* 42 *

「名本、これ訳して」

 強めの女性の声に、我に返る。


 ドクン。

 心が、名本さんの名前に反応する。


「はい」

 しかつめらしい声音で返事をしながら、名本さんが立ち上がる。彼女の方を見ようとした自分の身体を押し留める。

 名本さんはよどみなく、言葉を細かく区切る。高くなく低くもない、のんびりとした声が心地よい。


 朝のショートホームルームが始まっても、名本さんの姿は教室になかった。机の上に放置したままのバッグだけ。

 荷物があるから、学校には来ているらしい。

 名本さんがクラスに姿を現したのは、1時限の公民の授業が終わってからだった。何事もなかったかのように、次の授業から普通に受けていた。


 かすかに、心につっかえる。

 小さなさかむけに布が引っかかるみたいに。




「なぁ、森井」

 右隣からぐいっと身体を乗り出して、オレの机に肘をついた冨永が声を低くする。

 嫌な予感がする。

「名本のことが好きって、本当?」

「は?!」

 富永が投げつけた言葉に、唖然あぜんとなる。


 ――何故、知っている。


「さっきの休み時間、他のクラスの女の子が言っていたから」

 オレの考えていることを察知したようなタイミングで、冨永が付け加える。

「和哉」

 小谷野の呼びかけで、不意打ち発言の衝撃から立ち直る。そして、今が昼休みの時間だと気づき、心の内で動転しながら教室の中を見渡す。


 名本さんがいるのに……。

 誰かに聞かれただろうか。


 だけど、クラス内に名本さんの姿は見当たらない。休憩中の喧騒けんそうで、他の人間の耳にも入ってなさそうだ。

 安心したら、ふと興味が湧く。

「もし、それが本当なら何かある?」

 そう訊き返したら、冨永がどう反応するか。

「森井に彼女ができれば、女子たちの森井人気が下がってラッキー。これで、女の子日照りも解消」

 意気いき揚々ようようと答える、冨永。いけしゃあしゃあとした顔は、いっそ清々しい。

「なあ、和哉」

 再び小谷野に名前を呼ばれて、彼の方を向くと同時に、

「じゃあ、メシ食いに行ってくる」

 そう言って冨永は席を離れた。自分の用件が済んだら、後はお構いなし。こっちが清々するほどのマイペースぶりだ。

「ごめん。何?」

「お昼行こう」

 小谷野の言葉に「ああ」と頷き、立ち上がる。

「ねえ、小谷野。夕香を見なかった?」

 米倉さんの質問に動きを止める。

「そういえば、いつの間にかいないね」

 問いかけられた小谷野は、辺りをキョロキョロ見回してから米倉さんに答える。

「…噂が原因だったりして」

 オレを見据えて、さらりと告げた米倉さんの台詞せりふが胸に刺さる。

 まだ、噂のことを本人に謝れていない。


 ……もしかして、迷惑がられているのか。

 こんな風に注目されて、嫌気が差しているのだろうか。


 浮かんだ考えに、ヘコむ。

「ごめん、冗談が過ぎたわ。夕香は噂なんて気にしないわよ」

「……あぁ」

 米倉さんの言葉に同意しても、心に刺さった言葉はそのままで、抜けないとげのようにじわりと痛む。


 ――噂が原因。


「休み時間なくなるから、学食行こう。名本さんなら、どっかで絵をいてると思うよ」

「意地悪いことを言ったから、おごるわよ」

 かなり情けない顔をしていたのか、2人になぐさめられた。

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