第2章 追憶のアイアンソード

第13話 王国騎士ヴィクトリア

 大陸の大部分を制覇し、数多の軍勢を従える帝国。その中枢である大都市――帝都の中央には、雄大な帝国城が聳え立っている。

 そして、帝国を統べる皇帝の眼前には今――最強と名高い王国の剣士が跪いていた。その周囲では、名だたる帝国貴族や騎士達が拍手を送っている。


「王国より来たる勇敢な剣士ヴィクトリアよ。貴女の指導が功を奏し、我が帝国軍はより精強な力を手にすることが出来た。この国を統治する者として、礼を言う」

「……ありがたき、幸せ」


 煌びやかな装束に身を包む皇帝は、白い髭を撫でながら、自身がヴィクトリアと呼んだ女性を見下ろした。


 腰に届くほどの長さを持つ、ストレートの黒髪。雪のように白く、透き通る柔肌。紅色を湛える艶やかな唇。

 男性にも劣らぬ長身でありながら、その豊満さを激しく強調している胸と臀部。滑らかなくびれを描く、その肢体。

 それらを鎧と兜に覆い隠した絶世の美女は、皇帝の前で跪き――黒曜石の色を湛えた瞳で、彼の眼を見上げていた。


「貴女の働きがなくば、大陸の統一による世界平和という帝国の悲願は大きく遠のいていただろう。さすがは、かのアイラックス将軍の御息女だ」

「……ありがとうございます。剣の道で此の身が評価されるのであれば、父も浮かばれることでしょう」


 兜によって表情こそ隠し通しているが、ヴィクトリアの顔色は険しさを滲ませている。


(父上……私が、どうしてこのような……!)


 六年前に父・アイラックスを失う以前から、彼女は彼の指導の元で剣を学び続けていた。

 その教えの中で彼女は、ある一つの矜恃を説かれていた。「戦で軍人が命を落とすのは当然。軍人の娘として、戦争が終わった後に相手を怨むような浅ましさを持ってはならない」――と。

 ヴィクトリア自身、その教えを真摯に受け止め、戦後の六年間を生きてきた。……が、彼女の奥底にはまだ、捨てきれぬ人として、娘としての感情が渦巻いている。


 父の仇が、目の前にいる。だが、その父に怨んではならぬと教わっている。

 敬愛する父を奪った帝国は、許せない。だが、そのために父の想いを踏み躙ることも出来ない。


 そうした私怨と矜恃の板挟みに苛まれ、彼女は今も皇帝の前で、苦悶の表情を浮かべ続けているのだった。


 帝国人が本当に、平和を追求するために戦う人々ばかりだったならば――皇帝のような理想を確かに持っていたならば、その怨みを乗り越えることは今より容易かっただろう。


 しかし実際のところ、帝国貴族の多くはババルオのような私欲に塗れた俗物ばかりであり、武人ですらもアンジャルノンのような人間がいる始末。

 ここで帝国兵を指導している間も、自分に下卑た笑みや好色の視線を向ける人間は星の数ほど居た。


(あんな腐った豚共のために、父上は……!)


 その現実が、「偉大だった父は、こんな連中に屈するしかなかったのか」と、ヴィクトリアの憤りに拍車を掛けていた。


(なのに、あなたは……死んで逃げようというのか、帝国勇者!)


 そして、その怒りの矛先は今――父を殺めた張本人である帝国勇者へと向かっている。六年前に死んだと言われている、帝国勇者へと。


「余も、そう願っている。――さて。此の度の活躍に敬意を表し、貴女には授けたいものがある。……持って参れ」

「……?」


 すると。皇帝は片手を上げ、誰かを呼び寄せるように声を上げる。

 次いで、飾られた言葉で口々にヴィクトリアを褒め称えていた貴族達が、一瞬にして静かになってしまった。


(なんだというんだ……こうしている間にも、ババルオが王国を――姫様を脅かしているというのに!)


 それは用事が済んだ以上、早くダイアン姫の元に帰還したいと考えていたヴィクトリアにとっては苛立ちを募らせる展開だった。元々、王国の立場を悪化させないために出稽古に赴いたに過ぎないのだから。

 帝国の金品や勲章に興味を持たない彼女には、褒賞など枷にしかならない。兜の奥で歯を食いしばり、彼女は皇帝が見つめる方向に視線を移す。


 ――そこには。


 ウェディングドレスのような白装束に身を包む――可憐な少女が立っていた。

 鮮やかな蝶の髪飾りで纏められた、艶やかな銀髪。水晶の如く透き通る、きめ細やかな柔肌。芸術にも優る絶対的な美貌。蒼空のように澄んだ瞳。

 見る者全て――そう、先程まで激しく苛立っていたヴィクトリアでさえ、我を忘れて見惚れる程の麗しい美少女が、この場に現れたのだった。


(……そうか……この方が……!)


 ヴィクトリアに、この少女との面識はない。しかし、会ったことがなくとも誰であるかは明らかであった。


 皇女フィオナ。この帝国を統べる血統を持つ、皇帝の一人娘。

 ――そう、ダイアン姫と同じ、この世界における数少ない「魔法使い」なのだ。


(勇者召喚の力を持つ、皇族の正当後継者……! しかし、病弱でほとんど公の場に出ることはないと聞いていたが……?)


 まるで妖精のような風貌を持つ皇女は、父に招かれると、静かにヴィクトリアの方へと近づいて行く。その両手には、一振りの剣が握られていた。


(なん……だ? あの剣は……)


 黒い鞘に納められた、異色の剣。直剣とは異なる線を描くその刀身は、ヴィクトリアの関心を掴んで離さなかった。

 帝国製とも王国製とも違う形状の柄。そこから発せられる「何か」が、彼女の心を引き寄せていたのだ。


「六年前。帝国勇者は貴女の父君、アイラックス将軍を打ち破った。――しかし帝国勇者が亡き今、この地上に貴女を凌ぐ剣士はいまい」

「――ッ!」

「よって、貴女が帝国勇者を超えた証として……この『勇者の剣』を授けよう」


 その正体――勇者の剣の刀身を前に、ヴィクトリアは息を飲む。


(これ、が……!)


 父を倒した剣を目の前に差し出され、彼女の動悸は大きく跳ね上がった。


「この大陸を統一し、平和な世界を創り上げるためとはいえ……戦争に勇者の力を利用した以上、神が我が血統に勇者召喚の力を残すことはないだろう」

「……」

「ゆえに、もうこの剣を帝国が保持する必要はないのだ。――この世界にもう、勇者はいないのだから」


 六年前の皇帝の決断により、神の怒りを再び招いたのであれば、人類に残された希望である「勇者召喚」の力さえ失われる。

 ならば金輪際、この世界に勇者が現れることはなくなるのだ。そして勇者でなければ使いこなせないと言われる勇者の剣も、無用の長物と化す。


 ゆえに皇帝は、勇者に次ぐ強さを持った彼女に、この剣を託したのだ。帝国勇者を超えた証――すなわち、帝国勇者の「首」の代わりとして。


「勇者でなければ抜き放つことも叶わない剣だ。武器として貴女が使うことは出来ぬが……好きに扱うがよい」

「……」


 皇帝は穏やかな声色で、ヴィクトリアに語り掛ける。父を失った彼女を、気遣うかのように。

 その一方で、皇女のフィオナは鎮痛な表情を浮かべて、勇者の剣を捧げていた。その顔色から、帝国勇者の死を深く悼んでいることがわかる。


(帝国勇者の剣……か。これを持ち帰れば、天に召された父上にも申し訳が立つ、か……)


 そんなフィオナの面持ちや皇帝の様子を見遣り、ヴィクトリアは己に渦巻く苛立ちを鎮めて行く。

 愛する者を失う悲しみ。それは決して自分だけに課せられたものではないのだと、改めて思い知らされたからだ。


(皇帝陛下は敵である私を気遣い、皇女殿下は帝国勇者の形見を、この私に託されている。ここまでのことをされて、いつまでも苛立っていては……私の立つ瀬がなくなってしまうな)


 ダイアン姫を案じる想いと、今目の前に在る心遣いに応えたい想い。二つの感情が螺旋となり、彼女の胸中に渦巻いていた。


(姫様……暫しお待ちを。すぐにこの剣を手土産に、そちらへ馳せ参じます)


 そして、彼女は――この心遣いに応えた上で、全速力で帰国することを決断した。

 怨みを忘れたわけではない。しかし、今はそれに気を取られている場合ではない。

 自分は王国の騎士であり、ダイアン姫を守る使命があるのだから。


 その想いを胸に、彼女はフィオナから剣を受け取る。か細い腕から鞘が離れる瞬間、フィオナが浮かべた儚い表情から――彼女の、帝国勇者への想いの深さが伺えた。

 彼女の気持ちを悟り――その上で気付かぬ振りをして、ヴィクトリアは己の両手に鞘を握り締める。心の奥で……愛する人の形見を授けてくれたフィオナに、一礼を捧げて。


 ――その時。


(……しかし。勇者でなければ抜けない、というのは本当なのだろうか。この剣を一目見た瞬間から――何か、惹きつけられるようなものを感じていたのだが)


 剣に眠る形容し難い「力」が、ヴィクトリアの心を吸い寄せていた。

 この謁見の場で剣を抜くなど、神をも恐れぬ愚行の極み。だが、それでも彼女は――その手を、柄に伸ばしていた。


 そう。

 この時既に彼女は――


「……どうしたのだ? ヴィクトリアよ」

「皇帝陛下。この剣が勇者にしか抜けぬ代物であるというのは、誠ですか」

「――勇者でない者には、如何程の剛力を以ってしても抜けん。それだけが真実だ」


「そうですか……ならば」


 ――勇者の剣に、魅入られていたのだ。


「な、に……!?」

「……っ!?」


 次の瞬間。

 眼前で起きた光景に、皇帝やフィオナ――そして、この謁見の場に集う人間全てが、驚愕し……戦慄する。


 皇帝に背を向けたヴィクトリアは――天に切っ先を捧げるように。


「なぜ――私に抜けるのでしょう」


 勇者の剣を――抜き放ったのだ。


 柄を握り、抜刀するまでの流れには……一切の淀みもない。抜けないどころか――まるで、彼女のためだけにこの剣が在るかのようだった。


『ワガ、タマシイ……ヤドリギ……ミツケ、タリ……』


 刹那。

 この場にいる人間の誰とも一致しない、深い地の底から唸るような声が――彼女の心に響き渡る。


 だが、その声は誰の耳にも入らない。剣の柄を握る、彼女以外には。


「な、なぜだ。なぜ、ヴィクトリアに勇者の剣が……!」


 ありえない事象を前に、皇帝は額に汗を滲ませる。一方、フィオナは剣を抜いてからのヴィクトリアの変貌振りに、言い知れぬ恐怖を覚えていた。

 今のヴィクトリアには――女騎士としての気高さが感じられなかったのだ。例えるなら――血に飢えた狂戦士。


「急がねば……! 一刻も早く王国へ帰還し、ババルオの血でこの剣を染め上げねば……!」


 兜の奥で、彼女の瞳は獰猛に血走っている。己の内に抑え込まれた黒い感情の全てが、濁流となり鎧の節々から溢れ出ているようだった。


「え、衛兵ッ! ヴィクトリアを鎮め――」


 その全身から放たれる殺気を前に、本能で危機を感じた皇帝が、衛兵を呼んで彼女を抑えようとする――直前。


「皇帝陛下、申し上げますッ!」


 謁見の場に、一人の帝国騎士が駆け込んで来た。兜から滴る汗の量から、相当な急ぎ足で駆けつけて来たことが伺える。

 急を要する報告があるのだろうが――あまりにも間が悪い。


「なんだ、こんな時に!」

「申し訳ありません! 急ぎ、お耳に入れたい話が……!」


 今は到底それどころではない――のだが、報告に来た騎士の表情を見るに、そちらに切迫した事情があることも想像には難くなかった。

 やがて、数秒にも満たない間を置いて、皇帝はひとまず報告を聞くことを優先する。


「――手短かに申せ!」

「ハッ! 王国に、我が帝国の勇者様と思しき人物が現れましたッ!」


 そして、その報告はさらにこの場を驚愕の渦に叩き込むのだった。

 人々は大きくどよめき、フィオナは両手で口を覆い、目を見開く。皇帝はあまりにも突飛な報告内容に、開いた口が塞がらずにいた。


 そしてヴィクトリアは瞳を鋭く研ぎ澄まし――報告に来た騎士を見据えている。


「なんだとッ!? それは誠かッ!」

「ババルオの制裁に向かわれたバルスレイ将軍の部隊が到着する直前、アンジャルノンを含むババルオの私兵団全員が、たった一人の剣士に打ち倒されたという情報がありました! その剣士は、首に赤いマフラーを巻いていた、とも……!」

「赤い、マフラー!?」


 騎士が齎す情報の一つに、沈黙を貫いていたフィオナが初めて声を上げる。ババルオの処遇に鎮痛な表情を浮かべていた皇帝も、その情報に思わず耳を奪われていた。

 帝国勇者をよく知る人物にとって、彼がいつも首に巻いている赤マフラーは、彼を指し示す大きな特徴の一つであった。


(帝国勇者を指導していたバルスレイ殿が、ババルオを……。そうか、だから帝国勇者が……!)


 次々と舞い込む帝国勇者の情報に、ヴィクトリアの眼差しは益々鋭さを増して行く。


「勇者様が、生きている……! 勇者、様がっ……!」


  一方、フィオナにとっては、その情報は一条の光明だったのだろう。彼女は控え目な胸の前で指を絡ませると、安堵するように膝から崩れ落ちて行った。


「……そうか。生きているのだな。帝国勇者……!」


 そして、勇者の剣を鞘に収めたヴィクトリアは――妖しい笑みを浮かべて、王国の方角を睨み付けるのだった。

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