第3話 キルケゴール

 靴の音が響くほどの勢いで、キースは外務局の広い廊下を突き進む。

 改装に次ぐ改装を施した、築100年を超える外務局庁舎。

 装飾を施した太い大理石の柱や、同じく大理石の床はいかにも前時代的である。

 冬場は廊下の中央に絨毯を敷くが、極寒ゼルダでは床から伝わる石の冷たさに底冷えがして、キースはアホかと思う。

  目指すは奥の長官室。時は午後八時。

 今なら、まだ部屋にいるはずだ。


「あ、あの……」


 通りすがりの官僚に呼び止められたキースは、顔の仮面がパーティー会場から車でここに戻ってくるまでそのままの状態だったことに気づいた。仮面を額へあげると、何も言わずに彼はそのまま通り過ぎて行った。

 獅子の顔をあつらえた重苦しい木でできたドアへとキースは向かう。

 長官室のドアだ。

 キースはノックもなしに乱暴に開いた。

 すると、自分の上官は椅子に背いっぱいもたれかかり、脚を机の上に投げ出した姿勢で秘書のルーイからコーヒーを受け取るところだった。


「どうぞ。……あ、おかえりなさい、キース様」


 ルーイが気づいて、メガネの童顔を向ける。


「おや、おはやいお帰りで」


 まさにくつろいでいた、この外務局長官キルケゴールはあっけらかんとそう言った。


「……どうも」


 無表情でキースは答えながら、額の仮面を取った。その目の奥には、怒りが宿っている。

 その様子にキルケゴールはからかいのにじんだ笑みを見せた。


「あ、ルーイ。仕事に戻っていいよ」


 目の前の齢五十に近くなったこの親父はそう言ってルーイを下がらせる。

 黄色に染めたふさふさの髪を後ろに全部なで上げ、口ひげをはやしたこの男は国の政府からは独立した機関、外務局の長である。

 もとはブロンドであった髪、常人離れした青い目とその顔立ちは結構すぐれた容姿といえる。

 ルーイが奥に消えた後、彼はこちらに椅子を回転させて向きなおった。


「……で、どうだ、初めての感想は」

「……どうもこうも、なにもしてませんよ」


 このくそ親父、と胸中でキースは続ける。


「おや、もったいない。じゃ、君は何もせず逃げ帰ってきたわけか?」


 笑って、キルケゴールはまた背を向けた。


「君はだねえ、上官の心遣いをだねえ……」

「いくら私でも好みくらいありますが」


 そのキースの言葉にくるり、と彼はまたこっちを向く。


「……だれと」

「キッサン家の長女と」

「……そりゃ、酷なことした」


 同情を帯びた声で彼は謝った。


「そうか、彼女か。彼女は全裸で横たわっていても、何も感じさせないタイプの女性だからね。……相手が悪かったんだな、素人向きじゃなかった」


 キースは言う言葉が見つからず、そのままキルケゴールを見つめた。

 暇を持て余し、堕落した遊びに身を投じる上流階級の人々。その中の一員だ、彼は。

 彼はその方面では特に有名だった。

 グレートルイス、キエスタ、ゼルダのあらゆる各地に数多の愛人を抱えてるらしい。今のところ、お目にかかったのは数人だが、だれもかれも皆文句のつけようのない美女であった。


「しかし、折角の機会をね。残念だったな」


 キースの経験がふいになったことを惜しむキルケゴールはきっとこの国で一番うらやましがられる存在だ。だから外務局の倍率が高いのもそのへんの理由だ。


「分からんね。君は、私と同じタイプだと思ってたんだが」


 ぼんやりとしていたキースはキルケゴールの言葉に我に返る。


「……と、申しますと?」

「君は面接の時、女性を崇拝するようなことを言ったくちじゃないか」

「あ、あれは……」


 崇拝。いくらなんでもそこまでは言ってなかったと思うが。

 思い出して、キースは後悔した。


「あれは少しでも閣下の印象に残りたくて……」


 この職に就く前、キルケゴール相手に面接を受けたのだが、そこで女性についての意見が求められたのだ。


「まさか受かるとは思わなかったんですよ。まわりの連中は私より年齢もキャリアも上のキレ者ばかりでしたしね。玉砕覚悟で、せめて目立とうと思って……ただ、それだけです」

「いや、確かに目立ったよ。多くの者が否定的な答えをする中、君だけが違ったからね。だから私は君を気に入ったんだ。それが君を合格させた理由だ。あと、もう一つは、まあ君の容姿がずば抜けて良かったんでね。これは仕方ないことだ。私は面食いだから」


 楽しむように言って、キルケゴールは微笑んだ。


「だが君は、シアン君たちの方が好きなのかな?」

「やめてください、あいつとはそんなんじゃありません」


 キースは即答した。


「別にいいじゃないか、本当にシアン君は絶世の美人だからな。私も彼を好きだ」


 無言のキースにキルケゴールは笑った。


「分かってるよ、君たちは昔ながらの友人だ。……だが、足しげく彼の元へ通ってる君を、他の者はそうは思わないだろうな」

「別に構いませんよ」


 キースはそっけなく応じる。


「……彼は元気にしてるかね?」


 キルケゴールは彼のことを思い出すようにして目を細めた。


「ええ」

「かれこれ、五年経ってるんだな、彼と出会って」

「なんとかしてくださいませんか。あいつ、うるさいんですよ」


 キースはこの機会だとばかりに告げた。


「と、いうと?」

「閣下との報酬は妥当じゃなかったと。行く度に文句を垂れるんで。一度、話してやってくれませんか?」

「ああ」


 キルケゴールは軽く笑った。


「確かだな。今の彼の料金よりは、安かっただろうからな」

「ええ。今とは十倍ほどひらきがありますが」

「本当かね?」


 キルケゴールは目を丸くして驚いてみせ


「じゃ、今度、花でも持って謝りに行くか……」


 とつぶやいた。

 そして奥の部屋のルーイに向かって声をかける。


「おい、ルーイ! おかわりを頼む」

「……はい!」


 しばらくして、返事とともにバタバタ走る物音がした。


「彼を働かせすぎじゃないですか?」


 ため息をついて、キースは上司を見る。


「そういうな。人にいれてもらった茶は美味いんだよ。なんなら君が入れてくれても構わんよ」


 キースは苦笑して目をそらした。


「それなら秘書をもう一人増やした方がいいですよ」

「……君は」


 キルケゴールが間をおいて口を開き、卓上に頬杖をつくとキースを見やった。


「君はどうしてこの職に就こうと思ったんだい? まだそこらへんのところをよく知らなかったな」


 キースは上官に目を戻す。


「……それなら、面接のときに」

「私の天職だと感じたからです、か。だめだね、本心を知りたいんだ、本心を」

「……」

「私はヨハネの分身。君はラリー補佐のだというじゃないか。……少し運命めいたものを感じないかね?」


 会話はそこで中断した。

 眼鏡のルーイ君が、二人分のコーヒーを運んで来たからである。


「キース様、ミルクは御使用になられますか?」


 卓上にカップとソーサーを置きながら、大きな瞳のルーイは聞く。


「いや、いいよ。私たちは二人ともブラックだ……だね?」


 キルケゴールは答えながら、カップを口に運ぶ。


「美味い。君は天才だね、ルーイ」

「そんな、インスタントですよ」


 キルケゴールに褒められて、ルーイは嬉しそうに笑みを浮かべた。


「それでもだ。君の真似は誰にも出来ないだろうよ。どうだね、ここで一緒に飲まんかね?」

「ありがたくお受けしたいんですけれども、今日仕上げなきゃならない仕事が残ってますので……」

「そうか、それは残念だな。じゃ、また今度だ」

「はい」


 一礼して、ルーイはまた奥の部屋に消えて行く。

 ルーイは最近交代した秘書である。キースより二才下だが、まだ学生くさい。


「で、話は変わるが」


 キルケゴールが唐突に言った。


「明後日に、環境部からの希望で会議がある。私は行けんから、君にグレートルイスに飛んでほしい」


 キースは思わず口の中のコーヒーを吹きそうになった。


「明後日?!」


 叫んでキースは顔を赤くしてせきこむ。


「ルーイは? ルーイは何をしていたんです?!」

「彼の責任じゃないよ。私が別件を割り込ませたんだ。ルーイも知らん」


 ははは、とキルケゴールは笑う。


「笑い事じゃありませんよ」


 あきれてキースは立ち上がる。


「怒らないでくれよ、ルーイと一緒に行ってくれ」

「……私に、ルーイにそう言えと」

「頼むよ」


 キルケゴールは苦笑した。


「君が怒るのも苦手だが、彼が怒るのを見るのはもっと苦手でね。大丈夫だろう。さっき、機嫌よくしたから」


 さっきのはご機嫌とりだったのか。

 あれだけでは足りるとは思えないが。


「ルーイは案外、ヒステリックなんでね……」


 キルケゴールは肩を少しすくめながら小さい声でつぶやいた。

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