第30話 世界地図

 寒いから。

 ウーが自分と肌を合わせることに抵抗がないのは、それだけの理由につきると思う。


 ゼルダの冬が近づくにつれ、日に日に寒さが増していく。


 あれからキースはウーとともに、寝室で寝るようになった。

 ウーは夜遅くまで起きていられないらしく、早々にベッドに入る。キースが寝室に入る時には、もう深い眠りに落ちている。

 ウー自身、気がついていないかもしれないがぬくもりを求めて転がってきては、キースに身を寄せてくる。 夜中、ベッドの端に追いこまれて、苦笑して目覚めることもしばしばだ。


 凍てつく寒さの白い朝、ウーの体温に目覚めた時に何度か身体を重ねた。

 ウーは眠そうであったが、キースを拒むわけでもなく受けいれた。


 初めてウーの相手をした時にも疑問に思ったが、ウーはこの種の快楽を既に知っていたようだ。

 一度聞くと、ウーは幼いころから女王スー・ヴィラの相手をしてきたと答えた。

 それ以上は聞かなかったが、女性しかいない一族ならそういうことになるのは自然だろうとキースは思う。


 回を重ねるごとにウーの吐息は乱れがちになった。今では小さく声を上げ、キースにしがみつくこともある。


 自分はといえば自嘲するしかない。

 ゼルダ人とはいえ、パラダイスのクラリスとある程度は楽しんだ経験はあるのにもかかわらず、今その行為に溺れている。

 これじゃグレートルイスやカチューシャ市国のティーンエイジャーと変わらない。


 ウーを抱いた朝、パラダイスのシアンのところへ彼女を送ると、シアンは意味ありげな笑みを浮かべて自分を見てくる。

 何故か、彼には全て見透かされているらしい。


 ウーも彼女の概念では秘め事として分類されてなかったこともあり、キースとの事を人に聞かれれば、ありのまま答えたようだった。


『お前なあ、彼女に口止めしといたほうがいいよ』


 くく、と笑いをかみしめながら、ウーを迎えに行った際にシアンに言われたことがある。 何をどこまで答えたかは知らないが、それからキャロルの態度がよそよそしくなった。


 ウーはシアンをはじめ、パラダイスの者たちの協力により、世の中のことを理解しつつあった。買い物や家事の仕方、食事のマナーなど、日常生活に必要なことはほぼ習得している。パラダイス住民にとって、美容や服飾が重要な位置を占めるからかもしれないが、ウーも随分と自分の身仕度に時間を割くようになった。今、衣服類は自分で選んでいるようで、生まれつきセンスがいいんだよ、とシアンが驚いたように言っていた。


 相変わらず靴はローヒールしか履かず、化粧することはないが、それも時間の問題だと思われた。身を飾ることが好きなのは、女性の共通の習性だろうか、とキースは思う。

読み書きの習得に関しても、ウーは紙が水を吸い取るような勢いだと、シアンは言った。--



「これじゃ、予想より早くグレートルイスに戻れるんじゃないか?」


 シアンがソファーに寝転び、ナッツをつまみながらキースに声をかけた。

 キースは児童向けの絵本に見入っている、ウーを見やった。


 今日は、年に数回ある国民の祝日だった。店舗ほとんどが閉まるこの日は、ゼルダの人民は全て自宅か友人宅で過ごす。キースはウーを連れて、パラダイスのシアンの部屋に来ていた。


「本人の努力もあると思うが」


 文字を指で追いつつ、小声でよみあげているウーの様子にキースは答えた。


「ああ、そりゃあ大きいよ」


 シアンは教えがいのある生徒です、と言ってから、伸びをしてあくびした。


「アルのペースも、もう少しはやめてもいいかもな」


 画家のアルケミストに、キースは先日初めて会った。

 灰色の髪と鳶色の目の初老の背の高い痩せた男で、丸いメガネをかけていた。

 なんというか、意外な人物だった。

 シアンがウーの心配をすることはない、と言ったのも納得がいく。

 彼はスーツを着用しており、理性的で穏やかな話し方や立ち振る舞いは、まるで役所の人間に見えた。

 仕事ぶりも、キースが抱いていた画家のイメージとはかけ離れていた。


 彼は、隔日朝10時にシアンとウーをアトリエに迎えると、1時間弱筆をすすめ、11時になる5分前にはきっかりと片付けを始める。これが彼のスタイルらしく、昼の3時には必ずティータイムをたしなみ、夕方5時には散歩に出かけるそうだ。そして夜から朝にかけてはいっさい仕事はしない。

 規則正しい生活は揺らぐことがなく、仕事と私生活を完全に区別しているようだった。

 レンから絵の完成はおそいほどいい、と希望されているために今は絵にかける時間を一時間としているようだが、こちらから言えば変更は可能そうである。


 また、彼の画風は独特だった。

 人物画は徹底的な写実主義でありながら、背景は異世界から取り出してきたような奇抜な描き方をする。それでいて、ちぐはぐな印象を与えることなく、不思議とまとまっており、観た者に深い余韻を残す。

 今まで彼の絵をじっくりと観たことはなかったが、興味がわき、小さい絵の値段を聞いてみたことがあった。返ってきた額の答えにキースは面食らった。

 レンはアルケミストのお得意様だと自分で言ってたが、さすがグレートルイスの華麗なる一族、ベーカー家の一員だけあるとキースは舌を巻いた。


 そうすると、自分が払うシアンが絵に加わった分の上乗せ料が異常に安いのは何故か。

 キースが疑問に思い、シアンに聞くと

『オレを描きたかったからじゃないか?』

 と単純な答えが返ってきた。


 アルケミストとはどんな仲なんだ、と問うキースに

『さてね』

 と、シアンは微笑んではぐらかした。

 とにかく、アルケミストの絵の進行は遅遅としたものであるから、ウーがあせる必要は全くない。


 そのウーは今、児童向けの絵本が読み終わったのか今度は世界地図の図面を広げて見入っていた。


「どうした、ウー。何か聞きたい?」


 シアンがソファーから起き上がり、声をかけた。

 ウーは顔を上げると、図面を持ってこっちにやってきた。

ウーは非常に素直でシアンにとって扱いやすい生徒だそうだ。ウーもシアンとキャロルの2人に関しては深い信頼を持ってるらしい。実際に世話を施したのは2人だし、キースよりも2人の言葉を大人しく聞くようにみえる。


 そばに来たウーは、図面をシアンとキースがはさむ机の上に置いた。


「ここにセパと書いてある。私たちがいる、ここのことか?」


 ウーは地図の一部分を指差した。


「ああ、そうだ。……これは、なんていうか、そうだな。高い高い場所から、鳥になったつもりで下を見下ろして見えた風景を紙に描いたようなもんだ」


 シアンは隣にウーを座らせ、説明し始めた。


「ここがセパ。オレたちがいるところ。青い線で覆ってあるだろ。これが、ゼルダだ。オレたちがいる国。右下にある国がグレートルイス。ウーが今まで住んでた国だ。ウーがいた場所は、ここ」


 シアンは、グレートルイスとキエスタ国境沿いを指し示す。ウーは、じっと図面を見つめた。


「私がいたところは、こんなに小さかったんだな」


 シアンが示す場所を自らの指でなぞり、ウーはつぶやく。


「小さいったって、ジャングルは広いよ」


 シアンは笑う。


「でも、ゼルダに比べたらかなり小さい」

「確かにゼルダは国土は広いが」


 ウーの言葉にキースは、セパを中心にしてゼルダ国土の左下に指で円を書いた。


「人が住める場所は限られてる。主にここら辺りだ。あとは、凍土と森林しかない」

「ウーのいたグレートルイスは、いいとこなんだぜ。あったかいし、どこでも住める。食べ物もよく育つんだ」


 シアンは続けてゼルダの左下、グレートルイスの左に位置するキエスタを指した。


「で、ここがキエスタっていう国。ゼルダと反対で国の下半分は暑過ぎるんだな。雨もなかなか降らなくて、砂と岩の大地が多い。上半分は、だだっ広い草原地帯だ」

「……真ん中のここは?」


 ウーが三つの国に囲まれたカチューシャ市国を指した。


「おお、よく気づいたね。小さいけどこれも国だ。セパと同じくらいの大きさしかない。カチューシャ市国って言って、まあいいとこ取りの国だな」

「いいとこ取り?」

「いいとこ取り。永遠にほかの国には干渉しない。自分たちは戦わない。って、宣言した国だ。最初に言った人が賢かったんだよな。だから、カチューシャ市国にしかできないことがいろいろあって……。おかげで、他の国からいっぱいお金もらってるんだよ。とりあえず、一番みんなが住みたがる国」


 シアンはトントン、とカチューシャ市国上を指先でたたく。


「シアンもここに住みたいのか?」

「住みたいねえ。オレ寒いのヤダからね。でも残念。ゼルダ人は、ゼルダから出ちゃダメって決まりがあってね。無理なんだよ」

「……」

「ウーは、どこだって行けるよ。これからね。まあ、グレートルイスに住むようになるとは思うけど」

「グレートルイスに行ったら……もうシアンやキャロルや……お前はそこにいないんだな」


 ウーが小さくつぶやいた。

 キースとシアンは顔を見合わせる。


「大丈夫だよ。キースは、しょっちゅうそっち行くし。それが仕事だから」

「レンを覚えてるだろう? あいつが何かあったら面倒をみてくれる。心配するな」


 2人の言葉が言い終わらぬうちに、ウーは次には地図上のある場所を指差した。


「ここは?」


 聞いてねーのかよ、とシアンはぼやいてから、律儀に地図をのぞきこむ。


「そこは、海。国を取り囲んでいる周り全体がそうだ」

「うみ?」


 ウーが聞き返す。


「海。……見たことないから、わかんないよな。ええと、ここに写真とかもないしな。……水だよ。オビ川知ってるだろ? 家からここにくる時に、見てるだろ? あれのもっとでっかい版が海だ」

「……ここにも線が引いてある」

「ああ、うん。この線から下はキエスタの海。線の上は、ゼルダの海」

「人が住めないのに、分ける意味があるのか?」

「そう思うよな。でも、あるんだな、これが。ナワバリみたいなもんだね。たとえば、ここで取れた魚はゼルダのものになるんだ」


 無言でウーは地図を見つめた。


「……空は?」


 顔を上げて、キースとシアンを見返す。


「空は? 分かれてないんだろう?」

「空は……」


 領空圏云々の話をするか迷うキースを目で制してシアンが引き継いだ。


「空も分かれてるんだな。でも、実際は誰のもんでもないし、みんなのもんでもあるな。ウーのいた密林だって、グレートルイスの領土ではあるけれど、誰のもんでもないよ。形だけはそうやって分かれてるけれども実際は誰のもんでもない」


 ウーは暫くの間、考えこんでいるようだったが、灰色の瞳を2人にまっすぐに向けた。


「この国の晴れた空を見たとき、あんなに美しいものは初めて見たと思ったんだ。今まで見たことがない青さだ。私が今まで見ていた空とは全然違う。……あの空を見ることが出来ただけでも、私はニャム族の他の者より幸運だと思った。世界は広くて、まだまだ美しいものがたくさんあるんだと思う。私はそれを見てみたい。今聞いた話では、世界は分かれていて、自由に行き来は難しいと思うけど……」

「はい。冒険家のタマゴだな」


 シアンが微笑んだ。


「この国には美しいものがたくさんある。寒いけど。空もそうだし、窓に咲く氷の花も、雪も、シアンも」

「ありがとう。オレも入れてくれたんだね」


 シアンはキースに視線を移す。


「お前、ウーをあちこち連れてってやれよ。今の状態じゃ軟禁もいいとこだ。オーロラとか湖とかさ」

「時間が許すなら、そうする」


 キースの言葉にウーは目を輝かせた。


「ありがとう」


 キースの手をとり、ウーは自らの額に当てる動作をした。


「ウー、この国ではね、お礼を言うときは自分と相手の頬と頬を合わせるんだぜ」


 見ていたシアンが、にやにやしながら教えた。


「いらん事いうな」


 返したキースの言葉と同時に、ウーのなめらかな頬がキースの頬を滑っていく。それは、猫の尻尾が軽くなでていく感触と似ていた。


「そうそう。次から、お礼を言うときは、そうしてやって」


 シアンが言い終わるころには、ウーは何事もなかったかのように、身を翻して地図を持って去った。


「……ここがオレの部屋ですまないね」


 くく、とシアンが笑いをこらえる。


「……誰彼構わず今みたいなことをして、男の気を煽ったらどうする」


 キースは仏頂面でシアンをにらみつける。


「今のお前みたいに?」


 あはは、と笑いをこらえきれず、シアンが吹き出した。

 頬を合わせる習慣は、現在ならよほど親しい間柄に限られる。女性がいたころのゼルダなら、家族や恋人同士で盛んに行われていたそうだ。

 キースの記憶では、自分が乳児院にいた頃、ファザーや友にしたぐらいしかない。


「嬉しいだろ。礼を言われるたびにああされたら」


 ウーとは何回か肌を合わせたことがあるものの、反応でキースにしがみつくのと、寒いときに無意識に身を寄せてくる以外で、ウーからキースに積極的に触れてくることはない。それが物足りなく感じることはあった。


「で、ウーはホルモン療法受けるって?」


 まだ笑いながらシアンが聞いた。


「……まだ、聞いていない」

「はあ?」


 とたんに、シアンの表情が一変した。


「ふざけんなよ、お前」


 すう、と目が冷たさを帯び、突き刺すようにキースを見る。


「早い方がいいって医者が言ったんだろうが。あれから何日経ってるよ」


 本気で怒っている。


「まさか、お前んとこにいる間は、都合がいいから治療受けさせないとか考えてやしねーだろうなあ、おい。……いずれ、グレートルイスで一般人として暮らすんだろうが。その時に、誰かと家庭を持つ機会を奪うつもりかよ」


 そのときの、キースの表情をなんていったらよいのか、シアンは分らなかった。

 幼いころから見てきた彼のどの場面でも浮かべたことがない顔だった。


 シアンは自分が彼の自爆を踏んでしまったことに気づき、口をつぐんだ。

 目をそらして言葉を濁す。


「あー、悪かったよ。てっきりここにいる間だけの関係で割り切ってるのかと思ってたよ。……でも、そうだよな、お前、器用じゃねえしな……」


 沈黙を破ろうと、シアンは次の言葉を必死で探した。


「でも、治療だけはちゃんと受けさせろよ。効果あるにしろ、ないにしろ、それはジャングルからウーを連れてきたお前の責任だろ」


 頭をかき、シアンはあー、とこうべを垂れた。


「……そうだな、ウーにすまなかった」


 数秒後、返ってきたキースの声が普段通りだったので、シアンは安堵して顔を上げる。


「今夜にでも言う。なんなら、今お前からウーに話してくれてもいいが」

「あーいやいや、お前が金払うんだからお前が言った方がいいだろうよ」


 シアンはあわてて話題を変えた。


「そうといやあ、キルケゴールのおっさんは? まだ、なにも言ってこないのか?」


 グレートルイスから帰国後、キースが連れ帰った美女ウーのことをキルケゴールが知らないはずはない。しかし、一度も彼はキースにそのことを触れようとしないのだ。


「ああ」

「かえって気味悪いな。あの節操なしの面食いがさあ。あのおっさん、死期が近いんじゃないのか? それとも、プロポーション的にウーはハズレなのかねえ? いやいや、オレの相手もするんだしなあ……」


 シアンが首をひねる。

 キースもいずれキルケゴールにウーを召喚させられることを覚悟していた。しかし、あまりの無反応ぶりに拍子抜けするばかりである。


「別のことで今は頭がいっぱいなのかもしれない。今、サマリール氏と手を結んだからな」

「ああ、らしいね。フォークナーとトニオの二人を真向に蹴るなんて、おっさんもやるねえ」


 でも、それでいいんじゃねえか? 均衡が保ててよ、とシアンはナッツを再び口に放り込んだ。


 均衡が保たれていたのはわずかな間だけだったと、後にシアンは知ることとなる。

 


 その夜に、J・フォークナー氏の乗った車が爆破された。

 その翌日には、フォークナーを支持していた民衆が党会議事場前広場に押し寄せ、軍が出動し、鎮圧する様が、他国に放映された。幾度となく、繰り返して来た不安定期に、ゼルダは再び突入したのである。

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