兄
彼が来たのは、真夜中の日付の変わりそうな時刻だった。
郊外に位置する森の白壁のコテージの前に、黒い車が到着して一人の男が降り立った。
車は彼を残して走り去った。
車の音に気づき、ターニャが玄関を開けると、スーツを着てサングラスをかけた男が入ってきた。
浅黒い肌、縮れた黒髪。骨は細くもなく、太くもなかった。身長はキエスタ人にしては高い方ではないだろうか、とキースは思った。
リビングで立って迎えるキースとミナを、彼は見た。
「おかえりなさい」
ミナが告げた。
彼はミナに頷くと、隣に立つキースの全身を見るように視線を移動させた。
「……ラミレスか」
ふ、と気づかないくらいの小さい笑を口元に浮かべてそうつぶやくと、彼はターニャに顔を向けた。
「ターニャ、部屋に来い」
そう言って二階へと続く階段を上り始めた。
ターニャは頷いて彼の後へと続く。
二人の階段を上る姿が見えなくなって少し経ち、二階の部屋のドアがしまる音がした。
「また後で、彼はあなたを呼ぶわ。待っていて、ヴィンセント」
隣のミナがキースを見上げて言った。
キースは彼女の言葉に頷く。
ミナはソファーに座ると途中だった編み物を再開し始めた。
キースもソファーに座った。
思ったより、シャチは普通の外見の男だった。
知性と品性ある容貌だった。ビジネス街で彼が歩いていたとしても何ら違和感はない。
ターニャは彼の情婦なのだろうか。
それにしては、ターニャはなんというか彼にはそぐわない気がした。
ターニャには悪いが、彼ならもっと容貌の美しい若い女をいくらでも相手にできるのではないだろうか、とキースは思う。
キースはソファーに深くもたれこみ、首に手をやった。
さっきから、首から肩にかけて何かが貼りついているような重だるさがあった。
首を左右に倒しキースは回す。
特別な作業をしたわけでもないし、寝違えたとかそういうことでもない。
不快な倦怠感にキースは小さくため息をついた。
「肩が重いの?ヴィンセント」
ミナが編み目から目を離さず、いつものようにキースに声をかけた。
「はい」
キースは答える。
「後ろの二人のメッセージかも。何か心当たりはない?」
ミナの言葉にキースは目を少し見開いた。
キャンデロロ様とパウルが自分に伝えたいこと。
キースは考えをめぐらせたが、何も思いつかなかった。
*****
キースは階段を静かに上り、二階へと上がった。
あれからしばらくして、ミナが「彼が呼んでるわ、ヴィンセント。二階へ行って。」と告げたからだ。
シャチとミナは、心で会話できるのだろうか。それなら言葉など必要ないということか。先程見た、兄と妹の二人の再会を実に味気ないと感じたのも頷ける。
シャチとターニャがいるだろうと思われる部屋の前まで行くと、キースはドアをノックした。
返事はない。
数秒後、キースはためらいがちにドアを開けた。
開けたとたん、びっくりして立ちつくした。
部屋の中央で肘当て付きの一人がけソファーに腰かけたシャチの背後にターニャが立っていた。
シャチは顔を上に向けており、目を閉じていた。
……彼の目に何かが刺さっていた。
いや、正確にはまぶたの眼球と眼窩の隙間に刺さっているのだが、キースには目玉に刺さっているようにしか見えなかった。
どうやら細い金属の棒であるようだが。
次の瞬間、ターニャが素早くそれをシャチの目から引き抜いた。
そういう民間療法があるのを知っている。
キエスタで太古の時代に生まれて、現在でも絶えることなく受け継がれているらしい。
身体に鍼(ハリ)を刺し、刺激を与えて身体の治癒能力を高める。
特に女性同士の間で頻繁に行われると聞いた。
夫以外の男性に自身の身体を見せることが難しく、医者にかかることもままならない彼女らは、病気を防ぐための体調管理としてこの治療を日常的に行うのだそうだ。
「目にはこれが一番だな」
シャチが言い、上に向けていた顔をキースの方に向けた。
緑の瞳。
キースは彼の瞳の色を確認した。サングラスに隠されていた彼の目は、意外にも垂れ目だった。
甘い感じのする目を、再びシャチはサングラスをかけて覆い隠した。
「初めまして、キース=カイル補佐官」
シャチが言った。
「それとも、君をヴィンセント=エバンズと呼んだ方がいいかな」
「ヴィンセントと呼んでください」
キースは頭をたれた。
「まずは、御礼を申し上げます。私を南部独立戦線から解放してくださった件、ありがとうございます」
「礼は、君の故郷の友人に言うんだな」
シャチがキースを見つめて言った。
「君の友人が俺と取引した。そのおかげで君はここにいる。……君以外の他の修道士は死んだらしいな。さっきニュースでそういってたのを聞いた」
キースの胸が震え、彼は唇を噛んだ。
「もうすぐ、君の友人が君に会いに来るはずだ。手配した」
彼のいう友人がシアンであることは、キースにはすぐ分かった。
今さらながら彼の交友関係の広さと、自分の知らない彼の一面にキースは頭が下がる。
「……で、君をこれからどうするかだが」
シャチは身を前に乗り出して、膝の前で手を組んだ。
「何も考えていない。……君はどうしたい」
キースはしばらく経ってから口を開いた。
「……私は重罪人ですし、ゼルダ人です。通報を恐れて身を隠す身分です。図々しいとは思いますが、あなたの元へ置いていただけないでしょうか。私が出来ることなら何でもいたします」
「なんでも、か」
シャチは口の端を上げて言った。
「悪いが、ヴィンセント。今の君に値打ちのありそうなことは何も無いな。エリート官僚だった君にこんなこと言うのは申し訳ないが」
キースは頷いた。
「承知しております。私はそちらの得になりそうな情報を持っているわけでもありませんし、重要な人物と繋がりがある訳でもない。……それこそ、清掃員としてでも雇ってくだされば」
く、とシャチが笑った。椅子にもたれこみ、肘かけに肘をついて顎を手で支えると、シャチは面白そうにキースを見返した。
「成る程。……俺が経営してるカジノでは、清掃員は常に不足していてね。……君を雇おう」
「ありがとうございます」
キースは頭を下げた。
「図々しいついでに、もう一つあなたにお願いしたいことがあるのですが」
「なんだ」
「修道士が拉致された時に、教会にいた孤児も連れ去られました。……少年の名はナシェ。戦争の落とし子の子供です。……彼はまだ生きている。彼を救い出していただけませんでしょうか」
シャチはそのままの姿勢でキースをしばらく見ていた。
「……見返りは」
「……今はまだ、ありませんが」
キースは小さく答える。
「そうか。……今の話、聞いた事にはしよう。……結果はないと思え」
シャチはタバコを胸ポケットから出すと一本くわえた。傍のターニャが火を点ける。
「君との話は終わりだ。出てっていいぞ」
キースは軽く頭を下げると、後ろに下がって部屋のドアを開け、部屋を後にした。
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