第1章 ブラッドローから来たアジェンダ人

1.ダムブルク児童施設

 よく晴れた春の昼下がり。

 施設の中から沢山の子供たちが走り出てくる。

 今日は本当にいい天気だ。未だ微かに残る冷気を陽だまりが優しく包み込んでくれるおかげで、空気がとても穏やかで暖かい。フラウジュペイ共和国では、今日はどこでもこんな小春日和だとラジオ放送では言っていたが、それは南の田舎町のここ、ダムブルクでは特にそうであろう。

 とにかく、こんなにいい天気の中で遊ばないのは損である。堅っ苦しい午後の授業がようやく終わった解放感も相まって、子供たちはみんなとても楽しそうだ。

 日の光の下で走り回る子供たちを、ブランカは眩しそうに眺めていた。

「はぁ、まったくみんな、現金なものだよ」

 外に干した洗濯物を取り込んでいると、少し不満そうな声が後ろからかかる。

 ロマン・クリシュトフだ。

 彼はこの施設で講師をしているが、柔らかいウェーブのかかった琥珀色の短髪や、着崩しているのに少しも清潔感を損なっていない水色のシャツ姿は、堅苦しそうな施設の先生というよりも、優しいみんなのお兄さんといった印象を強く与える。

 ロマンは穏やかな空色の瞳を柔らかく細めると、ブランカのそばまで寄り困ったように肩を竦めながら続けた。

「みんな、授業中はよそ事や居眠りをしていたのに、終わったとたんあれだよ。僕の授業ってつまらないかなあ?」

 いつもは頼りがいのあるロマン先生が、こんな風に弱々しく愚痴る姿は、とても珍しい。それほどに落ち込んでいるということなのだろう。ブランカは咄嗟に首を横に振り彼の言葉を否定する。

 ブランカの反応に、ロマンは疑わしげな瞳を投げかけた。

「本当に? 正直に僕の授業がどうだったか教えてよ」

 ますますブランカは困り果てる。今し方、首を横に振ったのだってブランカの本心だったのにそれだけでは信じてもらえないだなんて、一体何と言ったら正解なのだろうか。慌てて言葉を探すが、口下手なブランカにはどの言葉も不正解に思えてならない。

 だが、ロマンは今とても落ち込んでいるようだし、悠長に考えている時間はない。

「わっ私は、私にはとても分かりやすかったから……それってつまり、ロマンの教え方がいいってことじゃないかと……だから、そのつまり……」

 言いながら段々声が萎んでいく。最後の方はあまりにも尻すぼみすぎて、おそらく子供たちの喧騒に掻き消されてしまっただろう。おまけに、さっきまでロマンに向けていたはずの自分の視線は、いつの間にか足元に下がっている。これではいけないとブランカは更に言葉を探すが、焦りでいっぱいになった頭では、上手い言葉を紡げそうにもなかった。

 すると、半ば泣きそうな気持ちになりかけていたところで、くすくすとロマンが噴き出す声が聞こえた。ブランカが恐る恐る顔を上げれば、ロマンはとても楽しそうに笑っていた。

「少し、意地悪しすぎたね。ごめんごめん」

 それまでとは一変して楽しそうな彼の口調に、ブランカは思わず口元を尖らせる。口調もそうだが、さっきまでの自信なさげな姿はすべてロマンの芝居だったのか。そう思うとからかわれたようで、なんだか面白くない。

 「そう拗ねないで」と、ブランカの唇を指先で突くと、彼はその大きな手を彼女の頭に乗せて言う。

「だいぶ、表情が出てきたね。いい傾向だ」

 ロマンは瞳を細めて、ふわりと微笑んだ。ブランカはどことなく気恥ずかしくなって、再び足元に視線を落とす。だけど不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 すると、施設の庭を走り回っていた子供たちが、何かを手にとってロマンに寄ってきた。

「ロマン先生! あっちで花かんむり作ってきたの! あげるー!」と女の子たち。

「ねえねえこれ見て、カエル! これ何ガエルか先生分かる?」と言うのは男の子たち。

 ロマンは一瞬にして子供たちに囲まれてしまった。さっきは自分の授業がつまらないかもしれない、などとロマンは呟いていたけれど、もし本当にそうなら、子供たちは彼の元に寄ってこないだろう。

 ロマンは本当に子供たちみんなに慕われている。それはもちろんロマンがいい先生だからというのはあるだろうが、何より彼は優しいのだ。

 例えば授業で飲み込めないことがあっても、ロマンは怒りもしなければ急かしもしない。こちらが理解するまで付き合ってくれるのだ。普段の会話でも、たまに意地悪を言うこともあるけれど、ちゃんと相手のペースに合わせて話をしてくれる。会話の返答に困ったときでも、頭の中で整理する時間を与えてくれるのだ。

 そして最後には必ずふわりと笑って、優しい言葉をくれる。まるでこの春の空気のように、いつだってこの人はみんなを温かく包み込んでくれる。ロマンのそういう誠実で優しいところに、子供たちは自然と惹かれるのだろう。

 今だって彼は子供たち一人一人と同じ目線になって、それぞれの質問にきちんと答えている。

「えー先生このカエルの種類知ってるんだったら教えてくれたっていいのにーケチ」

「ケチとか言うなよ。何でもかんでも答えがすぐに分かったらつまらないだろう? まずはこのカエルの見た目から、何て呼び名のカエルか考えてみるんだ。君は何だと思う?」

 ロマンは男の子と同じ目線になって、一緒にカエルの呼び名を考える。

 その子の手にあるカエルは、黄緑色に奇抜な斑点が付いている。見方によってはまるでカメレオンみたいな柄だ。

「カメレオンガエル……」

 男の子は首をひねりながら、見たままの言葉をつなぎ合わせる。自信なさそうに答えたその子の頭を、ロマンはにっこり笑って撫でてあげる。

「確かに、カメレオンに似ているね。じゃあ正解かどうか、中に図鑑があるから調べておいで」

「えーっ先生教えてくれるんじゃなかったの?」

「先生は意地悪だからな、ほら行っておいで」

 答えを期待していただけに、ロマンの反応は男の子にとっては面白くない。むくれた男の子は、隣にいた気弱そうな友達にえらそうに命令する。

「おい、おまえ! 中から図鑑取ってこい!」

 しかし、すかさずロマンにげんこつを落とされた。

「こら、ちゃんと自分で取ってきなさい」

 少し厳しい口調でロマンが言えば、怒られた子は少し赤くなりながらも、「仕方ねーな、一緒に行ってやるよ」と相変わらずえらそうな態度で、気弱そうな友達と一緒に施設の中へと駆けていった。

「まったく、たまにああやって意地悪するから困ったものだ」

 子供たちを見送りながら、ロマンはため息混じりに肩を竦める。でも、口ではそう言いつつも、彼はとても微笑ましそうだ。子供たちが楽しそうに笑っているのが、ロマンにとっては一番嬉しいのだろう。

 少し前まではみんな、とても悲しそうな顔をしていたから――。

 この施設の子供たちは、みんな親がいない。

 中には親に捨てられてきた子もいるが、多くの子はみんな、親と離れ離れになってしまっている。おそらくもう二度と会えない子たちが大半だろう。

 みんな、五年前まで続いた戦争で失ってしまったのだ。


 フィンベリー大陸戦争――フィンベリー大陸を舞台に世界中が参戦したその戦争は、とても悲惨で沢山の悲劇を残した。それは、大陸西側に位置するこの国、フラウジュペイ共和国も例外ではなく、こんな辺鄙な田舎のダムブルクでさえ、五年前まではまさに戦場だった。

 惨い戦争は、沢山の孤児を世に溢れさせた。飢え死にする子も少なくはなかっただろう。戦後、そういう子供たちを保護するべく、フラウジュペイ中央で児童保護協会が発足し、各地に保護施設が作られた。この施設――ダムブルク児童施設も、そういう経緯で建てられたのだ。

 しかし、そうは言っても時は常に前に進んでいる。それはここだって同じだ。

 あの悲劇は簡単に忘れられるものではないが、みんな、笑って前向きに過ごしている。五年という月日は、徐々にみんなの中にある悲しみを、確実に薄めてくれているのだ。


「はいはーい、みんな! クッキー焼いたから取りにおいで!」

 施設の中から、よく通る活気のいい声が聞こえてきた。

 声と一緒に出て来たのは、レオナ・モナロール。腰まであるショコラ色の髪を一本の三つ編みにしているのが特徴的な彼女は、この施設で働く食堂婦の娘だ。

 彼女の両手に抱えられたカゴには、香ばしい匂いを漂わせた焼きたてのクッキーが沢山詰まっている。外ではしゃぎ回っていた子供たちは一目散にクッキー目がけて集まった。みんな、このクッキーが大好物なのだ。

「わーい、おばさんのクッキー好き!」

「違うわよ、今日はあたしが作ったのよ」

「えー違うよ! レオナの作るクッキーいつも焦げてるじゃん!」

「うっうるさいわね! それからあたしのことを呼び捨てにすると、あげないわよ」

 そんな応酬をしつつも、みんな楽しそうにレオナに群がっている。

 レオナは母と一緒にこの施設で働いていて、このクッキーは彼女の母が作ったものなのだ。レオナの母が作るクッキーは本当に美味しくて、最近ではこの施設の名物になってきている。一方で、レオナの作るお菓子は驚くほどにまずいというのも、この施設では有名になっていた。

 しかしそういうところも含め、レオナもまた子供たちに慕われている。ロマンがこの施設の優しいお兄さんなら、レオナは面倒見のいいお姉さんといったところだろう。

 頼れる二人を前にして、ブランカは少し遠い気持ちになる。

「あれ? クッキー一個余ったよ?」

 レオナに群がっていた子たちの一人が、カゴの中を覗き込み首を傾げる。それぞれ平等に決められた数の分しか食べられないから、あわよくば、この余りの一個を自分がもらえるのではと、みんならんらんと目が輝き始める。

「そんな顔してもダメよ、これはブランカの分なんだから。ブランカ、あんたまだ食べてないでしょ?」

 子供たちの様子に思わず苦笑を漏らしながら、レオナはブランカの方へ視線を送った。しかし、ブランカは「え……でも……」と、曖昧な返事を返すだけで、反応に困ってしまっている。

 子供たちの視線が自分に集まっているからだ。それが単にクッキーをせがむためのものだったら、まだブランカも反応に困ることはなかったかもしれない。

 だが、子供たちがブランカに向けた視線は、それまでの温かさを一瞬にして奪ってしまうような、そんな冷たいものだった。

 別にみんな、ブランカのことを憎んでいるわけではない。むしろこの場合、蔑みや同情といった意味合いが強いだろう。みんな、彼女と距離を置きたいのだ。

「私、今お腹すいていないから子供たちにあげるわ。ありがとう、レオナ」

 ブランカは控えめに笑って短くそれだけ言えば、レオナもそれを見ていたロマンも困ったように眉をひそめた。しかし、この場でブランカにクッキーを勧めたところで、きっと彼女は受け取ろうとはしないだろう。

 何となく釈然としないものはあるが、レオナはブランカの意図を汲むことにした。

「良かったわね。ブランカお姉さんがクッキーくれるって。でも一枚しかないから、欲しい子はゲームして決めましょ。さぁ、クッキー欲しい子はこっちに集まって」

 その場に流れかけた変な空気を払いのけるかのように、レオナは元気のいい声で子供たちに呼びかける。

 しかし、さっきはあんなに食い意地張ってレオナにがっついていた子供たちが、何故かみんな一歩距離を取って素知らぬ顔をしている。中には嫌そうに顔を歪めるものもいた。

 突然あからさまに不自然な態度になった彼らに、流石のロマンも不思議そうに首を傾げた。

「みんな、一体どうしたんだ? 残った一枚がもらえるんだよ? さっきまであんなに欲しそうにしていたのに」

 自分は関係ありませんといった様子で視線を逸らし続ける子供の一人に、ロマンが硬い声で問い詰める。優しい先生に厳しい表情を向けられたら、子供は答えるしかない。

 その子は他のみんなに視線を移してから、ちらりとブランカを見、そして気まずそうにロマンに目を合わせた。

「だって……ブランカのものに触れると、菌が感染るって、みんなが……」

 とても言いづらそうにそれだけを言えば、その子はロマンから視線を逸らし、ぱっと施設の中へと駆けていった。他の子たちも同じように知らないふりをしてどこかに駆けていく。見かねたレオナが「こら、待ちなさい!」と声をかけるが、みんなこの件に関しては他人行儀だ。

 ロマンは深くため息を吐き、ブランカの頭を優しく撫でる。

「何か変なラジオ番組でもやっていたんだろう、子供の言うことだ。あまり気を悪くしないで、ブランカ」

「ううん、平気よ。ちっちゃい子たちからしてみれば、あまり近寄りたくないものね、この顔は」

 俯きがちになってそう返せば、ロマンもレオナも眉を潜めて難しい表情を浮かべた。

 子供たちがブランカと距離を置きたい理由、それはブランカが病原菌を持っているからというわけではない。いや、もしかするとブランカ自身が『病原菌』かもしれないが、彼女の身体は至って健康だ。これといった病気はかかっていない。

 しかし、ブランカには大きな怪我があった。右の頬から右上半身にかけて走る、赤い火傷の痕。

「でも、ここに来たときよりだいぶ薄くなってきたよ」

 励ますようなロマンの優しい言葉に、ブランカは曖昧に首を傾げる。

 五年前までは当たり前に戦火が飛び交っていたのだから、火傷自体はそう珍しくない。この施設に預けられている子供たちだって、戦火を浴びて路頭に迷っていた子が多かった。

 ブランカもその一人だ。

 ここに来た当初、彼女の火傷はもっと痛々しくて赤かった。

 だが、そうは言ってもあれから少なくとも五年は経ったのだ。ほとんどの子は、既に綺麗な皮膚に再生している。まだ痕が残っている子も、確実に回復は進んでいるのだ。

 それなのに、ブランカの火傷の痕は、どれだけ年月を経ても消えることはなかった。痛みを感じることはもはやなくなったが、いつまでも残るこの傷を、子供たちは次第に気持ち悪がって、先ほどのように距離を置くようになったのだ。

「そういえば明日、ブラッドローにいる僕の友人が訪ねてくるんだ。あそこは医療技術も発達しているし、彼に聞けば、あるいはいい治療法が見つかるかもしれない」

 俯き黙りこくってしまったブランカに、ロマンが思い出したように言う。

 ブラッドロー連邦国とは、このフィンベリー大陸から海を隔てた向こう側にある大国だ。そこでは確かにめまぐるしいほどに科学が発展し、次々と新しい発明品や技術が生み出されている。不治の病と言われた病気ですら、治療法が発見されてきているのだ。今ならロマンの言うとおり、この火傷も綺麗に消せるのかもしれない。

 しかし、彼女は変わらぬ表情のままロマンを見上げるだけだった。

 卑屈とも諦めともとれるような表情を浮かべている彼女に、ロマンは力なく微笑んだ。

「女の子なんだし、せっかく綺麗な顔をしているんだ。治る可能性は低いかもしれないけど、試してみてもいいと思うんだ。治療費は、心配しなくていい」

 眉をひそめて自分を案ずるロマンに、ブランカは思わず居たたまれなくなって、視線を逸らした。

 ロマンがこんなことを言うのは、単に彼の優しさだけではないだろう。きっと彼は、ブランカに対して保護者的な責任を感じているのだ。五年前、ひどい火傷を負い森の中で生死を彷徨っていたブランカを見つけ、ここまで連れてきたのは自分だからと――。

 しかし、ブランカにしてみれば、それだけで十分だった。

 ブランカは小さく首を横に振る。

 それを見ていたレオナが二人の間に明るい調子で割り込んだ。

「大丈夫よ、女の子はいくらでも化ける方法があるんだから。お化粧くらいならそんなにお金はかからないし、後で一緒に練習しましょうよ」

 レオナはブランカを元気づけるように、彼女の肩を強く叩く。

 すると、施設の中からレオナを呼ぶ声が聞こえてきた。母の声だ。

「あぁ、あたし夕飯の用意してこなくちゃ。ブランカ、それを取り込んだら、手伝いに来てちょうだいね」

 未だ竿にかかったままのシーツなどを指差すと、レオナは弾けるように施設の中へと戻っていった。まるで活発な姉に内気な妹のような様子の二人に、ロマンは再び穏やかな笑みを戻した。

「それじゃ、僕も先に戻るよ。ブランカ、これ持っていくよ」

 再びブランカの頭を撫でると、彼女の足下に置いてあったカゴいっぱいの洗濯物を拾い上げ、ロマンは施設の中へ向かう。

 ロマンとレオナ。

 消えていく二人の背中を見つめながら、ブランカは心の底で思う。

――これでいいのだ、自分は。

 ましてやブラッドローなんて国に行けるわけがない。

 本当なら自分は、ここですらいてはいけない人間なのだから。

 先ほどまで南から穏やかな空気を運んでいたはずの風が、急に冷気を帯びてくる。夕方に近づいてきて、風向きが変わったのだろう。まだ日は高いが、この時期は落ちるのも早い。

 ブランカは残りの洗濯物を急いで取り込んで、室内に戻った。

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