シャン・ウー
第6話 密林の美女
「参ったな、こりゃ」
むせかえるような緑。うっそうと繁った木々。
男はもう一回あたりを見回してから、ため息をついた。
どうやら迷ってしまったらしい。
仕事にやっとありついた矢先、こんなことになるとは。
男は途方にくれた。
彼は、キエスタのある二つの民族の混血児だった。
父は西部のヤソ人。背が高く、骨太で顔立ちがはっきりしている一族だ。
母は南部のジャラ人。褐色の肌と、細く長い手脚、カモシカを思わせる一族。
この二つのそれぞれの長所を引継ぎ、彼はとても優れた容姿をしていた。
多分、探しにきてくれるだろう。それまで、動かない方がいいだろうな。
仲間たちとはぐれたのは、ついさっきだ。
いい仕事がある、と声をかけられたのは昨日。
自国を捨てて、グレートルイスに来たのは一年前。
グレートルイスに来てしばらくは、清掃業の掛け持ちで食いつないでいた。
それから流れながれて、今は野生動物の生け捕りをしている。
鳥、サル、爬虫類、肉食動物等、何でも狩る。
禁止令が出ているものは、裏のペット屋に売り渡すと、結構いい値がつく。
物好きな金持ちはどこにでもいるのだ。
そして彼のような若者もここには沢山いる。
自国を出て、グレートルイスで稼ぐ労働者というのは日常の風景になりつつあった。
グレートルイスでは様々な民族が右往左往している。
彼らのほとんどはキエスタ人であり、多くは貧困に耐えかねて飛び出してきた者だった。
その中で成功した者は全体の一割もなく、大方はヤク漬けになるか、一生牢入りを繰り返すのだった。
「冗談じゃねぇ」
彼は、あることを思い出してつぶやく。
先日、自分と同じように狩りに出ていた者が、反対に狩られたというのだ。死体は無く、あとには血だけが残されていたという。
冗談じゃない。はるばるグレートルイスまで来たというのに、こんなところでくたばってたまるか。
しかし、密林に独りでさまよってるかぎりは恐怖を感じずにはいられない。
グレートルイス南西部に広がるジャングルは、まだまだ秘境の未開地が七割を占める。
数は確認されていないが、いくつかの少数民族が住んでいるとの情報がある。
また、この国境に近い極西は、磁石がきかなくなることがあり、迷って行方不明になったものは数知れず。
魔を秘めた樹海だった。
今も足元から蛇が出てくるような気がして、落ち着いていられない。咬まれたら、一巻の終りだ。
彼は立ち尽くしたまま、密林に目をこらした。
この密林を抜けるとキエスタがある。
彼はキエスタ西部の北に位置する小さな集落出身だった。カラカラのステップを羊とともに暮らし、美しい幾何学模様の織物で身を包む一族の人々。
父母、姉一人、自分の下は一人の弟と二人の妹がいた。
キエスタの平均家族数を下回る。家畜の数もそれなりで、父が元気な時は自分を含め、兄弟皆が学校に通える余裕はあった。
しかし事故で父が脚に障害を負い、病気で家畜は半減して収入が激減し、姉と自分は学校を辞めた。姉はキエスタの裕福な家のメイドに、自分はグレートルイスに職を求めて来た。
姉の給料と自分の仕送りで、下の兄弟たちは学校を続けられている。二つ下の弟は、中等校まで進んだのが、彼の誇りだった。高等校まで進ませてやれば、キエスタの首都オデッサでそれなりの仕事にはつけるだろう。
学校を辞めたのは残念でもあったが、彼はそう悲観的に捉えてもいなかった。
グレートルイスのマジックドリームを聞いていたからだ。
どこに成功が転がっているかわからない国、それがグレートルイスだ。
成功を夢見たほとんどの者が脱落していくなか、ほんの一握りの成功者はいた。
例えば、悪貨王シャチ。
どの地方かは分からないが、キエスタ出身の彼は、グレートルイスの裏社会の帝王だ。麻薬、人身売買を牛耳る組織のボスとして君臨している。
買収されてる警官も多いと聞く。
どうやって成り上がったかは全く不明。
まだ三十代といわれているシャチを彼は尊敬していた。
シャチほどにはなれなくとも、成功できないとは限らない。
なんせ、
惜しむらくは、グレートルイス語の読み書きを勉強する間がなかったことか。多くのキエスタ人の仲間同様、話すことはできるが、読み書きは全く出来ない。いつか習得しようと思うが、そのヒマがない。
ふと、首もとに何か触れるのを感じて彼は身をすくませた。一息おいて、首に張り付いているそれを手で剥がし、投げ捨てる。
黒一色の大きな蜘蛛が地面で慌てふためいて動いていた。
彼は舌打ちして、足で踏み潰す。
汗がどっと噴き出るのを感じた。顎の下を手のひらで拭う。
ギャ、ギャ、と頭の上で原色の鳥が鳴きたてた。彼の背後の木を、太い蛇が巻き上っていく。
暑い。
スコールが去ったばかりだ。
常緑樹から放出される湿気に、イライラする。
ふいに、前方の木々が揺れ動くのに、彼はぎくりとした。
かなり、大きなモノのようだ。
彼は持っていた棒を握りしめる。
仲間は銃を持っていたが、彼は持っていなかった。それが口惜しくてならない。
仲間かもしれない。けど、原住民かケモノだったら、即逃げる。
そう決めて、彼は身構える。
ガサ。
木々の間から、毛のようなものが見える。彼は一瞬、逃げ出そうか迷った。
そしてついに、大きく緑がわけられ、すんなりした脚が見えた。
(……?!)
乳白色の肌が日に焼けた美しい肌の色。熱帯で歩き回る一族特有の細い筋肉の脚。
同様の腕、胴回り。
次の瞬間、彼は息を呑んだ。
褐色の量の多い髪からのぞく、灰色の瞳。きれいに整ったとがりぎみの小さな顔。
こんなに美しい女を彼は見たことがなかった。
雑誌の表紙を飾るどの女よりもきれいだった。
草で編んだような無造作な服を着ているのに、高貴な空気さえある。
身体の凸凹が無いのを見るに、まだ少女なのだろうか。
顔だけ見れば、上流社会の女の顔つきに似ていた。ただ、目だけは非常に澄んでいた。
彼は穴があくほど、彼女を見つめた。
彼女も驚いたように目を見開いていたが、警戒を解くと、ふいに笑みを浮かべた。
何かに喜んでいるような、屈託のない笑顔だ。
彼は、まるで映画館のスクリーン上の女優を観ているような気分になった。
彼女の笑みにつられて、彼も思わず笑みを返した。
彼女がこちらに歩いてきた。
日に焼けた額が美しい。もつれあった髪が、日の光を吸い込んで明るく輝いている。
故郷の昔語りに出てくる精霊。こんな姿をしていたのではないだろうか。
彼はぼんやりと、近づいてくる彼女をただ眺めていた。
彼女が手を伸ばしてきた。彼も引き寄せられるように片手を伸ばす。
「デイー、離れろ!」
その時鋭い声が飛び、彼は我に返った。
そのとたん、彼女の眉間にかすかに皺がより、舌を鳴らす音が聞こえた。
ガサガサと派手に草木をかきわける、複数の音がした。
次の瞬間、彼女は目の前から消えていた。身を軽くはねさせ、あっという間に後も見ず木々の中に去っていく。
「撃て!」
一発、弾が彼女の方に放たれたが当たらなかった。
彼女の姿は見事な速さで緑の中に埋め込まれていった。
野性動物のしなやかさを思わせた。あの細い体躯のどこにそんな力があるのか。
「大丈夫だったか、デイー」
はぐれた仲間が、彼のもとへ銃をガチャガチャさせながらやってきた。
「はぐれたから心配してた。危なかったな」
「ああ、大丈夫だ」
デイーとよばれた少年は仲間を見た。視線がまだふらふらと漂っていた。
「……今のは、何だったんだ」
かすれた声でデイーはつぶやいた。
「精霊か魔物か。あんなに美しいものは見たことがない。……ああ、女神ネーデよ」
デイーは彼の信仰する神の名を唱えた。
彼を取り囲んでいた数人の男たちは顔を見合わせ、ついで笑った。
「ああ、バケモンと似たようなもんだ。奴は、顔だけは美しい出来損ないの女さ。……男を呼び寄せて狩るんだ。で、その肉を喰らう」
一人の笑いながら答えた男の言葉に、デイーは驚愕の表情を顕にした。
「人食いさ。毎年、二、三人さらわれるんだ。喰われるところを見たことはないが、帰ってこないから多分そうなんだろう。……喰われるところだったんだぞ、お前」
「あの美しさに魅入られて、声も出なかったか。それともあんな女に喰われるんだったら、本望?……ああ、女神ネーデよ!」
「やめろよ」
デイーが怒ったので、仲間はいっせいに笑い声をたてた。
「女を知らないから、ああいうことになるんだぞ。出来損ないに見とれるなんて」
「出来損ない?」
「ああ、よく知らんが女の身体つきをしていないらしい。だから、抱いても抱きがいがないらしいな」
「誰か奴らと寝たのか?」
デイーの問いに、一人の男は肩をすくめた。
「知らねえよ。これは、爺さんから聞いたんだ。俺だって興味はあるが、さわらぬ神に祟りなしってね」
「最中に咬まれて誤解してると、喰われちまうからな」
どっとみんなは笑った。
「まあ、用心しとけよ。これでも持っとけ」
一人がデイーに小型の銃を渡す。
「奴らは一発撃てば、すぐ逃げる。さっきみたいにな」
デイーは大事そうにそれを握った。ずっしりとした重みが伝わってきた。
「……本当に人食いを?」
さっきの奇跡のように美しいものが?
デイーの言葉に男は微笑んだ。
「だから分からない。もう、気にするな」
「それともデイーは男女が気にかかるか。知ってるぜ、お前、あっちが好きなんだろ」
口の悪い男のからかいに
「ああ、お前のお袋がな」
と、デイーは言い返した。
ヒュー、と男は口笛を吹いて大袈裟に驚いてみせ、デイーの肩をたたいて歩き出した。
「さあ、いくぜ。まだ一匹も捕まえちゃいないんだ」
リーダーの言葉に男たちは歩き出した。
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