第91話レン=メイヤ=ベーカー

「ねえ、レン」


 頭上から甘ったるい彼女の声が降る。

 彼女の吸い付くような太ももに顔を埋めていたレンは、目をつぶったまま答える。


「なに」


 肌の感触は彼女が一番だと思う。

 でも声の感じや相性は、他の娘のほうがいい。


 身をあずけている自分の髪を、彼女は指先でもてあそび始めた。

 レンはまた眠気におちいりそうになる。


「いいの?……もう、8時よ」


 その彼女の言葉にレンは目を見開いた。

 あわてて、彼女から離れ身を起こす。

 視力の悪い目を細めてベッド脇の時計を見ると、たしかに針は8時5分前をさしていた。


「うわ、まずい……」


 今日は叔父が早く来いと言っていた。

 しまった。寝過ごした。


 レンは、ベッドから飛び降りると床下に散らばった衣服を拾い集めた。

 急いで身に着け始める。


「ねえ、レン」


 シャツのボタンをかけていると、彼を眺めていた彼女が声をかけた。


「ん、なに」


 レンはあせって、スーツのズボンに足を突っ込む。


「監督にわたしのこと話してくれた?」


 ……忘れてた。


 レンは微笑みをつくって彼女を振り返った。


「もちろん、ケイト。今度、彼を呼んで夕食しよう」

「レン」


 彼女がベッドから降りて抱きついてきた。


「あなた、やっぱり大好き」


 目を見張るほどの素晴らしい裸身をさらして、濃い金髪の彼女は彼を見上げて口づける。

 ネクタイを締める彼の手に代わって、彼女がネクタイを締めた。


「いってらっしゃい、お寝坊さん」

「ありがとう、ケイト」


 レンは唇の端を上げてそういうと、軽くケイトにキスした。


「じゃあ」


 上着をはおり眼鏡をかけて、部屋を出る。

 部屋を出ると、ホテルかと思うくらいの豪華な絨毯をひいた廊下に出る。

 ここは高級集合住宅。

 自分が借りている住宅のうちの一つだ。


 ――彼女は。

 水曜日の彼女だ。


 レンはエレベーターのボタンを押す。


 ケイト=ローランド。

 グレートルイスの穀倉地帯出身の田舎娘。

 元モデルの女優。

 年齢は、27歳。

 濃い金髪と水色の瞳が魅力的な女性だ。

 一般的に好感を持たれる容姿ではあるが、女優で花開こうとするならば今ひとつ個性が足りないのではないか、とレンは思う。

 でも分からない。

 彼女の演技はなかなかいいし、当たり役をもらえれば人気が一気に出るかも。


 声質がもう少し低ければ、更に好みなんだけど。

 昨夜の場面を思い出してレンは思った。

 エレベーターの扉が開き、レンは乗り込む。

 最下の階を押し、壁の鏡に姿を写したレンは、彼女が結んだネクタイの出来に顔をしかめた。

 解いて、結び直し始める。


 レン=メイヤ=ベーカー。

 グレートルイスの華麗なる一族、ベーカー家の一員である。


 ベーカー家は、この国の国民の7割が信仰するメイヤ教の主となる使徒直系の子孫だ。

 中世を遡る時代から、その時代の実力者たちと婚姻関係を結び、強大な力を得ていった。

 その余りある財で、中世は芸術家たちを擁護した。

 ベーカー家はグレートルイスのフェルナンドを拠点としたため、今でもフェルナンドは藝術の都として名高い。


 水曜日の彼女ケイトの他に、今彼には月曜日と金曜日の彼女がいる。

 以前はこの倍の彼女がいたが、三十路近くなって朝の身体がつらく感じ、減らした。


 ベーカー家に生まれた者の義務だと思う。


 何を聞こえのいいことを、と言われそうだが、でも実際そうだ。

 過去に名を残した芸術家たちは全てベーカー家と関係があった。

 将来有望な彼女たちを援助する。

 今までの彼女たちも、そしてこれからの彼女たちも、それを分かった上で自分と関係を持つ。


 ネクタイを結び終えた彼は、黒髪の短髪を手櫛で整え始めた。

 金髪が多いベーカー一族の中で、黒髪の自分をレンは気に入っていた。

 ベーカー家に婿入りした父の家系が黒髪だった。

 父親の実家、ブラック家は代々教育者が多く、グレートルイスの国民3割が信仰するテス教だ。

 使徒ギールを主とし、清貧、勤勉、勤労をかかげる。


 レンは、ベーカー家の一族の特徴に漏れず整った容姿をしていたが、ブラック家の叔父によく似ていると言われた。

 それが、彼にはまた嬉しかった。


 叔父は、グレートルイスの副大統領を務める。

 自分はその秘書のうちの一人だ。

 叔父のブラック副大統領は、豪快で大食らい、情が厚く、衣服に無頓着だ。


 レンは彼を父親より愛していた。


 エレベーターを降り、入り口で停まっているタクシーに乗り込む。

 行き先を告げずとも、顔なじみの運転手は車を発進させた。

 空は曇っており、小雨が降っていた。

 交差点で停車した際、細かい水滴が付いたガラス越しに車道の脇の店に目をやる。

 降り始めた雨に、店員は店先の新聞を中に入れようとしていた。

 新聞の一面を飾る写真に、目が留まる。


 美しい女性。

 少し口を開いた彼女の表情は、悲しみとも怒りとも見分けがつかなかった。

 見た者の、心をつかんで離さない。


 ……バカだな、あいつ。


 レンは異国の友人を思い浮かべ、そう心でつぶやいた。







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