PARTⅡの8(16) かくして二人は思いとどまり

 バス運転手の田川浩一郎は奥多摩の屏風岩びょうぶいわ展望台てんぼうだいに登る道を歩いていた。


 昨晩赤ちょうちんで飲んだ酒はまだ体に残っていた。


 普段ならこの程度の登り道はなんということはないのだが、今はきつく、足はふらつき、息も上がってきていた。


 実を言えば昨晩は深酒をしただけでなく、ほとんど眠れなかったのだ。


 それというのも、昨晩赤ちょうちんのカウンターで一緒に飲んだ同じ観光バス会社の同僚の島野明弘から、


 別居していた妻の小枝子さえこの近況とメッセージを聞いたからだった。


 島野は妻弥生やよいと結婚して七年目。


 田川と彼は同じ年に結婚しただけでなく、二人の結婚相手、小枝子と弥生は同じ会社の元バスガイド譲で親友同志だった。


 島野夫婦には結婚二年目で女の子が、結婚四年目で男の子が誕生し、いわゆる平和な家庭を築いてきていた。


 それに対し、田川夫婦は何年経っても子供が生まれず、


 夫浩一郎が仕事にかまけて妻を放っておいたこともあって、妻小枝子は段々結婚して家庭に入ったことをやむようになっていた。


 彼女はもともと容姿も悪くなく、歌うことが好きで、タレントになれたらと思った時期もあった。


 しかし、どちらかと言えば優柔不断ゆうじゅうふだんなタイプの彼女にはそういう道にズバリ踏み込む自信がなかった。


 また両親がそれを許すようなタイプではなかったので、結局妥協というか、人の視線を浴びてしゃべったり歌ったりできるバスガイドという職業に就いた。


 バスガイドから女優になった先輩がいたことも、この会社を選んだ動機の一つだった。


 しかし立ち仕事で腰を痛めたりいけすかない客に言い寄られたり上司のセクハラに遭ったりしてストレスをこうむり、


 こんなはずじゃなかったと悔やみはじめたころ、


 優しい性格の浩一郎にプロポーズされて【渡りに船】と結婚した。


 だが、田川との結婚を悔やむようになってから、不要な電気製品や服やアクセサリーなどを買い込んで夫の稼いだお金を浪費ろうひするようになった。


 彼女の中には、自分を放っておきがちな夫に浪費癖ろうひぐせしかられたいという気持ちがあった。


 叱られるということは関心を持たれている、愛されているということだと思ったから。


 だが、浩一郎は見て見ぬ振りをし続けた。


 なんで叱ってくれないのと言葉で抗議する代りに、彼女はサラ金などの消費者金融しょうひしゃきんゆうから借金をしてまで浪費を続け、


 ついには闇金やみきんにまで手を出し、気が付いた時には借金地獄に陥って、浩一郎も放置できない状態になった。


 しかしそれでも浩一郎は叱らず、


「借金は全てぼくが肩代わりするから、もうこれ以上お金を借りないで欲しい。闇金が会社に電話してきたりしたら、立場ないからな」と言った。


 それを聞いた小枝子は自分でもわけのわからないほどキレた。


「何よ、立場のために借金を肩代わりするなんて、バカじゃないの! 


 いいわよ、そんなことしてくれなくたって。もういや、別居しましょ。私、実家に帰って仕事を探して、稼いで自分で返します」


 そう言ったら浩一郎は引き留めてくれるだろうと思っていた。


 だが、浩一郎はそうせず、自分自身を責めるようなことを言いだした。


「わかった、こうなったことにはぼくも夫として責任がある。君を引き留める資格なんかない。罰だと思って別居を受け入れる。


 でも、借金だけはぼくに肩代わりさせてくれよ」


 話は一向に歩み寄らないどころか、どんどんすれ違っていくばかりだった。


 そのことから生じたストレスがもう耐えられないほどのレベルに達し、それは怒りという形で爆発した。


 小枝子は思わず浩一郎の頬を思い切り平手打ちしていた。


 浩一郎は反撃せず、うなだれてひどく落ち込んだ口調で「とにかく借金は肩代わりさせてほしい」と繰り返した。


 小枝子は急にシラけた気分になって、覚めた口調で、


「勝手にしなさいよ。とにかく私、出て行きます」

 と言い渡した。


 彼女は荷物をまとめて実家に帰り、浩一郎はマイホーム購入用に貯めておいたお金で小枝子の借金のあと始末をし、


 それから以降二人は一度もコミュニケーションを取ったことがなかった。


 半年ほど前のことだった。


 去られてから、田川は後悔した。彼女を愛していたのだ。


 しかしどうしていいかわからず、酒の量を増やすしかなかった。そしてきのう、赤ちょうちんのカウンターで、島野がこう言ったのだ。


「この間の日曜に弥生のところに久しぶりに小枝子さんから電話があったんだよ。


 それで弥生が近況を聞いたら、小枝子さん、オフィス・クレッシェンドっていう表参道の老舗のタレント事務所に就職が決まったって」


「ほんとに?」


「ああ、結構有名なタレントや歌手や俳優が所属している大手の事務所らしい。


 雑誌で社員の公募をしてたのを見て応募したら社長に気に入られて、採用されたそうだよ」


「そうか、あいつ、タレントになりたいと思ったこともあったって言ってたからな ・・・」


「『もちろん、タレントじゃなくて事務職よ』なんて言ってたようだけど、でもすごく嬉しそうだったって」


「そうか、やっぱり、俺と結婚してるより、そういう方があってるかもな。あいつ、結構美人だし ・・・」


 もうとっくに新しい彼氏ができていてもおかしくないと、浩一郎は思った。


「それで、小枝子さんが伝えてくれって」

「俺に?」


「ああ」

「なんて?」


「それが、言いにくいんだけど、離婚の話し合いをしたいから、できれば今度の日曜日の昼に、俺と弥生の立ち会いのもとで会いたいって ・・・」


 そこまで聞いた時、浩一郎の頭は真っ白になった。


 同居中にいつの間にか空気のような当たり前の存在になっていた彼女が、自分にとってどんなに大事な存在だったか、彼は別居してからやっと思い出し、


 悔やんでも悔やみきれない毎日を酒に紛らわせながら何とか過ごしていたからだった。


「弥生が、立ち会うのはいいけど、二人だけでも話してみたら、って言ったら、彼女、向こうがその気があるならそうしてもいいって。


 とにかく最後に一度ちゃんと話してあとくされのないようにしたいって」


「・・・」

「おい、大丈夫か?」


「あ、ああ わかった、日曜の昼だな?」


 田川浩一郎は焼酎しょうちゅうあおり、珍しく吐いた。


島野に送られて家に帰りついたものの、ろくに眠れず、決着をつけるために家を出て電車に乗り、今、屏風岩展望台への道を登りつつあった。


――あそこから飛び降りれば確実に死ねるだろう。

 と考えながら。


 実際、数年前にここで自殺した女のニュースが流れたこともあった。


 屏風岩展望台の向こうは、文字通り、高さ五十メートル以上はある屏風のように切り立った岩の崖になっていた。


 展望台が見えてきた時、田川の目にはさくの内側に立っている長身にグレーのスーツをまとった茶髪の長い髪の女の後ろ姿が見えた。


 自分の登ってきたのとは別の、反対側から上るルートのあることを知っていた田川は、女はそっちの方から来たのだろうと思いながら、足をめた。


 他人がいるところで飛び降り自殺をするのもはばかられると考え、そこで様子をうかがいながら女が立ち去るのを待つつもりだった。


 突然女は靴を脱ぎ始めた。


――あれ、まさか?

 女は脱いだ靴を丁寧に揃え始めた。


――ちょっと待って!。

 思わず早足で歩み寄り始めた。


 女は風に長い髪をなびかせスカートのすそひるがえしながら、木製の柵の横木と横木の間を抜けて崖っぷちに出た。


 そして目を閉じ、空に向かってジャンプしようとして体をかがめた。


「待って、早まらないで ・・・」


 女はいきなり後ろから両肩をつかまれ、びっくりして振り向いた。


「ぼくが飛ぶから、君はやめて!」

「はあ?!」


 女は相手の言いように唖然とした。相手は肩から手を離してから言った。


「遺書も残してないみたいだし、ぼくと心中したように誤解されたら、やでしょ? ぼくも遺書、用意してこなかったから ・・・」


 相手が真顔で言ったので、女はつい、

「ああ、そうですよね。あのお、自殺しに来たんですか?」

 と話に乗ってしまった。


 少なくとも、今自殺しようという気持ちは失せていた。


「ええ、まあ。あれ、あなた、大浜キャロラインさんでしょ?」

「ええ、まあ」


「ここに来る電車の中で偶然、あなたと同じ番組に出ている天波謡さんに会いましたよ」

「ほんとですか?」


「はい、わたしと謡さんは座敷わらし仲間なんです」

「え、座敷わらしって、あの?」


「そうです。あなたのゼロアワーニュースで桂泉荘が火事になったニュースをやった時に謡さんが紹介した記念写真に座敷わらしが映ってるのを見て、


 謡さんに連絡して、そしたらたまたま電車で会って。


 なんと、ヒカリ君ていう座敷わらしも謡さんと一緒だったんです。


 あ、すみません、こんな風にばあばあばあばあしゃべちゃって。そうか、ぼくって、孤独だったんだ ・・・」


 大浜キャロラインはつい笑ってしまった。

「孤独をいうなら、私もこんなところで死のうと思ったくらい孤独ですよお」

 それを聞いて田川も笑ってしまった。


「どうします、きょうは? 」

「ええ、まあ、きょうはちょっと ・・・」

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