良い下僕
オデッサ邸での第五夫人の娘、サジの結婚式の一日目。
花嫁は家の奥深くに隔離され、本日は親族だけで宴会をするのが慣わしである。
花婿は二日目に花嫁の家に到着し、三日目にようやく花嫁が皆の前に披露され、花婿と引きあわされる。
親族以外の者が、この家に招待されるのは二日目以降である。
三日三晩、あとは間をあけずにひたすら飲めや歌えの宴会が繰り返されるのだ。
一日目の午後、明日招待を受けているはずの青年がオネーギン邸に訪れた。
彼は主人であるオネーギン氏の腹心であったから、家の者は何のためらいもなく彼を家の中に通した。
それからは、急だった。
親族が和やかに談話する部屋に乱入した彼は、すらりと短刀を腰から抜き放った。
彼は南部出身で腰に三日月形の短刀をつけているのが常だった。
だが彼に限ってのそれはただの装飾品で、イミテーションのはずだったのだ。
彼の姿を見た部屋の一同は、水を打ったように静まり返ったあと、にわかに叫びだした。
多くの者が部屋の反対側にある出口に殺到し、我先へと部屋を飛び出して行った。
あとに残されたのは舌がまわらずに訳の分からない雄叫びを上げる老人、逃げ出そうとするが酔って脚がからまり思うように動けず這いつくばる男、腰がぬけて立ち上がれない女、部屋の隅にかたまって身を寄せる子供たち。
それら一同の反応をよそに、彼は上座のオネーギン氏だけに目を向けていた。
オネーギンは上座に胡坐をかいて座ったまま、微動だにせず青年を見返していた。
「わが父の怒りの火に巻かれろ」
青年は一言言い放つと一直線に上座のオネーギンのもとへ走った。
彼が持っている短刀は柘榴石をはめこんだ南部の神ザクトールを象徴した宝剣だった。
その部屋のほとんどの者が青年を止めることができずに見守っているだけだった。
オネーギンの傍らに控えていた紺の衣装に身を包んだ男が素早く立ち上がった。
「緑の目を持つ人々」の民族衣装を着た彼は後ろの壁にかかっていた大きなタペストリーをはぎ取ると、彼にむかって投げつけた。
視界を遮られ、一瞬動きを止めた青年に紺の衣装の男は飛びかかった。
紺の衣装の男は訓練を受けた兵士であったかもしれない。
短剣をもった彼の腕を後ろにひねりあげると、後ろから彼の喉に腕をまわし押さえつけた。
そしてそのまま引き倒した。――
――腰が抜けて最後までぐずぐずしていた客の一人が、ようやく部屋を出て行った。
紺の衣装の男に押さえつけられたドーニスは、顔をしかめながら主君であるオネーギンを見上げた。
「君の本当の父親が誰かは分かっている」
立ち上がったオネーギンはドーニスを見下ろしたまま、後ろで腕を組んだ。
「ファトマ=エラーリ=バクドゥム。君は、彼の私生児の中の一人だ」
「父は我らと共にある」
ドーニスは言い捨てた。
「父の前では無力な羊だ。父の炎に焼かれるがいい!」
紺の衣装の男に力ずくで立ち上がらされたドーニスは唾とともに言葉を吐いた。
乱れた白のターバンがその際に床に落ちた。
「連れて行け。国賊だ」
紺の衣装の男の言葉に部屋の中に飛び込んできて呆けたように立ちつくしていた使用人二人が、あわてて近寄ってきた。
「奴は逃げない。安心しろ」
紺の衣装の男は使用人二人にドーニスを乱暴に預けると言いわたす。
ドーニスは使用人二人に挟まれた形で、部屋を出て行った。
嵐が通り過ぎた部屋の惨状の中で、紺の衣装を着ていた男が頭から腰まで覆う頭衣をとった。
「哀れな青年だ……いつから、気付いてらしたんです」
顔をあらわにしたジャックが眉を上げてドーニスの背を見送りながらオネーギンにたずねた。
「彼が私の元へ現れたときからだ」
オネーギンは答えて、ドーニスが去っていったドアを見つめる。
――|これ(・・)で、南部をたたく大義名分が成り立つ。
ファトマ氏にすぐにでも総攻撃をかけられる。
オネーギンは目を閉じた。
|20年前(・・・)もそうすべきだった。いくら国力がなかったとしても。
何度も悔いた過ちをオネーギンは心の中で繰り返し悔いた。
……他国の介入を決して求めるべきではなかったのだ。――
贄となった先程の腹心だった若者が去った姿をオネーギンは思い出して目を開けた。
「……|彼はいい下僕(・・・・・・)だった。……この国が落ち着いたら、すぐ出してやりたいと思う」
「南部が落ち着くのは何年後になりますかね」
ジャックは鼻で笑いながら応じた。
「君も」
オネーギンはジャックに目を移した。
「長い間ご苦労だった」
ジャックはその場に片膝をついて座った。
「いえ。もとより、私の主君は閣下のみ」
「今まで君の人生を拘束してすまない」
「勿体なきお言葉です」
オネーギンの手の甲に額を当て終えたジャックは立ち上がる。
「……君さえよければ、君の後任を彼(・)に頼もうと思うのだが」
「ありがたいお言葉ですが」
ジャックは小さく笑いながらサングラスをとった。
キースの頬をさらにするどくこけさせ、目じりにしわの生まれた顔立ちが現れる。
軽くため息をつき、ジャックはサングラスを胸ポケットに入れた。
「今しばらくは結構です。……しかし、私の役目が終えることができたならその時はすぐさま東部に飛ばせて頂きます」
「東部?会いたい人でもいるのかね?」
「はい」
ジャックは彼女を思い出し、やわらかな微笑みをたたえた。
「恋人に会いにいこうと思います。もう何年も……彼女を待たせすぎているので」
ジャックはオネーギンに一礼すると、部屋を出るべくドアへと立ち去った。
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