東南アジア編
第1話 泰山木
健作は、都心から電車に乗ると90分くらいはかかる郊外の自然豊かな里山の中をJeepで走っていた。
向かっていたのは、母親が眠っている霊園だ。
屋根もドアもないJeepは、周りの自然と一体となって走る。
梅雨時とは思えない青空が広がり、森を渡る風は爽やかな香りを運んでくる。
霊園の入り口へと右折して山の中に入っていくと、何か懐かしい香りがしてきた。
遠い昔の記憶をくすぐるような香りだ。
緩やかなカーブを抜けた先には、直径20cmはあろうかと思われる大きな白い花が咲いている木を見つけた。
「えっ、こんなところにこんな大きな花が咲いていただろうか?」
健作は思わずJeepを路肩に寄せて停めると、過去の記憶と白い見事な花をオーバーラップさせていた。
「そうかぁ、この季節にお墓参りに来るのは初めてだから、今までこの花に気がつかなかったんだぁ。」
柑橘系のようなとても爽やかな香りは、この花から漂ってくるものだった。
健作は目を閉じると、遠い昔に思いを馳せた。
中部ジャワ島のジャングルでの野営生活を終えてジャカルタに戻ると、同行したインドネシア大学の友人たちと別れを告げて、ガルーダインドネシア航空の香港行きに飛び乗った。
健作はシートに座って目を閉じると、気がついたときにはもう啓徳空港への着陸態勢に入っている。
飛行機は山間からビルを掠めるように着陸すると、慌ただしく荷物を受け取りバスで九龍へ向かった。
宿は決めていなかったが、すぐに一泊70HK$のゲストハウスが見つかった。
荷物を放り出してベッドに横になると、あっという間に深い眠りにつく。
ベッドより一回り大きい空間しかない部屋には、窓も無ければ、バスルームも無い。
しかし、安宿の硬いベッドも、ジャングルの中で虫にさされながらハンモックで寝たり、地面の上に敷いたマットに横になることに比べたら、天国だ。
蒸し暑さに目が覚めると、朝になっていた。
再び文明の世界に戻ってくると、無性に日本が恋しくなってきて、和食が食べたくなった。
しかし財布の中をのぞくと数千円しか残っていない。
共同のシャワールームに入って蛇口を回すと水しか出てこなかったが、ほてった身体にはそれも心地よく、汗と垢を流して身支度を整えると、外に飛び出した。
早朝なのに、もうぎらぎら照りつける太陽にムッとする空気がシャワーを浴びたばかりの身体にまとわりつく。
朝の喧騒の中を2ブロック先にある日系のホテルへと向かった。
ホテルのロビーに入ると、ひんやり空調の効いた空気が心地よく、汗がすーっと引いていく。
日本円で500円を払ってレストランに入ると、和朝食のバイキングに飛びついた。
塩鮭、納豆、ワカメと豆腐の味噌汁、そしてジャポニカ米のご飯。
数ヶ月ぶりに食べる和食は、「日本人に生まれて、本当に良かった。」と思わせてくれるには十分なものだった。
おなか一杯になると、2階建ての路面電車とバスを乗り継いで香港中文大学へと向かった。
郭教授の研究室の扉をノックして開けると、そこには教授とシンガポールからの留学生の陳淑雲がいた。
陳は、モデルかと思わせるような美形の才女で、健作とは彼女が高校生のときからの知り合いだ。
中部ジャワ島のジャングルの中での様子を一通り教授に報告すると、もう夕方に近くになっていた。
「健作君、お疲れ様だったね。
どうだい、久しぶりに旨いものでも食べに行こう。陳君も一緒にどうかね?」
「はい先生、ご一緒させていただきます。」
「それじゃあ決まりだ。健作君は、ジャングルの中での野営生活で苦労をかけたから、今日は海鮮にしよう。」
大学の前でタクシーを拾うと、郭教授は「鯉魚門(レイユームン)」と告げた。
港に隣接する魚市場で、色々な魚介類を仕入れると、とある扉をくぐった。
郭教授の行きつけの店なのだろうか、中から出てきた店のマスターに食材を渡すと、色々と指示をしていた。
出てきた料理は、いずれもすばらしく、あっという間に片付いていく。
「健作君、君はこれからどうするんだね。」
「はい、明日日本に戻りますが、すぐにワシントンに立ちます。
色々迷ったのですが、制服を着ることにしました。」
「そうか、それもまた人生。がんばってくれたまえ。」
翌日空港に行って搭乗手続きをするためにキャセイパシフィックのカウンターに向かうと、なんと陳叔雲が見送りに来ていた。
「典子さんにお土産かったの!?」
「えっ、いや、買ってないよ。」
「ダメじゃない! こっちにいらっしゃい。」
陳淑雲は、健作の手を引っ張るとデューティーフリーショップへと向かった。
「そうねぇ、典子さんだったら、この爽やかな香りがぴったりかもしれないな。
これにしなさい!!」
陳淑雲が選んだのは、クリスチャンディオールのディオリッシモだった。陳淑雲はテスト用の瓶を手に取ると、健作の手の甲にシュッとひと吹きした。すると柑橘系のなんとも若々しく爽やかな香りが漂った。健作が迷っていると、陳淑雲はディオリッシモの箱を手に取って健作に差し出したが、健作は受け取ろうとしない。
「いいんだよ。もう・・・」
「ダメよほら、早くレジに行かないと飛行機に乗り遅れるわよ!」
健作は値段をみると、成田から自宅まで帰るくらいのお金は残りそうだ。
陳淑雲に押し切られる格好で、レジに行って精算すると、陳淑雲は微笑んでいた。
「健作さん、自分に素直になるのよ。自分の気持ちを偽ったら、20年、30年経ってから必ず後悔するからね。」
「あ、ああ・・・わかった・・・」
「ほら、健作さん、元気だして!
健作さんらしくないわよ。」
健作がボーディングブリッジに消えていくのを見送っていた陳淑雲の目には、涙が光っていた。
「おにいさんどうしたの?
この花良い香りでしょう。『泰山木』っていうのよ。
この爽やかな香り、私大好きなんだ。
そうだ、よかったらもってくかい?」
声をかけてきたのは、霊園近くで農作業をしていた地元のおかあさんだった。
持っていた鍬で枝を切り取ると、顔の大きさはあろうかと思われる大きな花を差し出した。
健作は花を受け取ると、そう、まさにこの泰山木の香りは遠い記憶の中からよみがえってきたディオリッシモの香りだった。
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