この異世界で、女神様のご加護がありますように

佐藤真登

いつまでだって逃げ続ける



 逃げることが悪い事だという風潮は、いつできたのだろうか。

 全力で地面を蹴りながら、僕の脳裏にふとそんな疑問が思い浮かんだ。

 困難が立ちふさがったとき、何かしら課題が前に置かれた時は、逃げるな立ち向かえと人は言う。障害を乗り越えてこそ成長があるのだと、まったくもってその通りの正論を僕に言う。

 僕は何もしないという消極的逃げを普段の態度にしつつ、いざ危険が目の前に迫ってきたら全力で逃げるというスタイルを構築している。そんな人間のクズみたいな僕の態度が気に入らない真っ当な人は、真人間らしく正しい言葉を僕に向ける。

 逃げるな、と。

 けど僕はそんな正論を省みる気はない。

 僕はいつまでだって逃げ続ける。危険困難艱難辛苦に背を向けて、与えられた地位や名誉も何か畏れ多いし責任が付随してくるから逃げ続けて、その結果。

 いまも、とりあえず目の前の怖いものから頑張って逃げていた。


 ――信一、逃げて! 頑張って逃げて! 逃げないと死んじゃうから!


 頭の中で響く声は、やけにかわいらしい割には何の役にも立っていない。そんな役立たずの掛け声に押されるようにして僕は必死に走る。

 緑のにおいが満ちる森の中、でこぼこ隆起した地面からは不規則に根が飛び出ている。そんな不整地の中を、人ひとり分なら何とか通れる程度に密集している木々の間をすり抜けながら踏破する。

 ただ逃げるために。

 道ともいえない道を把握して走り続けていられるのは、別に僕の状況把握能力とか運動能力が高いからとかいうわけじゃなくて、ただ単にこういう状況に慣れているからだ。

 自慢じゃないけど僕、逃げるのだけは心身に染み付いているほど慣れ切っている。いつ何時どんな場所だろうと即座に逃げの姿勢に移れるくらいには逃げることに慣れているのだ。

 ただ、逃げるのが得意な僕だって、常に敵から逃げ切れるとは限らない。


 ――信一っ。足を緩めちゃダメよ。すぐ後ろから……

「グギャギャッ!」

 ――ひぅ!


 後ろから聞こえた獣のようなうなり声を受けて、脳内でかわいい声が悲鳴を上げた。

 僕の心情とぴったり一致している。僕もいますごく怯えている。心臓がバクバクで息が乱れに乱れているのは全力疾走中だっていうのももちろんそうだけれども、追い詰められている緊張感に押しつぶされそうだからだ。

 そんな僕以上におびえているリトルハートの持ち主の反応に心が落ち着いた。

 ああ、良かった。僕より怯えてる人がいる。そんな事実があるだけで、ちょっとした優越感で心が平穏に――


「ギャグウガ!」

「ひぃ!」


 さっき生まれたわずかな余裕なんて、爆発して四散した。

 やばいやばいやばいやばい。何がやばいって、僕の命がやばい。

 二十三人のクラスメイトと一緒に現代日本から異世界へと召喚されて早三年。この無駄に厳しい世界ではもう命がやばくなるのにも慣れちゃっているけど、それでも僕の命は一つしかない。僕の人生において三番目くらいに大切にしている僕の命だ。それを守るために今も逃げているのだけれども、残念なことに僕の残念な脚力では追っ手を振り切れていなかった。

 走りながらもちらっと後ろを振り返る。

 溢れる草木の迷彩か、緑の肌をした小鬼のような生き物が見えた。


 ――ご、ゴブリンね。あの子達、やっぱり怖いわ……!


 そう。いま僕の脳内で流れた解説通り、僕を追いかけているのはゴブリンだ。ファンタジーの定番の魔物と言って分からない人はいないというぐらいに有名な生物である。

 そいつらが、僕を追いかけていた。

 その戦闘力は、なんと驚けナイフを持った十代前半の少年並だ。それが五匹も群れている。

 恐ろしいほどの強敵だ。僕じゃ絶対に勝てない難敵である。

 だって考えてみても欲しい。例えるならばナイフを持って人殺しにためらわない中学生が五人の集団になって襲い掛かってきているのと同じ状況なのだ、今は。

 逃げるでしょ普通。そんな状況になったら、全力で逃げるでしょ!?


 ――そ、そうね。逃げるわね、普通。怖くて当たり前よねっ。


 ほら。僕の頭の中で、女性のかわいい声が同意してくれた。僕はそんな普通を実行しているだけだ。

 魔物は強くて怖いのだ。僕がゴブリンと真正面から戦って勝てるのなら、はじめっから逃げたりしない。

 魔物として生まれたゴブリンは、生来から他者に対しての敵性が強い。魔力から生まれてこの森で生き抜いてきた彼らは森での狩の仕方を熟知しているらしく、なかなか振り切れない。

 さっきから頑張って逃げてるのに……ええい、くっそ。本当にしつこい。

 心で悪態をついた瞬間、僕を追い詰めている恐怖の権化と視線がばっちり合った。


「ギャグァッ!」


 威嚇の声に顔が引きつった。

 慌てて前だけを見て直進する。

 何あいつら怖い。あれが魔物最弱だとかウソだきっと。魔王とすら面会したことがある僕が断言しよう。奴らはきっと超強化型ゴブリンとかに違いない。だって異世界転移を果たし、チート能力を神様から授かり、巷では英雄と呼ばれている(らしい)僕が追い詰められているのだ。ただのゴブリンであろうはずがない。


 ――ええ、確かにすっごく怖いけど……現実逃避しても無駄だと思うの。あの子達、普通のゴブリンだし。シンイチが弱いのなんて、今さらでしょう?


 脳内で響く女性の声が思考だと現実から逃げられないと、ひどい現実を突きつけてくる。

 生意気だ。確かに僕が弱いのなんて昔からだしあのゴブリンたちはどっからどう見てもただのゴブリンだけど、さっきみたいな言いようはないと思う。この声の主は僕の脳内にしか住処がなくて現実に出張して来られないくせに、とても生意気だ。だから何も答えてやらない。

 僕は今、魔力強化と呼ばれる魔法で身体強化をしている。そのためちょっとやそっとじゃ体力は尽きない。

 だがしかし、森の中での逃走にそんなもの大した慰めにもならない。

 いくら慣れているとはいえ悪路は走りづらい。甘やかされて育った僕には、いまこうして逃げられている状態は割と奇跡だ。よく転んでないね僕と言って自画自賛したい。


 ――でもこのままだと手詰まりというか……信一が死んじゃうん気がするんだけど、どうしましょう……?


 そんなの僕が聞きたい。

 遅すぎる疑問を問いは黙殺する。遭遇したゴブリンが五匹だった時点で逃走を始めて、それでも逃げ切れないでどうしようかずっと考えて答えが出なかったというのに、今更聞かれても困る。

 野生のゴブリンに対する僕の対処能力は単純だ。一匹だけなら何とでもなるけど、二匹だったらだいぶ困る。そして三匹以上だったらもう僕の手に余る事態になっている。五匹のゴブリンを倒すなんていうことは不可能だ。一応僕も魔法という名の不思議パワーを行使できるけど、それは今現在逃げるための魔力強化へと全精力を注いでいるので反撃に割けるようなリソースは一切ない。

 前述したとおり、僕は逃げるのだけは得意だという自負がある。自負があるけど、追いかけてくるゴブリンだって森で生まれて森で生き、森の狩人であるという大いなる自負精神があるんだろう。びっくりするぐらいゴブリンとの距離を引き離すことができていなかった。

 というか、どうしよう。引き離すどころか、徐々に追い込まれて行っている。


 ――解決……この状況を解決するには……そうだ!


 なにかを思い付いたのだろうか。

 どうせロクなことじゃないから黙っててほしいのだけれども、無邪気な声は止まらない。


 ――魔力強化をもっと強くすれば逃げるのも簡単よ!


 そんなことができたらとっくにやってる。それができないから僕は追い詰められているのだ。

 僕を誰だと思ってるのだ。クラス最弱三人衆の筆頭だった僕の雑魚っぷりをなめてもらっては困る。

 完全に無意味な助言をガン無視して、周りを確認する。

 後ろから追いかけているのが二匹、横に回り込んでいるのが二匹、そし前方に回り込もうとしているのが一匹。最後の一匹が僕より先行したら、とうとう逃げ場がなくなる。

 やばい。

 やっぱりどうしようもなくやばい。僕の命運はここで尽きるかもしれない。

 調子に乗って、討伐依頼なんて受けなきゃよかった。いくら同居している金髪碧眼の美少女に「よかったら山にいるゴブリン退治を協力してくれませんか?」と困った顔での上目遣いなお願いされたからといっても、命を天秤に乗せるような行為はするべきじゃなかったんだ。完全に自分の実力を計り間違えた。

 僕、このままだと死ぬ。


 ――だ、ダメよ! 希望はいつだって残ってるの! 諦めちゃダメよ! 諦めない事こそ、人間の一番の力なんだからっ。


 励ましの声が、大変うっとうしい。

 諦観に覆われかけていた僕の心だったけれども、さっきから脳内で響く何の役にも立ってない励ましに声にイラッとして反骨心が湧いて出た。

 絶望に囚われかけたが、僕にはまだ残されたものがある。この世界は広く大きく、希望はいつだって残っている。こういう時にこそ魔王撃退の立役者の僕が持つ『神に最も近い男』とまで評されるようになった加護が役に立つはずだ。


 ――というか、信一。さっきからなんで無視するの? 何か答えてくれないと私も淋しいんだけど……。


 構ってちゃんを発動させた声はともかく、加護とは信仰心さえあれば誰でも使える共通の魔法と違って、特定の神様から与えられる力のことを言う。僕たち異世界人は二十四柱いる神様たちから無償でそれぞれの強力な加護をもらっている。

 つまり異世界転移に際してのお決まりのチート能力だと思ってもらって間違いない。

 僕は異世界に勇者として召喚された時に得たそのチート能力を発動させた。


 ――サロメ様!

 ――え? どうしたの信一。さっきから私のことを無視していたのに、突然話しかけてくれるなんて、何の気変わり?

 ――さっきまで構ってる暇なかったので仕方ないんです!


 名前でちゃんと呼びかけたおかげか、ちょっといじけた風だけれども返答がくる。正直な話、あともう少しいじけさせたかったんだけど命には代えられない。疑問を勢いだけで振り切って、僕の脳内だけに響く女性の声へと切実な現状を訴えた。


 ――どうしましょう!? 僕、死ぬかもしれないんですけど!

 ――逃げるのよ! 必死になって逃げないと、信一、ころっと死んじゃうから!

 ――そーですね!


 涙が出てきそうなくらいありがたい助言だ。さっきからずっと逃げ続けていて、それでもどうしようもなくなりそうだという現状じゃなければ、僕の信仰心はアップしていたかもしれない。


 ――ちなみに、サロメ様! 僕が死にそうな今この窮地を脱する策とかあります!?

 ――え? な、ないけど……。

 ――へえ! ないんですか! サロメ様、神様なのに僕を助けてくれないんですねぇ!

 ――え。


 びくっと声を固めたサロメ様に対して、僕は勢いよく思考を叩き込む。


 ――ねえサロメ様。僕を加護してくれる『運命』の女神のサロメ様! もう一回言ってください。この窮地を脱する策とかなんでもいいんですけどないですか!?

 ――ご、ごめんなさい。ない、です……。


 震え声で謝って来た言葉に、なんだか一周回って元気だが出てきた。


 ――なんですかそれ! ないですよー、ほんとにないですわー! 僕ひとりも助けられないで何が女神様なんですか? ねえねえサロメ様ぁ? 僕のちっぽけな命救えないくせにサロメ様は神様を名乗るんですか?

 ――う、ぇ、ぅう……そう、です。


 分かってた! 僕が死にそうになったところでサロメ様が何にもできないのなんて分かってた! なにせ僕とサロメ様はこの世界に来てからの付き合いだ。『運命』なんて大層なものを担っているサロメ様に何ができて何ができないかなんて、重々承知していた。

 サロメ様に何ができるかって?

 サロメ様は、何もできないのだ。


 ――で、でも! 信一、いまさら私に何を求めてるのっ。私が何もできないのだなんて、最初からでしょう!

 ――開き直らないでくれます!?


 神様に、救いを求めてはいけなかったのだろうか。

 いいや、分かってるのだ。だって僕は誰よりもサロメ様のことを理解してる。ほかならぬサロメ様に救いを求めたところで、差し伸べられる手の平は無色透明なうえ触れもしないマジカルハンドだっていうことくらいは知っていたのだ。


 ――ええ、知ってましたよ! サロメ様が何の足しにもならない、なんちゃって神様だなんてことは! かわいいだけだが存在意義の女神様だってことくらい、バカな僕でも分かってました!


 全力で走りながら、力いっぱい僕の女神様を罵倒する。

 サロメ様は基本的に何の役にも立たない。基本的に役に立たないということは全般的に役に立たないというのと同義だ。つまりサロメ様にできることなんてほとんどなく、サロメ様が僕の脳内でしか発言できない、ただのかわいい女神さまだってことぐらい知ってた。

 二十三名のクラスメイトと一緒に異世界へと来た僕に加護を与えてくれた女神様。

 この異世界で『運命』を司る、偉大な偉大な女神様が僕に与えたくれた加護を通してサロメ様が唯一この世界に干渉できる事象はたった一つだけ。


 ――あ、あら。かわいいだなんて……うふふ!

 ――ちょっと黙っててくれませんサロメ様!?


 こうやって、かわいいって言われただけで調子に乗れて浮かれる世界一の安くてチョロい神様ことサロメ様とお話しできる能力だ。

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