ザクトールの息子

 その日はいつもより三時間も早く目が覚めた。


 ドーニスはベランダに立ち、オデッサの街並みが徐々に朝日に照らし出されるのを見守っていた。

 キエスタ西部の都市オデッサ。

 間違いなく世界で一番美しい。

 金貼りの屋根。複雑な幾何学模様のタイル。

 遠くに浮かぶケダン山脈。

 悠久のはるかかなたから、このオデッサが戦場になったことは一度もない。

 平和を約束された神の土地。神の山脈が古くからこの西部を守ったのだ。

 じわじわと昇る太陽は、神に愛されたこの都市を祝福するかのように明るく黄金の光を降りそそぐ。

 なんて美しい街なのだろう。

 ドーニスは心が震えた。

 建物も、人々も、猫たちも、この空気すら。

 毎日見ている風景なのに、畏怖すら覚える。


 この街が自分の故郷なら、良かった。


 ベッド上で丸くなっていた猫が、起き上がってベッドから飛び下りるとドーニスの足下に近付いた。

 身をすりよせてくる猫を抱き上げ、ドーニスはその喉をかいた。


 この風景を心に焼きつけておきたい。


 ドーニスはそう思い、家の屋根屋根が光を反射してまばゆく光り輝くのを眺めていた。ーー




 部屋を出て、猫を抱えたドーニスは二階下のある家族が住む部屋のドアの呼び鈴を押す。


「おはようございます、旦那さん」


 見知った少年が出てきて、元気に笑顔を見せながらドーニスから猫を受け取った。


「今度はどれくらい預かればいいの?」


 少年の言葉にドーニスはすまなそうな顔で答えた。


「今回は……かなり長くなるかもしれない。すまない」

「この度は……旦那様のお気持ち御察しいたします」


 後ろから少年の母親が出てきて、ドーニスにいいにくそうに告げた。


 世間の南部を見る目は、かつてないくらいの憎悪に満ちていた。

 きっかけは、ついこの間起きた「緑の目の少女」の一件だ。


「南部に攻撃を仕掛けるというお話は、本当なのでしょうか」


 問う母親の言葉を無視して、ドーニスは親子と別れた。

 階段を降りると、他の女たちと立ち話をしていた隣の住人の中年女が自分に気付いて声をかけた。


「おはようございます、旦那さん。……どうか、旦那さん気を落とさないで」


 オデッサには正規の軍とは別に、義勇兵を募集するとの噂が流れていた。

 オデッサに住む南部人たちの状況は日に日に悪くなっていた。

 南部独立戦線の指導者、『ファトマ=エラーリ=バクドゥム』に赤いペンキを塗ったポスターが街中に貼られ、大学では南部出身の学生がリンチを受けて重症、街中では南部人が経営する店舗が襲撃を受けるという事件が頻発した。南部人学生は授業に出席せず、オデッサに住むすべての南部人は息を潜めるように生きていた。


 二日前、西部の病院に入院していた奇跡の生還を果たした件の緑の目の少女は、二次感染を起こしてあえなくショック死した。

 その絶望は世界が南部に憎悪を抱かせるのに十分だった。

 つい昨日も、ドーニスが乗っていた車に卵が投げつけられたことを思い出す。


 今更だ、と思う。

 今まで周囲が大人しすぎた。

 世界があの南部を放置しすぎたのだ。


 足元にまとわりつく数匹の猫を邪険に蹴り飛ばしながら、ドーニスは薔薇の咲く庭を抜けマンションを出た。


 今日はオネーギン邸で第五夫人の娘サジの結婚式が行われる。西部では正式な式は三日間かけて行われる。

 一日目は親族のみでとり行い、ドーニスが招待されているのは二日目だった。


 あの方の輝かしい記念日を汚してしまうのは申し訳ないが。

 ドーニスは心の中でそう思った。

 花嫁は三日目まで表に出てこない。

 あの方にまで直接騒ぎが届く事はまずはない。

 それでも。

 式は後日に再びやり直されるだろうし、あの方に迷惑がかかることは避けようもない。


 ドーニスは目を伏せると、オネーギン邸への道を急いだ。

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