第一章(6)
*
夜になっても、ユリウスは姿を見せなかった。
話自体はとっくに済んで、幾分気を取り直したらしいランバートが、フェルディナントとコンスタンスにこれからの方策を示した。こうなった以上、一度アナカルディアに戻らないわけにはいかない、と、ランバートは言い、フェルディナントは軽く頷いて了承した。『信じている』と言ったとおり、何の屈託もなく。そしてコンスタンスは、後から馬車で戻ることになった。どうにも胸騒ぎがしてたまらず、是非自分も一緒に戻りたいと頼んだが、急ぐから馬で帰るから、と言われてはもう、どうしようもなかった。
ユリウスに何を話したのか、ランバートは一言も言わなかった。マイラの名前も、一度も出なかった。コンスタンスが何度聞いても、ユリウスに任せた、と言うだけだった。詳しいことはユリウスから聞いてくれと。
そしてそのユリウスが、一向に姿を見せない。
――眠れない。
寝室に引き上げて一刻が過ぎても、コンスタンスは着替える気にも、化粧を落とす気にもなれなかった。ユリウスと同じ屋根の下にいるのに、お休み、の挨拶をしていない。それがどうにも気になって、眠る気になれない。ユリウスなら、きっと説明に来てくれるはずだ。マイラのことをどうするのか、コンスタンスが気にかけていると、知っているのだから。
なのに、ユリウスは来ない。
――どうして。
先ほどの部屋割りのとおりなら、ユリウスの部屋はこのすぐ隣のはずだ。
かちり。
窓を開けると、冷たい夜気がさっと吹き込んだ。昼はだいぶ暖かくなってきたとはいえ、まだ三月だ。標高の高いアリエディアの夜はかなり冷え込んでいる。窓から顔を出すと、あの四阿が真下に見える。
四阿を取り囲む生け垣の外側四方に、光珠が置かれている。それに目を凝らしたとき。
「……眠れないの?」
小さな囁きが聞こえて、コンスタンスはそちらを振り返った。
そこにマイラがいた。
二色の月の光に照らされて、マイラは、昼間見たときよりさらに小柄に見えた。長い黒髪が夜気に靡いている。彼女は隣の部屋の窓から出てきたところだった、らしい。コンスタンスの存在に気づいた部屋の中の誰かが、慌てたように窓を閉めた。
取り残されたマイラは苦笑する。独り言のような小さな声。
「寝てると思ってたんだろうに……気の毒に」
風向きが違ったら、きっと聞こえなかっただろう。コンスタンスは食い入るようにマイラを見た。
さっき窓を閉めたのは、きっとユリウスだ。
マイラは、ユリウスに会いに来た、帰りだった、の、だろうか。
「……いったい何をしているの」
口調はつい、咎めるものになった。事態がわからなさすぎて腹が立つ。私をのけ者にできなくてお生憎様ね――パトリシアというあのいけ好かない令嬢がマイラに言った言葉を、言いたくなる気持ちが少しわかる、と思ってしまう。
でもこれは、八つ当たりだ。『使用人風情』のコンスタンスになど、ユリウスもマイラも、何も説明する義務などないのだから。身分をわきまえなさい、母から幾度も繰り返し聞かされた叱責がコンスタンスの胸を打つ。
コンスタンスはユリウスとは身分が違う。
マイラとも、全然違うのだ。だから秘密にされ、のけ者にされ、ないがしろにされても仕方がないのだ、とコンスタンスは思う。
怒りと苛立ちを押さえた後に残ったのは、深い悲しみだ。
口調は自然と、小さくなった。
「あなたはエスメラルダに帰ったと聞きました。でもまだいらっしゃったなら良かったわ。……ね、お入りになりませんか」
「いえ。私は……エスメラルダに戻らなければなりません。ただお詫びに来ただけなんです」
「どうして帰らなければならないの」
ヴァルターが言ったという。何でもいいから理由を付けて、マイラをもう、エスメラルダに帰すなと。
それを、マイラも、望んでいるのではないのだろうか。コンスタンスは囁く。
「私、ここに残されることになったんです。足手まといですから、馬車でゆっくり帰ります。みんなが出かけるまで隠れていて、その馬車に一緒に乗ってはどうでしょう? あの剣はあなたを選んだのですから、エスメラルダに証明して頂かなくても、王弟殿下に嫁げるのではないかしら」
「それができなくなりました」
「どう――して?」
「私はグウェリンの人間ですから。……体の中に流れる血を、入れ替えることはできませんから」
「血を」
「……夢を見ていたんです。とても幸せな夢でした」
言ってマイラは微笑んだ。哀しそうな、微笑みだった。
「ずっと片思いしていた人と、一緒に住むことができるようになって……私の大事な子供たちと一緒に、いろんな場所に旅行とか、したりして。地下街とか、ラク・ルダとか、ティファ・ルダとか、いろんな場所を、見て回って。ご存じですか、ティファ・ルダは、今じゃとってもすてきな場所になった、そうなんです。それで、それで、貴女みたいな方とも、お友達になれたら……。今までできなかった楽しいことを全部、一緒にやれたらって、……夢を見たんです。でも」
「――」
「夢は夢です。いつか醒めます。とても楽しい夢でした」
「夢じゃないわ……!」
叫んでコンスタンスは、窓枠によじ登った。踵の高い靴が邪魔で難しいけれど、何とか屋根に身を乗り出して、マイラに手をさしのべた。
「それは夢じゃないわ、近い将来、現実になるのよ! いいじゃない、身分なんてくだらないって、言ったじゃない! 身分がくだらないなら、血だってくだらないでしょう!?」
「……ごめんなさい。貴女の優しさを頼って、厄介なことを、お願いしてもいいでしょうか」
マイラが少しこちらに近寄った。コンスタンスの手の届かないぎりぎりの場所まで来たから、コンスタンスにも、彼女の顔色がよく見えた。
まだ血の気が戻っていない。
「明日、馬車で戻られる前に……買い物と、配達を、お願いできませんか」
懐を探って、小さな革袋を取り出した。親指の先くらいの、ごく小さいものだが、ふくらんでいるのがよくわかる。
「私のお財布です。貴女に……預けてもいいですか」
「お、お財布?」
「必要なだけの額は、入っているはずです。買い物メモも、中に入れてあったはず。アリエディアの下町の、サフィン商店という店で、メモを見せれば、準備してくれます。かなり大量ですが、貴女には素養があるから、小さく縮めることもできるでしょう。買ったものを、届けていただきたい場所があるんです」
「ねえ、」
「お願い。貴女しか、頼める人がいないんです」
その言い方があまりに必死で、コンスタンスは言葉を飲み込んでしまった。
「お願い。私が近づいては危ないかもしれないと思って、機会を窺っているうちにひと月も経ってしまった。みんなきっと不安に思っているはずだし、砂糖もバターも足りなくなっている頃です。場所は、アリエディアの一番高い場所にある塔です。ほら、アリエディアの領主の城だったというあの遺跡。あそこに行って、アデル――アデリシア、という子を呼んでください。見た目はその、少し異様かもしれないけれど、本当に気だてのいい子ですし、言葉も通じるし話せます。その子に渡してくれませんか。渡せば、わかってくれるはず」
「……」
マイラの冷たい指先が、コンスタンスの手のひらに、小さな革袋をそっとおいた。
「伝言を。マイラはみんなを忘れたわけじゃないって。今も大事に思ってるって。そう……伝えて、もらえませんか」
「自分で言ってください! そうしたいんでしょう!?」
「……お願いします」
行ってしまう。そう悟って、コンスタンスは必死で叫んだ。
「本当はそうしたいのに、したくてたまらないのに、血とか、身分とか、立場とか! そんなくだらないものに縛られて諦めるなんて、おかしいと思いませんか! 私は貴女と、仲良くなりたい! 身分なんて構うものですか、私なんかただの使用人ですけどでもっ、そう思っちゃいけませんか!?」
「窓を」
かすれた声で、マイラは言った。
「夜は、窓を、閉めておいた方がいいですよ。貴女に会いたくてたまらないのに、もう会わないって決めてしまった人が、夜に貴女の窓が開いてるのを見たら……あまりに気の毒だと、思いませんか」
「会いに来てくれるなら、毎晩だって開けておくわ! お願い、諦めないで! 我慢なんてしないで! 自分の望みを叶えてあげられるのは、自分しかいないのに……!」
戦えと、立ち向かえと、叫ぶのは簡単なのだと、コンスタンスは思った。滑稽だった。ユリウスとの“身分違いの恋”に恐れをなして逃げようとしていた自分が――夢を見ながら、心の底からそう望みながら、その手を拒絶しようと考えていた自分に、マイラをなじる資格などあるのだろうか。
気がつくとマイラはもういなかった。ユリウスの閉めた窓も、開かなかった。
もう二度と開かないのかもしれないと、コンスタンスは思った。
マイラを夢から醒ましてしまった何か、ランバートがユリウスに話した何か、コンスタンスが未だに知らないその何かは、ユリウスにも何か決定的な影響を及ぼしたのではないか。そんな予感に、コンスタンスは身を震わせた。
*
朝が来た。
コンスタンスは窓辺で、呆然と、座り込んでいた。
夜明けの光が、開いたままの窓から差し込んできている。
「……嘘でしょ」
あんなことがあったのに、こんな場所でうずくまって眠り込んでしまっただなんて。慌てて立ち上がってよろけ、踵の高い靴を蹴飛ばして、コンスタンスは急いで廊下に出た。
確かに昨日と同じ場所だ。しんと静まりかえっているのは、まだ時間が早いからだろうか。
――それとも。
ぞっとしながらユリウスの部屋の戸を叩く。不躾だとは思いながらも、かなり強く乱暴に叩いた。でも当然のごとく返事がない。次にフェルディナントの部屋の戸を叩くと、返事があったので、コンスタンスは却って驚いた。
「お入り。開いてるよ」
ランバートの声だ。こんな朝早く、なぜランバートは、もう起き出してフェルディナントの部屋にいるのだろうか。嫌な予感に身をすくませながら、扉を開いた。
長いすの、昨日と同じ場所に、ランバートが座っている。寛いだ様子だ。目尻にしわの刻まれた、ユリウスによく似た整った顔。
「おはよう、コンスタンス。早起きだね」
「……申し訳ありません。朝早くに」
「構わないよ。朝食を頼もうか」
「あの」コンスタンスは中に入り、後ろ手に扉を閉めた。「ユリウス様は、もう、起きていらっしゃいます?」
「貴女には申し訳ないと思ったのだが、先へ行ったよ。王弟殿下とスタローン侯爵と共に、アナカルディアへ戻った」
「こんな朝早くに……!」
「夜明け前にね」
避けたのだと、コンスタンスは悟った。
ユリウスはコンスタンスを避けたのだ。
ランバートを睨む。
「ランバート様は、どうして」
「貴女をひとり放っておくわけにはいかないだろう」
「私のことなど」
「一緒に行っても私にできることなどないし、この機に、観光を楽しんでもいいんじゃないかと思ってね。コンスタンス、付き合ってくれるだろう?」
「嫌です」
ぷい、と顔を背けてやる。幼い頃に戻ったような気がした。
コンスタンスはユリウスと、そしてフェルディナントと、兄妹のように育てられた。教育も与えられたし、衣類や学用品にも事欠いたことなどなかった。幼い頃は、ランバートを実の父親だと信じていたほどだ。ランバートもコンスタンスをとても可愛がってくれていた。膝に登って甘えると、ランバートはいつも相好を崩した。それが嬉しくて、何度でもよじ登ったものだった。
だから衝撃だったのだと、今更コンスタンスは悟っていた。
ランバートなら、ユリウスとコンスタンスの婚姻を、喜んでくれるのではないかと――ランバートだけは反対しないでくれるのではないかと、心のどこかで願っていたのだ。
でも蓋を開けてみたら、一番強硬に反対したのがランバートだった。実の娘のように可愛がってくれたのに、“使用人の娘”が“本当の娘”になるのはやはり困るのだと、それが哀しかった。我が儘で身勝手な思いだと、わかってはいたけれど。
ランバートはコンスタンスの反撃に傷ついたような顔をする。
「私と一緒では不服かね」
「もちろんです。私、今日は予定がありますの。ランバート様はお一人で、観光でもお買い物でも食べ歩きでも、隠し事でも秘密事でも密会でも、何でもなさったらいいじゃありませんか」
「……十九の令嬢だと思っていたが、五歳の幼子だったかな、君は」
「もう知りません。ユリウス様もランバート様もお好きになさるのですから、私だって好きにさせていただきます!」
「しかしコンスタンス、」
「今からでもフェルディナント様を追いかけてあげてください。私のことはどうかご心配なさらないで。頂いたお給金をちゃんと貯めておいたんです、アナカルディアまでの旅費だって出せますし、ひとりで帰れますから」
「年頃の若い女性にひとり旅をさせるわけにはいかないよ」
「それはちゃんとした令嬢の話でしょう。私は幸いなことに、“一介の使用人風情”ですから!」
言い捨てて扉を閉める。急いで部屋に戻って、ドレスを脱いだ。はき慣れた靴を取り出し、着慣れた簡素なワンピースを着る。顔を洗って化粧を落とし、髪をほどいて結い直す。鏡を覗くと、巻かれていた髪が普段より豪奢に渦巻いているが、まあ、令嬢に扮していたことを見抜ける人間はいないだろう。たぶん。
荷物をまとめ、ドレスや靴はおいていくことにする。マイラから託された“お財布”をワンピースの隠しにしまい、靴を履いて、鞄を手に扉を開けると、そこにランバートが待っていた。
「コンスタンス、予定だけでも、教えておいてもらえないか」
「いいですよ。昨日ユリウス様に話された情報と引き替えです」
くっくっ、ランバートの喉が鳴った。「怒っているね、コンスタンス」
「ええもう、怒っています。怒髪天を衝く勢いです。ちょっとやそっとでは許して差し上げませんからね」
「だからお詫びに、アリエディア観光に誘っているんだけれどね。王立美術館もあるし、時計塔もそりゃあ見事なものだ」
「せっかくですが、私、予定がありますの」
「そうか」ランバートはしょんぼりと肩を落として見せた。「私は貴女と一緒に観光したかったよ……」
「そっ、そんなしょんぼりしてもダメです!」
コンスタンスは急いでランバートの隣をすり抜け、廊下を急いだ。階段を下りる手前で見ると、捨てられた犬のような表情のランバートと目があった。
「だっ、だからしょんぼりしたってダメですからね! ついてきたら絶交ですからね!」
「そんなあ」
情けない声を背に、コンスタンスは階段を駆け下りた。
そして、ランバートは叱っても良かったはずだ、と思う。コンスタンスのためを思ってひとり残ってくれたランバートに感謝もせず、子供のような憤りを投げつけて出て行くなんて、申し訳ないことだと、コンスタンスだってわかっている。
なのに予想どおり怒らなかった。ランバートは昔も今も、コンスタンスに甘い。子供の頃から変わらずに、慈しんでくれていることは、言動の端々から伺える。置いてきぼりにされたコンスタンスを宥め、“ひとり旅をさせない”という役割があるにせよ、アリエディアを一緒に観光することを、心から楽しみにしてくれていたのだろうことは疑いない。
どうしてだろうとコンスタンスは考えた。大切な跡取り息子に『言い寄っている』、『身分違いをわきまえない』『身の程知らずな』人間なのに、どうして憎んだり疎んじたりしないのだろう。ランバートの行動はどうもちぐはぐだという気がしてならない。身分を重んじているのなら、コンスタンスを実の娘のように育ててくれたりはしなかったはずだし、身分をどうでもいいと思っているのなら、ユリウスとの結婚を許してくれても良さそうなものなのに。
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