解雇
掃除用具類をカートにのせ、上の階へ移動しようとしてエレベーターを待っていたキースは背後から肩を叩かれた。
支配人だった。
40代の彼は、小柄で顔の中心にパーツが寄った顔立ちをしており、神経質だった。随分前に妻と別れ、それからずっと独り身らしい。
と、彼のことを気心の知れたキエスタ人スタッフのメイドが教えてくれた。
あいつ、キエスタ人の新人メイドに片っ端から声かけてるんだよ。キエスタの女なら大人しくて妻にちょうどいいかと思ってるのかもしれないけど、あいにく国を出てここに来るような女にはあたしを始め、そういう女はいないからねえ。
彼女はあけすけに笑ってそう言うと、今のところ連敗、と話を締めくくった。
彼は自分のことを気に入らないのだろう、とキースは理解していた。
長身の自分を見上げるたびに、背の低い彼の眉がひそめられるのを知っていた。
仕事についた当初、ミスをした自分をスタッフの女性全員が全力でフォローをしてくれたことも原因のひとつであると思う。
「何でしょう」
目の前の彼にキースは答えた。
始終、彼のこめかみはぴくぴくと痙攣していた。まばたきもチック症を疑うほど、回数が多い。
「今日で、君は解雇だ。ヴィンセント」
支配人の彼はそう告げた。
「今すぐ、着替えて事務所に行きなさい。今月分の給与をもらうといい。あ、いや……」
彼はキースからカートを取り上げた。
「このまま最上階に行きなさい。着替えるのはそのあとでいい。私が、これはしまっておくから。いいかね。彼(・)が、君を待っている」
……あまりの急展開に驚きをかくせなかったが、とりあえずキースは頷いた。
「今まで、ご苦労だった。ヴィンセント」
にこりともしないで事務的に彼はキースに告げると、カートを押して去って行った。
一瞬の自失ののち、キースは扉が開いたエレベーターに乗る。
中に入り、最上階のボタンを押した。
すべては彼の指示だろう。
エレベーターは静かに音を立てて上昇し、最上階で扉が開いた。
キースはエレベーターから降り、目の前の部屋のドアをノックする。
中からかすかに応える声がし、キースはドアを開いた。
初めて、この部屋に入った。
床に敷かれた幾何学模様の美しい絨毯は、キエスタ西部で織られたものだろう。
壁にかけられた美しいキエスタ人女性の絵がアルケミストのものであることにキースは気づき、目を見張った。
彼は芸術にも興味があるのだろうか。
なかなかいい趣味をしていると思った。
美しい絨毯の向こう側で、黒豹の毛皮の上に置いたソファーに座っているのはシャチだった。
彼の傍らには、彼と同じくスーツを着た部下の男が一人立っていた。
シアンの姿はない――と確認したキースは、現在の時刻を考えてそれはそうだと思った。
朝の十時だ。彼はまだ熟睡中だろう。
「驚かせて悪かった、ヴィンセント」
シャチが言った。
「いいえ」
キースは答える。
シャチは吸っていた煙草を傍らの部下が持つ灰皿に置いた。
「最近、適材適所という言葉について考えてた。……確かに、君は今の仕事ではもったいないように感じる。この大陸のすべての言葉が操れる君にはな」
「……お言葉ですがすべてではありません。少数民族の言語については、かじった程度です」
キースは少し間を置いてから、返事した。
「……そうか。あと、その服は君には似合わない。姿勢が良すぎてな」
シャチは清掃員の制服を着たキースを見て、愉快そうに口もとを上げた。
「今から君には、君の能力をふんだんに使う仕事をしてもらいたいと思う。そのために、今、君を解雇させた」
「……」
拒否はできるのか。
その考えをキースはすぐに打ち消した。
なら、自分がここを去る準備を彼は許可してくれるだろうか。
「今、キエスタ人の少年の面倒をみています。彼……」
「その子供については、ターニャに面倒をみさせる。心配しなくていい」
シャチが即座に言った。その答えを用意していたのだろう。
「ありがとうございます」
「……その子供が君の希望している子供でなくて、残念だった」
サングラスをかけたシャチが自分の顔をまっすぐに見つめているのを、キースは感じた。
「いいえ。……彼に会えたことは、私には幸運でした」
キースも、彼の視線を逆にたどるように見返して答えた。
ナジェール。
彼の存在は、ナシェを救えないことへの贖いとなっていた。
ターニャに、彼は自分の次に懐いている。彼女ならナジェールを任せても大丈夫だろう。
キースは小さく息を吐いた。
……あとは、心構えとしてその仕事内容を聞くことは可能なのだろうか。
「できれば、その詳細をお聞きしたいと思います」
「ひとつじゃない」
シャチは言った。
「いくつか君に頼みたいことがあるが、それを順々にするか並行してやるかは君に任せる。ただ、最優先してもらいたい事柄がひとつあってね」
シャチは組んでいた足を外し、前かがみになって両手を身体の前で合わせた。
「Aという人物がいる」
「……」
「まあ、君は知らないだろう。だから、君にこれからAを調べてほしい。……Aという人物は、なんというか我々とは複雑な関係でね。同業者ともいえるし、味方でもあり、敵でもある。だが、最近、俺はAに嫌気がさしてきた。……早い話、奴が大嫌いなんだ」
シャチはかすかに笑ったようだった。
「西オルガンで売春宿をさせたのは、Aだ。俺はあんな仕事はしない。……昔、雇ってた弁護士がやらかしたとで、こっちはえらい被害を被った。全く、グレートルイス人は信用できない。キエスタ人の弁護士が増えればいいんだが。……まあ、奴を嫌いな理由はそれだけじゃないが」
シャチはキースを見つめて言った。
「君に、お願いしよう」
キースは直立した姿勢で、シャチの言葉を受け止めた。
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