか、ヴラドが説明を加えた。
「私もヨーロッパにいた頃は、たくさんの召使を雇っていましたよ。家来も大勢いました」
「ヨーロッパ? エゲレスのことか?」
「いえ、私の家は昔、ヨーロッパの東にある国の貴族だったのです。いろいろありましてそこで暮らせないようになってイギリスに渡り商人になったのですが、日本に商機がありそうだと踏んで来たのですよ」
「ほう」
ヴラドがエゲレス人でないことは、奉行所から聞いていたのでそれほど驚かなかった
「それで東欧にいた頃ですが、その頃の私は、絶対に命令に逆らわない、黙って従うものを家来にしていたのです」
「いまでも、そうしそうな感じはするが」
ヴラドは見た目は穏やかに笑っていながら、基本的に相手がうんと言うまで引かないところがある。
「ですが色々ありましてね、気づいたんですよ。命令に黙って従う家来というのは、私が滅ぶときもただ黙って見ているということに。私に逆らう家来は、扱いづらいですが、私が間違えたときそれを教えてくれます。そのことに、最近ようやく気づいたのです」
以前何か、あったのだろうか。ヴラドがさっき言った、そこで暮らせないようになったことと何か関係があるのだろうか。
私は日本に来る前のヴラドのことを少しも知らない。いままで気になったこともなかった。しかし探索を命じられた以上、これからはこういう会話にも注意していかなければならない。
そう考えたとき、再び昼間の出来事が思い浮かんで、匙を使う手が止まった。それは一瞬間の出来事で、私はすぐに食事を再開したのだが、ヴラドは目ざとく気づいたらしかった。
ヴラドは食事の手を止めると、肘を突いて両手を組み、そこに細い顎を載せた。
「サツキ、先ほどから何か隠していますね」
今度こそ匙を使う手が止まる。あわてて何かごまかそうとしたが、ヴラドがさらに畳み掛けた
「何か言おうか言わないか悩んでいる、そんな感じですか」
図星を指されて押し黙る。ヴラドがくすくすと笑った。
「珍しいですね、サツキが素直にものを言わないのは。今日奉行所で何かありましたか?」
ヴラドの察しの良さには舌を巻く。それでも言うか言うまいか迷って、ヴラドに尋ねる。
「ブラド、実はお前に謝らないといけないことがあるんだ。これを聞いたらお前は怒るかもしれない。すまん」
「さて、怒るかどうかは聞いてみないとわかりませんから、まあ話してみてください」
落ち着いているヴラドに促され、とうとう観念して踏み絵の事を白状した。
*
「なんだ、そんなことですか」
ヴラドの反応は至極あっさりしたもので、むしろ私が虚をつかれた。
「そんなことって、いいのか、それで」
「この国のクリスチャンへの扱いは私も知っています。外国で異教のものが差別を受けるのは当然のことです」
「しかしなあ、仮にもお前が信心しているものを……」
「この国ではクリスチャンだとばれたら処刑されるのでしょう? 無実の証を立てるのを、いちいち咎めたりしませんよ」
私は安堵した。ヴラドを怒らせずにすんで、良かった。彼女がものわかりのいい人間でよかったと思う。
「ありがたい、そう言ってもらえるといくらから心が軽くなる」
「宗教の争いはどこにでもあるものです。実際ヨーロッパもそれが元で何度も戦争しましたから」
「そうなのか」
「あなた達が一括りに
「ブラドはどっちなんだ」
「それとは違う別の派閥、グリークオーソドックス(※ギリシャ正教)と呼ばれるものです。カトリックとプロテスタントは近年別れたものですが、グリークオーソドックスはもっと古い昔にわかれたのです。日本に関わりのある国なら、ロシアなどにその信者が多いですね」
つまり同じ仏教でも浄土宗とか曹洞宗とか違いのあるようなものだろうか。
「
「この三者は昔からとかく争いがちで、今でも喧嘩の種になることがあるんですよ。同じクリスチャンでも、別の派閥のものが傷めつけられているとかえって喜ぶようなものもいるくらいで……。愛の宗教とは名ばかりですね」
「『宗論は、どちらが勝っても、釈迦の恥』とはいうが、宗門の争いは世界のどこでも耐えぬものなのだな」
ヨーロッパの国々も、あれほど高い文明を持ちながら同じ宗徒で闘いをする。日本はこの二五〇年間、ほとんど戦をしなかったというのに。
ふと、思いつくことがあった。ヴラドが日本にきたのも、その争いが原因ではないだろうか。生まれ故郷はともかく、プロテスタントのエゲレスではグリーク何とかという教えを信じるヴラドはよほど肩身の狭い思いをしただろう。向こうで住めなくなった事情とはその辺に関係があるのではないか。
お絹が横浜に来たらそのあたりから調べさせてみようと思った。そこで、まだ絹のことをヴラドに話していなかったことに気付く。
「そうだブラド、言い忘れていたが、私を助けてくれる小者を江戸から呼び寄せたいんだが、構わないか?」
「ほう、それはまたどうして」
今度はあらかじめ言い訳を用意していたので、すらすらと答えることができた。
「今日みたいに私が所要でお前の警護をでき無いことがあるからな。交代でお前を守れるように人手は欲しかったんだ。それにあいつは料理がうまいしなにかと気がついて助けてくれる」
「私を守るということは、その方は女性ですか」
「ああ、名をお絹といって、今年十六になる」
「ほうそれはそれは。へえ、私はかまいませんよ」
ヴラドが何やら笑顔になった。流石に何を考えているかわかったので、釘を刺す。
「言っておくが、お絹は私以上に西洋嫌いだからな。ちょっかい出すと本当に斬られかねないぞ」
「おやおや、それは怖いですね」
まったく怖いとは思ってなさそうな顔でヴラドが言った。
お絹を江戸から呼んだのは早まったかもしれない。ヴラドと絹を合わせることが、にわかに不安になってきた。
「冗談ではないからな。もともと異人嫌いだったが、最近特に拍車がかかってな。私が横浜へ言った後は、異人ばかりの土地からはさっさと引き揚げて、江戸に早く帰って来たほうが良いとしょっちゅう手紙が来るんだ。前はあそこまでではなかったんだが……」
「……サツキも大概に鈍いですねえ」
「なにか言ったか」
「いいえ何も」
そう言ってヴラドは食事の続きを始める。
なんだか、だんだん不安になってきた。
絹とヴラド、うまくいってくれれば良いのだが。
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