蒼き双姫と喪われた世界

天ヶ瀬翠

第1章 平和な世界

第1話 魔術が使えない青年と天才姉妹

 “虎の威を借る狐”という言葉が、とある東方の国に存在した。

 ずる賢い狐が言葉巧みに虎を操り、虎の威厳を我が物にする古い作り話が元となっている。しかし、この話は悪知恵が働く狐と、頭の回らない虎が揃って成り立つ話である。では、賢くない狐と賢い虎の場合はどうなるか?

 狐は成す術なく虎に虐げられるだけなのである。


 その森は、“楽園(エデン)”という別称が付けられていることで有名だった。太陽の光が木々の美しい緑を照らし、穏やかな風が葉や枝を揺らしハーモニーを奏でている。この森に棲む動物は互いの住処を侵すことなく共存し、争いのない世界を作り出している。弱者である小型の虫は堂々と地面の上を闊歩し、捕食者である大型の鳥の前をさも当然のように横切る。鳥もただ羽づくろいをするだけで、目の前の獲物を食べようとしない。本来の自然界ではあり得ない平和な環境は、楽園と呼ばれても過言ではないだろう。

 その楽園の中で、木に抱きつきながら命乞いをしている青年がいた。


「待て待て待て! 俺はただの通りすがりの人間だ。話せば分かる! 分からなくても命だけは助けてくださいお願いします!」


 着ているのは白いボロボロの布に焦げ付いた紺色のズボン。黒い髪には無数の枝葉が絡みつき、まるで雑に作られた鳥の巣のようであった。

 野生児のようなみずぼらしい様相で情けない声を上げている青年の名は、アクロ=アイト。

 容姿は至って普通で、中肉中背の身長173cm、最低限の運動神経と頭脳という平凡のオンパレード。大きな事件に巻き込まれたこともなく、平和に生きてきた齢19歳の青年である。


「何を言っても無駄か……ならば仕方ない。俺の“魔術”で葬ってやろう」


 抱きついていた木から離れ、意を決して振り返る。

 アクロの灰色の瞳に映るは、八つの頭を持つ紫の蛇。楽園に許可無く立ち入ったものに容赦無い攻撃をしかけることから守護者とも言われている。全ての頭が怒りの形相で、蒸気の吹き出す音のような威嚇音を発している。

 数多の人間を葬ってきた化物を眼前にして足を震わせながらも、アクロは右腕を蛇へと向けた。


 思うは地を蹂躙す灼熱。

 願うは目に映る怪物の果てる様。

 そして、発するは天にまで到達する火柱。


 原因から結果をイメージし、体内の魔力で象る。そして感情を昂ぶらせ、一気に外へと解き放つ。

 森羅万象を操るそれは“魔術”と呼ばれている。

 アクロの手から魔術陣が展開し、紅い光が煌々と輝く。


「焼き払えっ!!」


 アクロは恐怖を振り払うように思いっきり叫んだ。森のざわめきが消え、まるで時が止まったかのような静寂に包まれる。

 しかし、何も起きない。紅い魔術陣がただアクロの掌の前で輝くだけで、何も起きない。

 

 平凡に身を固めたアクロには、たった一つだけ大きな特徴があった。

 それは、魔術が極端に苦手なことである。

 冷や汗をかきながらアクロは腕を突き出し続けるが、何も起きる気配がない。


「や、やっぱダメか……」


 八つ頭の蛇は大きく口を開き、大きな二つの牙を晒す。先端からは一滴で死に至らしめる毒が滲み出ている。


「とあぁっ!」


 アクロが情けない声を出しながら横っ飛びしたのと同時に、蛇は木を噛み砕いていた。撒き散らされた毒は地に生えた草を溶かし、3メートルを超える巨体は地を削る。たったひと噛みで楽園を荒れ地に変えた化物に、アクロは戦意を喪失した。

 そしてアクロが取る選択肢はただ一つ。

 

「うわああぁぁ!」


 蛇に背を向け、逃走し始めた。恐怖を原動力に、ただまっすぐに走り抜ける。背後から聞こえる地響きに怯えながらも、一心不乱に駆け抜ける。走ること1分足らず、アクロは楽園から抜け出し広い草原に出た。広い場所に出たことによる油断か、足に溜まった疲労のせいか、アクロは足を絡まらせ転んでしまう。


「ぐっ……ひぃっ!」


 倒れこむや否や身体を起こし、蛇の方へと振り返る。蛇はじりじりと近寄り、取り囲むように首をアクロへと近づける。舌をちろちろ出しながら、ぎょろりと真紅の眼でアクロを見つめる。

 逃げることも抗うことも出来ない、まさに絶体絶命の時だった。


「あら、またみっともない格好をして……相変わらずアクロってどんくさくてビビリよね。涙も鼻水も垂らして情けないったらありゃしないけど、ちゃんと囮の役目を果たしたのは褒めてあげるわ」


 アクロの背後から悠然と歩いてくるのは、透き通る氷のような水色の髪を持つ少女。

 鋭い輪郭と綺麗に整えられた顔立ちからは、強気な性格と気品のある家柄であることが伺える。しかし、後頭部で二つくくりにした髪型からは可愛さを漂わせていた。紺色のスカートはためかせ、同色のカーディガンを纏う少女の名はラズ=アジュール。アクロよりも1歳年下の18歳で背も小さいが、毅然とした態度からは幼さを微塵も感じない。

 アクロはびくりと身体を震わせるが、ラズは怖気づくことなく対峙する。


「あら、さすが守護者……私の魔力の高さで怯えることくらいは出来るのね」


 ラズが来た途端、蛇は再び威嚇音を出し始める。威嚇時に逃げればこの怪物は追撃することはない。見た目は悍ましい化物だが、根は楽園らしい平和主義者なのである。

 アクロはおそるおそるラズに疑問を投げかける。


「おい、ラズ。“可愛い蛇を相手にする”って話じゃなかったのか? 」


 今回は討伐対象が強くない、可愛らしい蛇であると言われたからアクロは参加したのだった。もし事前に森を荒らす化物だと分かっていれば、任務への参加は断固拒否していただろう。


「あら、可愛いじゃない。8つもの熱い視線を投げてくれてるのよ?」

「可愛くねえよ! 怖いよこの蛇!」

「もうほんとアクロったらどうしようもなく怖がりね、ま、そこも可愛くていいいんだけど」


 ラズは肩に乗った髪を払い、腰に掛けた剣を抜く。

 濃い青に染まったその剣は、魔力を通しやすい鉱石で作られた魔剣。国王直属の騎士になってようやく持てるような貴重で高価な代物である。八つの顔の内、一つがラズに向かって襲いかかる。アクロは思わず顔を腕で覆うが、ラズは嘆息しただけだった。


「けど、やっぱりだめね。動きが単純過ぎ」


 ラズはぎりぎりまで顔を引き付け、素早くしゃがみ込む。息をつく間も与えず、青の剣を顎下から脳天まで突き立てた。魔力により切れ味を増した剣は、蛇の鱗を安々と切り裂く。

 瞬きをすれば見逃してしまうほどの早技に、楽園の守護者は追いつくことが出来なかった。

 ラズは剣を引き抜き、血振りする。

 

「さて、あと7つ……多いわね」


 呟くラズに、残りの頭は仇を討たんとすべく毒を吐き飛ばした。

 物理で叶わぬと分かった蛇は、遠距離からの射撃に転じた。避けられないようにするためか、広範囲に散らばるように吐きかけている。たとえ少量の毒でも、ラズの薄い服装では大やけどを免れない。しかしラズは動じずにただ目を閉じた。

 ――まさか、あの術を……。

 アクロはごくりと息を呑む。あの術を見るのはかなり久しい。ラズにしか扱えない、奇跡を超えた魔術を。

 瞬間、ラズを中心に水色の魔術陣が広がる。先ほどアクロが展開させた魔術陣以上の輝きと、複雑な模様が描かれている。それはこの魔術陣が如何に強力で高度な術であるかを意味していた。

 その魔術陣の範囲に入った毒は、次々と水色の結晶に変わっていく。まるで手品のように、音も光も発さずに。

 結晶と化した毒をラズは剣で弾き落とした。その様子を見た蛇は、大きな身体をくるりと回転させ森の方へと走りだした。


「……あの毒、よほどあいつのとっておきだったのかしらね。まあ、私にとっては結晶でしかないんだけど」

「そんな悠長な事を言ってる場合か! あいつ逃げるぞ」

「ったく、さっきまでビビりまくってたくせに、ちょっとでも有利になるとすぐこれなんだから」


 呆れられるアクロだが、何も言い返すことが出来ない。

 ラズは肩をすくめて、蛇が逃げる姿を見る。


「まあ、大丈夫でしょ。なんたってあっちには……お姉ちゃんがいるんだから!」


 蛇は楽園へ逃げようと、草原を疾走する。大きな巨体な割には素早く、ものの数秒で森へと逃げ切れそうだった。だがラズの姉……セフィア=アジュールが立ちはだかっていた。

 サファイアのような青い髪は腰まで広がり、銀の王冠に似たカチューシャをつけている。その姿はラズ以上に高貴であり、21歳という若さを感じさせない堂々たる態度で化物と対峙する。


「楽園に住みし醜き守護者よ……我が死霊の前に朽ち果てなさい」


 セフィアが両手を広げると、セフィアと同じ黒いローブを羽織った人型の何かが周囲に現れる。

 顔があるべき箇所には闇しか無く、目があるべき場所には青の光が灯っている。骸骨のような腕が裾から伸び、大きな鎌を握っている。そしてそれは、七体浮かび上がった。セフィアがいる周囲の景色が、膨大な魔力によってまるで水面に映っているかのように揺れ動く。セフィアの立つ場所は楽園ではなく、死神が漂う冥界だった。何度も見たことがあるアクロでさえ、その光景を前に足が竦んでしまう。


「行きなさい」


 柔らかな声で紡がれる死刑宣告。

 それからの出来事は一瞬だった。

 死神の姿が消えた次の瞬間、それぞれの鎌が蛇の首に向かって振り下ろされる。途端、森へ逃げ込もうとしていた蛇の体がピタリと止まる。そして、崩れ落ちるかのように倒れた。まるで映画をコマ送りで見ているかのようにゆっくりと首が地へと横たわる。斬られたはずの蛇の首には、何故か傷1つ付いてない。それなのに蛇は地に伏している。目をぎょろりと見開いたまま、まるで植物状態になったようだった。

 セフィアが小さく息を吐くと、宙に浮かんでいた死神達と放たれていた膨大な魔力は消え失せた。


「そういえば、生け捕りにしたら報酬が倍だっけ?」


 ラズは倒れた蛇の顔を足蹴りしながら問う。

 その様子を見て、セフィアは少し渋い顔をした。

 

「ラズ、はしたないですよ。ええ、確か報酬の金額と評価点が二倍になると聞いてます。けれど、それはすべての頭が生きていればの話……ラズが1つ殺してしまったので、少し下がるでしょうね」

「なっ! ……ちぇー」


 彼女らの足元に転がっている化物は、決して弱くない。

 ドラゴンに匹敵する鱗、鉄をも溶かす毒、魔力を持たない生物とは思えない高い対魔術体質だって備えていた。

 それをたった二人で、赤子の手をひねるように打ち倒した。

 二人はくるりと身を翻し、呆然としていたアクアの方に振り返る。


「アクロ、大丈夫ですか? ……今回も、魔術がうまくいかなかったようですね」

「無駄よ、お姉ちゃん。こんな雑魚にもアクロはびびってばかりで、ほんっと何の成長もしないんだから」


 ラズの辛辣な言葉に、アクロはただ苦笑いで返す。


「こんな化物を一人で相手に出来るやつ、俺は二人しか知らないけどな」


 代々ディアモンド王国を守ってきた由緒ある騎士一族……アジュール家。

 これは、その才能を色濃く受け継いだ姉妹の幼なじみとなってしまった青年の物語である。

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