ゼルダ セパ ~キルケゴール~
「どうしてあなたがここにいるの」
ウーは彼を見上げたまま言った。
「私は彼の上司だったし……まあ、私の権限でたいていのところには入れる」
キルケゴールは答えて、その場にしゃがみこんだ。ウーが読んでる日記の間から写真を取り上げると、再び立ち上がる。
彼が着ている外務局の制服はいつも着ているブルーグレーのものとは違った。告別式用に仕立てられた黒い生地のものだった。
「だれか、死んだの」
「二十年ほど前の今日ね。彼のために、私は毎年この日はこの服を着るようにしている」
気のない反応をしながら、ウーはその服を毎日着たほうがいいのではと思った。彼のとうもろこし色の髪には、まだ黒い制服のほうがましにみえる。
「美しいじゃないか、彼女は」
写真を見下ろしたまま、キルケゴールが言った。
「わたしも、若いときにはアレクセイの日記を随分と貪り読んだ。ロマンの宝庫だからね。やはり、君と私は親子ということかな」
ウーは返事をしなかった。
ウーのそういう反応にはすっかり慣れているキルケゴールは、気にすることなく続けた。
「彼女の写真は何枚もあったんだ。アレクセイは私にもキースにもその写真を譲った。……まったくもって、ひどい暗示だと思わないか。少年時代にこんな女性の写真を見せられては、理想の女性像は彼女で固められてしまうのは仕方ないだろう。私もキースも」
写真からウーに目を移し、キルケゴールは微笑んだ。
「……そういうことだ。私もキースも。夢の女性に似た女性が目の前に現れたから、たちまち惹かれただけのことだ。キースがお前に惹かれたのは、お前自身に惹かれたのではない。お前が彼女に似ていたからにすぎない」
「……まったくもって、どうでもいいわ。そんなこと」
ウーは彼の言葉を引用して答えると立ち上がり、キルケゴールの手からユンファの写真を奪う。
そんなことは気づいていた。
――いつだったか。
フォークナー氏の爆破事件が起こったあとしばらく、キースは家に帰ってこなかった。
暇を持て余した自分は、ふと思いついてクローゼットにあるキースの服を片っ端から着てみた。
常時制服を着用しているキースの私服はあまりにも少なく、そんなにセンスの良いものでもなかったが、それなりに楽しめた。着て遊んでいたことに気付かれると、彼が怒るかもしれない。そう思ったウーは慎重に元のように服を戻しつつ、次々に服を着続けた。
最後にキースの代えの制服を着た。
ブルーグレーの生地の制服は驚くほどの重さで、ぶかぶかの袖と肩周りに笑いながら鏡の前でポーズをとっていると、胸ポケットについていた双頭の獅子の国章が落ちた。あわてて、付けなおそうとしたウーは胸ポケットになにか入っているのに気がついた。
取り出すと、それはパスケースに入った写真だった。
あのときも見た瞬間、写真に写っているのは母シャン・セイラムだと思ったが、見直して祖母のリー・ユンファだと気づいた。
彼女は裸身だった。
上半身しか写ってないが、横たわってこっちを見て微笑んでいるその姿は息をのむほど美しかった。
自分とは違うなだらかな身体の線と、玉のように豊かな乳房をもつ姿をウーはうらやましく思った。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、後ろめたく思いながらウーはパスケースを胸ポケットに戻した。
あの時に思った。
自分が彼を見る目線と、彼が自分を見る目線は、最初から全然違うものであったのだろうと。
なんといっていいかわからない感情が、胸の中を渦巻いた。
少し悲しかったんだと思う。
そのあとしばらくしてから、実の祖母であり偉大なる一族の母であったリー・ユンファに、ウーは激しく嫉妬した。彼女のようになりたいと、切実に願った。
シアンにべた惚れな自分の主治医に訴えてはみたが、それだけは個人差があるだろうし、自分の年齢が大きくなりすぎていることを考えると難しいと思う、と一笑に付された。――
「キースのことはふっきれたのか。それはよい傾向だ。やっぱり、西オルガンにやってよかった」
キルケゴールは微笑みながらウーに言った。
ウーはうつ伏せになっていたため、汗で身体の前面にはりついた白いノースリーブのワンピースを手でひっぱって身体からはがした。
「そろそろ、いいかなと思ってるんだよ」
「なにが」
ウーはキルケゴールにそっけなく返す。
「これ以上君に嫌われるのは、父親として私もつらいからね。……君が八か月目に、胎内で子供はなくなった。君は死児を出産した。……そういう情報をグレートルイスに伝えようと思う」
ウーはキルケゴールに目をやった。
「夏が終われば、君はこの国を出れる。夏の間くらいはここにいなさい。あえて、暑い時期に暑いところへ行くこともないだろう。秋になれば、グレートルイスにでも行くといい。だが、国籍はゼルダに代える。たまには私のもとへ顔を見せに帰国してほしいね」
キルケゴールは真っ青な瞳で息をのむウーを見つめ、満足そうに微笑みを浮かべた。
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