逃亡罪科(4)



 ――ヒュンッ!



「っう!」


 空を切るか細い音が響いた瞬間、名無は表情を歪め呻くように声を漏らす。名無が表情を苦悶に変えた原因、それは右肩に刺さっている一本の矢。


「――マクスウェル!」


 自分の右肩に刺さった矢が敵の攻撃による物だと瞬時に判断した名無は、何の躊躇いもなく矢を一気に引き抜き立ち上がる。

 抜き取られた矢の鏃には簡単に引き抜くことが出来ないよう、刺さった肉に引っかかるよう返しが施されたものだった。それを力任せに抜けばかなりの痛みを感じるはずだが戦闘状態に入った途端、名無の苦痛に歪んだ表情は消え鋭い眼光を矢が飛んできた方向に向けていた。


「敵の人数と距離は?」


『前方半径二百メートル内に十、その内の三つが猛スピードでこちらに接近中! 接敵まで殆ど時間がありません!!』


(彼女を逃がしている時間はない――なら、先手を打つ!)


 名無は離れた場所に置いた愛刀を一瞥。

 すぐに回収ができないと理解すると同時に踏みだし、まもなく姿を現すであろう敵の出鼻を挫くべく突進する。


『敵影接近、来ます!』


「――なん、だ!」


 突如飛来した矢で傷を負っても動揺することの無かった名無の眼は裂けんばかりに見開かれ、森の奧から現れた敵の姿に驚愕を露わにした。

 それは名無のよく知る動物でありながら見たこともない獣。


(こんな事が……あり得るのか!?)


 自分の眼に映ったのは眩い白銀の体毛に覆われた一匹の狼、それも体高三メートルを超える狼の規定をいとも簡単に通り越した巨狼。

 森から勢いよく飛び出しこちらへ飛びかかってくるその形相はまさしく野獣。

 風すら置き去りにする程の速さで駆け抜けてきたであろう地を掴みしめる大きな足と鉈を連想させる鋭い爪。すらっと伸びた口元は赤く染まり、僅かなすき間から出る強靱な牙は人の骨どころか岩でさえ簡単にかみ砕く事が出来るのではないかと想像させる程だ。


『GAAAAAAAAAAAAAAAA!!』


「くっ!」


 突然変異という言葉では説明できない獰猛な獣がその顎を大きく開き、名無の頭をかみ砕こうと迫る。戦場で決定的な隙とも呼べる驚愕を何とか圧し殺し眼前に迫る牙を躱すべく、地面に背を擦りつけ巨狼の下に滑り込み難を逃れる名無。

 交差する要領で巨狼の背後へと回り込みすぐさま体勢を立て直し次の攻撃に備える名無だったが、彼の眼に映ったのは巨狼が蒼い肌の少女を口に咥えて走り去る姿だった。


(しまった! 狙いは彼女か!!)


 もし先程の男達が仲間を引き連れ戻ってきたのだとしらこの場に置いて一番に警戒、撃退すべきは自分。あの巨狼の戦闘能力は一目見ただけで厄介極まりないものだと分かる、そこに他の《輪外者》が加われば尚更だ。強襲が成功する事まで読み人質を確保する。最初から一方的にこちらの行動を制限する事を目的としていたのならこれ以上ない手段。

 名無は自分の失態に舌打ちするも、少女の元へ向かう為の能力の発動に意識を集中させる。


『上です、マスター!』


 だが、それよりも早くマクスウェルの警告が名無の耳に届く。

 その直後、名無の視界が僅かに陰り名無は上から迫る敵を確認するよりも回避行動を優先。左方向へと跳躍しその場から飛び退く。

 すると、さっきまで名無がいた場所に小さな影が衝突。四方八方に亀裂が走りを地表を砕く轟音が響き、周囲に土煙が立ちこめる。そして、その煙の向こうから名無の右肩を射った矢と同じ矢が三本。視界の悪さなど物ともせず名無に放たれていた。


「ちぃっ!」


 自分に向かってくる矢を躱し、足下にある愛刀を確認する名無。想像もしなかった巨大生物の出現、それに続く的確な敵の攻撃に舌を巻きながらも回避行動を続け武器回収を狙っていたのだろう。

 名無はホルスターに収まっている対輪外者武器(ノーティス)を引き抜き、マクスウェルもすかさず刀身の構築を始める。


『大気物質、地表物質より刀身構築に適した元素を集束。切断力、強度、通常刀の十倍に構築します』


「……マクスウェル、巨狼の位置は?」


『反応はまだ感知できる領域内にあります。ですが、目の前にいるお嬢様方を何とかしなければ追うのは難しかと』


「………………っ」


 敵の攻撃に対処しながらも巨狼に咥えられ連れ去られた少女の姿が、名無の脳裏に鮮明に浮かぶ。

 名無は焦りに双眸を細めるが両手の二刀を構え、土煙の向こうから姿を現した二人の少女に警戒を強める。


(どうする、迷っている暇はないが……やりずらいな)


 地面をたたき割ったであろう少女、この場合は幼女と言うべきか?

 森の風景に紛れやすい深緑の狩猟服に身を包んだ年端もいかない外見。背丈は小さく、まだ十歳にも満たないだろう。大きな鳶色の瞳に敵意を込め、燃えるような紅い髪を左右に分け二つ結いしている幼女。しかも信じられないことに、身の丈を超える反った幅のひろい刃が潰してある戦斧を軽々と持ち上げ肩に掛けている。

 もう一人も同じ服に身を包み、幼女の後ろで弓に四本の矢を番え寸分違わず自分に狙いをつけている。桃色の長髪を靡かせ額から角を生やす少女……よどみの無い灰色の瞳からは落ち着いた雰囲気が感じられるが、戦闘時といこともあるのかその眼差しは思いの外鋭い。

 二人が放つ殺気にも似た気概は、とても『か弱い』とは言えない技量を感じさせる。


「マクスウェル、あの子達もただの人間じゃないな」


『イエス、普通の幼女にあの斧を持てるだけの力があるはずがありません。もう一方も分析などしなくても額から生える角を目視しただけで分かります』


「なら、さっきの男達の仲間とは考えにくい。そうなると蒼い肌の子と関わりを持っていると考えた方が良いか?」


『その可能性は充分にあります。ですが、そうなると少々ややこしい状況です』


「……ああ」


 自分の目の前に居る二人が巨狼が連れ去った少女の家族、もしくは仲間だった場合こちらから手出しは出来ない。

 あの状況で弓を構える少女に攻撃を加えられた、その事を考えると間違いなく彼女達は自分が蒼い肌の少女を襲ったと勘違いしている。何とかこの状況を打開しなくては。

 そう思うものの自分の無実を証明することが難しいことを悟った名無の表情はいっそう険しくなる。


 事情を説明しようにも言葉は通じない。


 無実を証明できる唯一の人物もこの場にいない。


 武器を手放し降参しても、その行動の意味に理解を示してくれる可能性が低い。


 何より――


【■■■■!】


【■■!】


 肝心の交渉相手である少女達が、身に覚えがありすぎる流れで戦意を高めている。もはや詰んでいるとしか言えない悲惨な状況に名無は頭を悩ませた。


『戦闘は避けられそうに無いようです、来ます』


「仕方ないな、お前は増援を警戒していてくれ。目の前の二人は……俺が、対処――」


 する、そう言いかけた名無は突然咳き込み膝をつく。

 少女達から視線を外しはしないものの、咳が止まる様子はない。何度も咳を繰り返し、それに混じり出たのは鮮やかな赤い液体。


『マスター! ――血液中に薬物反応!! 今すぐ――』


「お前は、警戒を続けてくれ」


 正確な分析結果を知らせるマクスウェルの言葉を遮り、名無は右腕の袖口で口元を拭い弓を構える少女に狙いを定める。


(鏃に毒を仕込んであったのか……油断じゃない、落ち度だ。高性能の重火器ではない原始的な武器への対処を怠った)


 科学の進歩により工業が発達、軍事産業もその影響を受け、銃はより使いやすく高い威力を。戦車や軍艦、戦闘機など大規模戦闘で重宝される兵器もその性能を格段に上げた。それは今も日々その進化を続けている。

 そんな現代社会の武器ではなく、古来より伝わる剣や斧、そして弓矢。原始的武器に銃程の威力も射程も利便性はない。だが、その利便性のなさを補うための手段は確かに確立されているのだ。

 武器その物がどれだけ原始的だろうとそれを扱うのは結局人間である、同じ武器を手にしている相手をどう効率よく的確に殺すか。その為の知恵と工夫を凝らした者がかつて起こった戦争を生き延びることが出来た。

 同じ剣でも、手にした者の剣技が卓越している者の方が勝つ。

 同じ弓矢でも、相手を射る技術が洗練されている者の方が勝つ。

 なら、劣る側が勝つにはどうするか? 答えは簡単だ、同じ武器であってもその武器に何かしらの細工を施せば相手を上回る事になる。


(被弾した矢に毒が塗ってあったのなら、腰につけている矢筒にも同じ毒を仕込んだ矢が……もしくは別の毒だったとしても……あるはずだ)


 毒といった薬物を扱うなら万が一のことを考え、その解毒薬も常備しているはず。この戦いが蒼い肌の少女を救う為なら、助け出す事が出来ず自分が彼女を人質として利用した場合の交渉材料としても必ず持っているはずだ。

 名無は弓を構える少女が解毒薬を持っていると考え、毒が回るのも構わず走る。


(純粋に俺の敵でも彼女の仲間でも他の援軍が来る前に決着をつける! それが出来ないようなら……っ!)


 口の端から血を溢しながらも名無は弓使いの少女と距離を詰めるが、彼女も名無が解毒薬狙いで行動することを読んでいた。

 弓使いの少女は番えていた四本の矢を名無へ撃ち放つ。



 ヒュウウゥゥゥゥッ!



 甲高い音を響かせ空を切り進む四本の矢。その内の二本は名無の頭上から、後の二本は左右から挟み込む軌道を描く。


(これは……っ!)


 風を貫き進む弾丸と、風に乗る矢の軌道の違い――その違いが持つ特性に気がついた名無。

 銃が撃ち放つ弾丸であれば発射されるタイミングとその銃口をみれば着弾点は予想できる。だが、弓によって撃ち出された矢は違う。

 全く同じ力で弓を引こうと、その場の大気の状態でその軌道は大きく変わる。ミリ単位で避けたとしても旋風が吹くだけで軌道は途端に変化する。どれだけ軌道を先読みしようとも、気まぐれな風一つで下手をすれば眼前に矢が迫る事になりかねない。

 名無は出来る限り余裕を持ち、それでいて最小限の動きで飛来する矢を躱し二刀で切り払う。が、弓使いの少女は名無に近づく暇を与えまいとすでに次弾を放っていた。

 たった四本の矢では弾幕としての効果は薄いが、その弱点を補っている鏃の毒と先読みすることが困難な軌道変化。一度でも対処を間違えば毒の進行を加速させかねない事実。

 そしてそこに、幼女が名無の頭上へと飛び上がり身の丈を超える戦斧を小枝を振るかのような軽快さで振り下ろす。


【■■■■■■!】


「言葉が通じれば良かったんだが、な」


 戦斧の攻撃軌道を名無は戦斧がまだ斬撃の軌道を描いている最中で見切ったのだろう、幼女が宙にいる状態でありながら回避行動にはいる。渾身……かはどうか分からないが、その一撃を避けられたのだと理解したのか幼女はその表情に悔しさを滲ませた。


(よし。これでこの子が地面に着地する前に弓を引く彼女の元へ)


【■■■■――――!!】


『マスター! まだ、あの子は!!』


 名無が幼女の横を通り抜けようとした時、まだ空中で足場もないと言うのに右腕一本で戦斧の軌道を直角軌道に曲げ名無へと振り払う。


「ぐぅっ!!」


 マクスウェルの声と自分の視界の端で捕らえることが出来た幼女の動きに、咄嗟に反応してみせる名無。交差させた刀身を右肩で支え攻撃を受け止めるも、力任せに振り切った戦斧の威力に押され名無は地面を滑り削るように吹き飛ばされ膝をつく。


「……見た目以上のやり手だ、本当にやりにくい」


『やりにくいどころの話ではありません。長距離狙撃、多角軌道の矢を放つ事が出来る少女の技術だけでも脅威だと言うのに。そこにあの超重量を生かした破壊力、攻撃の最中にその軌道を片手で変えることの出来るでたらめな腕力。弓使いの少女はともかく、《輪外者》の中で膂力に関する能力を持っている者でもアレを実行できる者がマスター以外に何人いるか』


「これは、まずい……な」


 右手に持っている大刀を支えにゆっくりと立ち上がった名無は苦笑を溢す。とは言っても、それは敵対している二人の見事な連携にではなく今も身体中をめぐる毒の効果に対してだった。


(今ので決められなかった、のは痛いな。それに動いた分を差し引いても、毒の回りが……っ……予想より早い)


 毒による吐血と全身に蠢くように広がる鈍い痛み、それに加え今すぐ地面に倒れ込んでもおかしくない程の脱力感。この窮地に束の間の安穏は見る影も無い……。

 してもいない罪の制裁が容赦なく名無に降りかかる。


『マスター、……囲まれました』


「時間を、かけすぎたか」


 毒の効果で定まらない意識を奮い立たせ、名無は周囲に眼を配る。ぼやける視界では分かりにくいものの切り開かれた平地と森の境目に、朧気だが弓を構え狙いをつける人影が見えた。


『もう彼女達を気遣っている場合ではありません! 今すぐ全力で対応すべきです!!』


「………………っ」


 もう加減をしている場合ではない状況まで追い込まれた、この場を切り抜けるには全力を出すしかない。それは名無も百も承知なのだが、毒の影響が強く意識が朦朧としている状態では深紫、銀と点滅するように左眼の色が目まぐるしく変化するだけで何の前兆も見えない。

 勝つには、生き残るには相手を殺すしか……そこまで考えた時、名無はハッとしたような表情を浮かべてすぐに苦渋に満ちた表情を見せる。


「違う、おれは……そんな事の為に戦いたいんじゃ……ない。俺は……」


 その弱々しい呟きは、誰よりも名無に近いマクスウェルでさえ聞き取れないものだった。

 もちろん言葉が通じない彼女達にも届かない。だが、その呟きを合図にしたかのように戦斧を空高く振り上げ、幼女が名無との距離を詰める。弓使いの少女と森に潜み名無を囲んでいる弓兵達も、名無へ突撃する幼女を援護するため一斉に矢を放つ。


『全方位からの射撃を確認! 前方からも敵が接敵してきています。マスター、凌いでください!!』


「……迷っている時間も、ない……か」


 喉までわき上がっていた敗北的な何かを口の中に溜まる血と一緒に飲み、震える足を叱咤して彼女との間合いを詰める名無。

 幼女は名無を圧倒的な力と重量で押しつぶそうと戦斧を振り下ろし、名無は速度でそれを上回ろうと二刀を振り上げる――振りをして幼女の横を走り抜ける。


【――――!!】


「君の相手は、していられない」


 刻々と変わる戦場でも名無の目的は変わらない、接近戦で幼女に足止めされればそれだけ毒が回る。まだ身体が動くうちに解毒薬を奪取する、名無は放たれた無数の矢の間を縫うように駆け抜ける。今の弱った身体でその全ては避けきれない、故に致命傷となり得る物だけを切り捌き前進していく。

 それ以外の矢が身体に刺さってもその足は止まらない。毒の効果があろうと無かろうと最短距離で進むしか、今の名無にはもう方法が残されていないというべきか。


「少し、手荒くなるぞ」


 矢の雨をかいくぐりようやく弓使いの少女の懐へ潜り込めた名無、少女は驚愕が表情に張り付くがバックステップで名無から距離を取り弓を引く。だが、それよりも早く二条の剣閃が銀の光となって瞬き、少女が持っていた弓を破壊する。


【――!?】


 弓使いの少女が破壊された弓を瞳に映し焦燥の表情を浮かべる。その一瞬の隙に名無は左手の小太刀を手放し彼女の背後へと回り込み、腰の後ろに付いているポシェットのような袋に手を伸ばす。


(解毒薬があるとすれば、この中しか――)


『後方から敵の接近を確認! 大剣で武装しています、対処を!!』


「新手かっ!」


 振り向き様に大剣を受け止めるも、やはりと言うべきか大剣を手にしていたのはマクスウェルの解析が無くても人間ではないことが分かる風貌をした小柄な男だった。

 小柄と言っても斧使いである幼女ような愛らしいさは全くなく、緑色の肌に人相の悪い顔つきをしている。小さな身体で大剣を振るえるのだから幼女と同じ力を持っているかと思えば、それほど重い攻撃ではなく人並みと言える力による物だった。

 ……が、


「っ!?」


 目眩に似た意識の混濁に耐えきれず、気力とは裏腹に膝を突く名無。


(さっき受けた矢の毒で……血液中の濃度が上がったせいか)


 更に増した毒の影響で動きを止めてしまった名無の隙を見逃さず、緑色の肌の男は鍔迫り合い似た状態で野太い声を上げ名無を突き放す。

 名無は崩れた体制を立て直そうとするも、それよりも早く首元のマクスウェルが叫ぶ。


『左後方から追撃!!』


(拙いっ!)


 手にした大刀の刀身に映る自分の背後。そこに映るのはゾッとするほど近い一で戦斧を握りしめる幼女の姿。


「――『鎧鋼転化(ガード・シェル)』!!」


『防御を!』


 マクスウェルの警鐘よりも早く、刀による防御が間に合わないと悟った名無は瞬時に唇をかみ切る。その痛みでほんの一瞬だけ鮮明になった意識で肉体強度を上げる能力を発動。


「ぐっ――!?」


 しかし、発動させた能力は十全にその効果を発揮できていなかった。

 その証拠に無防備な右脇腹に戦斧が叩き込まれた時、名無の鼓膜を骨が砕ける音が揺らす。


【■■■■■!】


 斧使いの幼女は最大のチャンスを逃すまいと叩き付けた勢いのままに、小さな身体を起点にして回転し戦斧に遠心力を加え名無を地面へと打ち付けた。

 その一撃に耐えきれなかった地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。その上で名無は大量の血を吐き出し、力なく横たわった。

 動かない名無の姿に、男女入り交じった歓声のような声が騰がる。


『マスター! マスター!! 気をしっかり持ってください!!』


 彼等の勝利の雄叫びを遮って、名無に呼び掛けるマクスウェルの声が大音量で響き渡る。それがただの音にしか聞こえない彼等は突然の高音に蹈鞴を踏み、倒れる名無から弾かれたように離れた。


『肋骨の複雑骨折に呼吸器系臓器の損傷! マスター、聞こえていますか!? 聞こえていたら今すぐにアナタ自身の力を解放してください! 毒の効果は消せなくても治癒力と体力を底上げすれば間に合います。マスター!!』


 マクスウェルは横たわる主に懸命に呼びかける。彼女の言う通り名無が最強と謳われる要因である能力を発動させることが出来れば、この窮地を脱する事は出来ただろう。

 しかし、瀕死の状態である名無に彼女の声は届かない。


(……ここまで、か……)


 ……身体が動かない。意識が薄れる。

 戦いで負傷したことはある、疲労と出血で動けなくなる寸前まで行ったこともある。だが、死の淵に立った事は一度もなかった。


(これが……死ぬという事なのか。……思っていた物とは、全然……違うな)


 痛みに嘆き、何故自分が死ななければならないのだと怨嗟にも似た叫びを上げ、迫り来る死に「死にたくない」ともがく者達を何度も見てきた。

 それを与えている側の自分もいずれはこうなると、自分の死に嘆き、自分を殺した者を恨み、消えていく命の灯火に縋り付く……そうなる物だとばかり思っていたのに。


(……これも、俺の中に残っている物だとしたら……皮肉だな)


 マクスウェルの声に後ずさっていた者達の気配が、少しずつ自分に近づいて来ていることに気づく名無。

 閉じていた瞼を開く、そこに見えたのは今まさに死にかけている自分に止めを刺そうとしている者達の姿。斧使いと弓使いの少女、緑色の肌をした小柄な男。その他にも武器を持った人のようで人とは異なる容姿をした何か。そんな彼等が武器を振り上げる姿は死神、と言っても過言ではないだろう。

 その光景を色違いの瞳に映しながら、名無の顔に浮かぶのはこれから襲って来るであろう痛みと恐怖に怯えた物ではなかった。あったのは自嘲気味の小さな苦笑い。


(……死というのは……思いの外、寂しいものだったんだな……)


 自分の中ではもう消えてしまった感情だと思っていた。

 人の命と尊厳を奪う事を恐れ、自分の命の消失には何も感じない壊れた心。

 そんな心が孤独を感じ寂しさを募らせる。なら、それはまだ自分が正気である証。それが残っていることが分かっただけでも、ここへ逃げてきたことは間違いではなかった。

 だが……


(……ここが俺の終わりなら、それも……仕方ない……か)


 暖かな血で手を染め、身を汚し、冷たくなった血の海を歩き、止まる事なく人を殺し続けて来た。そんな自分が誰かの手で殺される事が、自分の為すべき贖罪だというのなら……願いを捨てきれなくても受け入れるべきなのだろう。



【――――――――――――――――――――――――!】



 消えゆく意識の中で、誰かの声を聞いた気がした。

 しかし、その声が誰のものでどんな言葉で、どんな意味が込められた物だったのか知ることなく名無の意識は黒く深い闇に落ちた。





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