67豚 風の神童と皇国のお姫様④
世界を拒絶した幼いシャーロットは己を取り巻く状況の変化に気づかなった。
舞台の下でどこからともなく現れた二人の騎士が戦っている姿も、えいやっと舞台によじ登り自分に近づいてくる男の子にも。
「―――こんにちは」
シャーロットは声を掛けられて初めて気づいたようだった。
ぼんやりとした世界に誰かが入り込んで来る。
背丈は自分と変わらない。
大人じゃない、それだけでシャーロット少しほっとした。
「俺の声、聞こえてる?」
聞こえているけど、シャーロットは咄嗟に恥ずかしさを感じてしまった。
ぶわっと鳥肌が立つ。
近い年齢の男の子にこんな姿を見られたくない。
自分も少し前まではもっと上等な服を着ていたのだ。
ふわふわで温かくて、着ているだけで毛布に包まれているみたいに柔らかな服を。
「えーと。俺の名前はスロウ。君の名前は?」
シャーロットは一言も発しなかった。
けれど構わずに男の子は語り掛け続けた。
無視にめげることなく、男の子は喋り続けた。
● ● ●
「どうしてそのぬいぐるみにしたんだいシャーロット。もっと大きなものだって、ふわふわのものだってあっただろう?」
● ● ●
「あー、あいつらは俺の騎士。なんか喚いてるから魔法で音を遮断してる。仲がいいのか悪いのか微妙だけど波長は合ってると思うんだ」
やはり無視である。
シャーロットはつんとした表情で、絶対に喋ってあげないんだからといったようにぷいと横を向いた。
取り付く島がない。
「困ったな……」
スロウはシャーロットが抱き締めているものに注目した。
実はさっきから気になっていたのだ。
恐らくはぬいぐるみなのだろうそれは目が半分取れていて、左足からは綿が飛び出し、おどろおどろしい生物へと変貌していた。
一体どんな動物をイメージして作られたのか興味があった。
「さっきから気になってたんだけど……それなに?」
その言葉に初めてシャーロットは反応を見せた。
ぎゅっと身体に力を入れて、抱えるものを力強く抱き締めた。
スロウはこれこそがシャーロットと世界を繋ぐ小さな糸だと理解した。
「子犬さんかな?」
シャーロットは目の前の男の子を見つめた。
大きな瞳で睨み付けるようにして見つめた。
このぬいぐるみはシャーロットにとっては友であり、これまで自分を励まし続けてくれた戦友でもあった。
シャーロットにとっては一体どこをどう見れば子犬に見えるのか理解出来なかったのである。
「……足が四本あってー耳も小さい。子犬さんだ。当たってるでしょ?」
目線を下げてシャーロットは自分が抱き抱えているものを見た。
そこにはボロボロに汚れたぬいぐるみがいた。
黒い左目も無くなっていっる。
「……う」
「え?」
小さくて掠れるような声だった。
言葉を忘れてしまった人間が再び言葉を取り戻そうとするような、手探りで自分の声を確かめるているような不明瞭な音だった。
シャーロットは全部忘れた筈だった。
でも、子犬だなんて言われてシャーロットは黙っていることなんか出来なかったのだ。
「……がう」
● ● ●
「かわいい。この子、かわいいよお父さま」
● ● ●
本当は男の子の言葉に反応するつもりは無かった。
この世界は全部嘘だから、無視してやろうと思っていた。
「ち、がう、の」
「可笑しいな。子犬さん以外には見えないけど」
子犬じゃないのだ。
違うのだ。
「……こぶあ、さん」
シャーロットは目の前の男の子を睨み付けた。
シャーロットの瞳の中に首を傾げているスロウの姿が鮮明に映っていく。
この子は子犬さんじゃないのに。違うのに。
「子犬だよね? 子犬でしょ! 子犬に違いないよそれは!」
違う違う違う。
シャーロットは目の前の男の子は何て意地悪なんだろうと思った。
この子は思い出が一杯詰まっているぬいぐるみだ。
とっても大切なぬいぐるみだ。
名前だってあるのだ。
「わんわん。ほら、その子だって僕は子犬だわんなんて言ってる」
あれ、名前?
全部忘れた筈なのに名前なんて可笑しい。
「……ち、がうの。このこ、は」
蘇る。
もう忘れようとした記憶が、シャーロットの頭の中に蘇る。
辛い記憶。
忘れたいと思った辛い記憶の前に、幸せだった記憶を見つけてしまった。
「このこ、は、ね」
シャーロットの小さな身体がびくりと震えた。
忘れようとした記憶の中に、忘れてはならない大切な記憶を思いだしたから。
● ● ●
「こぶたさん。ね、お父さまもこぶたさん。かわいいと思うよね?」
「可愛いな。おいで、シャーロット。お父様と一緒にその子の名前を考えてあげよう」
● ● ●
「……あ」
幸せだった記憶がシャーロットの胸に押し寄せてきた。
もう泣かないと思っていた筈なのに、目の前に男の子のせいで自分は思い出してしまった。
一筋の涙が流れてからは結界が崩壊したかの如く、あっという間だった。
「このこ、はっ、ひうっ、こぶあ、さんっ、ひぐっ、ひぐ」
溢れるようにして流れる涙を止めようとシャーロットは必死で目を擦った。
その様子を見てさすがのスロウも焦った。
風の神童と呼ばれたスロウも目の前で女の子に泣かれた経験は無かったのだ。
「ああ! こぶたさんか! 確かに四本足だ!」
「ちが、うぅぅ。まちがえた、くせにぃぃ、ひぐっ」
「ごめんって! だから泣かないでよ! 頼むよ! 君に今、泣かれたら色々とまずいんだよ!」
「う、う、うわあああああああんん」
とうとうシャーロットは泣き出してしまった。
溜まりに溜まったものを吐き出すように。
「ほら! ぶひいぶひい。こぶたの真似! ブヒいブヒい! だからごめんよ! 泣き止んでよ!」
「うわあああああん、ぜんぜん、ちがううぅぅぅぅ。ぶれいでぃはそんな鳴きかたじゃ、ないもん、うわああああん」
「ぶっひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
余りにもふざけた男の子だと思った。
全然似てない。
ブレイディはそんな鳴き声をしないのに。
シャーロットは暫く泣き続けた。
世界が色を取り戻した。音が耳に戻ってきた。身体を優しく包む風を感じた。
「うわあぁぁぁぁぁぁ、ふざけてるぅぅううわぁぁぁぁぁぁあん」
ようやくシャーロットは気付いた。
私、まだ生きてるんだ。
「ぶっひぃぃぃぃぃ。こう?」
「…………」
「ぶふあああああああ。こう?」
「ちがぅぅぅぅぅ、ふざけないでぇぇぇぇ」
そんなシャーロットを宥めるスロウはとっくに気付いていた。
自分達の様子をこっそりと伺う、際立つ力の存在に。
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