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arm1475

第1話

 消毒臭に満ちた白い闇があった。

 そこは病院の一室。

 外は夜。新月の夜は、世界に一番暗い闇をもたらす。

 病室のベッドに横たわる死蝋の相の主は、陽が沈んだその時に息が絶えた。

 死者の忘れ形見が、灯りをつけようとせず、病室の扉とカーテンを閉ざしていた。

 死んじゃいない。

 こうして全ての出入り口を塞いでしまえば、きっと死者の魂は――父親が外へ出られなくなって、そのうち蘇るだろう。

 まだ五歳になったばかりの少年の頭では、人の死がどういうモノか、理解し切れていないのだ。

 少年の父親の死を看取った医師たちは、先ほどまで少年にこの扉を開けるよう説得を続けていたが、唯一の肉親を失ったばかりの少年の心を汲み、気が済むまで放っておくコトにした。


 静寂がようやく訪れた時だった。


「泣いてばかりでどうする?」


 自分と父親以外居ないはずのその病室で、突然、声が聞こえてきた。

 不思議そうな顔をする少年は、声が聞こえてきたほうへ向いた。

 漆黒の闇に、僅かに人の形を成す輪郭があった。


「……さっき、おたくが言ったコトを、そのまま泣いて忘れる気か?――“思い出せ”」


 そう言うと、闇の中に息づく主は、少年に向かってゆっくりと手を差し伸べた。



 黒革製のフィンガーレスグローブをはめた右手が、頬の痩けた男の顔面を鷲掴みにしていた。

 男の顔を鷲づかみにしているのは、男の背丈の半分もない少年だった。

 黒で統一された上下のインナーに、袖のないロングコートを纏ったその容貌は背伸びした子供に見えないふうでもない。

 しかし男を睨むその貌は、幼い外見には不似合いなほど冷徹な雰囲気を帯びていた。

 漆黒の少年の腕が上がり、男の身体が易々と持ち上がった。

 無論、言葉では、身長差からすれば不自然な光景であるし、子供が大人の身体を持ち上げること自体、異常な光景でもある。

 しかし、少年は成し遂げた。

 男の身体は、少年の腕に水平に持ち上がり、少年の腕が天頂を付いた時は、男の身体は少年の頭上にあった。

 そして、そのまま少年は片腕一本で男を放り投げてしまった。

 藤次納(ふじつぐ・おさむ)は、転んだ時にこびり付いた泥で少し汚れているメガネの向こうにある、その異様な光景を見て唖然となっていた。

 学校帰りの納が、家の直ぐ近くにある公園を通り抜けた時、あの男が襲いかかってきた。

 その直後、どこからともなく現れたこの少年が、男の顔面をいきなり鷲掴みにしてその動きを封じてしまったのである。

 襲われた時に腰を抜かしていた納は、逃げ出すコトも出来ずにその一部始終を見ていたのだが、今考えれば、本当に驚いたのはその少年の仕業のほうであった。

 少年に投げ飛ばされた男は、しかし空中でとんぼを切り、まるで獣のようによつんぱいになって着地した。

 いや、獣だった。男は宙を舞ううちにその身体を変貌させ、ヒヒに似た獣のような姿――人とも獣ともつかぬ、いうなれば獣人が、るるる、と威嚇するように喉を鳴らせて、少年を睨み付けた。


「へ、変身した――――?!」

「手品でもトクサツでもないよ」


 驚く納に答えた少年の口調は、その外見に見合った少し甲高い声であった。

 これで野太い声を出されでもしたら、納はパニックに陥っていたかも知れない。


「変身能力者か。――レベル低いよ、おたく」


 少年は獣人を見て蔑むように笑った。

 獣人は、言葉を理解出来るらしく、唸り声をいっそう荒げた。

 獣人が少年に飛びかかった。

 少年は逃げ出しもせず、右腕を迫り来る獣人のほうへ差し向けた。

 その右手はいつの間にか、槍を握り締めていた。

 槍の穂は妙に幅広く、まるで槍の先に巨大なスコップが付いているような、奇妙な形をしていた。

 少年はその槍で獣人を突かず、棍部でその顔を殴打する。

 獣人は堪らず悲鳴を上げ、仰け反って地面に倒れ落ちた。

 少年は空かさず追い打ちで獣人の腹を蹴り飛ばす。

 少年の容赦ない攻撃に、獣人は直ぐに立ち上がって飛び退いた。

 そして少年と納を睨むと、その場から走り去っていった。


「なっさけねーの」


 少年は獣人の背に投げかけるように言ったように見えたが、途中で納のほうを向いた辺り、それは腰を抜かして震えていた納に向けられたものだったようである。

 だが少年は、冷たく侮蔑するコト無く、納のほうへ笑顔で手を差し伸べた。


「大丈夫かい?」


 訊かれて、納はずれていたメガネを戻しながら頷いた。


「……え、ええ、なんとか」

「なら、OK――」


 と言ったその時である。

 少年の後頭部に、突然背後から飛んできた蹴りがヒットし、少年はたまらずその場に倒れてしまった。


「――こら! お前か、納をいじめているって言うヤツは!」


 地べたで、殺虫剤をかけられたゴキブリのように藻掻く少年の後頭部に、みっしり、と足を載せて押さえつけたのは、納と同い年くらいであろうセーラー服姿で、どこか猫を思わせる、ショートカットの少女であった。

 こうも呆気なくやられると、怪物を撃退した少年の実力のほどが理解出来なくなってくる。

 よく見れば、怪物を追い払ったあの槍も消えている。

 まるで怪物の襲撃自体が、夢か幻のようであった。


「杜恵(もりえ)!?」


 納は、セーラー服姿の少女を知っていた。


「違うよ、その子は僕を助けてくれたんだ!」

「え? 嘘?」


 杜恵と呼ばれたセーラー服姿の少女は、慌てて足を上げた。

 少年は、打ち所が悪かったらしく、その場ですっかり伸びていた。



 三十分後、少年は、納の自宅の部屋にいた。

 少年はベッドに腰掛け、頭に出来た大きな瘤に氷嚢を充てながら、椅子に座っている納と向かい合っていた。


「……ごめんよ。なにせ、口より先に手が出る女で……」

「出たのは足だけどね」


 詫びる納に、少年はふてくされたような貌で頷いてみせた。


「昔と違って女の自己主張が激しい時代だからねぇ」


 妙に年寄り臭い愚痴を吐くと、少年は氷嚢を外して瘤をさすった。

 納は、そんな少年を見て、どこか愉快な気分になった。


「でも、醍羽(だいば)くんて凄いよね。子供なのに、あんな怪物を簡単に…………」

「何度目だ?」

「?」

「何度目だ、って訊いているの。あーゆーのに襲われたのは」


 納は唖然となった。


「慣れているんじゃないの? あーゆーのに襲われたというのに、腰抜かしていたけど、気絶もせずにいたから」


 醍羽と呼ばれた少年は、唖然としている納に顔を近づけて訊いた。

 その顔はどう見ても中学生の納より年下、せいぜい10歳前後の幼い顔である。

 なのにその瞳は、見つめられているだけで吸い込まれてしまいそうな底無しの黒を静かに湛えていた。

 どのように生きてくれば、こんな瞳を持つコトが出来るのか。

 まるでこの世の全てを見てきたのなら可能かも知れないが、この見かけからはとてもそうは見えない。

 醍羽に魅入られた納は、素直な心で答えた。

 本人も知らぬ間に、今し方抱いた醍羽への疑念はすっかり忘れ去っていた。


「……まぁ、あんな怪物はいなかったけど、最近、変な連中に狙われてたのは事実――キミじゃないの?」


 訊かれて醍羽はきょとんとした。


「え?――だって、いままで僕は、そう言う奴らに襲われたとき、決まって何者かが助けてくれたんだ。――本当にキミじゃないの?」

「俺はそんなヒマじゃあねぇよ。今日のは偶々だ。そもそも――」


 そう言いかけた時、納の部屋の扉が開かれた。

 現れたのは、ペットボトルとコップを二つ載せたトレイを抱えて来た杜恵であった。


「はい」

「……来たな、魔脚の女」

「あによ、人を怪人呼ばわりする気? 納、何でこんなガキ連れてきたのよ!」


 トレイを受け取りながらいきなり杜恵に噛みつかれ、納は戸惑った。


「だって、杜恵が……」

「問答無用! あんたがそんなお人好しだから、いつも変なのが寄ってくるのよ!」

「それは関係ないと思うのだけど……」

「とにかく! 今夜だけよ!」


 つり目をさらにつり上げ、怒鳴るだけ怒鳴って杜恵は部屋を出ていった。


「……あの娘、いつもあんなの?」

「い、いや、不断はお淑やかなんだけどね」

「お淑やかなオナゴが、見知らぬ男にカカト落としする、フツー?」


 納は、ごもっとも、と小声で言って苦笑した。

 その苦笑する納の顔へ、醍羽はまた顔を近づけた。

 しかし今度は、先ほどのようなミステリアスな雰囲気は皆無であった。


「うひひ。あの娘、チミのコレかにゃあ?」


 醍羽はそう言って小指を立てた。


「ち、ちがうよ!」

「だってさぁ、一緒に住んでいるんでしょ? チミの名字は藤次で、この家とあの娘の名字は祭木。ほぅら同棲、同棲」


 赤面する納に、醍羽はへらへらとイヤらしく笑いながら訊く。まるで子供の皮を被ったセクハラオヤジである。


「ち、ちがう! ここは確かに杜恵の家だけど――僕は、祭木家の親戚でね。6歳の頃、たった一人の肉親だった父さんが癌で死んで、ここに引き取られた」


 うろたえる納だったが、昔のコトを思い出した所為か、ゆっくりと冷静さを取り戻した。


「この国の法律なら、従姉妹でも結婚できるじゃない」

「あのね――ま、まぁ、それに、杜恵は養女だったって聞くから、出来ないコトも……」


 そう答えて納は俯き照れる。まんざらその気も無いワケではないらしい。


「うーん、やっぱりね」

「?」


 ふと、納は違和感を感じた。今の醍羽の言葉が、会話の流れからはあまりにも奇妙過ぎた。

 まるで、この醍羽という少年は、納と杜恵のコトを始めから知っていたような素振りである。


「何でもない。――それよか、話を戻そう」


 不思議そうに見る納に、醍羽は真面目そうな顔をして言った。

 急に改まった醍羽に驚く納だったが、その鼻先に醍羽は右手を差し出した。

 右手は、小指が立っていた。


「やっぱり、コレなんでしょ?」

「違う」

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