第七話 日英鰻漫談②

『すまなかったな、クレア、あわただしく店を出ることになってしまって。』

 店を出て大通りを歩き始めてから、私は隣のクレアに話しかけた。後ろからはヴラドとスカーレットが着いてくる。

 クレアはすぐににっこりして言った。

『いえ、気にしないでください』

『いや、私の気がすまん。どうだろう、もし時間があるなら、すぐに公使館には戻らず、このまま横浜を少し歩かないか。私が案内するから』

『いいんですか!?』

『ああ、もともと今日の昼間はクレアのためだけに使うつもりだったのに、とんだ邪魔がはいったからな。せめてもの詫びだ』

『How jammy am I! お、おおおお願いします!』

 クレアは輝くような笑顔になって、ぺっこりお辞儀をした。その様子に私まで嬉しくなる。

 ただ、ちょっと今の会話でわからない部分があったので後ろのヴラドに尋ねた。

「なあブラド、いまのHow jammy am I!ってどういう意味だ? 驚いたのはわかったんだが」

「ああ、それは……」

『ダメ、ダメです!』

 するとクレアが慌てて話に割って入ってきた。その狼狽ぶりが激しかったので、すこし面食らう。

『どうかしたか? クレア』

『い、いえ何でも……とにかくサツキさん、今のはつい、いえ、うっかり、でもなく、とにかく気にしないでください』

 あたふたとまくし立てるクレアはなんだか子犬のようで微笑ましい。それはともかく、なにか彼女は変なことでも言ったのだろうか。

 そう思っていると、ヴラドが嫌味なくつくつ笑いをこぼした。

『クックッ、いいじゃないですかクレアさん、このくらいは』

『だ、ダメです!』

「サツキ、クレアさんはね、私はなんて幸せなんでしょう、って言ったんですよ」

「なんだ、そんな言葉だったのか」

 クレアがあまり慌てるから何だと思ったが、別に普通の言葉だ。jammyはluckyやhappyの代わりか。

「私が知らない英単語は、たくさんあるなあ」

「……クク」

 ヴラドが意味深な笑い方をしたのが、気になった。

「なんだブラド、言いたいことがあるなら言え」

「いえ、なんでもないですよ。サツキが気にすることではありません。ほら、行きましょう」

 ヴラドにしては雑なごまかし方だったので、なおさら気になる。

 ただ、ヴラドの場合そこまで計算にれて、わざと私の注意をひくようにそんな言い方をした可能性もあるので、あえて気に留めないことにした。

 クレアに話しかける。

『会話を中断してすまなかった、私も知らない英語はたくさんあるんだ。許してくれ』

『い、いえ、気にしてません。それより、さ、行きましょう』

 クレアにしては珍しく積極的に、私の腕をグイグイ引っ張って先に進もうとした。少し驚かされたが、彼女の機嫌が直ったようなのでよしとする。

『それよりもウナギ、ほんとうに美味しかったです。気のせいかもしれませんけど、ウナギの味も日本のほうが美味しかった気がします』

『む、そうなのか?』

 うなぎ自体の味、というと国が違うとうなぎの種類も違うのだろうか。私はイギリスのうなぎは食べたことがないので、ヴラドに尋ねてみた。

『ブラドはどう感じた? 鰻の味は日本とエゲレスで違うのか?』

『そうですねえ、両方を食べ比べたわけではないのではっきりとはわかりませんが……たぶん、種類だけでなく生育場所の違いでしょう』

『どういうことだ』

『ウナギはもともと汚れた川でも育つ魚ですが、大川(※現代の隅田川のこと)や多摩川とイギリスのテムズ川では事情が違うということですよ。ああ、テムズ川というのはイギリスのロンドンを流れる川のことです。ここはとにかく汚いことで有名で、産業の汚水がそのまま川に流れ込んでいるのです。テムズはウナギが有名というより、テムズはウナギ以外生息できない川なんですよ』

「うわ……、それは、なんだか食べたくないな」

 思わず本音が出てしまい、慌てて口をふさぐ。さいわい日本語だったので、クレアもスカーレットも気づかなかったようだ。

 スカーレットがため息をつく。

『テムズの汚れは私も頭がいたいわ。前に悪臭のせいで国会が開かれなかったことがあるくらいだもの』

 国会、とはたしかエゲレスの政を決める大評定の事だったか。それが中止になるとは、一体どれほどの悪臭だったのだ。

『たいして日本のウナギは、比較的きれいな川に住んでいますからね』

『川に流す下水は、大体が洗濯物と風呂の残り湯だからな』

 そういえば江戸前のうなぎは、流れてくる飯粒の残りを食っているから味がいいのだと、店の料理人に言われたことがあった。

『ところで、この後どこに行くの? なんだかぶらぶら歩いているだけのようだけど』

「む」

 スカーレットに訊ねられて、そういえば行き先を決めていなかったことに気づく。てきとうに歩けばいいかと考えていたが、往来にふき付けてくる風は思ったより冷たい。

 早いところ別の店に入りたいところだが、すぐにはこれといったあたりを付けられなかった。この三人を連れて、一体どんな店に入ればいいのだろう。

 何しろヴラドを除いた二人は日本語がわからないのだ。

 芝居小屋も寄席も、言葉がわからなくては少しもおもしろくないだろう。ただ見ているだけでも面白いものがあればいいが、花火も見世物小屋も夏のもので、寒い今の季節はやっていない。言葉も日本の文化も知らない異人でも楽しめそうな娯楽というと、すぐには思いつかなかった。

 腕組みして思案していると、冬の寒さが足元からしみるように登ってきた。

『まあ、とりあえず歩こうか、こうして立ち止まっていると寒くていけない』

 寒さから逃れるためと、まあなんとかなるだろうと高をくくる部分もあって、私は三人に声をかけた。三人とも往来で立ち止まっているのは嫌だったのか、頷いて歩き出す。

 そうしてしばらく歩くと、クレアが向こうを指さしていった。

『サツキさん、あそこはなんのお店ですか?』

 それは見世物小屋の立ち並ぶ一角に作られた矢場やばだった。クレアに説明する。

『あそこはな、矢場と言って小さい弓矢で的を射って遊ぶ場所だ。うまく的に当てると景品がもらえたりする』

『へー、楽しそうですね』

 ふと、矢場なら遊ぶのにちょうどいいのではないかと気づく。日本語がわからなくてもやりかたはわかるし、楊弓ようきゅうの小さいのなら女子でもひきやすい。犬も歩けば棒に当たるとはこのことだ。

『興味があるならやってみるか?』

『はいっ』

 クレアに尋ねると、こくりと頷いた。さっそく私達は連れ立って矢場に入った。

 そこの矢場はなかなか大きな造りで、広く横に長い形をしていた。十人くらいの先客が、銘々座ったまま弓を構えて七間半(※約十四メートル)先のまとを狙って矢を射っている。

 的は裏に太鼓が置かれてあり、的を外れると後ろの太鼓にあたってドン、と音がし、的に当たると金属的なカチリ、という音がする。この店はなかなか繁盛しているようで、ドン、カチリ、という音が矢場全体に絶え間なく響いていた。カチリ、と的に当たると、矢場女が大きな声で、あたーりー、と叫んでいる。

「いらっしゃい。お幾人いくたりですかえ」

 入り口にいた矢場女が、気づいて案内してくれた。顔の整った美人で、何となくこの店の繁盛の理由が察せられた。

「四人だ、すまんが子供用の弓はあるか?」

「あるよ、一尺(※約三十センチ)のやつが」

 矢場女はにっこり笑って人数分の弓と矢を用意してくれた。

 矢は一回八本、当たれば景品がもらえる。当たる数が多ければ景品の格が上がっていく仕組みらしい。クレアには一尺の弓を渡し、私とヴラド、スカーレットは二尺八寸(※約八五センチ)のを使った。

 他の三人は全くの初めてだから、まず私が射場に入って手本がわりにやってみせることにした。たまにはいいところを見せたいな、という欲も手伝って、慎重に的に狙いを絞る。

 一射目は外したが、それでクセを掴んで二射目はカチリと的にあたった。続けて三射目、四射目とも的に当たる。

 結局外したのは一射目だけで、後は全て的に当てることができた。我ながら上出来の結果だ。

「ふふん、どうだ」

 振りかえると、クレアとスカーレットが『おおーっ』と言って拍手してくれた。あのスカーレットまで素直に驚いてくれたのは嬉しい。

『すごいですサツキさん。ほとんど全部当てるなんて!』

『なかなかやるわね』

『ま、まあそれほどでもない』

 二人に褒められてちょっと面映ゆくなる。

 照れ隠しにわたしは、なぜか側にいないヴラドの姿を探した。

『どうだブラド、私もたまにはやるだろう。……って』

 ヴラドは少し離れたところで、さっきの矢場女の手を取り熱心に話しかけていた。

「――ね、この店は何時に終わるんですか。ほう、夕五つ(※午後八時)。ならその後一緒にどこかへ行きませんか? いえ、わたしは日本に来たばかりでまだ土地に不案内なのです。あなたのおすすめの料理屋などあったらぜひ案内を、もちろんわたしが全部ご馳走しますから……」

 思わず地団駄を踏んで叫ぶ。

「見ろよ!!」

 そのままの勢いで射場から降り、ヴラドのもとまで走って行って強引に矢場女から引き剥がす。

「おやサツキ、終わりましたか」

「終わりましたかじゃない! なんでお前はそうなんだ。相手が女と見たら見境なしか!」

 ふと矢場女の方を見ると、白粉を塗った頬を少し朱にそめて、ぽうっとしている。

 危ない、放っておいたら本当に口説き落としかねん。

「おいブラド、さっさとこっちに来い」

「ちょっと待ってください。まだ彼女とは話したりないことが……」

「その口を縫い合わされたくなかったら黙れ」

 なかば引きずるようにして、ヴラドを元の場所に連れ戻す。

「いいか、ここでおとなしくしていろ。余計なちょっかいをかけるんじゃないぞ」

「やれやれ、サツキは実につまらないことを言いますねえ」

「やかましい!」

 ヴラドが戻ってきたのでようやく楊弓を再開する。クレアとスカーレットが、まず射場に立って弓を引き始めた。

 スカーレットはどうも弓の心得があるらしい。早くも四射目で、カチリと的に当てていた。

『お、上手いな』

『ふふん、いいのよもっと褒めても』

 自慢気に彼女は胸を反らす。実際なかなかいい勘をしていると思う。前に馬に乗って狩りをすると話していたから、こういう身体を動かすことは得意なのかもしれない。

 一方クレアが弓をうまく引けないらしく、三回射っても矢は明後日の方向に飛んでいった。

『難しいですね……』

 落ち込んでいたので、そばに行って弓の引き方を教える。後ろからクレアの小さな手を握って、正しい形になるよう弓を引いた。

『ほら、このまま右手を離してみろ』

 矢はまっすぐに飛んでいって、的の下の方に当たる。カチリ、と気持ちのいい音がなり、当たりーと声が響いた。

『当たったぞ、今みたいな感じで引くんだ』

 そう言って微笑むと、なぜかクレアは恥ずかしそうに頬を染めて俯いている。首を傾げて尋ねる。

『どうかしたか?』

『うぇっ!? な、なんでもないです』

 慌てて首を横に振るので、そうか、と言って気にしないことにした。再び両手をとって弓を引き絞る。次の矢は、より正確に的に当たった。

 すると、ゴホン、と後ろで咳払いがする。

『えっと、サツキ? 私も教えてくれないかしら』

 なぜだかこちらも顔を赤くして、恥ずかしそうにしながら言う。

『いや、お前はさっきちゃんと引けてたじゃないか』

『やっぱりちゃんと日本式のやり方を知っておこうかと思ったのよ。いけないかしら』

『いけないということはないが』

 普段なら日本の文化など嫌っていそうなのに、どういう心境の変化だろう。まあ、日本に興味を持ってくれたことは嬉しいので教えてやることにする。

『クレア、今教えた形で引いてみてくれ。スカーレット、手を貸してみろ』

 クレアとスカーレットの間を行ったり来たりしながらあれこれ弓の引き方を教えていると、ヴラドがくつくつと笑い出した。

「どうした、いやな笑い方をして」

「あなたも私のこと言えませんね、と思いまして」

「どういう意味だ」

「自分で考えてみてください」

 ヴラドはそのまま笑い続けている。相変わらず妙なやつだ。





 気づけば一刻半(※三時間)ほども私達は矢場で過ごしていた。昼七つ(※午後四時)の鐘がなったのでそれと知れたので、うっかりしていればもっと長くいたかもしれない。まったく、遊んでいると時がたつのが早い。もっとも弓を引いていたのは半刻ほどで、後は菓子をつまんでお茶を飲みながら話をしていただけなのだが。

 鐘がなるのを聞いて、ヴラドとスカーレットもそれぞれ懐から時計を取り出して、時間を確かめた。

『あら、もうこんな時間』

 目を丸くしてスカーレットが言う。

『そろそろ帰ったほうが良さそうですね』

『そうだな』

 ヴラドの言葉に頷く。

 最近は横浜の街も物騒で、ヴラドだけならともかくスカーレットやクレアもいる今は、夜道を歩くのはなるべく避けたい。冬至が近い今の時期、日の入りはとても早いのだ。

 身支度を整えて矢場を出ることにした。店口で勘定を払うと、案内に立ってくれた最初の矢場女が、何やら包みを持ってきた。

「はいどうぞ。今日のお景物けいぶつです」

「これは、かたじけない」

 的に当てた景品を矢場女が渡してくれる。クレアとスカーレットには手拭一本、私には、小さな木の箱をくれた。

 開けてみると、切子細工のギヤマン(※ガラス)の器が二つ入っていた。なかなか洒落ていて矢来文様やらいもんようが彫られている。

「ほう……、これはなかなかのものだな」

 光に透かすと、模様のところで反射してきらきらと輝いた。二つの器は一つが藍、一つが朱色に染められている。

「そりゃそうですよ。お客さん、うちの店始まって以来の的中数でしたもの」

 矢場女はそう言ってからからと笑った。するとこれはこの店で一番いい景品らしい。案外いいものをもらえたので嬉しくなる。矢場女が釘を差すように言った

「でも次は月に一回以上来ないで下さいね、毎日来られたらうちが潰れちまいます」

「はは、わかったよ」

 矢場女が今度はヴラドに流し目を送る。

「あ、そちらのお姉さんは、いつでも」

「はい、きっとまた来ますよ」

 すっかり仲良くなっているヴラドに呆れながら、私達は矢場を出た。

 陽は傾きかけていて、色も白から金色に染まりつつある。あらためてギヤマンの器を透かしてみると、一際綺麗に輝いた。

『きれいですね……』

 隣のクレアも感心したようにつぶやいた。ふと思いついて、私は言いった。

『クレア、一つやろうか?』

『えっ?』

 クレアは目を丸くしている。

『どうせ一つあれば十分だからな。お前さえ良ければ好きな方をやろう』

『そんな、いただけません、サツキさんが当てたものじゃないですか』

『別にいいんだ、普段のお礼だよ。嫌じゃなければ受け取ってくれ』

 クレアはおずおずと頷いた。

『ありがとうございます。それじゃあ……赤い方をいただいても、いいですか』

『うん、いいぞ。赤が好きなのか?』

『えっと、それもあるんですが、青い方はサツキさんに似合いそうだな、と思って』

 朱色の器を渡すと、クレアは大事そうに景品の手拭で包んだ。

『ありがとうございますサツキさん、大切にします。』

 そう言って包みを懐にそっと抱えるさまを見て、ああ、あげてよかったと思う。

 と、ヴラドが急に進み出てくる。

『良かったですね、好きな人からプレゼントが貰えて』

 クレアの笑顔が固まった。せっかくやさしい雰囲気になっていたのに水をさされて、私はむっとした。

『おいブラド、妙なことを言うな。クレアが困るだろう』

『おやおや、あれだけされてまだ気づいていないのですか。鈍いのもほどがありますよ、サツキ』

『わーーっ、わーーっ! やめてくださいヴラド様!』

 昼間の時と同じように、クレアが大声を上げる、しかしヴラドは意地悪く笑って取り合わない。

『いいじゃないですか、いまさら隠すこともないでしょう』

『お願いだから言わないでください!』

『サツキ、どうもあなたは気づいてないようですが、この子はね……』


「Shut up, manky slag! Bugger off!!」


 ついに堪忍袋の緒が切れたのか、クレアが大声で叫んだ。なんと言ったのかはわからなかったが。

 しばらくして、クレアがハッとする。みるみる赤くなっていき、顔から火が出そうだった。

『ち、違うんです。これは、その、今言ったことは忘れてください!』

 そう言われても、そもそもなんと言ったのかわからない。見ると、スカーレットもきょとんとしていた。ただヴラドだけが肩を震わせ笑いをこらえている。

「クックック、アハ、ハ、サツキ今訳してあげましょう、今彼女がなんといったのか」

 ヴラドが笑い声混じりに言う。

「そうですね、日本語で言うなら、『黙れクソアマ、失せろ!』と言った意味でしょうね」

「む。本当か?」

 普段のクレアからは想像もつかない言葉だった。

『クレア、お前……』

 クレアに近づくと、先ほどまで赤い顔をしていたのが、今度は逆に血の気が引いていく。真っ青になってブルブルと震えだす

『違うんです、これは、その、やだ、嫌われちゃう』

『ま、クレア、とりあえず落ち着け』

『うそ、やだ、ううっ、』

 ついに、クレアは泣き出してしまった。


『うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!』


 往来の人々がびっくりしてこちらを見る。異人の少女が泣きだしたのを、物珍しそうに見に来るものもいる。針の筵のような空気に私は慌てた。

『わ、わ、クレア落ち着け、別になんとも思ってないから、今のはブラドが悪いんだ。気にするな』

『うわ、わ、わぁぁぁぁぁぁぁぁん!』

 クレアは泣き止まない。スカーレットは急なことにオロオロして、ヴラドもさすがに笑いを引っ込めた。

『おや、いじめすぎましたか』

『お前のせいだぞ! どうしてくれる』

 ヴラドに怒鳴りながら、とにかく落ち着ける場所を探すことにする。ちょうど近くに水茶屋があったので、そこまでクレアを抱いて連れて行くことにした。

 


 

 

 店に入ってお茶を飲み、甘い大福を二つ食べて、ようようクレアは泣き止んだ。

『どうだ、うまいか?』

『おいしいです、とってもおいしいです。』

 まだ涙の跡が残っているが、とりあえず落ち着いたらしい。私はほっとため息をつく。

 私達は人目につかない店の奥の腰掛けに座っていた。腰掛けには緋毛氈が敷かれ、それぞれの机の前には茶と大福が並んでいる。

 ヴラドもさすがに態度を改めて、クレアを慰めていた。

『すみませんね、ついやり過ぎました、ごめんなさい』

『……もういいです。いつかバレると思っていましたから』

 ぐすっと鼻を鳴らしながら、クレアが言う。

『どういうことだ? さっきから話が全く見えないんだが』

『私もよ、なんでクレアは泣きだしたの?』

 私とスカーレットが揃って質問すると、ヴラドが言った。

『ま、つまりこの子は、自分が下町の野卑な英語を使うことを、恥ずかしがっていたんですよ。まあ、下町英語は上品とは言いがたい言葉もありますからね』

『わたしはイギリスにいた頃、ビリングスゲイトの近くに住んでいたから、恥ずかしかったんです』

 クレアの言葉に、私は聞き返す。

『ビリングスゲイト?』

『ロンドンの魚市場です。日本橋の魚河岸のようなものですね』

 ヴラドが代わりにそう答えてくれる。なるほど、市場の人間の言葉の汚さは、万国共通ということか。

『たまにスラングが交じるので私はすぐに気づきましたが、二人は気づかなくても当然です。ロンドンの下町言葉は独特で、外国人どころか同国人のでも上層階級だと知らない言葉ばかりですから。逆に下層階級は上の言葉に知らない単語がたくさんあるわけですが』

『そうすると、お前はわかっていて煽ったわけか』

『ええ』

 最悪だ、こいつ。

 しかしまあ、クレアの気持ちもわからなくはないが、それで私に嫌われるなんて、思い込み過ぎだろう。

『別に啖呵を切るくらいいいじゃないか。私だって下町の生まれだから、言葉は相当悪いぞ。クレアの言葉なんて、気になんかしてない。私が気にしてないんだから、そんなくよくよするな』

『でも……』

 クレアの顔は晴れない。顔に差している暗い影に、私はもしやと思い当たった。

 

 ああ、なるほど。


 もしやこれは。


『口の悪さが原因で、他の奉公人と何か諍いがあったのか?』

『…………』

 クレアは答えなかった。ただ小さく身を震わせた。

 それだけで答えには十分だった。

 私は低くため息をつく。

『傷ついたんだな』

『だ、大丈夫です。今はだいぶ言葉を覚えて、馬鹿にされることも少なくなりましたから……』

 たどたどしい口調でクレアは話す。

『でも、せっかくうまく喋れるようになったから、サツキさんには知られたくなかったんです。また、嫌われたくなくて』

「バカ」

 こつん、とクレアの額を叩いた。それから、隣にいる彼女を、そっと抱きしめる。

『そんなことで嫌いになったりするものか。言葉が悪くてもクレアの性格がいいのはよく知っている。言葉だけ良くても心の汚い奴らなんて、放っておけばいい』

『サツキさん』

『私は、素直なクレアの言葉のほうが好きだよ』

『…………』

 私の着物が暖かく濡れていくので、クレアが声を殺して泣いているのだとわかった。そっと彼女の背中を擦る。いつの間にか来たスカーレットが、優しく頭を撫でている。こいつにもやさしいところがあるんだな、とちょっと見なおした。

『やれやれ、とんだ騒ぎになりましたね』

『騒ぎの原因はお前だ。忘れるな』

 ヴラドは相変わらず悪びれたところがなかった。


 全くこいつは。






 やがてクレアがすっかり落ち着いたので、茶屋を出ることにした。さすがにヴラドも何もしないのは気が咎めたのか、自前の化粧道具でクレアの涙の跡を隠してやっていた。クレアは嬉しそうに笑う。

『ありがとうございます。ヴラド様』

『こちらこそ、すみませんでしたね』

『いえ、かえってスッキリしました』

 

 茶屋を出て、夕暮れの横浜をのんびりと私達は歩いた。陽は山の方に没しようとし、空一面を赤く焼いている。

 なんとなく、隣を歩くクレアの頭を見た。視線に気づいたのか、クレアが顔を上げる。なんでもない、というつもりで微笑みかけると、彼女は顔を赤くして俯いた。まだ先ほどの恥ずかしさが残っているのかもしれない。

 最後はめちゃめちゃになってしまったが、お陰でクレアのことを深く知れた気がする。人と人が分かり合うとは、きっとこういうことなのだろう。国が違おうと言葉がちがおうと関係ない。大切なことは素直に自分の気持を言葉にできるかなのだろう。



* 



 やがて英国公使館に着いて、クレアとスカーレットとはわかれることになった。

 名残惜しそうにクレアが挨拶する。

『今日はありがとうございました。とってもおいしかったし楽しかったです。最後はあんなことになってしまってごめんなさい』

 まだ申し訳無さそうにするクレアを、私は軽く小突いた。

『気にするなって言っているだろう。クレアさえ良ければ、また行こう』

『はい!』

クレアが顔をほころばして言う。するとなぜだか横からスカーレットが割って入ってきた。

『ちょっと、その時は私も誘いなさい』

『だから、お前は関係ないだろう』

『ふふん、そうはいかないわ、あなたには貸しができたのだから』

『なんでお前が偉そうなんだ』

 胸を張るスカーレットに呆れながら、まあいいか、と私は思った。異人と日本の街を歩くのも悪いことばかりではない。

 空に墨を流したように暗闇が広がってきた。そろそろ別れなければならない。

 二人が公使館の門の中に入る。

 では、また。そう言って二人と別れようと思ったとき、ヴラドが耳打ちしてきた。

「サツキ、See you.、ではなく、Cheers! といって別れなさい」

「なんだ急に」

「いいから」

 よくわからないが、私は大きな声で言う。

「Cheers!」

 すると、クレアは目を丸くした後、すぐに弾けるような笑顔になって返事した。

「Cheers!!」

 クレアが私に向かって大きく手を振る。その時私は気づいた。

 ああ、これはクレアの使う言葉の、別れの挨拶だったのか。

 

 クレア達が公使館の中に入って見えなくなるまで手を振る。二人が扉の奥に消えたとき、当たりはすっかり暗くなっていた。

「さて、帰るかブラド」

「ええ」

「今日はお前のせいでひどい目にあったぞ、何とかなったからよかったものの、もうああいう悪趣味な真似はやめてくれ」

「私、表面だけ取り繕う子が嫌いなんですよ。あなたみたいになんでも素直に言う相手のほうが、ずっと付き合いやすいです」

「にしたって今日はやり過ぎだ。そういうことをしてると人から嫌われるぞ」

「好かれたことがないから構いませんね」

「お前は本当にひねくれているな」

 ため息をこぼしながら、私は懐から火打ち石をだして火花を散らした。

 提灯に火を灯すと、辺りがぼんやりと明るくなる。

 私達は山手から横浜への道を、屋敷に向かって歩き始めた。


  

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